《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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谷口雅春先生に帰りましょう・伝統板・第二
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「転載」さん、ぜひ、総本山にて「宇宙浄化の祈り」が実修せられているかどうか、それをご確認の上、ご投稿いただきますようお願いいたします。 (13114)
日時:2021年01月17日 (日) 14時52分
名前:破邪顕正


所謂、「トキ掲示板」に「転載」さんから、こんな投稿がありました。

……………………………………

破邪氏の発言に驚きました (37555)
日時:2021年01月14日 (木) 22時40分
名前:転載
>>何度も申し上げますが、新しい宗教教団になったからこその祈りの言葉だったのです。

私どもには『生命の實相』「聖経」があります。

生命の實相の顕現する所、説かるる所、読まるる所

それに見事に合致しているではありませんか。

それに加えて、現教団は、総本山から住吉大神を外してしまったわけです。

現教団には、住吉大神もおられないし、『生命の實相』も「聖経」もないのです…。
*********************
現教団は、総本山から住吉の大神を外したと語っています。

しかし、丹念に最近の総本山の行事や祝詞や祈りの言葉を調べてみると、キチンと住吉の大神は明記されています。

確かに、社務所においては住吉の大神のお札は求められませんが、それのみにおいて外したという事にはなりません。

鎮護国家・龍宮住吉本宮という鳥居の巨大な額も、顕祭殿前の額も今もそのままになっています。

それは、外形的なものだという人もあるかもしれませんが、総本山は谷口雅春先生のすべてを込められた聖地であり、それが孫の雅宣氏の思い付きで変化するものでは断じてありません。

時の総裁が、いかなるものであっても、生長の家の総本山は住吉の大神の谷口雅春先生の命そのものの聖地です。

それを軽々しく、もう住吉の大神はおられないという発言をするものがいれば、谷口雅春先生に背を向ける背信者であると言わなければなりません。

彼はおそらく谷口雅春先生を知らないものだと感じます。(以下、略)

……………………………………

「転載」さんに、お願いがあります。

丹念に最近の総本山の行事や祝詞や祈りの言葉を調べてみると、キチンと住吉の大神は明記されています

そこまで仰るのであれば、ぜひ、総本山の行事や祝詞や祈りの言葉をそれこそ「転載」していただけませんか。

そういう事実≠アそが何より大事だと思います。

当然、ここまで書いておられる以上、「転載」さんは、総本山とは近い関係にあられるのだろうと拝察いたします。

であれば、総本山で、「宇宙浄化の祈り」が実修されているのかどうか。

それをぜひ、ここでお知らせください。

ご存じのように、現教団は、「造化の三神」を合祀したわけです。

なるほど、それだけを見れば、「住吉大神」を外したとは言えません。

しかし、「住吉大神」の御神名だけを残したとしても、その御働きを押し隠していたとすれば、それは外したも同然ではないかと私は申し上げているのです。

その御働きとは何か。

それが私は「宇宙浄化の祈り」にあると思うものであります。

だって、その冒頭はこうなのですから。

「住吉大神 出でまして 宇宙を浄め給う」

「住吉大神」は、「造化の三神」の合祀によって脇神へと押し込められてしまった…。

そして、「宇宙浄化の祈り」も実修されないで、そのまま「出でます」ことができないままにある…。

そう判断したからこそ、私は、実質上、住吉大神は外されたも同然だと見なしたわけです。

もう一つ、「転載」さんに、申し上げたいことがあります。

「転載」さんは

〈社務所においては住吉の大神のお札は求められませんが、それのみにおいて外したという事にはなりません。〉

と仰っていますが、お札がなけば信徒はお祀りできないのではありませんか。

これもまた、「住吉大神」が外されているという証拠にはなりませんか。

「転載」さんが仰るように

〈鎮護国家・龍宮住吉本宮という鳥居の巨大な額も、顕祭殿前の額も今もそのままになっています。〉

だったら、当然、「住吉大神」のお札を下賜すべきでしょう。

喩えとして使うのは憚れますが、話を分かりやすくするために、敢えて申し上げますが、伊勢・皇大神宮に詣でて、天照大御神のご神符が下賜されなかったとしたらどうなりますか。

「転載」さんは、それでも「住吉大神」は外されてはいないと強弁なされますか。

私は、「宇宙浄化の祈り」が実修されていない、「住吉大神」のお札が下賜されていないという事実≠もとに、事実上「住吉大神」は外されたも同然だと申し上げています。

もとより、総本山にて「宇宙浄化の祈り」が公に実修せられているとすれば、私の判断は間違いだったとして潔く、これまでの主張を取り下げさせていただきます。

その心の用意はあります。

ですから、ぜひ、「転載」さんには、総本山にて「宇宙浄化の祈り」が実修されているかどうか、それをご確認いただき、どの掲示板でも結構ですから、ご投稿いただければ幸いに存じます。



追記/「転載」さんの、私に向かって指弾される言葉は、そのまま谷口雅宣総裁にこそ仰っていただきたい… (13115)
日時:2021年01月17日 (日) 15時15分
名前:破邪顕正


私も「転載」さんと全く同じ気持ちなのです。

それがここです。

〈時の総裁が、いかなるものであっても、生長の家の総本山は住吉の大神の谷口雅春先生の命そのものの聖地です。〉

総本山は、一木一草にいたるまで、尊師・谷口雅春先生の説法が鳴り響いている…。

尊師が、畢生の大事業として取り組まれたのが総本山のご造営です。

まさしく、総本山は、尊師の命そのものの聖地≠ネのです。

ところが、それを最初に、聖地と言わせないと言ったのはどなたですか。

谷口雅宣総裁ではありませんか。

あまつさえ、あの聖地・奥津城をしてヒルクライム、自転車競技の場にしたのはどなたですか。

谷口雅宣総裁ではありませんか。

私に向かって仰りたいお気持ちは多と致します。

私だって、総本山で昔の儘「宇宙浄化の祈り」を実修してほしい。

「大調和の神示祭」も復活してほしい。

勿論、すべての「神示祭」も執り行って欲しい。

4月3日には、「大日本神国観」を実修してほしい。

欲しい、欲しい、欲しい…。

して欲しいことがいっぱいありますよ。

それであってこそ、総本山は住吉の大神の谷口雅春先生の命そのものの聖地です≠ニ言い得ると思うからです。

しかし、それが悉く、消し去られてしまった…。

そう思うからこそ、もはやこのまま現総裁の暴走≠座視してはいられない…。

それが私の思いです。

「転載」さんにとっては、それが却って逆鱗に触れることになっているのかもしれませんが、敢えて、現実から眼を背けてはならない…。

その思いを一人でも多くの方にお伝えしていきたい、ただそう思っているだけです。


たとえ「宇宙浄化の祈り」が実修されたとしても… (13118)
日時:2021年01月17日 (日) 23時27分
名前:月見草

“龍宮住吉本宮”の社務所で「住吉大神」のお札が下賜されなければ、「住吉大神」は外されたも同然なのではないでしょうか?

谷口雅春先生の時になされていたのと同じようにお札も下賜されなければ、やはり「住吉大神」は外されたといえると思うのですが。


「住吉大神」がたとえ明記されていたとしても、「外されている」のには変わりないと思う所以を… (13129)
日時:2021年01月19日 (火) 15時42分
名前:破邪顕正


「月見草」さん、投稿、ありがとうございました。

そうですよね、総本山では、「造化の三神」のご神符は下賜されているわけです。

しかし、「住吉大神」のお札は下賜されていない…。

ということは、明らかに「住吉大神」は外されている…。

そう見るのが自然な受け止め方ではないでしょうか。

それを前提として、一連の投稿によって私が何を申し上げたいか、その心意をここに書いておきたいと思います。

まず、「転載」さんがご指摘されているこの箇所。

丹念に最近の総本山の行事や祝詞や祈りの言葉を調べてみると、キチンと住吉の大神は明記されています。

ご存じのように、谷口雅宣総裁は、真っ正面から「住吉大神」を外すということはせずに、その代わりに「造化の三神」の合祀という形式をとりました。

「外す」ということにしたら、余りにも信徒の反発が強いという判断が働いたからではないでしょうか。

だって、そのお宮は、龍宮住吉本宮という名称なのですから…。

その看板を逆撫でするような、「住吉大神」外しは、如何に何でも得策ではない…。

だから、合祀ということにして、一旦、「住吉大神」を脇神へと押しやるという形式をとった…。

そうであってみれば、当然、祝詞や祈りの中に「住吉大神」が明記されていたとしても何の不思議もありません。

例えば、このようにです。

〈掛けまくも畏き天地の創造主にまします天之御中主大神をはじめ高御産巣日神、神産巣日神、更には住吉大神…〉

実際、どのように明記されているのかは「転載」さんの投稿を待ちたいと思いますが、私のこの予想は、決して当たらずとも遠からずではないかと思っています。

しかし、たとえ、このように「住吉大神」が明記されていたとしても、それをもって「住吉大神は外されていない」という証拠にはならないというのが私の考えです。

何故といって、「住吉大神」がそこにおられるということと、お働きがあらわれるということとはまた別の、根本的な違いがあると思うからです。

それを分かりやすい喩えで、ご説明させていただきます。

人間は神の子で無限力がある。

では、何もしないで、無限力が現れるのか。

そうではありませんよね。

日々、神想観を実修し、聖典・聖経を拝読し、愛行につとめる…。

所謂「三正行」に励んでこそ、「神の子・無限力」が現れてくるのだと思うのです。

つまり、日々の切実な祈り、実践があって初めて無限力が外に現れ出る…。

同じ事が、「住吉大神」にも言えると思うのです。

そもそも、「住吉大神」はずっとずっと龍宮の世界におられたのです。

その龍宮世界におられたところの「住吉大神」に、今こそ、御出御していただき、その働きを御顕し願いたいと切実に思われた、それが尊師の総本山御造営に賭けられた御思いではなかったでしょうか。

それが、はっきりと示されているのが『生長の家』誌・昭和50年9月号です。

《私はこの日本の国をなんとか良くしたいと思っても人間の力ではどうすることもできない。そこでどうしても神様の御力を呼びだして日本人の魂の世界を浄めるより仕方がない。龍宮から住之江大神の御神威の出現を願ってこの世界を浄化して頂いて、天照大御神の御光を六合に照り徹らせて頂く道を開いて頂き、日本国家を千万年安泰にする霊的礎を築くために建立する。それが龍宮住吉本宮≠ナあります。(一部要約)》

私は、この文中にある

龍宮から住之江大神の御神威の出現を願って

これがとても重要なお言葉なのだと拝します。

それだからこそ、出龍宮顕齋殿≠ニも称するのだと思うからです。

「住吉大神」に、お出ましいただかなければ、「宇宙浄化・鎮護国家」の具体的なお働きが現れ出ない…。

ですから、日々、総本山にてその御出御を願う切実な祈りがなくてはならないと思うのです。

それがなされていなければ、「住吉大神」のお働きは現れ出ない…。

それは、もはや、事実上、「住吉大神」は外されていると見なされても致し方ないのではないかと申し上げているのです。

それが私の心意なのです。


「転載」さんのおかげで、「住吉大神」の名前があることと脇神≠ノされることとは違うということを再確認することができました (13135)
日時:2021年01月20日 (水) 16時36分
名前:破邪顕正


合祀という形式で「住吉大神」はその中心座から脇神≠ヨと押しやられました。

それをどう見るのかが、今回の「転載」さんとのやりとりの本質ではなかったかと思います。

で、恐れ多いことながら、私は先に話を分かりやすくするために、伊勢・皇大神宮の例を引き合いに出しました。

もし、伊勢・皇大神宮において、「造化の三神」が合祀され、天照大御神が脇神≠ニされ、お札が下賜せられないということになったらどうなりますでしょうか。

祝詞や祈りの中に、たとい、「造化の三神」の後の4番手に天照大御神が明記せられたとしても、果たして、それをもって伊勢神宮に対する国民の信仰が保たれるでありましょうか。

私は、決してそうではないと思います。

それは悠久の歴史の間に培われてきた伊勢信仰に対する重大な裏切り、反逆以外のなにものでもないと解するからです。

それと同様のことが、総本山において行われたのです。

これは総本山の歴史への裏切りであり、それは取りも直さず、尊師の総本山御造営に対する反逆でもある、私はそう思っているのです。

「住吉大神」のお札が下賜せられないということは、その本音としては、脇神≠ゥら、更に今後無化≠ヨとしていきたいとの思いの表白ではないのか…。

そう思うが故に、この問題を広くお伝えしたいと思った次第です。

「転載」さんの投稿のおかげで、私の中の気持ちもスッキリと致しました。

谷口雅宣総裁が強行した「住吉大神」の脇神♂サは、生長の家の信仰の根幹を揺るがす実に重大な問題であったのだということを再確認できて、本当に好かったと思っています。

この場を借りて、改めて、心から感謝申し上げる次第です。


「破邪顕正」さまへ (13173)
日時:2021年01月23日 (土) 18時17分
名前:月見草

横から口を挟んだようになり、失礼致しました。御礼が遅くなってすみません。

私も、雅宣総裁が強行した「住吉大神」の脇神♂サが、いかに重大な問題であるかを改めて再認識することができました。

また、尊師の総本山御造営に賭けられた御思いや、「住吉大神」のお働きを思い出す機会を頂いたことに心より感謝申し上げます。

ただ、「住吉大神」のお札が下賜されないのはとても残念です。何処か近くの「住吉大神」様の神社を探して下賜していただくほかないのでしょうね。

「月見草」さんへ…脇神♂サの問題は、既に尊師がご指摘になっておられた (13191)
日時:2021年01月30日 (土) 13時35分
名前:破邪顕正


横から口を挟んだようになり、失礼致しました≠ニいうことですが、全然、そんなことはありません。

「住吉大神」の脇神♂サが、信仰上、宗教上、如何に大きな問題を孕んいるかは、もっともっと多くの信徒の皆様にお知らせしなければならないことであると思っていたので、「月見草」さんから、こういう投稿をいただき、心から感謝している次第です。

尊師は、この脇神♂サは、その神様のお働きを押し込め≠驍アとに他ならないと、既に『秘められたる神示』「終戦後の神示」ではっきりとご教示くださっています。

《キリストはわれの別名であるから、キリストを押し込めたのが可かぬのである。陸前の鹽釜神社でも香取鹿島の神を正面にして、鹽釜の神を傍に押し込めてある。…このような状態では日本が負けたのも仕方がない。》

傍に押し込めてある

谷口雅宣総裁が「造化の三神」を合祀したことは、まさにこれにあたるのではないでしょうか。

それを尊師は可かぬ≠ニ仰っているのです。

その上、「住吉大神」のお札を下賜しないというのであれば、脇神♂サはそのまま無化≠ノ繋がると見られても決して不思ではありません…。

この一事をもってしても、もはや、現教団は、尊師の創始せられた「生長の家」とは似て非なるものであると思うものであります。


「破邪顕正」さまへ  (13196)
日時:2021年01月31日 (日) 11時11分
名前:月見草

お教え頂き有り難うございます。

傍に押し込めてある≠ニ、既に尊師がご指摘になっておられたのですね。

神示を拝読したりして知ってはいましたが、久しぶりに「終戦後の神示」を開いてみました。

尊師は、この脇神♂サは、その神様のお働きを押し込め≠驍アとになると、はっきりとご教示くださっているのですね。

傍に押し込めてある≠ニは、まさしく今の龍宮住吉本宮≠ニ同じです。

以前、この神示を拝読した時には、このような神社があるなんて大変だなと、他人事のように思っていましたが。

神様や尊師は、今の様になることを分かっておられたのですね。

これからは、“神示”や“生命の實相”など尊師の御本の一文字一文字を、もっと大切に拝読していこうと思います。

この“脇神”化が大変な間違いだと、教団に残る信徒さんに早く気づいて頂きたいです。

批判に晒されても少しも気に障らないようになりました… (13214)
日時:2021年02月04日 (木) 14時16分
名前:破邪顕正


「こんなに批判されて、それでよく投稿し続けることができますね」

ある人から、そう言われました。

実は、それには、わけがあるのです。

ある知人から、この言葉を教えてもらったからです。

〈表現者を批判する場合の九割が、じつはただ「不快だ」と言いたいのである。そして、そのうちのさらに九割が、さまざまなかたちの羨望や嫉妬に基づいている。〉

なるほど「不快だ」

それなんだと思ったら、何ということもありません。

考えてみたら、教団側に立つ人にしてみれば、私の存在、或いは投稿そのものが「不快だ」であるわけです。

だから、何とか、投稿をやめさせたい…。

当然、向こう側にしたら、そういう感情が渦巻いても何ら不思議はないわけです。

「不快だ」と思われるならば、それを堂々と受け止めて、悔しいけれど言っていることはなかなか「深い」と思われるよう、その上前をはねるような投稿を続ければいい…。

だって、「不快だ」と思われるのも、考えてみれば一つの勲章と言っていいのかもしれませんから。

尊師もこうお諭しくださっています。

《世界は、まっしぐらに一路邁進するものの前には自から道を開いて敬意を表するのである。人生の前進は「気合」によって行われる。まず心に実現すべき目的を描いてその目標に対して遮二無二突き進むのである。その時如何なる障礙物も自からその前進の踏み台となりお庭の飛石となるのである。》(『生長の家』誌・昭和24年7月号)

何という素晴らしいお言葉でしょうか。

全ては、踏み台であり、飛石となるのですね。

一路邁進するのみです。

総本山のFacebookでライブ配信を視聴しましたが、「宇宙浄化の祈り」は実修していません (13220)
日時:2021年02月05日 (金) 16時31分
名前:破邪顕正


「転載」さんからの回答を待ちましたが、今に至るも返信がありません。

で、表題のライブ配信で確認することにいたしました。

確かに、祝詞では

〈掛けまくも畏き龍宮住吉本宮に鎮まります天之御中主大神、高御産巣日神、神産巣日神、住吉大神の大前に…〉

このように申し上げています。

こちらの予想していた通り、「住吉大神」は、所謂「造化の三神」のあとに、その御名のみが唱えられているだけでした。

それにしても、「造化の三神」とは、尊師の教えに従えば、第一義の神、絶対神のはずです。

それを龍宮住吉本宮に鎮まります≠ニするとは、尊師の神観を台無しにするとともに、総本山ご造営の尊師のお心を真っ向から踏みにじる以外のなにものでもありはしません。

尊師は、「龍宮住吉本宮鎮座祭齋主祝詞」で何と仰せられましたか。

《…このとき、住吉大神を、かく實相世界の秩序に基いて顯齋し奉る所以は、大神の本来の國家鎮護皇國護持の御使命を完全に發動され給はんことを希ひ、日本國土より、すべての妖雲暗雲を悉く祓ひ清め、天照大御神の御稜威六合に照り徹りて、神武天皇建國の御理想は實現せられ、八紘は一宇となり、萬國の民悉くその御徳を中心に仰ぎ奉りて中心歸一、萬物調和、永久平和の世界を實現せんことを期し奉るがためなり。…大神より親授されし神想観といふ幽齋を嚴修し來り、大神の御言のまにまに修行を積みたれども、尚われら現實の力のみにては及ばず、慈に彌々大神の御出御を仰ぎ奉るべき機熟したることを感得し、誠に畏れ多き事なれども、大神の現實界に現はれ給うふべき時を、今迎へたりと覺えぬ。
 あゝ住吉大神(すみのえのおおかみ)、住吉大神、住吉大神、愈々龍宮の本宮より出御ましまして、大神の稜威をあらはし給ひ、現し此の世の迷いの雲を祓ひ給ひ、宇宙を浄め給ひ日本國の聖なる實相を顯現せしめ給へ。…今此處に龍宮住吉本宮より大神の御出御を伏して仰ぎ迎へ奉る。
 アーオーウーエーイー
アーオーウーエーイー
 アーオーウーエーイー(気合)》
(『神の真義とその理解 住吉大神顕斎の意義』260〜262頁)

あゝ住吉大神(すみのえのおおかみ)、住吉大神、住吉大神

ここに尊師の万感の御思いが溢れているとは言えませんか。

というのに、「住吉大神」を脇神≠ニして押し込み、しかも、今や、総本山では、一切、公的な場では「宇宙浄化の祈り」を実修していません。

少なくとも、ライブ配信でそれを確認することできませんでした。

尊師の教えからすれば、絶対にやってはならない「造化の三神」を合祀し、あまつさえ「宇宙浄化の祈り」の実修を廃する…。

これと、「谷口雅春先生を学ぶ会」で祈りの場所を変えて「宇宙浄化の祈り」を実修させていただいたことが、どうして同じ暴走≠ニして難じられなければならないのか。

私に言わせれば、そういうことにして、現教団の暴走≠少しでも擁護したいとする心根の表れではないのか…。

そう思えてなりません。

現教団のありようを真っ正面から捉えると、擁護しようにもしえない…。

それがよく分かっているから、私どもを引き合いに出して、喧嘩両成敗のような格好にして、現教団の本質的な問題から目をそらそうとする…。

それでは、とても現教団を糺すことなどできやしません。

尊師の教えを本気で護ろうという意思が希薄だからこそだと敢えてそう申し上げておきたいと思うものであります。



総本山では「人型」が『観世音菩薩讃歌』の読誦のうちに焼納されているということについて思うこと (13222)
日時:2021年02月06日 (土) 12時37分
名前:破邪顕正

総本山の「晦大祓」の模様をライブ配信で視聴しました。

そこで、「人型」の焼納が『観世音菩薩讃歌』の読誦のうちに執り行われているということを知りました。

これは、大変なことだと改めて痛感しました。

それというのも、最近、私の耳に、谷口雅宣総裁のことを文字通り絶対崇拝し、日々、「経本」のみを読誦し続けた教団信部の信徒が、とうとう精神的におかしくなり、日常生活に支障を来すようになったという誠に残念な情報を耳にしたからです。

以前から、この「経本」は禍をもたらすということが、心ある方々から報告されていました。

ここでは、私が大変、感銘を覚えた「清流の民」さんの投稿をご紹介させていただきます。

関係箇所のみの引用になりますことを予め、ご承知おきください。

………………………………

観世音菩薩讃歌には『聖経・甘露の法雨』と矛盾したことが書かれている (6908)
日時:2017年07月08日 (土) 02時03分
名前:清流の民

(前略)

5年前に雅宣総裁によって大自然讃歌と観世音菩薩讃歌という二つのお経が発表されました。
私はそのとき一回ざっと目を通しただけで、「このお経は読まないほうがよい。」と思って、ごみ箱に捨てました。…

そこで気づいたことは、この両経もやはり『聖経・甘露の法雨』と同じく天使(てんのつかい)が説いたものであること、また『甘露の法雨』や『天使の言葉』から引用している部分があることなどです。

しかし、それにもかかわらず、観世音菩薩讃歌には『聖経・甘露の法雨』と矛盾したことが書かれていると思いました。…

観世音菩薩讃歌…この12行目に「力そのものから善悪を生ずることなし。」と書かれていますね。
しかし『聖経・甘露の法雨』には「善のみ唯一の力」「されば善ならざる力は決して在ることなし」とハッキリと記されています。
この「善のみ唯一の力」は大自然讃歌にも引用されているのです。
観世音菩薩讃歌で天使は前に言ったことと矛盾することを言っています。

次に進みましょう。
おなじ「善」という項目に「大規模なる火山活動にて/山崩れて海に入るとも/その結果に善悪なし。/猛獣走りて鹿を倒し/カマキリの鎌、小虫を捕らうれども、/その結果、必ずしも悪に非ず,/善に非ず、/定められたる法則の産物にすぎざるなり。」とあります。

しかし『聖経・甘露の法雨』には、「神があらわるれば乃ち/善となり、/義となり、/慈悲となり、/調和おのずから備わり、/一切の生物処を得て争うものなく、/相食むものなく」と書かれているのです。
火山が爆発したり、猛獣が鹿を倒したり、カマキリが小虫を食べたりするのは、神があらわれていない状態すなわち悪ではないのか。
しかし悪は非実在であるから、「悪夢」と云うべきか。
『聖経・甘露の法雨』には、「すべての不調和不完全は畢竟悪夢に過ぎず。」と記されています。
ここでも天使は前に言ったことと矛盾したことを言っています。

火山が爆発して天変地異が起こったり、猛獣が鹿を倒したり、カマキリが小虫を食べたりするのは、神の創造の世界ではなく、無明縁起の世界である。
谷口雅春先生が否定された世界である。
しかるに雅宣総裁は「必ずしも悪に非ず、善に非ず」と中途半端なことを言って、最後には、「壮大華麗なる自動運転の世界なり。」と最大最高の誉め言葉で肯定してしまっている。
「壮大華麗なる自動運転の世界なり。」ではないでしょう。
それを書くのならば、「無明(まよい)が自働自展する世界なり。」とするべきでしょう。
それに続けて「有るように見えても本来無き世界なり。」と書くべきです。

雅宣総裁は無明縁起の世界を神の創造の世界とかんちがいしているのだ。
生長の家の根本である「唯神実相の世界観」がよく解っていないのだ。
よく解っていないからこういうところでボロをだしているのだ。

猛獣が鹿を倒したり、カマキリが小虫を食べたりするのが(神が)定めた法則の産物であるという・・・。
どういう法則なんだろうか。
『生命の實相』倫理篇には「物質の法則や自然界の法則は神の法則ではない。」と書かれている。
生長の家の信ずる神とは愛の神、調和の神であり、そして全能の神、完全の神である。
猛獣が鹿を倒したり、カマキリが小虫を食べたりするのが神が定めた法則の産物であると云うような雅宣総裁の神観は生長の家の神観ではない。
『聖経・続々甘露の法雨』には、「全ての不幸と悲惨とは神の所造に非ざるなり。」と示されている。…

観世音菩薩讃歌は『聖経・甘露の法雨』と矛盾し、生長の家の根本である唯神実相論と矛盾し、生長の家の神観と矛盾し、さらに雅宣総裁自説の「自然に対する四無量心」とも矛盾している。
全く支離滅裂のお経である。
ニセ天使の欠陥経である。
こういう思想の混乱したお経を読んでいると、生活が混乱し、人生が混乱します。
ご先祖様も混乱して、迷います。

教団に残っておられる信徒の皆様、もし心あるならばこのようなニセ天使の欠陥経を読誦しない、読誦させないようにしていただきたい。
真に生長の家の信徒ならばコトバの力の大切さは良く解っておられると思います。(後略)

…………………………………………………

「清流の民」さんのご指摘にある通り、これは「現象アリ」のニセ天使の欠陥経≠ノほかなりません。

こういうものを毎日、熱心に読誦していたら、迷いの世界に落ち込んで、それこそ精神も支離滅裂≠ニなっておかしくなってしまうのも決して故なしとはしません。

先にご紹介したように、現に、その被害者が現れているわけです。

そういうシロモノをもって、あろうことか、総本山では「人型」の焼納が執り行われているのです。

既に申し上げましたが、総本山では、「宇宙浄化の祈り」を実修していません。

そして、今度は、『観世音菩薩讃歌』で「人型」が焼納されているというわけです…。

これで本当に、罪・汚れが祓い清められるでしょうか。

心ある信徒の皆様には、ぜひ、この現状を知って、ご判断いただきたいと思う次第です。





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