“新バージョン”として発表された「四無量心を行ずる神想観」が、(中巻)では、そのまま「四無量心を行ずる神想観」として掲載されています。尊師に天降ったそれと比較してみることが大事です… (12414) |
- 日時:2020年07月25日 (土) 12時17分
名前:破邪顕正
表題の“新バージョン”について、私はこれを受け付けない、ものすごい“違和感”があって、以前、こういう投稿をしています。
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現総裁が作った「四無量心を行ずる神想観」“新バージョン”の違和感の正体とは?! (7071) 日時:2017年07月20日 (木) 09時42分 名前:破邪顕正
「大日本神国観」を実修しない代わりに、教団内で今、幅をきかしているのが、表題の“新バージョン”であります。
《わが心、神の無限の愛、仏の四無量心と一体にして、虚空に広がり宇宙に満ち、一切の衆生をみそなわして、その苦しみを除き、悩みを和らげ、楽を与え、喜びを与えんと欲するのである。》
それが“新バージョン”では、こうなります。
《わが心、神の無限の愛、仏の四無量心と一体にして、さらに虚空に広がり宇宙に満ち、地球のすべての生命(せいめい)と鉱物の一切を見そなわして、その苦しみを除き、楽を与え、多様性を護り、喜びを与えんと欲するのである。》
つまり、一切の衆生をみそなわして≠フところを地球のすべての生命(せいめい)と鉱物の一切を見そなわして≠ノ替え、悩みを和らげ≠とり、その代わりに多様性を護り≠入れているのです。
前々から、この“新バージョン”には違和感があって、ずっと馴染めないでいたのですが、尊師のこのご文章を拝読させていただいて、ようやく、その違和感の正体がわかりました。
まずは、そのご文章をご紹介します。
出典は、『理想世界』誌・昭和37年12月号です。
《人間は神の最高実現として、宇宙の一切の要素−鉱物的なるもの、植物的なるもの、動物的なるもの−をことごとく内に内包しながら、それ以上に超出するところの一層高次なるものを発現せしめなければならないのである。…
それを発現せしめ得ず、発揮し得ない限りに於いて、彼は、たとい人間の形をしていても、まだ単に鉱物であるにとどまり、植物であるにとどまり、動物であるにとどまるのである。…
では、如何にして諸君は、鉱物や、植物や、動物の域を超えて、人間の高さまで高昇し得るであろうか。
それは自己の内に宿る「神」を発見しなければならない。
発見するだけでは足りないのである。
「神」を実践しなければならないのである。
「神」を実践したときにのみ、人間が動物の域を超えて「本当の人間」になるのである。》
つまり、私の違和感とは、“新バージョン”には、「鉱物や、植物や、動物の域を超えて、人間の高さまで高昇」して「一層高次なるものを発現せしめなければならない」という精神が実に希薄であるということにあったのです。
希薄どころか、現総裁は、「人間そのもの」をどこか“悪”と捉えている、現象人間のことばかりを書いている、そんな気配が実に濃厚なのです。
因みに、この“新バージョン”を発表した際のブログ記事を「唐松模様」から一部、引いておきます。
《2010年1月 1日
四無量心を現すために
(略)
人間が自然界に接する時の心に置き換えてみると、どうなるでしょうか?
それは「自然界を人間の意のままに利用しようとは思わない」ということです。
つまり、人間が自然界を征服して、自分だけが繁栄しようという心を捨てよということです。
これは、近代の産業革命以降の人間の考え方とは大いに異なるものです。
しかし反面、私たちはペットや家畜の飼育や農業を通して、そういう自然との自他一体の心を経験している。
だから、「できない」のではなく「しない」のです。
私たちのような宗教運動は、そういう“心の持ち方”を広めていくところに重要な意味があるのではないでしょうか。 そこで今日は、環境運動ではできない、宗教にしかできない方法で、この高度な自他一体感の醸成と拡大とを行うことを皆さんに提案したい。
それは「神想観」を行うということです。
ご存じのとおり、生長の家には「四無量心を行ずる神想観」というのがあります。
これの“新バージョン”を作りましたので、ここにご紹介いたします。》
つまり、総裁は、ここでも、「人間が自然界を征服して、自分だけが繁栄しようという心を捨てよ」との観点から、あくまでも“現象人間”にこだわり、「自然界を征服して」いる人間はいけないとの思いを露わにして、この“新バージョン”をつくっているのです。
しかし、そもそも、「神想観」とは、「実相観」であって、「五官の世界を去る」ところから始まるのではないでしょうか。
ところが、総裁は、その中に、現象人間≠想起させる文言を入れ込むのです。
これでは、人間は神の最高実現≠ナあるという自覚は生まれ得ないように私は思います。
違和感の正体とは、まさにそれだったのだと改めて思い知らされた次第です。 ………………………………
「実相独在」
これが尊師のお悟りであります。
にもかかわらず、「実相」と「現象」を混在させる…。
こんな勝手な加筆が許されるのか。
『「生長の家」教団の30年史』は、この“新バージョン”のことをこう記しています(81頁)。
〈平成22年 新年祝賀式で、自分勝手な「四無量心を行ずる神想観」を作成し、信徒に強要〉
とにかく、この(中巻)の決定的な問題は、どこをどう変えたのか、どう加筆したのかが見えないことにあります。
『聖光録』と比較検討して、今回の『“新しい文明”を築こう』を検証することは、後世の信徒のためにも、どうしてもやっておかなくてはならない重大なことなのだと改めて痛感した次第です。
“背教総裁”は、明らかに尊師の教えを歪め、眩まそうとする意図をもって、この本を発刊したのだと思いますから…。
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