《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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なるほど、だから“モノ”を礼拝するのですか。「石と信仰」という総裁のブログ記事を読んで、偶像崇拝に走る理由がここにあるのかと思うにいたりました… (12436)
日時:2020年07月27日 (月) 16時45分
名前:破邪顕正


表題は、2020年7月26日 (日)付けの「石と信仰 (1)」という記事のことです。

「七重塔」「お社」を礼拝するのは“偶像崇拝”にほかならないということは、既に指摘してきました。

いくつかそれに関する投稿をしていますが、一つだけここに引いておきます。

……………………………………

今回の「通達」は、総裁による“宗教改革”である。「實相」額を隠し、礼拝の言葉を変え、「實相」額そのものを無くそうとする改悪≠ネり… (12076)
日時:2020年05月31日 (日) 15時06分
名前:破邪顕正

4月7日付けの教団の「通達」を知って、これは大変な問題であると直感し、その思いを2ヶ月近くにわたって綴ってまいりました。

これは考えれば考えるほど深刻な問題で、今、私はこの「通達」を称して、総裁による生長の家の“宗教改革”なりと断ずるに至りました。

要約すると、その問題点は3つに集約できるかと思います。

@「住吉大神」から“造化の三神”へと神様を取り替えた問題

A「七重塔」と“造化の三神”の神霊符を収めたお社を礼拝させるという偶像崇拝の問題

B「實相」額を隠し、「實相」額を無用のものとする問題

それぞれが、尊師の創始せられた「生長の家」の教えを根底から否定するものであり、まさしく“宗教改革”というべきものであります。

改革ならばまだしも、その実態たるや、これは内容から言って完全なる改悪≠ナあります。

そのよって来る所以を、まずは、3つの中でも特に重大と思われるBの問題について投稿させていただきます。

何故、これがとりわけ重大なのか。

立教以来、信徒は、「實相」額を通して、礼拝してきました。

これがいわば“祈りのルーティン”として、信徒の身体に自然としみついてきました。

この信仰のあり方、立教以来90年にわたって信徒が守り続けてきた、この“祈りのルーティン”を根底から破壊せんとするのが、今回の「通達」なのです。

だって、それによれば、「實相」額の前にモノ≠おいて隠し、その上、礼拝の言葉まで変えようとしているのですから。

「万物調和のムスビの働きを表した造化の三神と、神の創り給いし無限多様の実相世界を象徴する七重塔を通して、宇宙の大生命に礼拝いたします。」

つまり、これまでのような“『實相』額を通して”という表現を使わせないというのです…。

これは、ザックリ言ってしまえば、『實相』額などなくても構わないと言っているも同然であります。

『實相』額がなくて、果たして、それで「生長の家」と言えるのでしょうか。

そのことを、これから検証してまいりたいと思います。

毎朝、拝読させていただいている聖経『真理の吟唱』の中に「神の愛を実践する祈り」というのがあります。

その冒頭のご文章を引かせていただきます(110〜111頁)。

《すべての人の生命の奥底には神のいのちが宿っているのである。それを仏教では「一切衆生悉く仏性あり」というのである。それをキリスト教では「内在のキリスト」というのである。その仏性≠ニいい、「内在のキリスト」というのは、われわれ日本人では神≠ニ呼ぶのである。神≠ェすべての人々のうちに宿っているのである。宿っている≠ヌころか、神≠アそが人間の本当のいのち≠ナあり、肉体は、神≠ェ地上に天降って自己実現するための媒体であって、肉体は、人間そのもの≠ナはないのである。肉体の奥に、物質の奥に、霊妙きわまりなき、神通自在の神霊が存在するのであって、その神霊こそが人間そのもの≠ナあるのである。》

「生長の家」の教えでは、この人間そのもの≠自覚することが何よりも重要であります。

ところが、ここにありますように、兎角、私たちは目に見える肉体が自分であると思い誤ってしまう…。

つまり、現象あり、肉体あり、の世界観からなかなか抜け出せないでいるわけです。

そこで、それを避けるために「實相」額を礼拝するのです。

そのことは、新編『生命の實相』第21巻「万教帰一篇」にはっきりと示されています(197〜198頁)。

《「實相」という掛軸が道場に出ておりますけれども、これは皆さんに宿る「実相」を思い出させるためであって、御賽銭を払わすためでない。どこにも皆さんに拝んで下さいというような社は拵えてないのであります。それは社を拵えて拝むのが悪いのではない、大いに敬神思想でいいのですけれども、しかし皆に拝ますところの殿堂を拵えて拝ますと、生長の家の神様はあのお堂の中にのみいらっしゃって、自分の中にいないのだと誤解する人が出来ることがある。そして自分のいのちの中に宿る塩椎之神を忘れ、自己に宿る「如意宝珠」を忘れてしまって、何か他物に対して奴隷の如く平身低頭して、或いは賄賂の如く金銭を供えて、神様から、何か御利益を貰おうというような人が出て来る惧もあるので、そういうことのないように拝むように、生長の家では一般礼拝のための祭壇は拵えていないのであります。》

「實相」額を礼拝することで皆さんに宿る「実相」を思い出させる≠ニいうわけです。

また、『神真理を告げ給う』の中にもこうあります(14〜15頁)。

《諸君は生長の家≠フ本部道場や練成道場の講壇の正面に『實相』という大文字が掲げられてあることを知っているであろう。あれはわたし≠ェ掲げるように命じたのである。
 なかには、何かあの文字に大なる神秘的霊力があって、あれを礼拝すれば何か功徳があるかのように思って礼拝している人があるが、実相とはあなた自身の実相≠ナある。あなたの実相は、純粋透明な空気のように肉眼には見えないから、それを思い出して自分の実相を礼拝する機会を大抵の人はもたないのである。そして肉眼に見える肉体的姿を自分自身だと思いまちがえ、自分自身を物質的存在だと思い込んでしまうのである。だから、自分自身を物質的存在だと思いまちがえないように、『實相』と文字に大書して、自己の実相≠その文字に移入して礼拝するようにしてあるのである。》

何故、「實相」額を礼拝するのか。

実相とはあなた自身の実相≠ナあって、それを礼拝するのは自分自身を物質的存在だと思いまちがえないように≠キるため…。

肉体ありで実相が眩まされることがあってはならないためなのです。

まさしく、この「實相」礼拝によって、信徒は「神の愛を実践する祈り」にあるように、すべての人の生命の奥底には神のいのちが宿っている≠サれを思い出すことができるし、それを忘れないようにもできるのです。

新編『生命の實相』第34巻「聖語篇」にかくあります。

《真理への道はただ一つ−−人間は神の子だ−−ということである。》(4頁)

《五官を信ぜず、神の創造を信ずるのが信仰である。》(131頁)

《本当の自分が神の子であることを知ることが、人間の本当の幸福である。生長の家はこの幸福を知らせるために出現したのである。》(173頁)

これらを見れば、「生長の家」の教えとは「人間神の子」の教えであり、それが本当の幸福の基であるということがわかります。

そして、それを常に思い出させ、忘れさせないために「實相」額が掲げられ、それを礼拝することになっているのです。

この「實相」額がなくても構わないということになれば、これはもはや「生長の家」そのものの否定というほかはありません…。

げに、オソロシキは今回の「通達」なり…。

こんな、身勝手な、90年にわたって守られてきた「實相」礼拝を破壊するような“宗教改悪”は、断じて許すことはできません。

尊師の創始せられた、それは「生長の家」の死を意味するものであるからです…。

………………………………

これほど重大な「實相」礼拝に取って替えて“モノ”を礼拝させるというのが先の「通達」の趣旨にほかなりません。

それに何の躊躇もためらいもないどころか、全く意に介してすらいないということが、今回の記事でよーく分かりました。

はっきりとこう記しているからです。

〈古来、洋の東西を超えて、石は信仰の対象として、また信仰対象の象徴として、あるいは宗教儀式の重要な道具となってきた点は、強調しておきたい。〉

だから「七重塔」を信仰の対象として何が悪い、そういうことなのでしょうね。

さて、これは(1)ということですから、どんな続きが出て来るか、楽しみに待つことにいたしましょう。


石といえば… (12451)
日時:2020年07月29日 (水) 11時43分
名前:なんだこれはっ!

石と言えば宇治別格本山に建立された「自然災害物故者慰霊塔」も石ですね。

慰霊碑、慰霊塔と言えば石なんでしょうけど、これは慰霊塔というにはおどろおどろしい慰霊塔ですし、“塔”というのに、石のまんまですよね。(個人の主観ですが…)
http://www.uji-sni.jp/tsukinamisai/ireto.html

建立された翌年に宇治で何があったは、よく?知られている?事ですよね?
http://bbs5.sekkaku.net/bbs/daityouwa/mode=res&log=5206

隣の「全国流産児無縁霊供養塔」は“供養塔”というたたずまいですよね。(個人の主観ですが…)

「なんだこれはっ!」さんへ。やはり、実際の写真は訴える力が違いますね… (12454)
日時:2020年07月29日 (水) 16時44分
名前:破邪顕正


これを見て、“石崇拝”は、何も今に始まったことではなかった…。

これは、“背教総裁”の「信仰」なのだと、私なりに了解できました。

自ら石碑に揮毫したほどですから、総裁の思い入れのすごさが分かろうかというものです。

それにしても、この石の形状…、ナンダカナアと思うのは果たして私だけでしょうか。

で、毎月、11日には、月次祭が執り行われているようですが、勿論、そのお祭りで誦げられているのは、「大自然讃歌」であります。

宇治では、「聖経」だけではない、こういう形で「讃歌」も誦げられている…。

つまり、宇治の境内地では「聖経」と「讃歌」とが混じり合っているということを申し上げているのです。

そういうことを、果たして、ご先祖の御霊さまが、納得しておられるのかということを問うているのです。

それより何より、『生命の實相』がそれを好しとしていないということを申し上げたいのです。

これについては、以前にも投稿していますから、それをここに引かせていただきます。

…………………………………

なぜ、総裁がつくった『経本』等を読むと具合が悪くなるのか、その理由がここにありました! (7076)
日時:2017年07月20日 (木) 15時50分
名前:破邪顕正

今、新編『生命の實相』は第25巻まで発刊されています。

頭注版『生命の實相』で言えば、第15巻「人生問答篇」に当たります。

それを読んでいて、ハッと思ったのが表題に掲げたことです。

新編『生命の實相』第25巻50頁に、杉野さんの話が出てきます。

夫婦揃って「生長の家」にお入りになり、心境が実に朗らかになられた。

ところが、その杉野さんが、急に憂鬱になってしまわれた。

そのために、仕事も何もかもがうまくいかなくなってしまった。

どうして、こうなってしまったのか。

その理由をこう語られるのです。

《…どうして私の心にこういう朗かでない心境が起って来たのであるかどうも判らない。

ところがよくよく反省してみますと四、五日前に『三日会会報』というのが来ました。

それをポケットに入れて電車の中で読んだのであります。

いつでも会社へ往復の電車の中では聖典『生命の実相』を読むようにしていましたのですがちょうど『三日会会報』が来たものですから、この雑誌も『生長の家』の分身だと思うものですから、読んだら真理を知る上に同じ効果があるつもりで読み始めたのですが、読んでいると『生長の家』と少しちがうところがあるような、変な不安な憂欝な気がしてきたのです。

何だかその理論は物質の存在を認めているような、小我自我(にせもののわれ)の存在を認めているような点がありますので、読んでいるうちに物質も存在する、現象も存在するというような気がして来たのです。》

察しの良い方は、これで私が何をいわんとしているか、おわかりになったと思います。

そうです、現総裁が書いているものは、上の表現を借りれば、「現象も存在する」という、いわば『三日会会報』みたいなものであるわけです。

環境問題≠ノ拘れば、当然、そうなることは火を見るより明らか。

杉野さんの問題は、決して、過去の話ではすまされません。

今、進行中の問題でもあるのです。

杉野さんは、『生命の實相』と『三日会会報』とを混ぜ合わせて読んでしまったために、オカシクなってしまいました。

今の教団も然り。

「聖経」と「経本」とを混ぜて読んでしまっています。

ホンモノとニセモノとは甄別しなければなりません。

洗剤だって、混ぜれば、時として毒ガスすら発生することがあります。

第二、第三の杉野さんを輩出しないためにも、総裁のつくったニセモノは読まないに限る!

そう、教えてあげるのが、愛念の証なのだと思う次第です。

………………………………

むしろ、「讃歌」だけを読誦するのならばまだしも、それに「聖経」を混ぜるから、却って好くないと、そう申し上げているのです。

ニセモノの世界にホンモノを混在させるから、却って、“迷い”を増幅させてしまう…。

その危険性を訴えているということです。

その“迷い”の象徴が、このグロテスクな“石”に象徴的に現れているのではないのか…。

そう思っている次第です。



“古来、洋の東西を超えて、石は信仰の対象”だからと言って、どうしてそれを「生長の家」でやらないといけないのですか… (12471)
日時:2020年07月31日 (金) 11時39分
名前:破邪顕正


改めて、総裁の書いたことで重要なポイントを引いておきます。

〈古来、洋の東西を超えて、石は信仰の対象として、また信仰対象の象徴として、あるいは宗教儀式の重要な道具となってきた点は、強調しておきたい。〉

何故、これが重要なのか。

一口に、「宗教」と申しましても、原始的なもの、或いは、淫祠邪教の類いのものから、高等宗教と呼ばれるものまでいろいろとあるわけです。

そういうことに対する認識が根本的に欠如している…。

“古来、洋の東西を超えて、石は信仰の対象として”

そういうことがどうして根拠になるのですか…。

「生長の家」を名乗る以上は、常に根拠とすべきは、創始者の教えではないのですか…。

それでは、尊師はどう仰っておられるか…。

以前の投稿から紹介します。

……………………………………

「十七日の箴言 『自霊拝の哲理』と實相礼拝=vに学ぶ (12164)
日時:2020年06月13日 (土) 09時23分
名前:破邪顕正

「十六日の箴言 このようにして発生する宗教もある」には、所謂、淫祠邪教の婦人教祖の話が出てきます。

人智では量りがたい神秘なことを言うものだから、それに惹かれて、白鳩会の誌友がそちらに入信するようなこともあった…。

しかし、最終的に、その教祖は、衰弱して死んでしまう…。

このように、野心のある邪霊が神示と称して人を惑わすこともあるので、正しい宗教とは何か、しっかりと知っておかなければならないとして、「十七日の箴言」となるわけです。

ここでは、正しい最高の宗教とは何か、それが佐藤通次博士の言葉で定義づけされます。

《『宗教とは内在の位に立つ神が超越の位に立つ神と合一するところの「自覚」にほかならない。
…それは超越の位に対する故に、身構えとしては「帰依」とか帰命とかの形をとり、神を内在せしめる人は下座を行じ、自己に内在する神を上座に超越せしめて仰ぐのである。
それは自己が自己の霊を拝すること、すなわち「自霊拝」である。
よって本質観照の立場から宗教とはすべて自霊拝であると断言することが出来る』》

この定義を受けて、尊師はこう仰るのです。

《個≠ノ宿る超越者≠、自己の實相≠ニして礼拝するのが「自霊拝」であり、生長の家に於ては『實相礼拝』なのである。》

つまり、この『實相礼拝』をもって、「生長の家」が、如何に“正しい最高の宗教”であるか、証明されてもいるのです。

………………………………

尊師は、ここで、はっきりと

“この『實相礼拝』をもって、「生長の家」が、如何に“正しい最高の宗教”であるか、証明されてもいる”

そう仰っているのに、どうして、「石」を礼拝の対象とするようなことを言うのか…。

だから、中には、総裁は、何か変なものに憑かれているのではないのか、そう言う人もでてきてしまうのです…。

尊師の教えを「変えたい、消したい、無くしたい」との否定願望が強すぎるからこそ、そういう心に“魔が差す”…。

そこまで思ってしまいます…。

何か本当に怖い感じがしております。


7月29日 (水)付けブログ「石と信仰 (2)」に思う… (12476)
日時:2020年08月01日 (土) 14時23分
名前:破邪顕正

まずは、【参考文献】を見ていただきたい。

○小口偉一/堀一郎監修『宗教学辞典』(東京大学出版会、1973年刊)
○ミシェル・フイエ著/武藤剛史訳『キリスト教シンボル事典』(白水社、2006年刊)
○大林太良、伊藤清司他編『世界神話事典』(角川書店、2005年刊)
○倉野憲司校注『古事記』(岩波書店刊、1963年)

つまり、総裁は、創始者の教えには一字一句ふれることなく、これらの学者の説を参考にして自分なりの解釈をしている…。

つまり、何のことはない、「生長の家」という看板だけが必要なのであり、一旦、その総裁という立場をつかみとったら、後は自分のすきなように説いていく…。

そこのどこに“法燈継承者”としての姿勢がありましょうや…。

そこまで、尊師の教えを無視するのであれば、もはや“法燈継承者”でも何でも無い、むしろ“法燈破壊者”と呼ぶべきが至当である…。

“背教総裁”と称されても抗弁のしようがない、そう思うものであります。

前置きが長くなりました…。

本題に入ります。

関心のある方は、「石と信仰 (2)」をお読みいただくとして、“背教総裁”は、ここで、

〈日本神話には、ニニギノミコトが容姿端麗なコノハナノサクヤヒメに一目ぼれし、結婚相手として父神のオオヤマツミノミコトに所望した際のエピソードがあるが、そこには結婚生活は「美しい」とか「華やか」だけではいけないというメッせージが盛り込まれている。世界の神話に詳しい吉田敦彦氏の解説で紹介しよう〉

そう言って、木之花咲耶姫と石長比売のことについて書いています。

今、引用した箇所に

“ニニギノミコトが容姿端麗なコノハナノサクヤヒメに一目ぼれし”

とありましたが、その後にも

“オオオヤマツミは怒った”とか、実に通俗的な表現が続きます。

そして、当時は一夫一婦制ではなかったとか言って、こう書くのです。

〈人間が表面的な派手さや短期的な繁栄に目を奪われがちであることへの警告だ、と私は受け取る。また、上述した他の文化圏での「石」や「岩」のシンボリズムを考え合わせると、神や“神性”が表面的な美や短期的栄華の中にはないとする英知が暗示されていると解釈できる。〉

その書きっぷりが、如何にも、この解釈はどうだ、と言わんばかりなのです。

読んでいて、全然、心が浄まらない…。

それどころか、むしろ、何だかムカムカしてくる、腹が立ってくる…。

それもそのはず、尊師の解釈とは全然、次元が違うからです。

それでは、この箇所を、尊師はどうお説きくださっていたか…。

『理想世界』誌・昭和44年2月1日号所収「道場雑話(二)日本的思惟について」から学ぶことにいたしましょう。

《○日本民族は時間空間を超えて今≠フ一瞬そして今≠フ一点に久遠の生命≠生きることを知っていたのである。それは古事記神話に瓊々杵尊が天降られて、塩椎神の案内を受けて日向の笠沙御前に到りたもうた時に大山津見神の娘・木花之佐久夜毘売にお逢いになった。まことに美しい娘なので、瓊々杵尊は、「お前は私の妃にならないか」と仰せられた。その時、木花咲耶姫は「私一存ではご返事申し上げかねまする。父の大山津見神に申し込んで下さい」とご返事申し上げた。この風習は、現行の日本国憲法第二十四条の「婚姻は両性の合意のみに基いて成立し」とあるのとは甚だ異なるのであって、今此処に生きている「個」のいのちは、単に「個」だけのいのちではなくて、連綿として家系を貫いて連なる祖宗のいのち≠ニ一体であるとの自覚即ち「個即全」の自覚のあらわれであるのである。
 その時、姫の父の大山津見神は非常に悦んで姫の姉の石長比売も俱に貰って下さいといって種々(いろいろ)の引出物と一緒に送って来られたのであった。ところが瓊々杵尊は石長姫の容貌が甚だし醜くかったので、「姉妹(きょうだい)二人は要らない。木花咲耶姫だけで結構です」と言って木花咲耶姫のみを留めておいて、ただ一晩だけ同衾せられたのであった。その時大山津見神は次のように言っているのである。
「女二人並べて奉れるゆえは、石長姫はその名の如く岩のように頑丈な姫でありますから、これをお貰いになる天津神の御子のおん命は巌のように常堅不動(ときはかきは)にましませとお祈り申し上げたのでありますのに、木花咲耶姫だけをお貰いになって石長姫をお返しになりましたから、天神(あまつかみ)の御子のおん命は、桜花がパッと美しく咲いて散るように、久遠長久につづくことはなくなりました」

〇これは無論、象徴的神話であるが、美≠ニいうのは実相生命の顕現である。その美≠味うことが、ただの一夜であろうとも、それは久遠の実相につながるのであり、ここに今¢ヲ久遠≠生きる日本精神の表現があるのである。石長姫をお返しになったのは、いのち存(ながら)えたいために醜い生活をして我慢しているような生活は日本的生き方でない事を示されている。この神話で思い出されるのは、「敷島の大和心を人問わば、朝日に匂う山桜花」という古歌である。今¢ヲ久遠≠ネり。我らはこの日本的思惟によって今#しく潔く生きんかな。》

尊師の、この御文章を読まれて如何ですか。

後世に、どちらの解釈を残していきたい、否!残すべきだと思われますか。

“背教総裁”の方がいいという方は、どうぞ、今の教団で頑張ってください…。

いや、尊師の御文章だという方は、ぜひ、一緒に、尊師の教えを伝え残す運動にご協力いただきたいと思うものであります。


『古事記と現代の預言』を絶版にし、一般学者の説の切り貼りをもって教えを説こうということ自体、“法燈継承者”であることを自ら否定するものではないのか… (12484)
日時:2020年08月02日 (日) 16時47分
名前:破邪顕正


木之花咲耶姫と石長比売について『古事記と現代の預言』はどう説いているか(218〜220頁)。

要点を5つのポイントでご紹介します。

@『天之石位(あめのいわくら)を離れ』というのは、石は「金剛不壊」を象徴するのであり、「天」は実相世界のこと。つまり、「金剛不壊の実相の座を離れて」無常の世界に姿をあらわされたことを意味する。ここに現象の肉体は、仮の姿であって、実相は金剛不壊であることがあらわされている。「実相は金剛不壊」であるけれど、「無常の世界」と結合して、身に無常をあらわすということを、邇邇藝命と木花之佐久夜姫との御結婚の経緯において述べられている。

A鹽土大神は、実相金剛不壊の世界から現象無常の世界に顕現したまうときの導きの役をしていられる。まことに「生と死との鍵」をもち給うのであり、同時に陰陽相むすぶ縁結びの神をなしていられる。

B木花之佐久夜姫命は、「自分の一存では御返事申し上げることはできません、父の大山津見神に申して下さい」とお答えしている。これが日本民族の結婚の伝統である。

C大山は陸地であり、「見」は「身」であり「本体」という意味で、大山津見神とは「陸地の霊魂」と考えればよい。天孫が陸地の霊魂として結合することによって、久遠無窮の天皇の皇位が、現象界の約束によって、子々孫々という、子孫の継続によってその無窮を表現するようになった。

Dこれが天之石位(金剛不壊の皇位の実相)が現象無常の世界に姿をあらわし、天皇の外見は吾らとひとしく現象的存在で無常の如く見えているけれども、その実相は金剛不壊の久遠の存在であるということを示している。

以上のことから、尊師にあって“背教総裁”にないものを列挙させていただくと…。

まずは、実相と現象という観点が挙げられます。

残念ながら、“背教総裁”が指摘するのはあくまでも現象論に過ぎません。

肝心要の「実相」の把握がない、これが致命的です。

“法燈継承者”とは、取りも直さず「実相」を語るものでなければならないと思うからです。

「現象論」しか語らないと言うのであれば、潔く、“法燈継承者”の看板を卸すべきであります。

次に、「日本人の結婚観」という問題があります。

尊師は、はっきりとここで、結婚とは家と家との結婚であるとして現行憲法の問題点にまで言及されています。

しかし、“背教総裁”には、一切、そういう視点は見られません。

現行憲法を肯定する立場ですから、日本的結婚観にそぐわないなどと言うわけもありませんが…。

三番目に、ここで尊師は、金剛不壊の皇位の実相ということをお説きになっておられますが、“背教総裁”には一切、そういうことへの言及はありません。

なるほど、“背教総裁”は、一応「古事記」等の神話・神典を引用はします。

しかし、だからと言って、天照大御神のご誕生、住吉大神のお働き、神武天皇以降の歴代天皇につながるような道筋については、少しも説こうとはしません。

神話とは、端的に言えば、“ひとつ命”の世界。

今上天皇の御生命を辿れば、神武天皇、天照大御神、天之御中主神へと一つ命で繋がっていくというところに大きな意味があります。

にもかかわらず、“背教総裁”は、“造化の三神”については述べても、そのいのちがひとついのちとしてどう展開していっているのかについては、触れないのです。

それどころか、あろうことか、それを否定するも同然の「女系天皇」を容認するというのですから、結局、「古事記」神話を尊重しているというフリをしているだけ…。

“造化の三神”もまた、自分の都合のいいように利用しているだけなのです。

だから、それを祀るにしても、特段の式典はいらない、などと言うのです。

祀りへの敬虔なる思いがない…。

これでは、尊師の「古事記」解釈は消えてしまう…。

教えの神髄が後世に伝わることは無い…。

その危機感が、今回のブログ記事で更に再認識された、そう申し上げておきたいと思います。


8月 1日 (土)付けブログ記事「石と信仰 (3)」に思う… (12492)
日時:2020年08月03日 (月) 14時32分
名前:破邪顕正

今回の記事で、私が、最も注目した箇所は、これです。

〈言うまでもなく、生長の家は唯一絶対神を信仰する宗教だから、上記の(1)の意味で岩石を使用することはあり得ない(筆者註…石を“信仰対象”とする意)。しかし、(2)の観点から利用することに教義上の矛盾はないのである(筆者註…石を信仰の“媒体”とする意)。だから、2011年3月の東日本大震災を契機として、その2年後に、京都府宇治市の生長の家宇治別格本山の敷地内には、「自然災害物故者慰霊塔」が建てられた。この慰霊塔には、兵庫県で産出される安山岩の一種「生野丹波石」という自然石が使われている。また、私が勤める“森の中のオフィス”の敷地内には、そこを流れる沢に5つの橋がかかっているが、その傍らにはそれぞれの名前を記した石碑(=写真)が立っている。これらも「信仰の対象」ではなく、信仰の内容を言葉で表した「媒体」としての石の利用なのである。〉

そうですか、石を信仰の“媒体”とすることは、「教義上の矛盾はない」のですか…。

それでは、ここに言う「教義上」の教義とは、どの教義を指すのでしょうか…。

石を“媒体”としてもいいという教義は、いったい、どの本のどこに書かれているのでしょうか…。

それより何より、そもそも“媒体”に石をもってくること自体、尊師が否定なされた「偶像崇拝」に当たるのではないでしょうか…。

首を傾げていたら、口さがない友人がこう言いました。

〈総裁自身の考えが教義なんだよ。自分の中で矛盾が無いと思えば、それがそのまま通る。それが今の教団なんだよ。〉

なるほど、本当にその通りだと思います。

“造化の三神”を勧請した段階で、既に尊師の教えは完全に否定されてしまったのですから…。

それをしも押し切ることができたのは、結局、総裁の考えが、現教団では「教義」そのものだからなのでしょう。

ここまで書いてきて、有名な二出川延明・野球審判員の言葉を思い出しました。

「オレがルールブックだ」

さしずめ、“背教総裁”に言わせれば「オレが教義だ」というところでしょうか。

もうこうなったら、何でもアリ…。

石を“媒体”として、神・自然・人間の大調和を念じましょう…。

そういうことなのでしょうね。

こんな考えで、果たして「万教帰一」の教えが説き得るのでしょうか…。

皆さんはどう思われますか?



“背教総裁”はかつて安倍首相のことを「ハーメルンの笛吹き男」になぞらえたことがありましたが、その言葉、そっくりそのままお返しします… (12495)
日時:2020年08月04日 (火) 09時25分
名前:破邪顕正


表題は、2013年1月11日 (金)付けブログ記事「“笛吹き男”に見えないこと」に出てまいります。

こういう表現です。

〈私は今、安部自民党総裁が“ハーメルンの笛吹き男”の役割を演じるのではないかと、ハラハラしながら日本の動向を注視している。〉

お言葉を返すようですが、安倍首相は、常に、選挙の洗礼を浴び、また任期という縛りも受けています。

制度そのものが、絶対権力者になる道を未然に防ぐ仕組みになっているわけです。

よし、“背教総裁”が懸念するように、首相が“ハーメルンの笛吹き男”になったとしたら、それは安倍首相自身の問題でしょうか。

むしろ、その責めを負うべきは、安倍自民党政権を選んだ国民なのではないでしょうか。

何を申し上げたいか。

安倍首相を難ずる“背教総裁”の方が、よほど“ハーメルンの笛吹き男”の役割を担えるのではないのかと言いたいのです。

だって、“背教総裁”は、一旦、総裁に就いたが最後、終身、総裁でいられるわけです。

しかも、規約改正まで強行して、実質上、“総裁”という名の“独裁”体制をつくりあげたわけです。

これを知ったら、プーチンも習近平もさぞかし羨むことでしょうよ。

その絶対権力を背景にして、今度は、「オレが教義だ」と言わんばかりのことをやっているわけです。

「實相」礼拝をなくし、石や“モノ”などを拝ませて、いったい、この先、教団はどうなるのか…。

いったい、この“背教総裁”は、信徒をどこへ導いていこうとしているのか…。

で、大変、憂え心が高まり、こう言いたくなってきたという次第です。

〈私は今、“背教総裁”が“ハーメルンの笛吹き男”の役割を演じるのではないかと、ハラハラしながら“造化の三神”教団の動向を注視している。〉

予断ながら、この記事の読者のコメント欄で“背教総裁”がこう返信しています。

〈私が民主党を支持した最大の理由は、二大政党制を育てたいからです。…〉

“背教総裁”のことを「先見の明」があるとして囃し立てるのが、教団の“洗脳”手段の一つらしいようですが、「先見の明」があったら、どうしてこんなことを言うのでしょうか。

全く外れてしまっていると言うか、それどころか却って逆行しているではありませんか。

また、「二大政党制を育てたい」という表現が、おそろしく現実離れしていると言うか…、身の程知らずというか…。

“新しい文明を築こう”もそうですが、どうも誇大妄想癖があるのではありませんか。

今の教団の実力を踏まえたら、とてものこと「二大政党制を育てたい」などという表現は出てきませんよ。

何か、独裁権力を握ったために、万能感に浸っているのではないのか。

何でも自分の思い通りになる…。

それで、世の中もそうできると思い込んでいるのではないのか。

それが、実にオソロシイのです。

つまり、現実が少しも見えていないのではないのか…。

現実が見えていないのに、先が見えるわけがない…。

とにかく、信徒の皆さんには、「先見の明」という言葉に踊らされないで、まずは足下の現実をしっかと直視しましょう。

この“背教総裁”のもとで、「生長の家」が本当に発展すると思いますか?

これで「生長の家」の立教の使命が果たされると思いますか?

すべては、それを自問自答するところから始めていただきたいと心から願う次第です。


8月 3日 (月)付けのブログ記事「石と信仰 (4)」に思う… (12504)
日時:2020年08月05日 (水) 13時37分
名前:破邪顕正


“背教総裁”の「石」への思い入れは、なかなかのものであります。

シリーズ第4弾が発表されました。

その言わんとするところは…

〈「石」はもともと宗教行事と不可分の扱いを受けていたことになり、「石と信仰」の間はピッタリとつながるのである。〉

〈大体、神社や仏閣の名称自体に「石」や「岩」が多く使われてきたのである。例を挙げれば、次のようになる〉

私が注目したのは、この中に、天岩戸神社(宮崎)が紹介されていることです。

だったら、ぜひ、聖経『続 真理の吟唱』にある「天の岩戸を開く祈り」を紹介してほしかった…。

でも、それは、木に縁りて魚を求むるようなものなのでしょうね。

だって、その冒頭、こうありますから…。

《われ今、聖なる神の宝座の御前に坐し、われに尊き使命を授け給えと祈り奉る。
 ここに神われに使命を授け給えり。神は今その神名を明らかにしたまいてわれは天照大御神の御出現のみ先き祓いとして地上浄めのため、宇宙創生の根元神にまします天御中主大神より遣わされたる住吉大神なり≠ニ宣り給う。》

「住吉大神」から“造化の三神”に取り替えた“背教総裁”としては、こういうことを信徒が知るりは、「不都合の真実」以外のなにものでもありはしません…。

まるで「石」にはまったかのような“背教総裁”。

これで、「七重塔」を礼拝の対象とすることを正当化しようというのでしょうか…。

それとも、私どもが“尊師の教えに帰れ”と言っているのが気に入らなくて、その向こうを張って“古代の「石」信仰に帰れ”とでも言うのでしょうか…。

こういう話で、本当に信徒は納得するのでしょうかねえ…。


新装新版『真理』第4巻「青年篇」には「木花佐久夜毘売命」と「石長比売」のことがこう記されています… (12509)
日時:2020年08月07日 (金) 16時28分
名前:破邪顕正


表題は、“「サ」の音霊”という題のところにあります(206頁〜)。

《本居宣長の「敷島の大和心を人問わば朝日に匂う山桜花」と云う歌の朝日に輝きサワヤカに万朶の花と展開している状態が「栄える」であります。蕾の状態は、まだ凝り固まっていますけれども、「咲く」というと「サッ」と開いてしまう。これが「花咲く」という相(すがた)であります。「木花佐久夜毘売命」の「花佐久」が此の精神であります。何時までも「石長比売」の様に凝り固まって一つの事に執していないで、さらりとした木花佐久夜毘売の心、これが悟りの心境であります。》

ご存じのように、尊師は、独特の言霊の霊的解釈によって「古事記」を紐解いていかれます。

それを高く評価したのが、故・渡部昇一先生で、その著『言語と民族の起源について』にはこうあります。

〈谷口雅春氏は日本語の言霊を説き、それにもとづいて古事記の新解釈を下している。その正否はここで立ち入って論じないが、今の大学の言語学の大系内には占める場所がないであろう。しかし現在の体系にすんなりはいりこまないからといって捨てるのは危険である。われわれの中には具体的な日本語の起源を知っている人などはいないのだし、また古事記を伝承していた頃の日本人は案外谷口氏と同質の言霊説を信じていた可能性もあるのだから、その主張を一概に否定しないで謙遜に耳を傾けるべきであろう。〉

これを紹介したのは他でもありません。

“背教総裁”が一貫して、尊師の「古事記の新解釈」を無視しているからです。

『古事記と現代の預言』を絶版にするということは、まさしくそれを如実に物語っています。

その代わりに、“背教総裁”は学者の説ばかりを使いますが、それは取りも直さず、渡部先生の言葉を借りれば、尊師のそれは「現在の体系にすんなりはいりこまない」と見ているが故と判断します。

“法燈”を継承したと言っている人が、その尊師の言霊論を一貫して無視し続ける…。

本当に、それでいいのでしょうか。

“法燈継承者”と言い張るのであれば、渡部先生の指摘される通り「その主張を一概に否定しないで謙遜に耳を傾けるべきであろう」と私も思います。

皆さんはどう思われますか…。




8月 7日 (金)付けブログ記事「縄文時代は長かった」に思う… (12529)
日時:2020年08月12日 (水) 14時25分
名前:破邪顕正


私は、総裁のブログ記事を拝見するとき、コメント欄によく目がいきます。

総裁ファンはどんな言葉で、これをヨイショするのかな…。

そこが実に楽しみでもあるからです。

ところが、残念ながら、今の段階では、コメントは0です。

どういう言葉でヨイショしていいのか、戸惑っているのでしょうか、ちょっと気になります。

総裁にしてみれば、折角、書いているのに、それに反応が少しもないというのは、甚だ遺憾である…。

ということで、私が敢えて、今回の記事についてのコメントを書いてみようと思います。

よく、その人の思いは、「タイトル」に出ると言われます。

何故、総裁は、こういうタイトルにしたのか…。

「縄文時代は長かった」

この言葉で思い出したのが、学生時代に出会った、ヘルメット学生の言い放ったこの言葉でした。

〈天皇制が2,000年も続いているというけど、天皇制がなかった縄文時代はもっと長かった。たかだか2,000年ではないか。たいしたことなんかない〉

もしかしたら、総裁の潜在意識裡に、このヘルメット学生と同じ心情が働いてはいまいか…。

もう一つ、気になったのが、結論部分の、この文章です。

〈生長の家は日時計主義だから、プラス面にも注目すると、また別の設問が浮かび上がる。それは、「弥生時代から現代に至る時の流れの5倍もの長きにわたって続いた縄文文化は、現代人と全く無関係なのか?」ということだ。言い直すと、「縄文人の遺伝子の一部を現代人が共有している可能性はないか?」ということだ。現代の遺伝学の発見によると、ヒトとチンパンジーなどの類人猿との遺伝子は、95%以上が共通しているというのだから、私は、その可能性は十分あると考える。とすると、私たちは今、現代社会が生んだ深刻な問題に対処するに際し、縄文人の生き方から学ぶべきことは多くあるのではないだろうか。そんな問題意識が、今回の「石上げ」の発想と結びついているのである。〉

「95%以上が共通している」

だから何なのでしょう…。

大事なのは、残りの数%の違いではないのか…。

つまり、人と動物との違いにこそ、本来は、目を留めるべきではないの…。

それで思い出したのが「生長の家ジュニア友の会の歌」です。

実は、一昨日の10日、「谷口雅春先生を学ぶ会」では“小学生オンラインセミナー”を開催しました。

そこで、この聖歌を久しぶりに耳にして、改めてこの聖歌の素晴らしさに感動を新たにいたした次第です。

♪よろず生物 神やどす
禽獣さえも 徳を具す
されど秀でて 神の子≠フ
神の世嗣の 全徳を…♪

そうなのです、禽獣も神様からの徳をいただいている、しかし人間だけが、神様から全徳≠授かっている…。

それこそが大事なことなのではないでしょうか。

それについて、『理想世界』誌・昭和49年6月号はこう説いています。

《すべての生物は神≠ネる生命の大本源≠ゥら生まれたのであるから、皆神の子≠ニいってもよいのである。…それなのに特に人間のみに、神の子≠ニいう尊称を専らにせしめるかというと、人間は神のもち給う全徳(又はアイディア)を内に包蔵するからであり、他の生物は神の一徳又は数徳(神のもちたまうアイディアの極一部分)を包蔵し且つ表現しているに過ぎないからである。》

尊師のこんなすばらしい教えがあるというのに、どうして、総裁は、それを無視し続け、「縄文人の生き方から学ぶべきことは多くある」と言うのでしょうか。

縄文人に学ぶのも結構ですが、法燈継承者なのですから、それより、もっと尊師の教えから学ぶべきことが沢山あると私は思うのですがね…。

皆さんは、どう思われますか。




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