《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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三島由紀夫・森田必勝両烈士義挙50年 (12835)
日時:2020年11月24日 (火) 07時20分
名前:下総の野人

明日、11月25日は、三島由紀夫・森田必勝両烈士の義挙より満50年の日であります。合掌

谷口雅春先生の御著書『占領憲法下の日本』に三島由紀先生が序文を書いておられました。

《谷口雅春師の著書『生命の実相』は私の幼時、つねに病める祖母の枕頭に並んでゐた。
燦然たる光明の下に生命の芽の芽生えるその象徴的デザインは、幼い私の脳裏に刻まれてゐた。
 それから四十年、俄に身辺に、谷口師に私淑してゐる人たちを見出すやうになったのである。つい先頃も、「生長の家」の信仰を抱く二三の学生が、私の自衛隊体験入隊の群に加わったので、親しく接する機会を得た。かれらは皆、明るく、真摯で、正直で、人柄もよく、しかも闘志にみちみちた、現代稀に見る好青年ばかりであった。そして、「もし日本に共産革命が起きたら、君らはどうする?」という私の問に、「そのときは僕らは生きてゐません」といふ、最もいさぎよい、もっともさわやかな言葉が帰ってきた。これだけの覚悟を持ち、しかもかういふ明るさを持った青年たちはどうして生れたのだらうか、と私は愕いた。現代の汚れた常識人は、そんな青年は物語の中にしかゐる筈がないと笑ふであらう。又、敗戦後に生れた現代青年が、無視し、あるひは避けてとほる天皇の問題についても、この人たちは、素直な、実に自然な受容の態度を示してゐた。天皇は日本民族の存立と自立の自明の前提として理解されてゐた。
 私は再び問うた。こんな青年がどうして生まれたのだらう?
 かれらは谷口雅春師に対する絶対の随順と尊崇を抱いてゐた。私はどうしても、師のおどろくべき影響力と感化力、世代の差をのりこえた思想の力を認めざるをえなかった。私どもがいかに理論を持つて青年を説いても空しいのである。
 私も亦、言葉により文字によつて世を渡る人間の一人である。もし谷口師の著書だけによつて師に近づけば、そこに当然疑ひも生じたであらう。しかし現実に、その信仰と思想の生きた結実を見せられると、もはや疑ふ余地を失つた。
 なぜなら信仰とは、個人の魂の内部に起る「全体」との融和感合一感であるから、その個人の魂の個的自覚を経過しない人間には、信仰者の外側にあらはれた行動の形でしか、判断しやうがないからであり、キリスト者の殉教は、そのやうな意味を担つてゐたのである。
 このたび谷口雅春師の『占領憲法下の日本』といふ、憂國慨世の書を読むに当り、私は殊に、その「生命体としての日本国家」の章に深く感動した。これこそ久しく私の求めてゐた日本の国家像であり、生命体としての個的自覚と、生ける全体とをつなぐ唯一の橋が、ここに語られてゐると思はれた。
 現代に政治を語る者は多い。政治的言説によつて世を渡る者の数は多い。厖大なデータを整理し、情報を蒐集し、これを理論化体系化しようとする人は多い。しかもその悉くが、現実の上つ面を撫でるだけの、究極的にはニヒリズムに陥るやうな、いはゆる現実主義的情勢論に堕するのは何故であらうか。このごろ特に私の痛感するところであるが、この複雑多岐な、矛盾にみちた苦悩の胎動をくりかへして、しかも何ものをも生まぬやうな不毛の現代世界に於いて、真に政治を語りうるものは信仰者だけではないのか?日本もそこまで来てゐるやうに思はれる。
『占領憲法下の日本』には、幾多の政治的事象がとらへられ分析されてゐるけれども、それらは決して現象論でもなければ情勢論でもない。すべては烈々たる精神の顕現である「生命体としての日本国家」に集中してゐるのである。私はこの書によつて自信と力を与へられたと感じ、この書がただ「生長の家」の信仰者ばかりでなく、ひろく江湖に迎へられることを望む者である。        
  昭和四十四年四月》

谷口雅春先生の御著書『愛国は生と死を超えて《三島由紀夫の行動の哲学》』の「はしがき」より。

《近いうちに三島由紀夫氏が市ヶ谷の自衛隊総監室で壮烈な自決を遂げてから一周忌の日がめぐって来るのである。わたしはこの三島氏が自決せずにいられなかった突き詰めた氏の精神の分析*狽ヘ心の評伝≠ニでもいうべきものを世に出すのは、その一周忌にあたって、氏の霊に献げる供花のつもりでもあるのである。》

《わたしは、三島氏とは別にその生存中に交友関係があった訳ではない。しかし、あの死の決行には、「日本を毒しつつある現行の占領者の押しつけ憲法に体当り」するために三島氏にいのちを托して決行を伴にした四人の青年がある。そのうちの古賀浩靖君と小賀正義君とは生長の家の若い信徒であって、三島氏は、あの自刃の数日前に、これら決行を伴にする青年に「ただひとり谷口先生だけは自分たちの行為の意義を知ってくれると思う」といわれたということを、私は、生き残ったうちの二人の青年から後に聞いたのである。そしてあの自刃の数日前の十一月二十二日、三島氏は、私に会いたい≠ニいって私に対して電話をかけて来たのだったが、その日の午前は、生長の家の秋季大祭の行事があり、午後は私の金婚式を多勢が祝ってくれるためにホテルオークラに集まる予定になっていたので、電話口に取次ぎに出た者が、会う時間がない由を告げて軽く断ってしまったのであった。その夜おそく三島氏は今からでも、谷口邸へ直接出掛けて行ったら、面会できるかも知れないから、失礼だが押しかけて行こうか≠ニかもうお眠(やす)みになっているし、面識が今までにないから矢張り面会を断られるだろう≠ニか、青年たちと色々協議せられたそうだが、ついに遠慮して訪問して来られなかったので、私はまことに残念なことをしたと思っている。もうこの世で逢う機会のない人で、あれだけ会いたがっていた人に会えないで惜しいことをした、と私は今も歎いているのである。》

《私はこの三島氏の自決≠決して犬死に終らせてはならないと思うのである。私がこの書を氏の一周忌に際し公刊して世に問うのも、三島氏の自決の真の意義を伝えて、今や誤まれる民主主義の美酒に陶酔して、一方には生活の頽廃を来しつつあり、他方には内乱的様相を呈して自己崩壊を来たさんとしつつある我が国に祖国愛の精神を復活せしめて、危機に面するわが国を救わんがためであるのである。
  昭和四十六年十一月三日 
                         谷口雅春》

三島先生から決起会員への命令書より。

《今回の事件は楯の会隊長たる三島が計画、立案、命令し、学生長森田必勝が参画したるものである。三島の自刃は隊長としての責任上当然のことなるも、森田必勝の自刃は自ら進んで楯の会全会員および現下日本の憂国の志を抱く青年層を代表して、身自ら範をたれて青年の心意気を示さんとする鬼神を哭(な)かしむる凛烈(りんれつ)の行為である。三島はともあれ森田の精神を後世に向かって恢弘せよ。》

合掌 再拝



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