《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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谷口雅春先生に帰りましょう・伝統板・第二
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“「師は壇上に泣き給う」と語り伝えられ”たという話を伺って、今、改めて思うこと… (12409)
日時:2020年07月23日 (木) 15時55分
名前:破邪顕正


『大和の国日本』にこういうご文章があります。

《妻は良人を拜み、良人は妻を拜み、父は母を拜み、母は父を拜む。拜むと云うのはその字形にあらわれておりますように、手と手とを一つに結び合うことであります。》(184頁)

このご文章が目に留まったのは、『谷口雅春先生のご日常』(栗原得二・著)の中に「かくの如く成り得たのは」と題して、こういう文章があるからです(28頁)

〈先生は常に、
「私が現在かくの如き生活をなし得ているのは、私の先祖の徳と、その導きと、家内の内助の功のお蔭であります」
とお話なさるのであります。
 お山にいらっしゃる時には、特に先祖霊に対して、敬虔な態度をおとりになられるのであります。とにかく、先祖あって、自分が生まれて来たのであるという御自覚の、教えの手本となるべき生活態度をお示しになっていられるのでございましょう。
 奥様を讃え、感謝されていられるのも、お山に伺っておりますと、目のあたり拝見することであります。〉

ここを読んで思い出したのが『ざっくばらん』(東山半之介・著)にあるこの文章です(166〜167頁)。

昭和25年5月3日、全国青年大会が開かれました。

席上、谷口輝子先生が、こういうお話をされます。

「いま私は娘恵美子にも、先生を日本一の父だ、夫だと教えております。」

それを受けて、尊師が演壇に立たれます。

そして、こう仰ったというのです。

〈「今、私は家内から、日本一の夫であり、父であるとか何とか言われましたが…私はそのような資格あるものではないので…」
 と絶句して嗚咽され、白いハンカチで涙をぬぐわれつつ、涙声で−
「ほんとう言えば、こうした壇上に立って多くの人々に向かって、教えを説く資格が自分にあるとみずから信じ得る人がはたして世にありましょうか…」
 と嗚咽がつづく。
 満場寂として静まり返った瞬間、たちまちあちらこちらから咽び泣きの声が、すすり上げる声が起こる…
「師は壇上に泣き給う」と語り伝えられて、全国の本部講師と地方講師は、粛然とその言動を慎むに至った。〉

栗原得二先生といい、東山半之介先生といい、間近に尊師を拝して、心から尊敬し、仰ぎ、慕い、人生をこの光明化運動に献げられました。

そういう先人を通して、改めて、尊師の素晴らしさを今に実感する…。

それが今、とても大事なことのように思うのです。

“生み出されしもの、生み出ししものの名を高からしめる”という表現があります。

イエスさまが2,000年たった今でも神の子として仰がれるのは、そのイエスさまを讃え続け、その素晴らしさを後世にまで語り継いできた弟子達がいたればこそです。

お釈迦さまにしても然り。

お弟子さんが素晴らしかったからこそ、その師の御名が永遠に遺っていくのです。

そう考えてみれば、尊師・谷口雅春先生の御名を高からしめ得るか、否か…。

それは一にかかって私たち次第である、そう言って決して過言ではありません。

先人たちの、このご尽力、ご努力を決して無にしてはならない…。

改めて、そう誓わせていただいた次第です。


『ざっくばらん』を読んで感動した話を。「皇軍必勝」の短冊一万枚、ご揮毫なされたときのことを尊師はこう語られた… (12412)
日時:2020年07月24日 (金) 17時05分
名前:破邪顕正


“雉も鳴かずば撃たれまいに”という言葉があります。

こういう掲示板に投稿すると、いろんなことを言われます。

この投稿者は、とにかくケチをつけたくてたまらないのか…。

そんな思いに駆られるときがあります。

そういうとき、ふと、冒頭に掲げた言葉が脳裏をよぎります…。

投稿しなければ何も言われないですむ、投稿しないに限る…。

しかし、それではいけない。

尊師への報恩感謝の思いが幾ばくかでもあるのであれば、このまま黙って看過するわけにはいかない…。

考えてみればケチをつけられるのもまた光栄なこと…。

無視しえないからこそ言ってくるわけだから…。

そう思い直して、気持ちを切り替え、言うべきことは言おう…。

どうして、こういうことを書いたかと言いますと、いつの世にも心ない人という者はいるものだと思ったからに他なりません。

大東亜戦争中、尊師は「皇軍必勝」の短冊を一万枚、ご揮毫なさいました。

東山先生は、その中の一枚を終始肌身放さず、ご神符のようにして大事にされていました。

戦塵の中、九死に一生を得ることができたのも、このご神符のおかげだと…。

そのご神符について、心なき人がこう言ったというのです。

「谷口先生の皇軍必勝≠フ予言もあたりませんでしたなあ」

それに対して、尊師がどう仰られたか。

それをここに引くことにいたします。

〈「皇軍必勝≠フ一万枚揮毫は、決して予言ではありません。僕の祖国日本への大悲願でした。神にすがりつく、せめてもの最後の悲願なのでした」
 と、切々声涙共にくだる講演中の御一言であった…。〉(『前掲書』77頁)

思わず、私もこの箇所を読んでいて、目頭が熱くなりました。

尊師のこの祖国を思う切々たるお心に感動して、私もまたこの人生を日本国実相顕現運動に献げようと決意したのだ…。

この尊師の御心を後世に伝え遺さないのでは、尊師に対して申し訳が立たない…。

今、何よりも大事なことは、その尊師への報恩感謝の思いなのだと…。

それがそのまま生き方をも決するのだと…。

この思いを今後とも貫いてまいりたいと思っております。



東山半之介先生の想い出 (12417)
日時:2020年07月25日 (土) 23時29分
名前:コスモス

 東山先生とは、同じ本部の5階で仕事をしておりましたので、特に個人的に色々お話した訳ではありませんが、博学でいらしたので、谷口雅春先生の御原稿などで判らない漢字があると、教えて頂きました。

 またユーモアのある先生でもありました。色々な場面が思い出されますが、『ざっくばらん』は是非読みたい本ですが、未だに手に出来ないでおります。

 戦争にまつわるエピソードなどを伺った事もありました。今は懐かしい想い出ですが、主人も本部の講演会で、東山先生のお話を伺った事もありました。

 懐かしいままに書かせて頂きました。有難うございます。


『ざっくばらん』にはこんな微笑ましい話も… (12421)
日時:2020年07月26日 (日) 14時21分
名前:破邪顕正


「コスモス」さんは、東山先生とご一緒だったことがあるのですね。

「ユーモアのある先生でもありました」とありましたが、それは、『ざっくばらん』を読ませていただいて、私も痛感したことでもあります。

まず冒頭の「はしがきに代えて」からして、なかなかのものです。

その中に「“はじかき”の名文」とあったのには思わず笑ってしまいました。

「銘酒甘露の法雨=vと題するところもいいですね(『前掲書』158頁)。

小豆島で尊師の講演会が終了して夕食会となったときのこと。

東山先生が尊師に伺った…。

「甘露の法雨≠一本だけお許しを…」

すると尊師は

「甘露の法雨?結構ですよ。食前ですか食後ですか」

で、困った東山先生は、盃を傾ける仕草をされて

「…こういただきます甘露の法雨で」

すると尊師がこう仰る…。

「…甘露の法雨≠ニいう酒ができたかね」

「いいえ、そんな銘酒はありません。誌友連中は般若湯≠もじりましてそう申すので」

何だか、東山先生の困惑した顔が目に浮かぶようです…。

それに対する尊師の回答がまたいいのです。

「ほほう、誌友連中が言うんじゃなく、君がいうのだろう。そりゃあ君、著作権侵害だよ」

で、尊師がこう仰って、甘露の法雨≠食膳にのせることをお許しになられた…。

「まあ、いいでしょう。ただし、私に盃を強いちゃいかんよ」

読んでいて、何と微笑ましい光景でありましょうか…。

尊師にみんながついていった気持ちが本当に分かるような気がいたします。


こんな事もありました (12424)
日時:2020年07月26日 (日) 16時04分
名前:コスモス


 破邪顕正さま 有難うございます。

 一つ思い出したのは、ある時、東山先生と私と二人で本部のエレベーターに乗りました。何階から乗ったのか忘れましたが、先生がとぼけた声で、思いのほか速かったのでしょう。

「これじゃあキスをする暇もないわね」と言われて、私はどうしたらいいのか、戸惑いながら笑った事を思い出します。

 おっしゃる通り、

 《何と微笑ましい光景でありましょうか…。
 尊師にみんながついていった気持ちが本当に分かるような気がいたします。》


 本当に温かい生長の家本部でありました。昭和40年代の事です。




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