「十一日の法語 大和の民族精神の根元について」に学ぶ… (12456) |
- 日時:2020年07月30日 (木) 08時52分
名前:破邪顕正
尊師の「古事記」解釈は、実に霊的であって、そんじょそこらの一般学者の説とは比較を絶しているわけです。
ところが、それが、“背教総裁”には、おそらく理解しえないのでしょう…。
自分が理解しえないものは排除する…。
だから、『古事記と現代の預言』などは即刻、絶版にしてしまう…。
で、その代わりに自分の理解できる範疇のものしか扱わない…
ということで、ついつい学者の本ばかりを多用する…。
もとより、その学者の取り扱う世界は、「現象世界」に他ならないわけです。
「実相」世界を取り扱ったら、それこそ“宗教”となってしまって、それではもはや“学問”とは呼べなくなってしまいますから…。
にもかかわらず、総裁は、「法燈」を継承したと言いながら、おかしなことに、学者の説に傾倒してしまっているわけです…。
“日本語は澄むと濁るで大ちがい ハケに毛があり ハゲに毛がなし”
それをもじって
“総裁は澄むより濁るが大好きで 「学者」贔屓で 「覚者」を厭う”
このままでは、尊師のお悟りは、後世に伝わることはありません。
かくなる上は、自分達で、それをしっかりと学んでいくしかありません。
前置きが長くなりました。
「十一日の法語」をご紹介します。
《天之御中主神の次にタカミムスビノ神、カミムスビノ神の名が掲げられて、いずれも独り神すなわち唯一絶対神≠ニ書かれている。唯一絶対神が三柱ある。これは唯一者たる神をわれわれから見た場合の三つの面を神の名として表現して造化の三神としたのであって、絶対神が三神もあるというわけではないのである。ムスビノ神は結合の原理であって、結びということが可能なのは本来一つ≠ナあるからなのである。本来「陽陰不二」の中≠フ原理が、内に陽陰の原理を孕んでそのままに一体なのである。それは一筋の紐に左≠ニ右≠フ両端が、そのままに含まれてあるようなものである。その左≠ニ右≠ニの両端が両方からムスビ合わされると、子供その他新たなる生命の発展があるのである。この結びの原理≠ニいうものが絶対神のなかに、既に内包されているのであって、天地の創造≠ニか、国生み≠ニかいうのも、絶対神の内に内在する結びの原理≠フ展開としてあらわれて来るのであって、日本的思惟においては、神のほかに何か他物があり、その他物に神がはたらきかけて、天地を創造するというようには解しないのである。すべて一≠もって創造の本源≠ニするのである、そこに中心帰一≠フ大和(やまと)の日本的思想の根元が見出されるのである。》
所謂“造化の三神”とは、“本来「陽陰不二」の中≠フ原理が、内に陽陰の原理を孕んでそのままに一体なのである”ということなのです。
ここで大事なのは“原理”ということばなのです。
つまり、“造化の三神”とは“原理神”にほかならないということなのです。
“原理神”とは、尊師のお説きになられた「神の三義」においては、「第一義の神」ということになります。
祭祀の対象とはならない神様ということです。
「万教帰一の神示」にこうあります。
《嘗てわれ汝に告げたのである『吾れに神殿は不要である』と。われは神殿がないとて身の入れ場所に困るような神ではない。供え物も要らぬ。》
ここに言われる「吾れ」とは、唯一絶対神のことであります。
「供え物も要らぬ」とはっきりと「神示」にあるわけです。
その「神示」に反することを、堂々とやってのけて、その上、それを信徒にまで押しつけ、強要しているのが“背教総裁”なのです。
すべては、総裁が、尊師の教えに学ぼうとしていないからこそです。
これでは、生長の家の「神観」が根本から破壊されてしまいます。
尊師の教えを護るために誕生した「谷口雅春先生を学ぶ会」としては、こういう“背教”を決して看過することはできません…。
総力をあげて、その非を訴え続けていかなくてはならないと思っている次第です。
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