どうして“憎しみや呪い”の感情が生ずるのか、その背景にある事情を見てみると… (12546) |
- 日時:2020年08月16日 (日) 11時22分
名前:破邪顕正
上述のお釈迦様の話、仏教説話では、どう説いているか。
ここにある“憎しみや呪い”がどのような事情で生まれたものなのか、こう説明されています。
〈あるところに、お釈迦様が多くの人たちから尊敬される姿を見て、ひがんでいる男がいました。 「どうして、あんな男がみんなの尊敬を集めるのだ。いまいましい」 そこで、男は散歩のルートで待ち伏せして、群集の中で口汚くお釈迦様をののしってやることにしました。 「お釈迦の野郎、きっと、おれに悪口を言われたら、汚い言葉で言い返してくるだろう。その様子を人々が見たら、あいつの人気なんて、アッという間に崩れるに違いない」 そして、その日が来ました。 男は、お釈迦様の前に立ちはだかって、ひどい言葉を投げかけます。 お釈迦様は、ただ黙って、その男の言葉を聞いておられました。 弟子たちはくやしい気持ちで、「あんなひどいことを言わせておいていいのですか?」とお釈迦様にたずねました。 それでも、お釈迦様は一言も言い返すことなく、黙ってその男の悪態を聞いていました。 男は、一方的にお釈迦様の悪口を言い続けて疲れたのか、しばらく後、その場にへたりこんでしまいました。 どんな悪口を言っても、お釈迦様は一言も言い返さないので、なんだか虚しくなってしまったのです。 その様子を見て、お釈迦様は、静かにその男にたずねました。 「もし他人に贈り物をしようとして、その相手が受け取らなかった時、その贈り物は一体誰のものだろうか」 こう聞かれた男は、突っぱねるように言いました。 「そりゃ、言うまでもない。相手が受け取らなかったら贈ろうとした者のものだろう。わかりきったことを聞くな」 男はそう答えてからすぐに、「あっ」と気づきました。 お釈迦様は静かにこう続けられました。 「そうだよ。今、あなたは私のことをひどくののしった。でも、私はそのののしりを少しも受け取らなかった。だから、あなたが言ったことはすべて、あなたが受け取ることになるんだよ」
結局、この話の勘所は、ある男の“ひがみ”から始まったというところにあるのではないでしょうか。
この“ひがみ”は単独ではやってこない。
“ねたみ”“そねみ”となって、いわば「3み一体」となってやってくる…。
これを別の表現をもってすれば、さしずめ、こういうことになるのではないでしょうか。
“うらやまC” “うらめC” “ねたまC” “こにくらC” “にくたらC”
敢えて、Cとしたのには理由があります。
“憎しみや呪い”の感情は、それを持つ人にとっては、案外、生きる張り合いというのか、いわば“ビタミンC”活力源になっているのではないのか…。
だから、なかなか消えないで、いつまでもくすぶり続ける…。
でも、それって実に“むなC”ように思うのですが…。
私どものことを快く思っていないのならいないで結構です。
だったら、自分はどうするのか。
そちらの方に思いを向けたがいいのではないのか。
こういうと、「谷口雅春先生を学ぶ会」だって、教団の批判勢力でしかないではないかという反論が帰ってきそうですが、しかし、よく実態を見てください。
なるほど、教団の批判は徹底してやっています。
だって、それは当然でしょう、今の総裁、並びに教団は、尊師の教えに反していると思っているのですから…。
そう思えばこそ、何としても尊師の教えを護らなくてはならない…。
それで誕生したのが「谷口雅春先生を学ぶ会」であってみれば、総裁のどこがどのように背教なのか、それを明らかにするのは至上命題であると言っても決して過言ではないと思っています。
しかし、だからと言って、ただ、それだけに終始しているわけでは決してありません。
現総裁に、現教団に納得のいかない信徒の受け皿として、どうあるべきか。
その思いから宗教法人の取得もまた志向したのです。
批判ばかりしていると思う方は、まずは『谷口雅春先生を学ぶ』誌を読んでみてください。
果たして、そこで批判ばかりしているか…。
ああ、これは自分の勝手な思い込みだったとお気づきになられること間違いなし!…と確信しております。
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