《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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「谷口雅春先生を学ぶ会」への悪口や中傷が後を絶ちませんが、それについて、いちいち反論しようとは思わなくなりました。お釈迦様のエピソードがそれを教えてくれました… (12545)
日時:2020年08月16日 (日) 10時36分
名前:破邪顕正

人から、いわれのない非難を受けたり、理不尽な悪口を言われたりすると、たいてい反論してしまいがちです。

どちらが正しいか決着をつけよう、とことんやりあってやろうではないか…。

しかし、たとえ相手を打ち負かしたところで、相手は心の底から納得はしないし、却ってそれを根に持ったりするものです。

「議論に勝つ唯一の方法は議論を避けることである」という言葉があります。

けだし、名言だと思っています。

だって、議論に負けたからと言って、相手の意見が必ずしも変わるわけではありませんからね…。

それどころか、却って、負けた悔しさで意固地になり、恨みを買ってしまいかねませんから…。

なるほど、勝った方は、大いに気をよくするでしょうが、負けた側は自尊心を深く傷つけられたとして憤慨するに決まっています。

議論に勝っても、相手の好意を得られるわけではない…。

議論に勝っても、ますます敵を増やすだけ…。

ということで、たとえ批判や非難、悪口雑言を受けたとしても、それにひっかからない、ひきずられない、こだわらないの“3ない”主義が最適なのだと思うようにしています。

『人生の秘訣365章』にこうあります。

《「彌蘭陀王所問経」だったと思う、こんな話があるが、ある時、弟子が釈尊に向ってこういってたずねた。
「人が誰かを憎んだり、呪ったりした場合、その憎しみや呪いの念を相手が受けなかった場合にはその憎しみや呪いの念は何処へ往って、どうなりますか」
「お前は人が誰かの所へ贈り物をもって往った場合、相手がその贈り物を受け取らなかったら、その贈り物は何処へ行くと思うか」と釈尊はたずねられた。弟子は、
「その贈り物を相手が受取らなかったら、その贈り物は、贈り主のところへ返ってまいります」
 と答えた。そのとき釈尊は、
「その通りじゃ、人が憎しみや呪いの念を誰かに送った場合、相手がそれを受取らなかったら、その憎しみや呪いの念は自分に返って来て、自分自身を害することになるのじゃ」》
(114〜115頁)

今後とも、何かと言われる向きがあるでしょうが、それも覚悟の上、常に、このお釈迦様の精神で精進してまいりたいと思っています。


どうして“憎しみや呪い”の感情が生ずるのか、その背景にある事情を見てみると… (12546)
日時:2020年08月16日 (日) 11時22分
名前:破邪顕正

上述のお釈迦様の話、仏教説話では、どう説いているか。

ここにある“憎しみや呪い”がどのような事情で生まれたものなのか、こう説明されています。

〈あるところに、お釈迦様が多くの人たちから尊敬される姿を見て、ひがんでいる男がいました。
「どうして、あんな男がみんなの尊敬を集めるのだ。いまいましい」
そこで、男は散歩のルートで待ち伏せして、群集の中で口汚くお釈迦様をののしってやることにしました。
「お釈迦の野郎、きっと、おれに悪口を言われたら、汚い言葉で言い返してくるだろう。その様子を人々が見たら、あいつの人気なんて、アッという間に崩れるに違いない」
そして、その日が来ました。
男は、お釈迦様の前に立ちはだかって、ひどい言葉を投げかけます。
お釈迦様は、ただ黙って、その男の言葉を聞いておられました。
弟子たちはくやしい気持ちで、「あんなひどいことを言わせておいていいのですか?」とお釈迦様にたずねました。
それでも、お釈迦様は一言も言い返すことなく、黙ってその男の悪態を聞いていました。
男は、一方的にお釈迦様の悪口を言い続けて疲れたのか、しばらく後、その場にへたりこんでしまいました。
どんな悪口を言っても、お釈迦様は一言も言い返さないので、なんだか虚しくなってしまったのです。
その様子を見て、お釈迦様は、静かにその男にたずねました。
「もし他人に贈り物をしようとして、その相手が受け取らなかった時、その贈り物は一体誰のものだろうか」
こう聞かれた男は、突っぱねるように言いました。
「そりゃ、言うまでもない。相手が受け取らなかったら贈ろうとした者のものだろう。わかりきったことを聞くな」
男はそう答えてからすぐに、「あっ」と気づきました。
お釈迦様は静かにこう続けられました。
「そうだよ。今、あなたは私のことをひどくののしった。でも、私はそのののしりを少しも受け取らなかった。だから、あなたが言ったことはすべて、あなたが受け取ることになるんだよ」

結局、この話の勘所は、ある男の“ひがみ”から始まったというところにあるのではないでしょうか。

この“ひがみ”は単独ではやってこない。

“ねたみ”“そねみ”となって、いわば「3み一体」となってやってくる…。

これを別の表現をもってすれば、さしずめ、こういうことになるのではないでしょうか。

“うらやまC” “うらめC” “ねたまC” “こにくらC” “にくたらC”

敢えて、Cとしたのには理由があります。

“憎しみや呪い”の感情は、それを持つ人にとっては、案外、生きる張り合いというのか、いわば“ビタミンC”活力源になっているのではないのか…。

だから、なかなか消えないで、いつまでもくすぶり続ける…。

でも、それって実に“むなC”ように思うのですが…。

私どものことを快く思っていないのならいないで結構です。

だったら、自分はどうするのか。

そちらの方に思いを向けたがいいのではないのか。

こういうと、「谷口雅春先生を学ぶ会」だって、教団の批判勢力でしかないではないかという反論が帰ってきそうですが、しかし、よく実態を見てください。

なるほど、教団の批判は徹底してやっています。

だって、それは当然でしょう、今の総裁、並びに教団は、尊師の教えに反していると思っているのですから…。

そう思えばこそ、何としても尊師の教えを護らなくてはならない…。

それで誕生したのが「谷口雅春先生を学ぶ会」であってみれば、総裁のどこがどのように背教なのか、それを明らかにするのは至上命題であると言っても決して過言ではないと思っています。

しかし、だからと言って、ただ、それだけに終始しているわけでは決してありません。

現総裁に、現教団に納得のいかない信徒の受け皿として、どうあるべきか。

その思いから宗教法人の取得もまた志向したのです。

批判ばかりしていると思う方は、まずは『谷口雅春先生を学ぶ』誌を読んでみてください。

果たして、そこで批判ばかりしているか…。

ああ、これは自分の勝手な思い込みだったとお気づきになられること間違いなし!…と確信しております。


“逆念もまた善念なり”すべては吉兆、良いことばかり… (12547)
日時:2020年08月16日 (日) 13時04分
名前:破邪顕正


今の野党勢力が、反対のための反対に終始していることに多くの国民が失望しているように、やはり、批判や悪口だけに終始するのではいけない…。

それはそれとして、建設的な、前向きな、積極的な生き方を目指さないといけない…。

で、その生き方というのが、私は「四無量心」ではないかと思っています。

『如意自在の生活365』にこうあります。

《『観無量寿経』には「仏心とは四無量心是なり」とあるが、四無量心とは慈悲喜捨≠フ四徳である。「慈」とは、人の苦しみを見て可哀相に思い、その人をいたわり慈しむ心である。「悲」とは、人の悲苦を見て悲しみを喜びに変え、苦しみを除いて楽を与えてやりたいと思い、それを実践する心である。
「喜」とは、人の喜ぶのを見て、それを自分の喜びとして喜べる心である。これは誰でも容易にできることのようであるが、比較心のある人にはなかなかできにくいのである。…》(82頁)

ここに「喜」の難しさが説かれていますが、その点「トキ」さんは素晴らしい。

先に、宗教法人を取得させていただいたとき、「トキ」さんはいち早く祝福してくれたからです…。

実は、それまで「トキ」さんからは、そのあり方等について、色々と注文をつきつけられていました。

それを聞く度に、私は、それは全て宗教法人を取得したら解消される…。

そう思ってきました。

宗教法人の取得を受けるまで、どれだけ厳しい審査を受けるか…。

「トキ」さんはおそらくそれをご存じなのでしょう…。

ですから、それ以降、こちらへの注文は、一切、なくなりました。

宗教法人を取得する、それによって、社会的、公的認知を受ける…。

そのことの重み、有り難さをしみじみと実感しております。

色々な悪口や誹謗があったとしても、そのようなものではビクともしない、それが宗教法人を取得し得た、何よりの強みではないのか…。

いずれ、悪口や批判は自ずと消えていく…。

だって、その殆どが、実態を知らずに、ただ単なる思い込みで言い募っているに過ぎませんから…。

敢えて、その思い込みの心情を言わせていただけば、「谷口雅春先生を学ぶ会」は潰れろ、早く駄目になってしまえ、という逆念に基づいているような気がしてなりません。

だから、その逆念をものともしない行き方さえしていけば、何ということもないのです。

相手は、自ずと黙るしかない、そういう類いのものだと私は見ています。

『光明法語』にある「十二月七日の法語 逆らえば順潮も逆潮」が心に留まりました。

《一直線の運河には美は乏しく、自然にうがたれたる渓谷や河水の流れには美しさが満ちている。自分がカラッポになるとき、自然が穿(うが)つのである。波に乗るとき万事は調和して順潮に行く。本来逆潮と云うものはないのであるが、順潮もさからえば逆潮となる。波に乗って泳げば疲れることを知らずに、其の目的地に達することが出来るけれども、波に逆らえばしばしの間に疲れてしまい、泳ぐ力もなくなって途中で溺れてしまうであろう。人生の行路もそのようなものである。》

つまり、逆念にムキになって立ち向かう必要はないということです…。

では、その逆念に対してはどう処すべきか。

『女の浄土』にこうあります。

《神の創造り給うた世界には憎悪すべき何物もないのである。誰かが到底看過(みの)がすことの出来ないような悪事をはたらいたり、自分を悪口したり侮辱したりした場合にも、あなたはその人に対して憎んではならないのである。それは自分の赦し≠ニ愛≠ニが、如何に素晴らしく偉大であるかのテストとして其処にあらわれた課題であると思って赦す≠ェよい。》(13〜14頁)

なるほど、テストを受けているのですね。

それで思い出したのが、あのアパホテル社長、元谷芙美子氏のことです。

こう語っています。

〈私は、1994年にアパホテルの社長に就任して以来、広告塔として、全国に顔写真入りの看板を掲げて、文字通りホテルの顔≠ニなりました。…
広告塔として表に出ていると、私を通してアパホテルを多くの方に知ってもらえる機会が増える一方で、誹謗中傷も当然増えます。
「あの広告のオバチャン、出しゃばりすぎ」
「あのモデルは早急に代えてください」
「見ている側にとって、精神衛生上よくない」
というようなキビシ〜イ言葉もありました。
見ず知らずの人からそうした言葉に、傷つくこともあるのではないかと思われるでしょうね。
でも、実は全く傷つきません!
そうした声がすべてではありませんから。
気のせいだと笑って流してしまいます。
それよりも、目にとめていただいたことを「チャンス到来!」とこれまた前向きに考えてきました。〉

アッパれ、というほかはありません。

逆念ではない、私もまた「谷口雅春先生を学ぶ会」のこと、目にとめていただいたことを「チャンス到来!」と前向きに考えていくようにしたいと思っています。

逆念もまた善念なり、激励の念なり、期待の念なり!

すべては受け止め方次第なり!




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