《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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《速報》“雅宣教団”では、総裁肝煎りの“讃歌リレー読誦”が執り行われます。“讃歌”だけのリレー読誦、そこに「聖経」が入っていないところに、その本性が垣間見えます… (12598)
日時:2020年09月07日 (月) 09時45分
名前:破邪顕正


知人から、宇治のネットフォーラムを見るように言われて覗いてみました。

そこに、こうありました。

〈総裁先生よりfacebook上で讃歌の連続読誦をご提案いただきました。宇治別格本山でも6日と7日11:00〜12:00に連続読誦を実施します。読誦の様子はこちらのページにてライブ配信いたします。〉

永代供養の宇治で、このようにして「讃歌」がどんどん読まれていく…。

「聖経」と「讃歌」が混じり合う…。

それで本当にいいのでしょうか。

以前、投稿したことをここでも引用させていただきます。

……………………………………

なぜ、総裁がつくった『経本』等を読むと具合が悪くなるのか、その理由がここにありました! (7076)
日時:2017年07月20日 (木) 15時50分
名前:破邪顕正

今、新編『生命の實相』は第25巻まで発刊されています。

頭注版『生命の實相』で言えば、第15巻「人生問答篇」に当たります。

それを読んでいて、ハッと思ったのが表題に掲げたことです。

新編『生命の實相』第25巻50頁に、杉野さんの話が出てきます。

夫婦揃って「生長の家」にお入りになり、心境が実に朗らかになられた。

ところが、その杉野さんが、急に憂鬱になってしまわれた。

そのために、仕事も何もかもがうまくいかなくなってしまった。

どうして、こうなってしまったのか。

その理由をこう語られるのです。

《…どうして私の心にこういう朗かでない心境が起って来たのであるかどうも判らない。

ところがよくよく反省してみますと四、五日前に『三日会会報』というのが来ました。

それをポケットに入れて電車の中で読んだのであります。

いつでも会社へ往復の電車の中では聖典『生命の実相』を読むようにしていましたのですがちょうど『三日会会報』が来たものですから、この雑誌も『生長の家』の分身だと思うものですから、読んだら真理を知る上に同じ効果があるつもりで読み始めたのですが、読んでいると『生長の家』と少しちがうところがあるような、変な不安な憂欝な気がしてきたのです。

何だかその理論は物質の存在を認めているような、小我自我(にせもののわれ)の存在を認めているような点がありますので、読んでいるうちに物質も存在する、現象も存在するというような気がして来たのです。》

察しの良い方は、これで私が何をいわんとしているか、おわかりになったと思います。

そうです、現総裁が書いているものは、上の表現を借りれば、「現象も存在する」という、いわば『三日会会報』みたいなものであるわけです。

環境問題≠ノ拘れば、当然、そうなることは火を見るより明らか。

杉野さんの問題は、決して、過去の話ではすまされません。

今、進行中の問題でもあるのです。

杉野さんは、『生命の實相』と『三日会会報』とを混ぜ合わせて読んでしまったために、オカシクなってしまいました。

今の教団も然り。

「聖経」と「経本」とを混ぜて読んでしまっています。

ホンモノとニセモノとは甄別しなければなりません。

洗剤だって、混ぜれば、時として毒ガスすら発生することがあります。

第二、第三の杉野さんを輩出しないためにも、総裁のつくったニセモノは読まないに限る!

そう、教えてあげるのが、愛念の証なのだと思う次第です。

…………………………………………

総裁の“ご提案”である以上は、それを無視するわけにはいかない、それは分かります。

しかし、それはわかるとしても、それをライブ配信するというのはどうでしょうか。

信徒に対して、「讃歌」の読誦を積極的に推奨しようということに、これはなります。

つまり、今後、宇治では、普段から、この「讃歌」が更に読誦されていくものと考えておいたがいいということなのです。

永代供養をしている宇治で、「聖経」と一緒に「讃歌」が混ざり合って読誦されていく…。

私が、一貫して懸念しているのは、ここなのです。

ご先祖の御霊さまは、果たして、これをどうご覧になるか。

これは、とても大切なことのように思います。


総裁のfacebookにはこうあります… (12601)
日時:2020年09月07日 (月) 10時52分
名前:破邪顕正


宇治の情報から、早速、総裁のfacebookの覗いてみました。

………………………………

【讃歌リレー読誦のご提案】

[趣旨]

(前略)

気象庁は、災害が起こることは不可避であるとの見解を示していますが、そのような中で私たちはただ堪え、恐れ、あるいは傍観するだけであってはならないと感じます。長崎の生長の家総本山では2日間の業務を停止し、防災に努める決定をしていますが、九州地方を中心とした西日本の方々の無事を祈り、同信の連帯を示し、精神的支援をするために、9月6日と7日の2日間、『大自然讃歌』と『観世音菩薩讃歌』の集団リレー読誦を行なうことを提案いたします。

[方法]
 趣旨に賛同される方は、本ページのこのメッセージへのコメントとして、次の形式で参加表明をしてください:
 教区名: 〇〇教区
 読誦の日時: 〇月〇日 00:00〜00:00(24時間表記)
 読誦の内容:『大自然讃歌』『観世音菩薩讃歌』のいずれ、あるいは双方
(前者の場合は「自然と人間の大調和を観ずる祈り」を後者の場合は「観世音菩薩を称える祈り」を含める)

…………………………………………

“次の形式で参加表明をしてください:教区名:〇〇教区”

これではっきりと分かりました。

これは“ご提案”という名の“強制”に他ならないと。

つまり、これをきっかけとして、今後は、「讃歌」読誦が基本となる、私はそう見ました。

“雅宣教団”では、「讃歌読誦」がスタンダードになるということの、これは前触れのような気がしてなりません。

否応もない、それで行くのだ…。

そういう総裁の確固たる決意がここに如実に示されている、そんな思いで読ませていただきました。



本当になんだこれはっ!? (12603)
日時:2020年09月07日 (月) 15時31分
名前:なんだこれはっ!

https://www.facebook.com/Seichonoie.Sosai/photos/pcb.3644629448881097/3644617432215632/

https://www.facebook.com/Seichonoie.Sosai/photos/pcb.3644629448881097/3644628918881150/

これを各自印刷して、「聖経や讃歌の読誦の時など心を集中させる対象」とするそうです。

「なんだこれはっ!」さんの投稿に感謝します… (12604)
日時:2020年09月07日 (月) 16時00分
名前:破邪顕正


一瞬、見て、嫌な気分になりました。

案外、そういう方は多いのではないでしょうか。

と思っていたら、そうではないんですね。

「額に入れると、なお引き立ちます。」という総裁の言葉通りにやっている人も結構いるようですから…。

それはそれで個人の感性ですから、何とも言いようがありませんが、ただ「南無」という大事な宗教語を、こんな使い方をしていいものなのか。

“南無万物大調和”

“ナンダカナア”

総裁によれば、「自分の好きな言葉を墨書されるとよい」とありますから、だったら、こういうことをお書きいただければと念願する次第です。

“南無谷口雅春先生”


総裁の今回の提案を見て、“ショックドクトリン”のことを思い出しました… (12606)
日時:2020年09月08日 (火) 09時23分
名前:破邪顕正


表題は、カナダのナオミ・クライン(ジャーナリスト)が書いたベストセラー『The Shock Doctrine』にある概念で、「惨事便乗型資本主義」、「災害資本主義」、「火事場泥棒資本主義」などと呼ばれます。

つまり、政変とか戦争とか自然災害等の大惨事で、人々が不安心理に晒されている…。

そこにつけこんで、自分のやりたいことを強引に推し進めようとする…。

そのやり口のことを言います。

総裁は、今回の台風10号をそれに利用したのです。

折角、「聖経」を“補強”しなければならなとして「讃歌」を拵えたのに、なかなかその徹底が十分でない…。

総裁にしてみれば、それが多分、不本意であり、また不満でもあったのでしょうね。

だから、“ショックドクトリン”、ここぞとばかりに、「讃歌」のリレー読誦を思いついた…。

ここで重要なのは、“リレー”というところなのだと思うのです。

決して、一人だけの読誦に終わらせない。

そのために、“リレー”ということにして、それを実修する人をなるべく増やす…。

「聖経」ではない、「讃歌」のみの読誦ということに限定したところに、総裁の並々ならぬ強い思い入れを感じないではいられません…。

「讃歌」だけで充分ではないか…。

本当は、そう言いたいのだろうと私は思っています。



石破候補が以前、新元号「令和」に違和感があるとコメントしたことを思い出しました。総裁もまた同様のことを言っていましたね… (12608)
日時:2020年09月08日 (火) 12時43分
名前:破邪顕正


新しい元号が「令和」に決定したときのこと、石破候補はこうコメントしたのでした。

当時の記事から…。

〈自民党の石破茂元幹事長は1日、新元号が「令和(れいわ)」に決定したことについて、「違和感がある。『令』の字の意味について国民が納得してもらえるよう説明する努力をしなければならない」と述べた。記者団代表による電話取材に語った。
石破氏は「令」が「命令」を連想させることを懸念したとみられる。〉

安倍首相のことになると、何でもクレームをつける…。

クレームをつけないと気が収まらない、そんな性分なのかな…。

如何にも、石破候補らしいなと思ったことでした。

同じような感性が、総裁にもありましたね。

かつて、こんなブログ記事を書いていたからです。

………………………………

2019年4月 1日 (月)
新元号「令和」について思う
 来月1日から始まる新元号が「令和」と決まった。
 安倍首相は、『万葉集』からの引用だと説明するが、引用元を見ると「令月」と「和(やわら)ぐ」との間には、省略された文字が3つある。原文は万葉仮名だから文字数は異なるだろうが、政府が示した歌の書き下し文を使えば、「初春の令月にして、気淑(よ)く風和ぎ……」から取ったという。(中略)

「令和」には、解釈によって別の意味が容易に付加できる。それは「令に和する時代」という意味である。この場合の「令」とは、政府の命令であり、政権の意思である。『万葉集』の昔には「令」は「清らかで美しい」と見なされたかもしれないが、時代がくだるにつれて、その意味は「律令」「勅令」「県令」「軍令」「指令」「司令」「法令」「政令」「省令」……などと使われるように、世俗の権威や権力が定める規則や命令の意味に変ってきている。そして、そういう世俗権力に国民が「和する」という時代を夢見ている人は、残念ながら現代の政治家にもいるのである。日本のことは言わなくても、アメリカのトランプ大統領やロシアのプーチン大統領、中国の習近平国家主席、フィリピンのドゥテルテ大統領は言うまでもなく、ハンガリーやトルコ、ブラジルなどの政治指導者にもその傾向は強く見られる。

 そういう時代に、あえて「令和」を新元号としたことに、私たちは注意を払わねばならないと思う。私は、安倍首相にそんな“下心”があると言っているのではない。安倍首相は、令和の時代にずっと首相であり続けるわけではない。次の首相、次の次の首相……と政治が遷移しても、「令和とは、権力者に和することだ」などと誰も考えないように、立憲主義の原則を護るとともに、宗教運動としては「“令”とは神意に従うこと」という古義を忘れずに、神の御心の表現に向かって力強く進んでいきたい。

………………………………

これを紹介したのは他でもありません。

“「令和とは、権力者に和することだ」などと誰も考えないように”

総裁はそう言いますが、そう言っている端っから、総裁自身、信徒に対して「自分に和する」よう仕向けているではないかと思うからです。

自分が教団の“絶対権力者”であるのに、まるでそうではないかのようなフリをする…。

でも、やっていることはどうですか。

今回の提案にしても、どこの教区がどれだけ実施したか、その“忠誠度”をはかろうとしているではありませんか。

何故、教区名を報告させるのですか…。

そこに、総裁は、自分に誰が“和する”か、確認しようとする「そんな“下心”」なんかないと言えますか。

この教区名を書かせたことで、そこに何か不純なものを感じないではいられなかったことを付記しておきます。




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