「七重塔」や“造化の三神”のお社を礼拝するようになったら、もはやそれは「生長の家」に非ず、“雅宣教”という宗門なり (12517) |
- 日時:2020年08月09日 (日) 16時53分
名前:破邪顕正
“なにも足さない。なにも引かない”(ピュアモルト)それを「原理主義」だとして忌み嫌ったのが、言うまでもなく“背教総裁”で、とうとう、今回は、ご存じのように「實相」隠しまでやってのけたわけです。
これは「生長の家」という教団名、そもそもの由来まで、根本から否定するものであると私は思っています。
そのことを新編『生命の實相』第9巻「聖霊篇」を拝読させていただいて痛感いたしました。
《私は「本当のキリスト教は生長の家にある」と話しましたが、私のその舌の根の涸かないうちに日蓮宗の方が来られましたので、『法華経』の本当の教えが啓かれているのは「生長の家」だと私が申しました。…どんな宗教の方がやって来られましても、「神髄(ほんとう)の何々教は生長の家だ」といってその人の信じている宗教の名をいって間違いがないのであります。》(128頁)
ここに、「生長の家」の「生長の家」たる所以があると言っても過言ではありません。
どうして、こういうことが言い得るのか。
その根拠が、続いて、こう示されています。
《生長の家では礼拝のために神殿やお厨子を建てない。生長の家の神様の神示に「我に神殿は不要である、我が言葉を書いた本が神殿である、吾が神殿を建てようと思えば、わが言葉を書いた本を諸方に弘めよ。それが諸方に我が神殿を建てることになる」という意味が示されてある。生長の家ではそれで『生命の実相』の聖典聖語を礼拝の本尊にしている。》(129頁)
つまり、聖典『生命の実相』の中に書いてある真理、「實相」のお悟りこそが、礼拝の本尊なのです。
それだからこそ、所謂、万教帰一が成り立つのだし、「生長の家」という名称が意味を持つのです。
それについて、『前掲書』はこう説明しています。
《「生長の家」は「家」といって何々教といわないのであります。何々教といって各派の宗門に対立するような宗門ではないのであります。…「生長の家」は「家」であるから、どの宗門からお這入りになりましても一向差支えはありません。どうぞ御遠慮なく御自分の宗門をそのままズッと奥まで、内陣までお這入りなさい。そこに広々とした奥座敷がある−−その奥座敷が「生長の家」というのであって、この奥座敷には、どの宗教門をお這入りになった方でも構わない。》(39〜40頁)。
こういうことです。
奥座敷と思って入ったら、そこに「七重塔」そして“造化の三神”のお社があり、それを礼拝しなさいと言われて、果たして、例えば、キリスト教信者が、礼拝し得るでしょうか。
ご存じのように、神社の鳥居すらくぐらない人たちです。
絶対に、拒否すると私は思います。
何を申し上げたいか。
本来、「生長の家」は“奥座敷”であったはずなのに、「七重塔」そして“造化の三神”のお社を設けたために、“奥座敷”とは名ばかり、そこが“宗門”へと変じてしまった…。
当然、万教帰一の教えも説き得なくなってしまった…。
いわば、「生長の家」が“雅宣教”という宗門に変じてしまった以上、本来の「生長の家」に帰れ、そう叫ぶ信徒が出てくるのは必然のことだったと思うのです。
今回の「實相」隠しが、その声を更に大きなものにしていく、否、大きくしていかなければならないと思っております。
|
|