現教団の変質、ボタンの掛け違いは、総裁が自ら書いたものを「聖典と呼ばせない」と宣言したところに起因するのではないのか… (12550) |
- 日時:2020年08月16日 (日) 16時48分
名前:破邪顕正
表題は、新編『生命の實相』 第1巻「総説篇・光明篇」にある次の箇所を拝読していて思ったことであります。
《吾ら一層高き世界より来る思想波動に感ずるためには、自分の心をその思想波動に調子を合わさねばならぬのである。ここに吾らは不断に心を清め、心を一層高き世界よりの波動に感ずるように訓練しなければならない。この訓練が足りないとき雑音が混じる。受けるインスピレーションが不純なものとなる。もし私の書くものに純粋でない雑音が混っているならば、それは私の罪であって、霊界よりこの地上に『生長の家』運動をはじめた神秘者の罪ではないのである。》(21頁)
考えてみれば、これは実に辛い、厳しい道であります。
それから逃れ得る道はただ一つ、「聖典」と呼ばれることを拒否したらいい…。
そこに、“雑音が混じ”ってはならないというのも、それが「聖典」なればこそでしょう。
そういう縛りから一切、自由となる…。
それの保証が「聖典とは呼ばせない」ということだったのではないのか…。
自ら書いたものについて、周りからとやかく言われても、“何も「聖典」を書いているわけではありませんから”ということで、どのようにでも、どんなにでも言い逃れできる…。
今にして、はっきりと判ります。
どうして、総裁は、最初に、こういう宣言をしたのか…。
尊師の教えを、端っから嗣ぐ気がなかったからです…。
というより、むしろ、それを否定したかった…。
私は、この「聖典とは呼ばせない」発言は、尊師の教えを否定することを辞さない覚悟を示した、“脱雅春先生宣言”ではなかったかと見ます。
その背景に、一貫してあったのが、『生命の實相』に対する抵抗感だったのではないのか…。
『前掲書』には、「愛蔵版第一巻に序す」というご文章が掲載されています。
もとより、これは頭注版には存在しません。
こういうところがまた新編『生命の實相』の良さでもあると思っておりますが、その中にこういうご文章があるのです。
《私は諸賢がただ無我になって、「然り、然り」と頷くような気持ちで、あまり小理屈を思い浮べることなしに一応全巻を読誦せられんことを望むのである。》(]X頁)
キリスト教で「アーメン」というのが、まさしくここに言うところの「然り」に当たるものですが、言うなれば、『生命の實相』を拝読する際には、常に「アーメン」と言って読み続けていかなければならないのですね。
ところが、私達は、既に“唯物論”という毒を呑まされているわけです。
その知識で読んでしまえば、『生命の實相』はいわば“トンデモ本”になってしまいかねない…。
だから、そういう“唯物論的知識”という色眼鏡を一旦外して、その心づもりで『生命の實相』に向かわねばならない…。
それがここに言う“無我”という意味なのだろうと私は解します。
しかし、総裁は、それが出来なかった…。
否、そうしたくなかった…。
その“我”が前面に現れ出たのが、「聖典と呼ばせない」という宣言ではなかったか…。
“法燈”を継承するということは、「聖典」と呼ばれるものを執筆するということに、まずは耐え得なければならない…。
少なくともその覚悟をもって臨まなければならないと思うのです。
ところが、総裁は、それを拒絶して、“法燈継承者”という立場だけを得ようとしてしまった…。
今日の教団の変質の始まりは、まさしくここにあったのではないのか、そういう思いが募っております。
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