やはり、尊師と現総裁とを、同格のラッパ≠ニ見なしてはいけなかった… (13112) |
- 日時:2021年01月17日 (日) 14時04分
名前:破邪顕正
表題は、『光明法語〈道の巻〉』にある御文章を読んで痛感したことです(6頁)。
《私は神のラッパとして真理を語り、ペンを持たされて来たのだった。霊感に導かれて溢れる発想を紙に移すのに、筆が間に合わないほどであった。…恐らく私の真理に関する執筆は、この肉体の私の執筆ではなく、その白髪の老翁の姿をした霊人が執筆していたので、その文章を読むと病気が治るなどという奇蹟が出て来たのだと思う。》
尊師は、はっきりとここで神のラッパ≠ニ仰っています。
それでは、谷口雅宣総裁こと「新しいラッパ」は、果たしてそれと同格の神のラッパ≠ニ言えるのでしょうか。
決して言い得ないのは、現総裁自ら、自分の書いたものを聖典≠ニは呼ばせないと言ったことからも明々白々であります。
これは、とりもなおさず、本人自身が同格ではないと宣言したも同然であります。
ところが、そういう現総裁をして尊師と同格の「ラッパ」と見なしてしまい、次から次とやりたい放題、したい放題、暴走≠ゆるしてしまった…。
そもそも、ラッパ≠フ喩えを使うのであれば、それが古いか新しいかではない…。
そのラッパ≠ゥらどんな音が鳴り響いているのか、その音の善し悪しによって知られるべきであったのです。
尊師の仰る神のラッパ≠ゥらは真理が奏でられました。
それが霊感に導かれていたが故に、あまたの奇蹟が生まれました。
一方、現総裁の「新しいラッパ」からは、ご存じのように現象ありの唯物思想、左翼思想が飛び出るばかりでした。
救われるどころか、却ってそれは耳障りだと思った信徒は、どんどん教団から離れていきました。
そして、かつて百万教団といわれた「生長の家」も、今やその1/3、35万を切るまでに衰退してしまったわけです。
この事実から、決して眼を背けてはならないと考えます。
そのラッパの善し悪しは、すべては結果で決まると思うからです。
具体的に言えば、そこからどんな救いが生まれているか。
その音に引き寄せられた信徒がどれだけ生まれているか。
そういうことをもって図られるべきであると思うものであります。
その観点からして、尊師と現総裁とを同格のラッパ≠ニみなしたことは、大いなる錯誤であったと改めて思うものであります。
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