《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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谷口雅春先生に帰りましょう・伝統板・第二
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「谷口雅春先生を学ぶ会」が宗教法人格を取得したことの意義は永遠の谷口雅春先生≠ェ担保されたことにある (13098)
日時:2021年01月16日 (土) 12時57分
名前:破邪顕正

ご存じのように、尊師・谷口雅春先生は、いろんなところでわたしはラッパであり、指南者である(頭注版『生命の實相』第35巻150頁)「私はラッパである」と常に言って(『菩薩は何を為すべきか』8頁)おられました。

ところが、そのラッパのたとえを持って、驚くべき事に、こういう信徒が生まれるようになってしまいました。

〈谷口雅春先生は昔のラッパ、今は谷口雅宣先生という新しいラッパが現れられたのです。そのラッパに従うのが中心帰一です。〉

で、その「新しいラッパ」によって現教団はどういうことになったか。

尊師の尊い人類に対する最高の福音は、時に封じ込められ、時に消され、時に書き改められたりして、次の世代においては消え去ってしまうのではないかとの危機感さえ持ちます(『谷口雅春先生を学ぶ』誌・「創刊の辞」)という事態を生ずるにいたったわけです。

そもそも、考えてみれば、尊師が如何に「私はラッパである」と仰ったからと言って、谷口雅宣総裁のことを同じラッパと見ること自体、実に重大な問題があったと言わなければなりません。

本来、生長の家は信仰も運動もすべては「神示」から成り立っています。

その「神示」が天降ったのは、他ならぬ尊師・谷口雅春先生のみであるわけです。

そのことだけをとってみても、同じラッパ、同格と見てはいけなかったのです。

しかし、いくらそう歎いてみても今や、後の祭り。

教団信徒の言うところの「新しいラッパ」によって、本来の生長の家は危殆に瀕する惨状を呈するにいたりました。

しからば、如何にしてこの現状を打破し、一点突破、一発逆転、失地回復をはかっていくか。

それには、もはや永遠の谷口雅春先生≠取り戻すに如くはなし。

その一念で、それこそ背水の陣を敷いて取り組んだのが宗教法人格の取得ということだったのです。

宗教法人となったら、まずは社会的信用が得られますし、組織の永続性が担保されます。

しかも、その登録名が「生長の家創始者谷口雅春先生を学ぶ会」ということであってみれば、これから先、どんなことがあろうとも、「生長の家」「谷口雅春先生」という御名は残っていきます。

まさしく、これこそは永遠の谷口雅春先生≠担保する何よりの拠り所ということになります。

それを昨年3月1日に、取得できたわけです。

谷口雅春先生の御教えを未来永劫にわたって、護り、伝え遺すための公的な資格を得たということを心から寿ぎたいと思う次第です。


やはり、尊師と現総裁とを、同格のラッパ≠ニ見なしてはいけなかった… (13112)
日時:2021年01月17日 (日) 14時04分
名前:破邪顕正


表題は、『光明法語〈道の巻〉』にある御文章を読んで痛感したことです(6頁)。

《私は神のラッパとして真理を語り、ペンを持たされて来たのだった。霊感に導かれて溢れる発想を紙に移すのに、筆が間に合わないほどであった。…恐らく私の真理に関する執筆は、この肉体の私の執筆ではなく、その白髪の老翁の姿をした霊人が執筆していたので、その文章を読むと病気が治るなどという奇蹟が出て来たのだと思う。》

尊師は、はっきりとここで神のラッパ≠ニ仰っています。

それでは、谷口雅宣総裁こと「新しいラッパ」は、果たしてそれと同格の神のラッパ≠ニ言えるのでしょうか。

決して言い得ないのは、現総裁自ら、自分の書いたものを聖典≠ニは呼ばせないと言ったことからも明々白々であります。

これは、とりもなおさず、本人自身が同格ではないと宣言したも同然であります。

ところが、そういう現総裁をして尊師と同格の「ラッパ」と見なしてしまい、次から次とやりたい放題、したい放題、暴走≠ゆるしてしまった…。

そもそも、ラッパ≠フ喩えを使うのであれば、それが古いか新しいかではない…。

そのラッパ≠ゥらどんな音が鳴り響いているのか、その音の善し悪しによって知られるべきであったのです。

尊師の仰る神のラッパ≠ゥらは真理が奏でられました。

それが霊感に導かれていたが故に、あまたの奇蹟が生まれました。

一方、現総裁の「新しいラッパ」からは、ご存じのように現象ありの唯物思想、左翼思想が飛び出るばかりでした。

救われるどころか、却ってそれは耳障りだと思った信徒は、どんどん教団から離れていきました。

そして、かつて百万教団といわれた「生長の家」も、今やその1/3、35万を切るまでに衰退してしまったわけです。

この事実から、決して眼を背けてはならないと考えます。

そのラッパの善し悪しは、すべては結果で決まると思うからです。

具体的に言えば、そこからどんな救いが生まれているか。

その音に引き寄せられた信徒がどれだけ生まれているか。

そういうことをもって図られるべきであると思うものであります。

その観点からして、尊師と現総裁とを同格のラッパ≠ニみなしたことは、大いなる錯誤であったと改めて思うものであります。




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