『“新しい文明”を築こう』(上巻)に掲載されなかった「神示」の中に、「報恩行に就ての神示」(「自他一体の神示」)があったことの意味を考える… (12415) |
- 日時:2020年07月25日 (土) 16時01分
名前:破邪顕正
ご存じのように、「神示」は合わせて33あります。
そのうち(上巻)には25の「神示」が掲載されています。
以下の8つの「神示」は、掲載されていません。
@自他一体の神示 A梅の花の神示 B實相金剛身の神示 C久遠天上理想国実現の神示 D終戦後の神示 E日本の實相顕現の神示 F君民同治の神示 G大和の国の神示
何故、上の8つを(上巻)から外したのか。
これについて、(上巻)はこう説明しています(5頁)。
〈下巻は…生長の家が戦争と平和の問題を歴史的にどう捉えてきたかを描くために、日本の戦争について示された神示とその解説を収録する。〉
つまり、(上巻)に掲載されなかった「神示」については、改めて(下巻)で解説を含めて掲載する…というわけです。
私が気になったのは、どうして、この中に「報恩行に就ての神示」(「自他一体の神示」)が含まれているのか…。
なお、私が敢えて「報恩行に就ての神示」と紹介したのは、縮刷豪華版『生命の實相』(水の巻)に、そう出ているからであります。
実際、この「神示」を拝読させていただきますと、「報恩行に就ての神示」とはまさに言い得て妙、ぴったりとあてはまるような思いがいたします。
本題に返って、それでは、どうして、この「神示」が外されたのか。
まず、思ったのは、この「神示」の中に、『生命の實相』が出てくるのが気に入らなかったからではないのか…。
《『生命の實相』を読んで自分だけが真理を悟ってそれで善いと思うものはまだ生命の實相を悟ったものではない。》
しかし、それが理由だったら、「聲字即實相の神示」もまた不適切ということになってしまいます。
《吾が第一の神殿は既に成れり。名付けて『生命の實相』と云う。…吾れは道(ことば)であるから、吾が道を語るところに吾が神殿は築かれる。吾が道を載せた『生命の實相』こそ吾が神殿である。》
やはり、そう考えると、この「神示」が、所謂“戦争と平和の問題”に関わっているからというのが最も説得力があるように思います。
実際、こうあるからです。
《今度の戦いは国民の魂の質から言えば知恩と忘恩との戦い、『結ぶ』働きと、バラバラに分離する働きの戦いである。》
この箇所について、尊師はどんな解説をなさっていられるか。
『到彼岸の神示』から学びます。
《これは大東亜戦争前からズッと続いて今も現に継続しているところの、天皇や、国家や、祖先や両親に対する恩を知る者ーー一言にして言えば愛国者ーーと天皇の恩も、国家の恩も、両親の恩も忘れて、誰が日本の国を統治しても、個人が幸福になればよいではないかという所謂「赤い思想」の者との戦いのことを指していられるのであります。「国家」という綜合されて有機的に一体となっている「生命体」の尊厳をみとめず、「人民」という個々別々のものを主権者とする思想が、国家を「バラバラに分離する働き」なのであります。皇恩、国恩、父母の恩等に反対するマルクス主義の攻勢とそれに対抗する日本国内の思想戦争は既に大正年間に始まっていた…》(31頁)
おそらく、“サヨク思想”の総裁としては、尊師のこういう解説が実に気に入らなかった…。
だって、総裁にとって、大東亜戦争とは“侵略戦争”以外の何ものでもないわけです。
それをしも、尊師は「赤い思想」との思想戦であると意義づけられるわけです。
総裁にとっては、これはとても譲ることのできない“歴史観”の違いであったでしょう…。
この「神示」については、改めて、きちんと解説をしておく必要がある…。
だから、総裁は、敢えて、これを(下巻)に回すことにしたのではないのか…。
私は、そう考えている次第です。
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