《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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「独り神なりまして」は“独身の神”、「御身を隠し給いき」は“背後にあって身を隠している”と解釈する“背教総裁”なれば、“造化の三神”を祀ることなど何ということもないでしょうね… (12444)
日時:2020年07月28日 (火) 08時52分
名前:破邪顕正

私の耳にも、「實相」額の前にモノ≠置いたことに怒りを覚える信徒の声が届くようになってまいりました。

「もう、あんな教化部にはいかない、先祖供養祭にも出席しない」

そういう信徒も出てきています。

“背教総裁”のやっていることは、もはや“淫祠邪教”の類いです。

どうして、そこまで言うのか。

宗教にとって、礼拝対象は、大変、重大なことで、尊師の教義からすれば、“造化の三神”は絶対に祀ってはならないことだからです。

そのことを、『生長の家』誌・昭和46年「十一月の法語 新しい神観と新しい夫婦の道ムスビの原理≠中心として」より、学びます。

《十日の法語 宇宙を貫く法則としての神

…天之御中主神とは、固有名詞ではなくその神の御本質を表現するために人間がつくった名称である。老子が「道は無名である」と説いたように本源神には名前はないのである。天之≠ニいうのは宇宙の≠ニいう意味である。天≠ヘ天球¢ヲち宇宙そのものを指すのであり、その「宇宙の」という意味で、あまり名前らしくない「之」の字がついているので、御中≠ニいうのは、宇宙を中(つらぬ)く≠ニいう意味で、宇宙を中いて主なるところの神という意味で、宇宙の本源神に名は無いが、名を言わねば、次に生まれてくる神々と区別がつかないので、その本質を表現する語をもって仮に人間が、宇宙を貫いて存する主なる神という意味で、天之御中主神という神名をつけて、あとあとの神々との混同を防いだ訳である。天之御中主神が、絶対神であるのは「独り神なりまして」と古事記には、この神が独一絶対神であることを表現し、この神が無相にして一定の姿をもたない事を「御身を隠し給いき」という語をもって表現されていることでわかるのである。》

ここにはっきりと

“天之御中主神が、絶対神であるのは「独り神なりまして」と古事記には、この神が独一絶対神であることを表現し、この神が無相にして一定の姿をもたない事を「御身を隠し給いき」という語をもって表現されている”

と示されています。

この「独り神なりまして」を“独身の神”と解釈したのが、他ならぬ“背教総裁”であります。

更に恐るべきは、「御身を隠し給いき」の受け止め方なのです。

何と“背後にあって身を隠している”と言うのです。

まずは、2014年1月 6日 (月)のブログ記事「タカミムスビとカミムスビ」を見てください。

……………………………………

 私は昨年11月の本欄で、タカミムスビとカミムスビの神について「陰陽二柱のムスビの神」とか「陰陽一対のムスビの神」などの表現を使ったが、これは誤解を招いたかもしれない。どんな誤解かというと、これらの神が『古事記』や『日本書紀』の中では協働して何かをする様子が描かれている、という誤解である。それはちょうど、イザナギとイザナミの両神が協働して国土を生み出していくように、である。ところが事実はそうではなく、両神が協力して何かをなしとげる場面は、両書には出てこない。それどころか、『古事記』はその冒頭で、アメノミナカヌシに続いて両神の名を挙げた後、「此の三柱の神は並(とも)に独神と成り坐(ま)して身を隠しき」と書いている。つまり、両神は独身≠フ神で姿形が見えないのだと考えれば、両者が協力して何かを実現することはあり得ないという解釈も成り立つのである。これに対して、イザナギ、イザナミの両神は「独神」とは呼ばれず、また「身を隠しき」とも言われない。そして、両神が密接に協力して国生みをしたという話は、あまりにも有名である。

では、タカミムスビとカミムスビの両神は、どんな意味で「陽と陰のムスビの働き」だと言えるのか? それを知ることが今回の考察の目的である。
 歴史地理学者の千田稔氏は、タカミムスビとカミムスビの二神が『古事記』の中でどう描かれているかを、著書の中で分かりやすく解説している。その中に両神が「身を隠したまいき」と書かれている意味が、次のように示唆されていて、その解釈が興味深い−−

「 最初にタカミムスヒの神という名が出るのはアマテラスの大御神が天の石屋戸に隠れたという場面である。世の中はまっくらになり、八百万の神は天の安の河原に集まり、そこでタカミムスヒの神の子であるオモイカネ(思金)」の神にアマテラスの大御神を誘い出す思案をさせている。この情景には、たしかにタカミムスヒの神は姿をあらわしていない。御子神のオモイカネの神に状況を打開する仕事をゆだねているか、もしくは指図している。そのようにみれば、タカミムスヒの神はオモイカネの神の背後にあって身を隠しているといってよいのかもしれない。」(千田稔著『古事記の宇宙(コスモス)−−神と自然』、p. 57)
 ここで取り上げられている「天岩戸開き」の物語はあまりに有名なので、詳しくは説明しない。が、次の3点は、タカミムスビの神の働きの特徴と関係が深いので、改めて指摘しておこう−−
@天岩戸開きは、同神が『古事記』に登場してから初めて、同神について言及される出来事である。しかし、同神はそれに直接関与していない。
Aこの出来事は、オモイカネの神なくしては成功しなかった。
Bそのオモイカネの神は、タカミムスビの神の子であるから、後者は前者を通してこの出来事を成就したと解釈できる。つまり、タカミムスビは天岩戸開きの“影の立役者”とも考えられるのである。
 日本の神話では、特に『古事記』の記述では、上のBのような形式で神と神との関係を描くことが珍しくない。つまり、特定の神Aの働きを描くのに、その神が別の特定の神Bに対して影響力を行使したとして(間接的に)描くのである。例えば、イザナギとイザナミの両神によって国土が創造されるに際しては、この両神のいずれかの発意によって、もしくは両神が合意してそれが行われたとは書かずに、「天つ神一同の命によって」それが行われ、そのための手段である「天の沼矛」も、天から両神に与えられたものとして描かれている。イザナギ、イザナミの両神は、まるで自らの意思をもたないかのようである。(『日本書紀』とは異なる)
 また、「天孫降臨」の物語では、ニニギノミコトは自らの意思で地上に降りてくるのではなく、やはり天つ神の共同の意思によって地上に「遣わされる」のである。この形式を喩えて言うならば、ビリヤードでは、テーブル上のいくつもの玉はそれぞれ複雑に独立した動きを見せているようであっても、その動きの原因は最初の一突きをした人間にあるのであって、それぞれの玉にあるのではないのと似ている。玉突きのプレイヤーは、複雑な動きを見せる様々の玉の背後に、言わば「身を隠している」のである。谷口 雅宣

………………………………………

これを読んでまず思うのは、「古事記」の話をするのに、どうして、わざわざ、歴史地理学者の千田稔氏の学説をもってこないといけないか、ということです。

「生長の家」の“総裁”として話をする以上は、まずは創始者である尊師の「古事記」に従って解説すべきなのではありませんか?

つまり、“背教総裁”は、尊師の教えに学ぼうという姿勢が微塵も見られない…。

そのことこそが一番の問題なのです。

“法燈”を継承したといいながら、少しも教え親に学ぼうとしないで、何が“法燈継承”であろうか…。

そういうことだからこそ、「独り神なりまして」を“独身の神”と解釈したり、「御身を隠し給いき」を“神の背後にあって身を隠している”とか、そんな解釈をやってしまうのです。

“独身”とか“身を隠す”とか、これは完全な現象論でしかありはしません。

尊師の霊的な古事記解釈とは全然、異質なモノ、相容れないモノです。

ここまで尊師に反逆している以上、もはやそれは“淫祠邪教”と言ってもいいのではありませんか…。

所謂、“偶像崇拝”の教団に堕した以上、遠慮無く、“淫祠邪教”を信仰するのですか?

信徒に対して、そこまで言って、事の重大性に気づかせることもまた必要ではないのかとすら、今は思っております。



「十一日の法語 大和の民族精神の根元について」に学ぶ… (12456)
日時:2020年07月30日 (木) 08時52分
名前:破邪顕正


尊師の「古事記」解釈は、実に霊的であって、そんじょそこらの一般学者の説とは比較を絶しているわけです。

ところが、それが、“背教総裁”には、おそらく理解しえないのでしょう…。

自分が理解しえないものは排除する…。

だから、『古事記と現代の預言』などは即刻、絶版にしてしまう…。

で、その代わりに自分の理解できる範疇のものしか扱わない…

ということで、ついつい学者の本ばかりを多用する…。

もとより、その学者の取り扱う世界は、「現象世界」に他ならないわけです。

「実相」世界を取り扱ったら、それこそ“宗教”となってしまって、それではもはや“学問”とは呼べなくなってしまいますから…。

にもかかわらず、総裁は、「法燈」を継承したと言いながら、おかしなことに、学者の説に傾倒してしまっているわけです…。

“日本語は澄むと濁るで大ちがい ハケに毛があり ハゲに毛がなし”

それをもじって

“総裁は澄むより濁るが大好きで 「学者」贔屓で 「覚者」を厭う”

このままでは、尊師のお悟りは、後世に伝わることはありません。

かくなる上は、自分達で、それをしっかりと学んでいくしかありません。

前置きが長くなりました。

「十一日の法語」をご紹介します。

《天之御中主神の次にタカミムスビノ神、カミムスビノ神の名が掲げられて、いずれも独り神すなわち唯一絶対神≠ニ書かれている。唯一絶対神が三柱ある。これは唯一者たる神をわれわれから見た場合の三つの面を神の名として表現して造化の三神としたのであって、絶対神が三神もあるというわけではないのである。ムスビノ神は結合の原理であって、結びということが可能なのは本来一つ≠ナあるからなのである。本来「陽陰不二」の中≠フ原理が、内に陽陰の原理を孕んでそのままに一体なのである。それは一筋の紐に左≠ニ右≠フ両端が、そのままに含まれてあるようなものである。その左≠ニ右≠ニの両端が両方からムスビ合わされると、子供その他新たなる生命の発展があるのである。この結びの原理≠ニいうものが絶対神のなかに、既に内包されているのであって、天地の創造≠ニか、国生み≠ニかいうのも、絶対神の内に内在する結びの原理≠フ展開としてあらわれて来るのであって、日本的思惟においては、神のほかに何か他物があり、その他物に神がはたらきかけて、天地を創造するというようには解しないのである。すべて一≠もって創造の本源≠ニするのである、そこに中心帰一≠フ大和(やまと)の日本的思想の根元が見出されるのである。》

所謂“造化の三神”とは、“本来「陽陰不二」の中≠フ原理が、内に陽陰の原理を孕んでそのままに一体なのである”ということなのです。

ここで大事なのは“原理”ということばなのです。

つまり、“造化の三神”とは“原理神”にほかならないということなのです。

“原理神”とは、尊師のお説きになられた「神の三義」においては、「第一義の神」ということになります。

祭祀の対象とはならない神様ということです。

「万教帰一の神示」にこうあります。

《嘗てわれ汝に告げたのである『吾れに神殿は不要である』と。われは神殿がないとて身の入れ場所に困るような神ではない。供え物も要らぬ。》

ここに言われる「吾れ」とは、唯一絶対神のことであります。

「供え物も要らぬ」とはっきりと「神示」にあるわけです。

その「神示」に反することを、堂々とやってのけて、その上、それを信徒にまで押しつけ、強要しているのが“背教総裁”なのです。

すべては、総裁が、尊師の教えに学ぼうとしていないからこそです。

これでは、生長の家の「神観」が根本から破壊されてしまいます。

尊師の教えを護るために誕生した「谷口雅春先生を学ぶ会」としては、こういう“背教”を決して看過することはできません…。

総力をあげて、その非を訴え続けていかなくてはならないと思っている次第です。


「十二日の法語 原理神と人格神」に学ぶ… (12468)
日時:2020年07月31日 (金) 09時35分
名前:破邪顕正


この表題にある「原理神」と「人格神」、この意味がきちんと理解されていないために、今回の“實相隠蔽”が堂々とまかり通ってしまったのです。

非常に大事なことで、法語にはこうあります。

《タカミムスビノ神は陽≠フ原理神であり、カミムスビノ神は陰の原理神である。そして陽の原理神が人格的にあらわれられたのがイザナギノ神であり、陰の原理神が人格的にあらわれられたのがイザナミノ神である。私は今ここに古事記の講義を順序を追って書くのは紙面が足りないので、それは既に『限りなく日本を愛す』の後編及び『古事記と現代の預言』という本にまとめてあるので読んで頂くとよい。なお最近影山正治氏の『神話に学ぶ』という本が大東塾出版部から出たので、これも神話の内在的意義を解明した好参考書であるから一読をお薦めする。》

「谷口雅春先生を学ぶ会」のホームページに、「神の三義」について説明してあります。

詳細は、それをご覧いただくとして、要点のみ引用させていただきます。

〈…宇宙大本源の神様には姿形がありません。しかし、姿形なき本源神としての超越的な絶対者は、普遍的な法則として宇宙に静かに充ち満ちているだけでは、その本質である愛を成就することはできないのです。

それ故に、絶対者の慈悲を体現したところの、相対的に現われる人格神、または天使、または菩薩が現われなければならないのであります。

つまり、神が救済を成就しうる本当の神となるためには、超越的絶対神が相対的人格神として現われ給うて、救済の御業を現実になされなければならないのです。

人を救うためには、神の救いの霊波が人格的に現われられる必要があるのであります。〉

それでは、祭祀の対象となるのはどういう神様なのか。

ここに「神の三義」の大切な所以があります。

〈「第一義」という言葉は、本来の意味においてということでありますから、宇宙に満ちておられるところの姿形が見えない、無相の神様が第一義の神であります。

「第二義」の神というのは、その第一義の無相にして無限相の神様が、相対的人格神として現われ給うた姿であります。どこにでも満ち満ちておられる神様が、例えば「阿弥陀如来」として出てこられたり、「住吉大神」として出てこられたり、あるいは「観世音菩薩」として出てこられたり、いろいろの仏様になって出てこられるのであります。これを、化身の神様とも、方便身の神様ともいうのであります。…

「第三義」の神様は、霊魂の神であります。霊魂の神というのは、物質ではない一種の幽質で出来ている幽体といわれる体があって、神社に神様としてお祀りされている、神格を得た人間の霊魂であります。…

このように、神様の現われとして「三義」の意味があるのでありますが、これはあくまで人間の側から見た分類であります。

生長の家の本尊神は、住吉大神であらせられますが、その現われの面から言えば応化神であって「第二義の神様」であります。

しかし、第二義というものが第一義とはなれてあるのではなくて、第一義の中に第二義が包まれていて、具体的な救済の手をのべるためにあらわれて来られるのであって、第一義の神様が救済の手をのべる働きとして、人格神として現われられたのが住吉大神であります。…〉

この「神の三義」の教えからすれば、祭祀の対象となるのは「第二義の神」と「第三義の神」ということになり、「第一義の神」即ち「原理神」はそういう対象にはならないのです。

にもかかわらず、それを破ったのが、今回の“造化の三神”のお社の設置ということなのです。

これに何の“違和感”も抱かないということは、「神の三義」という根本教義が少しもわかっていない…。

これは即ち「神示」をも否定するものですから、「生長の家」そのものに反逆しているということになるのです。

今の教団では、そういう「神の三義」について一切、教えられていないから致し方ないではないかと言われればそれまでですが、しかし、それをそのまま了承してしまったら、一体、尊師のお説きになられた御教えはどうなってしまうのか。

つまり、これは“護法の戦い”なのだということです。

その重大な責務を私どもはこの双肩に担っているのだとの自覚をもって、怯むことなく、前進していかなければならないのです。



『不二』七月号の影山正治先生「神州の正気」という文章を拝読させていただきました。大変、感銘を覚えましたので、ご紹介させていただきます… (12489)
日時:2020年08月03日 (月) 11時11分
名前:破邪顕正


敗戦日本の再興に向け、精神的支柱となり、大きな働きをなした愛国者3人の先生を指して“3まさ”ということがあります。

そのお一人は言うまでもなく、尊師・谷口“雅”春先生です。

次に、漢学者の安岡“正”篤先生。

そして、今一人が大東塾の影山“正”治先生。

で、尊師は影山先生とは懇意にしておられて、先にご紹介したご文章の中でもこう書いておられます。

《なお最近影山正治氏の『神話に学ぶ』という本が大東塾出版部から出たので、これも神話の内在的意義を解明した好参考書であるから一読をお薦めする。》

この大東塾に対して、谷口輝子先生は密かに物心両面でご支援されていたと伺っております。

そういうこともあったのでしょう、輝子先生は影山先生が自刃された際、『理想世界』誌・昭和54年8月号に「瑞玉串と捧げまつりて」というご文章を寄稿されています。

そこにはこう記されています。

“「身一つをみづ玉串とささげまつり御代を祈らむみたまらとともに」の辞世を残して割腹自決された大東塾塾長影山正治氏をいたむ…”

その影山先生のご文章を『不二』(大東塾・不二歌道會 機関誌)で拝読させていただきました。

この中で、影山先生は、天皇陛下のお言葉をそのまま受けることの危険性について述べられます。

〈…終戦後、日本的立場をとる人々の一部が次のような錯覚におちいったことに就てです。それは、今や陛下が戦いをやめよとおっしゃったのだから戦ってはならない、そして 陛下は相対的な立場を越えて善に対してだけでなく悪に対しても等しく大慈大愛をそそがれようとされるのだから、我々はこのような 陛下の御精神を身に体して共産党その他の横暴邪悪に対しても戦ってはならない、若し万一ソ連軍などが不法に侵入してくるようなことがあっても戦ってはならない、そのまま素通りさせるべきである。こちらがどんなにしても戦はないで居るならば、如何に兇暴邪悪な相手でも、結局戦いをやめる以外にないし、やがて反省するに至るであろう、と云うような考え方です。
 これは一種の無抵抗主義的な考え方で、一寸聞くと、もっともらしいようでもあり、つつましやかにも見えるが、実は大変な間違いです。
 共産勢力の実体に対する考え方の無知に等しい甘さは云うまでもないこととし、この考え方の根本第一の間違いは、陛下の御立場と、我々臣下側の立場というものを全然無視して居る点です。〉

この観点は、実に重要だと思います。

天皇陛下は一視同仁、国民は〈みなはらから〉〈赤子である〉ということを仰います。

当然、共産主義者も〈神の子〉であります。

しかし、だからと言って、“容共主義”に走っていいのか…。

それは決して愛国者のとるべき道ではない…。

この違いが分からないといけない、実に大事なことであると思います。

これについては、稿を改めて書くことにいたします。


“謙虚随順”が実は“増上慢”となってしまう… (12496)
日時:2020年08月04日 (火) 10時19分
名前:破邪顕正


影山先生は、続けて、こう書いておられます。

〈陛下は「あまつひつぎ、すめらみこと」の御立場に於て、天業の恢弘をお扶けするのです。それを、自己の立場と云うものを無視して、 陛下と同じ立場に立ったような気持で物を考え、事に処しようとする如きは、自分では大いに謙虚随順のつもりかも知れないが、実はこの上ない増上慢であるわけです。〉

陛下と臣下では、自ずと立場が違う。

その違いを弁える…。

ここをはき違えたらいけないのですね。

聖経『続 真理の吟唱』の「天の岩戸を開く祈り」のこのお言葉が身にしみます。

《住吉大神は宇宙創生の根元なる創生(うみ)の底にましますゆえに、われら是を称えて竜宮に在(ま)す大神と崇(あが)め奉る。この大神、宇宙浄めのために一神にて上中底の三神に分れて創造の秩序を明らかならしめんがために上筒之男神・中筒之男神・底筒之男神と顕われ給う。この大神の御働きにより悪平等の混沌の世界は破れて生命創造の上・中・底の秩序整いて此の世浄まり、天照大御神生れましぬ。》

ここにありますように、上のものは上に、下のものは下、それが秩序というものなのですね。

それであって世も浄まる…。

臣下でありながら、陛下と同じ立場に立って物事を考えるというのは、まさしく不遜に当たる…。

「大御心」をどう受け止めてくいべきか、実に心すべきご指摘であると痛感した次第です。



「摂取不捨」と「破邪折伏」に思う… (12503)
日時:2020年08月05日 (水) 10時09分
名前:破邪顕正


影山先生のご文章の続きです。

〈陛下は、「罪あらばわれをとがめよ天つ神民はわが身の生みし子なれば」で、一切を許し、一切を抱いてゆこうとされる「摂取不捨」の上御一人の御立場です。こんにち宮中勤労奉仕に参加してみますと誰にでもすぐわかることですが、 陛下の御住みになって居られます吹上御苑の中は、 陛下のおぼしめしによりまして、全く自然のまま、雑草のおいしげるままにされて居るわけです。人の手の入らない古い昔の武蔵野そのままの姿です。そればかりでなく、 陛下は全国諸方から、御苑にない雑草を採集して来られ、伸びるがままに伸ばし、茂るがままに茂らせておいでになります。その概要は、数年前毎日新聞社から出た『皇居に生きる武蔵野』と云う書物を見てもよくわかります。〉

「谷口雅春先生を学ぶ会」として、2年続けて、皇居勤労奉仕をさせていただきました。

東京のど真ん中に、こんな自然がある…。

ちょうど、紅葉の真っ盛りの頃で、本当に心があらわれるようでした。

そのときの感動が蘇りました。

そして、ご文章はこう続きます。

〈これは、宮内庁の役人や、御側近の学者たちが云うように、単に「陛下が生物学者であられるから」「陛下が深く野草趣味をおもちだから」と云った理由からだけではないと思う。もっと生きとし生けるものなべてを生かさしめようとされる摂取不捨の「天皇の御本質」から来て居るものと思います。
 これに封し、民の側の立場に於ては 陛下が「罪あらばわれをとがめよ」とおおせられれば、られるほど、断じて天朝の敵、国の賊の存在を許さないために身を以て戦ってゆき、抵抗してゆくべきです。 陛下の「摂取不捨」のありかたに対し、「破邪折伏」のありかたでゆくべきです。〉

「摂取不捨」とは、もともとは仏教語で、阿弥陀仏がその光明の中に衆生を救いとって捨てないこと。阿弥陀仏の救済のことをいうそうです。

「光明の中に衆生を救いとって」という言葉で、フト光明皇后様のことが脳裏をよぎりました。

『光明法語』「三月十三日の法語 現象を見ず実相の完全を観よ」にこうあります。

《何故、光明皇后が癩病患者を愛したまうたように、その膿血ながれる背中に接吻されたように、醜くあらわれている人々をも吾らは愛することが出来ないか。それは現象を見るからである。現象を見れば膿血はきたない。膿血は愛することは出来ない。膿血を愛すれば膿血は増加するばかりである。膿血の奥にある光明かがやく生命を観ることである。そのとき膿血は消えさり、光明輝く実相があらわれる。人間の現象の欠点を見ず、現象なしと知ってのみその人間の神性を本当に愛することが出来るのである。》

なるほど、「摂取不捨」とは尊師のお言葉で言えば、あくまでも現象を見ず実相の完全を観ていくこと。

それが 陛下のありかたであられる。

それに対して、私どもは「破邪折伏」のありかたでゆくべきである…。

「破邪折伏」とは、破邪顕正で折伏するという意味で、この場合は、“断じて天朝の敵、国の賊の存在を許さない”ということでありましょう。

影山先生がこの御文章をお書きになられたのは昭和32年11月号です。

当時は、ソ連の共産主義思想が猖獗を極めていて、それが念頭にあられたものと思われます。

今に置き換えれば、言うまでもなく、それは尖閣にヒタヒタと迫り来る、中国共産党でありましょう。

そのことを踏まえて、次の文章を読んでいただきたいと思います。

〈陛下が朝敵、国賊までを許されよう、抱かれようとするからとて、臣下の分際で直ちに朝敵、国賊をも許そう、抱こうなどとすることは、それこそ分際をわきまえざる増上慢至極と云わなければならないのです。 陛下が雑草までをも伸びるがままに伸ばされ、茂るがままに茂らされるからといって、民の側が田畑や花壇の雑草を一切、抜き取ることをせず、伸びるがままに伸ばし、茂るがままに茂らしたとしたら、農作物は出来ず、草花は咲かず、豊葦原の瑞穂の国は忽ちにして惰農雑草の国となってしまうでしょう。雑草のいのちをもいとおしみ、雑草の花にも心寄せるやさしさをもつことはよいことですが、しかもなおかつ雑草は断じて引き抜き、焼きすてねばならないのです。右の手のひらと左の手のひらが逆になっているからこそ、ぴったりと合掌が出来るのです。それが同じになっていたら、ちぐはぐになって決して合わないのです。 陛下の御立場に於ける「摂取不捨」に対し、民の立場に於ける「破邪折伏」があればこそ、ぴったりと君民一体となり、立派に民族の合掌が成り立つのです。かくて万有の修理固成が実現してゆくのです。…〉

君民一体とは、「摂取不捨」「破邪折伏」の合掌なり。

何とすばらしいお言葉でしょうか。

これこそ、今の私たちに求められている精神ではないかと思えてなりません。

そして、これを一人でも多くの方に知ってもらいたい…。

そういう思いで、影山先生のご文章をご紹介させていただいた次第です。


谷口輝子先生のご文章に思う…“西暦のみを用いようとする人々は、それは日本人の魂を失った人々だといえよう” (12506)
日時:2020年08月06日 (木) 15時25分
名前:破邪顕正


『理想世界』誌・昭和54年8月号にご寄稿された「瑞玉串と捧げまつりて」は、こういうお言葉で結ばれています。

《「元号法制化」が為されなかったならば、「天皇国日本」の形が崩潰に傾いて行くことを、愛国者たちは憂うるのである。「天皇国日本」であることを無視して、キリストに関係のある西暦のみを用いようとする人々は、それは日本人の魂を失った人々だといえよう。 影山さんは、天皇への忠の証として忠臣大楠公の命日五月二十五日、そして父君ら十四烈士の割腹の日二十五日に自決せられた。
 身一つを、みづ玉串として捧げまつられたようだけれど、魂は十四の御霊らと協力して「元号法制化」の実現のために努力するつもりのように拝察する。
 ああ、今頃は、十五の御霊は天翔けり、日本の空の暗雲を吹き払っていられるだろう。(五月三十一日記す)》

「元号法制化」とは、谷口輝子先生の仰る通り、「天皇国日本」をお護りするための運動でありました。

今でも思い出します。

「元号法制化」とは元号の押しつけではありません…。

逆に、それをしておかなければ、必然的に、西暦の押しつけを容認することになるのです…と。

谷口輝子先生のお言葉に従うならば、西暦のみの表記をしている現教団の「通達」は、さしずめ“日本人の魂を失った”と言っていいのかもしれませんね。




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