《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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谷口雅春先生に帰りましょう・伝統板・第二
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“歴史は書いてあることより書かれなかったことが重要である”(歴史学者・磯田道史氏)から『“新しい文明”を築こう』を捉え直してみると… (12490)
日時:2020年08月03日 (月) 13時20分
名前:破邪顕正


『“新しい文明”を築こう』は、おそらく、会員から歓迎されることはないだろうと推測します。

もとより、「会員必携」と謳ってありますから、ノルマの感覚でそれなりに頒布はされるでしょう。

しかし、実際に好んで読まれるかと言えば、それについては私は実に否定的です。

それというのも、まず表題が誇大に過ぎると思うからです。

今の教団の力で『“新しい文明”を築こう』なんて、絵空事もいいところ…。

まともにそれを信じる会員なんか、あまりいないのではないでしょうか。

それより何より、読んでいて、宗教本来の使命感とか信仰の喜びとかが全然、湧いてこないのです…。

果たして、これを読んで、この運動に人生を賭けよう、という会員が生まれるでしょうか…。

ザックリ言って、これで伝道意欲が喚起されるというようなことはない…。

結局、これは、総裁の総裁による総裁のための自己弁解、自己正当化、ご都合主義の書物でしかない…。

それが鼻について、嫌な気分にしかならないのです…。

そのわけがわかりました。

それが表題に掲げた言葉です。

これは、NHK「英雄たちの選択」での歴史学者・磯田道史氏の言葉です。

今回の“造化の三神”教団が会員必携として出版した『“新しい文明”を築こう』について、私はこれまでの『聖光録』と比較検証して、そこから削除されたもの、逆に加筆されたもの、その双方を取り上げて、その問題点を指摘してまいりました。

でも、磯田道史氏の言葉から、削除でもない、加筆でもない、第三の視点「書かれなかったところ」に歴史の真実があるという指摘には、まさに眼から鱗でした…。

そうなのです、この本が言及していないこと、敢えて触れないでおこうとしたと推量されること、そういうことどもの中に、実は“造化の三神”教団の真実の姿があるのではないのか…。

そういう観点から、思うところを書いてみたいと思います。


書かれなかったこと@…「生長の家」を導き給う神が「住吉大神」である (12498)
日時:2020年08月04日 (火) 12時19分
名前:破邪顕正


宗教団体にとって、ご本尊が何かは、最も重大なことであります。

言うまでもなく、それは「住吉大神」に他なりません。

それについて、例えば『心と食物と人相と』にはこうあります(223頁)。

《近所に勇湯という銭湯があり、朝の五時から湯が沸くので、私は毎朝その風呂に行き、一番風呂で身を浄めての帰り途、ちょうど、その近くにある「本住吉神社」に参拝して日本国の隆盛と皇室の御安泰とをお祈りしてから帰るのが例になった。この神社は三韓征伐の時、神功皇后さまが戦勝祈願のため建立された神社である。すると住吉大神から霊感をいただいて『生長の家』を出版せよという啓示を受けたのであった。》

ここにはっきりと、「住吉大神」からの霊感によって『生長の家』誌創刊号が発行されたとあります。

であれば、「住吉大神」こそが尊師を導き給う神様であるとして、そのことに言及しなければならないはずです。

ところが、その「住吉大神」がどういう神様で、どういうお働きの神様であるかについては書かれていないのです…。

なぜ、「住吉大神」について書こうとしないのか…。

そこに、却って、今の教団の“真実”が隠されている、そう思うものであります。


書かれなかったことA…「人類光明化運動発進の宣言」の取り扱いに納得がいかない (12505)
日時:2020年08月05日 (水) 14時22分
名前:破邪顕正


『生長の家』誌創刊号は、「住吉大神」からの霊感によって発行されたと申し上げましたが、その冒頭には、ご存じのように、“『生長の家』出現の精神とその事業”が掲げられています。

「生長の家」の運動は、まさしくここから始まりました。

だからこそ、これまで『聖光録』には、「人類光明化運動発進の宣言」として掲載されてきました。

ところが、この度の『“新しい文明”を築こう』には、削除こそ、されてはいませんが、ただこういう形で出てくるのです(『同書』上巻61頁)。

〈私たち生長の家は、今こそ神意を正しく受け…自然と人間が共に栄える新しい文明≠フ構築に向かって力強く進んでいかねばなりません。それこそが、創始者・谷口雅春先生が九十年前、人類光明化運動発進の中に込められた精神の継承者となることです〉

そう前置きして、

《自分はいま生長の火をかざして人類の前に起つ。起たざるを得なくなったのである。友よ助けよ。同志よ吾れに投ぜよ。》

この言葉で締めくくられているのです。

歴史的に見ても、極めて重大な「人類光明化運動発進の宣言」が、たったの2行…。

こんな扱いでいいのか。

これでは、尊師の立教のご精神は後世に伝わらない…。

何が、許せないといって、尊師の立教のご精神が、勝手に、自分の提唱する新しい文明≠フ構築に結びつけられていることです。

あまつさえ、それが“精神の継承者となることです”とまで言われているのです。

これは、尊師の立教のご精神を冒涜する以外のなにものでもありはしません。

だって、尊師の立教のご精神は、まさしく、ここにこそあると思うからです。

《…自分のかざす火は人類の福音の火、生長の火である。自分は此の火によって人類が如何にせば幸福になり得るかを示そうとするのだ。如何にせば境遇の桎梏から脱け出し得るか、如何にせば運命を支配し得るか、如何にせば一切の病気を征服し得るか、また、如何にせば貧困の真因を絶滅し得るか、如何にせば家庭苦の悩みより脱し得るか…等々。》

ところが、そういう魂の救済よりも、今は地球環境の保護・保全が喫緊の課題だと言ったのが、現教団でしょう。

だから、教団の総力をそこに振り向けたのでしょう。

それが、言うところの“新しい文明”を築くことなのではありませんか。

歴史的に重大な、この尊師の立教のご精神を、このように勝手に、自分の都合のいいように貼り付ける…。

そういう意図のもとに作成されているのが、今回の『“新しい文明”を築こう』という本なのです。

そこのところの問題点を、ぜひ、読み解いてご理解いただきたいと思うものであります。


書かれなかったことB…立教に到る、尊師のご覚悟がこれでは伝わらない。使命感も湧いてはこない (12507)
日時:2020年08月06日 (木) 16時03分
名前:破邪顕正

「人類光明化運動発進の宣言」で省かれていることで重要なことは、他にもあります。

それがこれです。

《自分は幾度も躊躇した。起つことを躊躇した。自分は中心者として増上慢のそしりを受けることを恐れていたのだった。一求道者としていつまでも謙遜でいたかった。併し今は謙遜でありたいと言うことが自分にとっては安易を貪る一つの誘惑と感じられる。自分は此の誘惑に打ち克って人類を救わねばならない。自分の有っている限りの火で人類を救わねばならない。》

人類救済への烈々たる気迫、覚悟、使命感…。

それが漲っているのが、この「人類光明化運動発進の宣言」なのです。

これを書かないで、この重要な箇所を省いて、いったい、どうするのですか。

また、その立教に到るまでの尊師の精神的な葛藤、そして二度の盗難、これがまた実にドラマチックなのです。

新編『生命の實相』第13巻「生活篇」に、その辺の事情がこう記されています(64〜66頁)。

《私は会社員としての一生活を生活し、その上、或は『生長の家』を書き、或は病める人のための家庭苦や病苦の相談相手として長時間を費し、ほとんど睡眠時間もない程に二重、或は三重に生活しなければならないであろう。――こう考えるとき私は自分の虚弱な、結核二期生と綽名された程の肉体で、こうした二重三重の生活の労苦が耐えられるだろうかと思うと、常識ではどうしてもそれが不可能だと考えられた。》

そういうときに、ご存じのように、尊師は二度の盗難に遭われるわけです。

泥棒は、いったい何を盗んでいったのか。

それは、体力がないからとか経済的に潤沢でないからとか、そういう自己弁解、言い訳をする、自らの弱いニセモノの心を盗んでいったのですね。

だから、尊師は、この盗難は神様が与え給うたのだ仰るのです。

《私は決心した――経済的余裕の来る日などをもう断じて待つまい!自分の身体が弱いという理由で自分の勇気のないことをもう断じて自己弁解すまい、会社へ行きつつ、このいわゆる虚弱な身体でも二重生活三重生活にも耐えられることを立証しよう。自分の生命は神から受けたものではないか。神の無限の生命から生命を汲むものは涸くことはないはずだ。死なば死ね。生きる道をつたえるために起ち上ってその為に自分が死ぬならば、自分の伝えようとした道は嘘だったのだ。私はその時、潔く死んで好い。自分が今迄伝えようと、志していた道の真偽がこれによって判明するのだ。私はこの時「背水の陣」を布いて起ち上った。》

「死なば死ね」

「潔く死んで好い」

このお言葉と出会ったときの感動、今もって忘れることはできません。

このご精神と一対となって紡がれたのが、私は「人類光明化運動発進の宣言」に他ならないと思っています。

宗教の使命感とはまさにこれなのだ。

そういう吹き上がるような感動、宗教的な情熱、よろこび…。

そういうものが、少しも、『“新しい文明”を築こう』からは感じられない…。

これでは、本気になって伝道しようという信徒は生まれない…。

尊師への深い感謝、限りない報恩の思い、そういうものが見られない以上、きっとそうなる…。

そう予見しておきます。


書かれなかったことC…“魚の骨”に当たる部分とは尊師の「古事記解釈」に当たり、それを外したら「生長の家」は“骨抜き”になってしまう (12526)
日時:2020年08月11日 (火) 16時08分
名前:破邪顕正

表題は、新編『生命の實相』第9巻「聖霊篇」の次のご文章を拝読していて痛感したことです(115頁)。

《先日神戸の古くからの敬虔なクリスチャンである人が来られまして、「今までは聖書には魚のように骨と肉があるのだから、訳の判らない語句は骨として捨ててしまって、訳の判るその肉だけを食べれば好いのだと教えられていました。『生長の家』で教えられて以来、キリストの教え全体が肉であって骨は一つもないということが判りました」といわれました。こういうように「生長の家」では、キリストの教えがそのまま生きて生活にまで実現しているのであります。》

ここに明らかなように、敬虔なクリスチャンの方が、「生長の家」に来たら、捨てていい骨などはない、すべてが肉である…、それが判ったと言ってよろこんでいられるわけです。

ところが、“背教総裁”にとっては、尊師の教えには、判るものと判らないものとがある…。

つまり、肉の部分と骨の部分とがあって、後者は捨ててもいいと思ったのでは…。

だから、絶版という強硬手段にも訴え出ることができた…。

その最たるもの、即ち、判らないものの代表が、実は、尊師の「古事記解釈」だったのではないでしょうか。

今回の『“新しい文明”を築こう』にも、だからそれに関するものは掲載しないことにした…。

そう思われるものが、以下の重要資料です。

@人類光明化運動指針−生長の家各員の運動心得十三ヵ条−

A伊勢神宮の神前における神想観

B大日本神国観

C日本国実相顕現の祈り

D住吉大神宇宙浄化を祈る神想観

これらは、尊師の「古事記」解釈を踏まえないととても理解しえないものであります。

そして、それは尊師の教えで重要な位置を占めている…。

そのことは、『生長の家五十年史』を紐解けば明らかであります(294〜295頁)。

〈昭和十年十一月十一日から二十日までの十日間に亙って…「第一回生長の家指導者講習会…が、谷口雅春先生の指導のもとに…開催されることになった。
 ところがこの講習会では、谷口先生は専ら『古事記』を講義されたのであった。〉

記念すべき第一回で、『古事記』が講義されたということは、それだけ、これが教義の中核を為すからにほかならないと言って決して過言ではありません。

だからこそ、その『古事記』講義は、それに続く第二回においても行われているのです。

そのときのことを、東山半之助先生が、その著『さっくばらん』にこう記されています。

〈この先生御親講の第二回幹部講習会は、実に私の転生であり洗礼であった。御講義に展開されるは大乗仏教と、キリスト教と、惟神(かんながら)の古神道を主流として、滔々と説かれる比較宗教学、宗教史、各教理を明快無礙に解きつ束ねつ処理されて、宇宙は一つ、神人一如、万教帰一の絶対真理の大奔流とするところ、まさに『正信偈』の『衆水の海に入って一味なるが如し』の大壮観である。ことに先生が主力を注がれたのは、惟神の道の聖典『古事記』の講義であった。…ひとたび谷口先生の古事記講義の獅子吼に接しては、ただ仰天し、感激し、畏敬するのみであった。〉(49〜50頁)

何を申し上げたいか。

尊師の「古事記」解釈を外しては、「生長の家」の奥義は掴み得ないということなのです。

つまり、“背教総裁”のような考えでは、「生長の家」の教えは、それこそ“骨抜き”になってしまう。

この“骨抜き”で思い出されるのが、『国のいのち 人のいのち』にある次のご文章です。

《実は戦後、あの『無門關解釋』の本をもう一遍出版するということがなかなか問題になりまして、あんなものを出したら、あれはすぐ発売禁止になるか、あるいは超国家主義だとか、封建的だとか、頭が古いとか何とか言って排斥されてしまうから、ああいう所は全部消してほしいと出版社から言われましたので、私は、全巻を再読点検したのですが、しかしあれを抜いてしまったら、もうこの『無門關解釋』の本は骨抜きになってしまう。『無門關』の説く真理が終始一貫しないことになってしまう、という訳で、序文の中にあの一節をそのまま残しておいたのです。》(23頁)

私は、ここをこう読み替えたい思います。

《…しかし“古事記解釈”を抜いてしまったら、もうこの“「生長の家」の教え”は骨抜きになってしまう。“生長の家”の説く真理が終始一貫しないことになってしまう》

それほどまでに重要なのが、「古事記」解釈なのではないのか。

だから、それを外してしまった総裁は、やはり“背教総裁”という他はないと、改めて思うものであります。



『生命の實相』の著作権を握っていたら、総裁はおそらく絶版に処したであろうと思う理由を… (12528)
日時:2020年08月12日 (水) 13時09分
名前:破邪顕正

『国のいのち 人のいのち』にあるご文章を抜き書きしながら、この出版社とは総裁のことではないかしらん…。

《…あんなものを出したら、あれはすぐ発売禁止になるか、あるいは超国家主義だとか、封建的だとか、頭が古いとか何とか言って排斥されてしまうから、ああいう所は全部消してほしいと出版社から言われました…》

もちろん、この『無門關解釋』の初版は、昭和39年の発行ですから、時代からして、それはあり得ない話ではあるのですが、しかし、出版社の考えと総裁のそれとはそうは違わない…。

で、今回、思ったのは、『生命の實相』を拝読すればするほど、「實相」隠しはあり得ない…。

それより何より教義そのものに反しているということが、はっきりと判ることなのです。

例えば、新編『生命の實相』第10巻「聖霊篇」の次のご文章がそうです(25〜26頁)。

《聖典『久遠の實在』に収録された「智慧の言葉」に、「生命の実相ーー生長の家の礼拝の対象はこれである。生命の実相ーーあらわれて阿弥陀仏となり、釈迦となり、イエスとなり、一切の善き宗教の教えとなる。『彼を信ずる者の、その名によりて罪の赦しを得べきことを証す』と『使徒行伝』十章四十三節にあるが、彼とは生命の実相である。生命の実相を信じ礼しこれに結びつく者は幸いなるかな」というのがあります。「生命の実相」を信じてこれに結附いた時のみ一切の罪(包み)(仮相)は消え、そこに救いが成就するのであります。神という対立者を想像してそれにひれ伏して拝み倒したからとて、罪は消えるものではありません。》

まさしく、ここに万教帰一の神髄も説かれているわけです。

「生命の實相」こそが礼拝の対象なのです。

それ以外にはあり得ないのです。

ましてや、「七重塔」とか“造化の三神”のお社とか、そんなものを礼拝していては、万教帰一など成り立ちません。

そのことは総裁も百も承知なのです。

だから、こう記すのです。

「第二章 祭式・儀礼の方法(日本での場合)」(『“新しい文明”を築こう』「中巻」157頁)。

何ですか、この(日本での場合)という添え書きは…。

これこそは、世界で通用しないという証左、以外のなにものでもありません。

そんなにしてまで、総裁は、どうして「實相」隠しを強要したかったのか…。

私は、まさしくこれは『生命の實相』に対する反旗なのだと見ます。

総裁の潜在意識が、敢えてそうさせているのです。

それほど、この「生命の実相」が、総裁にとっては、言わば目の上のたんこぶのような存在であった…。

自分のやりたいことをしようとすれば、常に、この『生命の實相』が立ちはだかる…。

何とも邪魔で仕方がない…。

だから、『生命の實相』を拝読する信徒を“原理主義者”として、教団から排除したかった…。

『生命の實相』をテキストとした誌友会を開催させないようにしたのも、同様の思いがあったからでしょう…。

できるものならば、なんとかして『生命の實相』を絶版に処したい…。

そのためには、著作権を自分のものにするに如くはなし…。

『生命の實相』を読み込めば読み込むほど、総裁が裁判に訴えてでも著作権をわが手中に納めたいと思った心情が、手に取るようにわかります。

それと同時に、よくぞ、この著作権が総裁の手に渡らなくて好かった…。

神様はよく見てござる…。

神様に護られている…。

心底、そう思います…。

宗教法人を取得できたのも、まさしく本当に神様のご加護のおかげだと改めて感謝している次第です。


“背教総裁”が『生命の實相』を煙たがるというのは、こういうところにも理由があるのではないかと思っています… (12539)
日時:2020年08月14日 (金) 15時03分
名前:破邪顕正

ご存じのように、私は一貫して、今の総裁は“確信犯”であると申し上げてまいりました。

その理由の一つをあげるとすれば、ブラジルにおけるこの発言です。

《谷口雅春氏は僕の祖父でありますが、彼は彼なりの説き方をされたが、やはり神ではないので、各所にその欠点を見い出しそれを訂正したり、廃刊にした書物もあります。 私は私なりに現代人を救済する義務があるので不要なものは処理したのです(平成16年7月31日、ブラジル教習会)》

私は、尊師の教えを学ぶ際、特に気をつけねばならないことは、真理は常に人・時・処三相応であるという点であろうと思っています。

総裁のように、簡単に、「各所にその欠点を見い出し」と言い切っていいものであろうかと思うのです。

例えば、それに関して、新編『生命の實相』第6巻「生命篇」はこう言います。

《『生長の家』の誌友には色々の段階の人があるので、その説き方は千変万化しているのであります。或る時には小乗的に説く事もあれば、或る時には大乗的に説く事もあります。釈迦が成道最初にお説きになった小乗の教えと、その晩年お説きになった『法華経』や『涅槃経』とは一見矛盾するようなことが説いてあっても、それは参聴者の自覚の向上に従って話される所が異ってくるので、いずれも真実であってウソではないのであります。…それは釈迦の教えが悪いのではなく、その教えを本当に理解し得ず取り違いする人が悪いのであります。如何なる教えも本当に理解しない人には害となる》(60〜62頁)

自らの読み込みの浅さ、それを常に自戒すべきであると思うのであります。

さて、表題に掲げたことは、同じく「生命篇」にある次の箇所を読んで思ったことであります。

《…祖先の霊魂の念波は、現実世界にいる子孫の運命に影響を及ぼす…即ち、(1)祖先又は自分に関心ある縁者の霊魂の好まない処を子孫が行えば、祖先または縁者の霊魂の反対観念を受けて、その人の運命が妨げられます。(2)祖先、又は自分に関心ある縁者の霊魂が迷いにとらわれ、信ずべからざるを信じ、妄執にとらわれていますと、現実界の子孫たる吾らがその反対観念の掣肘を受けて、正しいことを行っていても、それが面白く行かないことになるから、祖先の霊魂には速やかに真理を悟らしてあげる必要があります。この第一の原理により、吾々は父祖が現世になくなっていようとも、父祖の期待に背くということを行なえば、その父祖の霊魂の反対観念によって制裁を受けることになるのであります。更に父祖に対して反逆の念を起し、反逆の行動をとるようなことをすれば必ずその子孫の運命はよく行かないのであります。》(92〜93頁)

ブラジルでの発言といい、今回の「實相」隠しといい、どう見ても、これは“父祖の期待に背く”ことであり、“父祖に対して反逆の念を起し、反逆の行動をとるようなこと”以外のなにものでもありはしません。

当然、そうであれば、“父祖の霊魂の反対観念によって制裁を受けることになる”し、“子孫の運命はよく行かない”ようになると思うのであります。

私に言わせれば、総裁は充分、その覚悟でやっていると思っていますから(それ故、私は“確信犯”だと申し上げているわけですが)何ということもないでしょうが、問題は信徒のことなのです。

おそらく、多くの信徒は、親から受け継いだ「生長の家」の信仰を護っているという思いでやっておられると思うのです…。

しかし、それは霊界から見たら、決してそうではない…。

否、それどころか、真逆である…。

少なくとも、私にはそう見えます。

「愛国の柱・生長の家」という看板を背負ってきた父祖の霊魂にしてみたら、とてもではないが、今の教団はあり得ない、信じられない状態になっている…。

そのことは、こういう『生命の實相』を拝読すれば、自ずと感じられてくるものなのです…。

本当に、今の教団のままでいいのか…。

本当に、これで、父祖の霊魂はよろこんでくださっているのだろうか…。

本当に、このまま信じてついていっていいものなのだろうか…。

“背教総裁”にとって、何よりも困るのは、信徒がそういう素朴な不信感、猜疑心を抱いてしまうことなのだろうと思うのです。

できうるものならば、こういうことが記されている『生命の實相』から信徒の目を遠ざけたい…。

それが“背教総裁”の本音なのだろうと思うのです。

最も、“背教総裁”自身、父祖の眼差しなど、拒絶したいに相違ないでしょうが…。

“子孫の運命はよく行かない”

それでなくても、これは何とはなしに実に気になる言葉でしょうからね…。

信徒の皆さんにも、ここは、ぜひ、お考えいただきたいと思うところです。

だって、子孫の運命がかかっているのですから…。



改めて思います。ブラジルでの発言は実に重たいものがあると… (12542)
日時:2020年08月15日 (土) 16時24分
名前:破邪顕正


“背教総裁”も海外では、素の感情が出るようですね。

例えば、どうでしょう…。

講習会という場で、自らの意志で“廃刊にした書物もあります”とか“不要なものは処理した”とか、言いますでしょうか。

それを何とか隠さんがため、『聖典』の絶版は、最終的には日本教文社の決めたことだとされ、そして、その責めを中島代表は当時、社長であったということで、ずっと背負わされ続けてきたわけでしょ…。

何のことはない、すべては、“背教総裁”の独裁体制から生まれたことだったのに…。

当時、誰が総裁に面と向かって楯突けたというのでしょうか。

如何に、それがきついものであったか。

今の日本教文社の株主総会の実状を見てみれば、およその察しがつこうというもの…。

その厳しい現実を実感し得ない人が、信徒が望めば、聖典の再発刊は可能なのであると思ってしまうのだろうと私は見ています。

そういう方には、甚だ申し訳ありませんが、もう一度、ブラジルでの発言を腑に落とし込んでほしいと思います。

“不要なものは処理した”

信徒が如何に必要だと思い、その要望を出したとしても、それを決めるのはただ一人、“背教総裁”のみなのです。

不要と思ったからこそ絶版に処したのです。

信徒の要望が通るなどと夢想することから、一刻も早く目覚めてほしい…。

願望は願望として、その一方で、現実を見る目をそれによって決して眩ましてはならない…。

私はそう思っています。

その現実を直視する中から、だったらどうしていくのか…。

どうしたら、尊師の御教えを護り、後世に伝え遺すことができるのか…。

その苦渋の思い、決断から生まれたのが、私は“本流”の運動なのだと思っております。

この運動を大きく展開しないことには、その信徒の要望もまた通ることはない…。

そんな覚悟で、この運動を前進させなければならないと思っております。


“不要なものは処理した”という言葉から垣間見える世界とは… (12548)
日時:2020年08月16日 (日) 14時06分
名前:破邪顕正

表題にある“不要なもの”という判断は、言うまでもなく、総裁自身によるものです。

そして、そう判断したら、そのまま「処理」することもできる…。

これをもって、私は、もはやこれは“総裁”でもなんでもない、これは“独裁”そのものであると言っているわけです。

それでは、その所謂、絶対権限は一体、どこに由来するのか。

そう考えたときに、俄に浮かび上がってくるのが、「人類光明化運動指針」の【第九条】にほかなりません。

まさしく、これこそが、総裁に絶対権限を付与した根因であると私は見ています。

それを誰よりもよく知悉していたのが、他ならぬ総裁自身だったのではないでしょうか…。

だからこそ、この度の『“新しい文明”を築こう』上巻において「人類光明化運動指針」13箇条の中から【第九条】のみを掲載しているのだと思うのです(76頁〜)。

「生長の家大神−総裁・副総裁−御教」

つまり、これによって、総裁は何を手中にし得たのか。

「総裁」に就いた瞬間、自らが最上位となり、過去の総裁の発言は、どのようにでも処理できる権能を有したということなのです。

創始者だろうが、何だろうが、どうにでもできるのが「総裁」である…。

「総裁」の考え方、それ次第で、教義であろうと運動であろうと何でも自分の思いのままに自由に変えることができる…。

殆どの信徒は、そのことの“恐ろしさ”をまだまだ実感し得ていないのではないのか。

だから、暢気に「教えの本質は昔と何ら変わってはいない」などと嘯く…。

私が、こうして「ブラジルでの発言」に注目するのは、その“恐ろしさ”を垣間見るのに、これほどのものはないと見ているからに他なりません。

よく、現行憲法について、「前文」と「第九条」とは表裏一体であるということが言われます。

即ち、そこには、自らの国を自ら護るという意志が全く欠如している…。

だから、他国に依存するしかない…。

依存の対義語は自立、自律だと言われます。

今の憲法は、この「前文」と「第九条」とだけをとってみても独立国のそれとは、とても言い得ないのです。

同様のことが、この「ブラジルでの発言」と【第九条】とにも言える…。

つまり、信徒は、この【第九条】に縛られて、総裁にハイ≠キるしかできないように仕向けられていくのです…。

「総裁」に依存して生きるしかないのです…。

そういう総裁の絶対権限下で、果たして、尊師の教えを護り抜いていくことができるのか、そのことを本気で考えてほしいと思っています。


書かれなかったことD…「七つの光明宣言」が外されたのは、『生命の實相』を不要とする思いの発露ではないのか (12549)
日時:2020年08月16日 (日) 16時07分
名前:破邪顕正


『生命の實相』は、ご存じのように、この「七つの光明宣言」の解説から始まります。

これを何故、外さないといけないのか。

結局、総裁は、『生命の實相』そのものを“不要”と見なしているからではないのか。

そう思って、『生命の實相』を紐解いてみましたら、「第一条 吾等は宗派を超越し生命を礼拝し生命の法則に随順して生活せんことを期す」からして、今回の「通達」がそれに反しているように思えてなりませんでした。

新編『生命の實相』第1巻「総説篇・光明篇」にこうあります。

《吾々が「生命」を礼拝すると申しますれば自分自身を敬い拝むことになるのであります。自分自身が尊い「生命」であるとの自覚がすべての道徳生活の根本になるのであります。自分自身が尊い「生命」であればこそ、自分自身をはずかしめない生活をすることもできるのでありますし、また他人の生命や個性や生活をも尊重することができるのでありまして、ひいては、吾々の「生命」の大元の「大生命」をも尊び礼拝したくなるのであります。》(6頁)

つまり、宗派を超越し得るのは、生命を礼拝するからこそなのだと思うのです。

“自分自身が尊い「生命」であればこそ…「生命」の大元の「大生命」をも尊び礼拝したくなる”。

だから、「實相」額を通して、自らの「生命の實相」の尊さを自覚して“「生命」の大元の「大生命」”=宇宙の大生命を礼拝する…。

それが立教以来の、祈りのルーティンだったわけです。

ところが、今回の「通達」は、その「實相」額の前に「七重塔」並びに「お社」を置くように命じたわけです。

それのみならず、その「七重塔」「お社」を通して礼拝するように…と祈りの言葉まで変えてしまいました。

そうなると、信徒は、否が応でも、目の前にある「七重塔」「お社」を意識しないわけにはいきません。

果たして、それで、“宗派を超越し”が成り立つのでしょうか。

普通に考えて「七重塔」だと仏教、「お社」だと神道、それをイメージすると思うわけです。

ザックリ言って、これでは少なくとも、キリスト者は礼拝し得ませんよね。

もう、この段階で、「第一条」の教えにも反してしまっている…。

それでなくても、とにかく、『七つの光明宣言』を外して「生長の家」の何たるかを語ることは出来得ないと思うのです。

これを外すということは、『生命の實相』そのものを“不要”と見なしているからではないのか…。

そう疑われても抗弁のしようがないと思うものであります。





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