8月 7日 (金)付けブログ記事「縄文時代は長かった」に思う… (12529) |
- 日時:2020年08月12日 (水) 14時25分
名前:破邪顕正
私は、総裁のブログ記事を拝見するとき、コメント欄によく目がいきます。
総裁ファンはどんな言葉で、これをヨイショするのかな…。
そこが実に楽しみでもあるからです。
ところが、残念ながら、今の段階では、コメントは0です。
どういう言葉でヨイショしていいのか、戸惑っているのでしょうか、ちょっと気になります。
総裁にしてみれば、折角、書いているのに、それに反応が少しもないというのは、甚だ遺憾である…。
ということで、私が敢えて、今回の記事についてのコメントを書いてみようと思います。
よく、その人の思いは、「タイトル」に出ると言われます。
何故、総裁は、こういうタイトルにしたのか…。
「縄文時代は長かった」
この言葉で思い出したのが、学生時代に出会った、ヘルメット学生の言い放ったこの言葉でした。
〈天皇制が2,000年も続いているというけど、天皇制がなかった縄文時代はもっと長かった。たかだか2,000年ではないか。たいしたことなんかない〉
もしかしたら、総裁の潜在意識裡に、このヘルメット学生と同じ心情が働いてはいまいか…。
もう一つ、気になったのが、結論部分の、この文章です。
〈生長の家は日時計主義だから、プラス面にも注目すると、また別の設問が浮かび上がる。それは、「弥生時代から現代に至る時の流れの5倍もの長きにわたって続いた縄文文化は、現代人と全く無関係なのか?」ということだ。言い直すと、「縄文人の遺伝子の一部を現代人が共有している可能性はないか?」ということだ。現代の遺伝学の発見によると、ヒトとチンパンジーなどの類人猿との遺伝子は、95%以上が共通しているというのだから、私は、その可能性は十分あると考える。とすると、私たちは今、現代社会が生んだ深刻な問題に対処するに際し、縄文人の生き方から学ぶべきことは多くあるのではないだろうか。そんな問題意識が、今回の「石上げ」の発想と結びついているのである。〉
「95%以上が共通している」
だから何なのでしょう…。
大事なのは、残りの数%の違いではないのか…。
つまり、人と動物との違いにこそ、本来は、目を留めるべきではないの…。
それで思い出したのが「生長の家ジュニア友の会の歌」です。
実は、一昨日の10日、「谷口雅春先生を学ぶ会」では“小学生オンラインセミナー”を開催しました。
そこで、この聖歌を久しぶりに耳にして、改めてこの聖歌の素晴らしさに感動を新たにいたした次第です。
♪よろず生物 神やどす 禽獣さえも 徳を具す されど秀でて 神の子≠フ 神の世嗣の 全徳を…♪
そうなのです、禽獣も神様からの徳をいただいている、しかし人間だけが、神様から全徳≠授かっている…。
それこそが大事なことなのではないでしょうか。
それについて、『理想世界』誌・昭和49年6月号はこう説いています。
《すべての生物は神≠ネる生命の大本源≠ゥら生まれたのであるから、皆神の子≠ニいってもよいのである。…それなのに特に人間のみに、神の子≠ニいう尊称を専らにせしめるかというと、人間は神のもち給う全徳(又はアイディア)を内に包蔵するからであり、他の生物は神の一徳又は数徳(神のもちたまうアイディアの極一部分)を包蔵し且つ表現しているに過ぎないからである。》
尊師のこんなすばらしい教えがあるというのに、どうして、総裁は、それを無視し続け、「縄文人の生き方から学ぶべきことは多くある」と言うのでしょうか。
縄文人に学ぶのも結構ですが、法燈継承者なのですから、それより、もっと尊師の教えから学ぶべきことが沢山あると私は思うのですがね…。
皆さんは、どう思われますか。
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