《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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『“新しい文明”を築こう』(中巻)に“加筆”されたところから、“造化の三神”教団の本質が見えてくる… (12395)
日時:2020年07月21日 (火) 15時30分
名前:破邪顕正


『谷口雅春先生のご日常』の中に「冥福を祈念す」と題して、こういう文章があります(84頁)。

〈先生はお泊りになった家の仏壇や祖霊の祭壇が目につくと御先祖霊に対して、深い深い祈りをなされるのであります。毎日引続きの講演で喉が痛んでいらっしゃるときには誦経はなさいませんが、幸い前日が旅行日で講演がないので、喉がくたびれていないときには聖経『甘露の法雨』を霊前で読誦なされます。〉

ご先祖様をかくも大切になされる…。

これが尊師であります。

こういうお姿を通して、先祖供養の大切さを、尊師御自らお示しになっておられるのだと拝します。

それに対して、(中巻)はどう表現しているか?

「聖経または讃歌の読誦」と題してこうあります(251頁)。

〈「唯今、これより生長の家の『○○○○』という聖経(讃歌)を読みます。この聖経(讃歌)はあなたが先祖代々伝承して来られた××教の教えの真理を、わかり易く現代語に表現したものですから、心を集中してお聴き頂き悟りを開き、仏の境涯に達し給え。今後は毎日この時間に読誦いたします」〉

もちろん、これは先祖供養祭にて、「聖経読誦の前に唱える言葉」として知られているものです。

あくまでも、これは「聖経」を読誦するに際しての、それを大前提にしての話であったはずなのです。

ところが、この中に、しれっとして(讃歌)を入れているのです。

つまり、“造化の三神”教団では、「讃歌」で先祖供養することが、これではっきりと示されたわけです。

それより何より、ここで私が驚いたのは、いつしか「讃歌」は「聖経」と同等の扱いに祭り上げられ、しかも、この「讃歌」を聞けば、ご先祖さまは“悟りを開き、仏の境涯に達し給”うことができるとまで謳っていることなのです。

「讃歌」が登場したときの、あの“これは「聖経」に取って替わるものではありません”と言う話は、いったい、どこに消えて行ってしまったのでしょうか。

あれもまた“ウソ”だったということですか…。

再度、申し上げます。

「讃歌」を聞けば、ご先祖さまが“悟りを開き、仏の境涯に達し給”うと言い切れるこの自信…。

いやはや、そこまでの自信があるのであれば、もはや「聖経」はなくてもいいのでは…。

「讃歌」だけで充分ではないでしょうか…。

この「加筆」が“造化の三神”教団の自信と見るか…。

それとも“過失”と見るか…。

それは、これで「先祖供養」に取り組まれる信徒の皆さんご自身が判断されることでありましょう。



“新バージョン”として発表された「四無量心を行ずる神想観」が、(中巻)では、そのまま「四無量心を行ずる神想観」として掲載されています。尊師に天降ったそれと比較してみることが大事です… (12414)
日時:2020年07月25日 (土) 12時17分
名前:破邪顕正


表題の“新バージョン”について、私はこれを受け付けない、ものすごい“違和感”があって、以前、こういう投稿をしています。

………………………………

現総裁が作った「四無量心を行ずる神想観」“新バージョン”の違和感の正体とは?! (7071)
日時:2017年07月20日 (木) 09時42分
名前:破邪顕正

「大日本神国観」を実修しない代わりに、教団内で今、幅をきかしているのが、表題の“新バージョン”であります。

《わが心、神の無限の愛、仏の四無量心と一体にして、虚空に広がり宇宙に満ち、一切の衆生をみそなわして、その苦しみを除き、悩みを和らげ、楽を与え、喜びを与えんと欲するのである。》

それが“新バージョン”では、こうなります。

《わが心、神の無限の愛、仏の四無量心と一体にして、さらに虚空に広がり宇宙に満ち、地球のすべての生命(せいめい)と鉱物の一切を見そなわして、その苦しみを除き、楽を与え、多様性を護り、喜びを与えんと欲するのである。》

つまり、一切の衆生をみそなわして≠フところを地球のすべての生命(せいめい)と鉱物の一切を見そなわして≠ノ替え、悩みを和らげ≠とり、その代わりに多様性を護り≠入れているのです。

前々から、この“新バージョン”には違和感があって、ずっと馴染めないでいたのですが、尊師のこのご文章を拝読させていただいて、ようやく、その違和感の正体がわかりました。

まずは、そのご文章をご紹介します。

出典は、『理想世界』誌・昭和37年12月号です。

《人間は神の最高実現として、宇宙の一切の要素−鉱物的なるもの、植物的なるもの、動物的なるもの−をことごとく内に内包しながら、それ以上に超出するところの一層高次なるものを発現せしめなければならないのである。…

それを発現せしめ得ず、発揮し得ない限りに於いて、彼は、たとい人間の形をしていても、まだ単に鉱物であるにとどまり、植物であるにとどまり、動物であるにとどまるのである。…

では、如何にして諸君は、鉱物や、植物や、動物の域を超えて、人間の高さまで高昇し得るであろうか。

それは自己の内に宿る「神」を発見しなければならない。

発見するだけでは足りないのである。

「神」を実践しなければならないのである。

「神」を実践したときにのみ、人間が動物の域を超えて「本当の人間」になるのである。》

つまり、私の違和感とは、“新バージョン”には、「鉱物や、植物や、動物の域を超えて、人間の高さまで高昇」して「一層高次なるものを発現せしめなければならない」という精神が実に希薄であるということにあったのです。

希薄どころか、現総裁は、「人間そのもの」をどこか“悪”と捉えている、現象人間のことばかりを書いている、そんな気配が実に濃厚なのです。

因みに、この“新バージョン”を発表した際のブログ記事を「唐松模様」から一部、引いておきます。

《2010年1月 1日

四無量心を現すために

(略)

人間が自然界に接する時の心に置き換えてみると、どうなるでしょうか?

それは「自然界を人間の意のままに利用しようとは思わない」ということです。

つまり、人間が自然界を征服して、自分だけが繁栄しようという心を捨てよということです。

これは、近代の産業革命以降の人間の考え方とは大いに異なるものです。

しかし反面、私たちはペットや家畜の飼育や農業を通して、そういう自然との自他一体の心を経験している。

だから、「できない」のではなく「しない」のです。

私たちのような宗教運動は、そういう“心の持ち方”を広めていくところに重要な意味があるのではないでしょうか。
 
そこで今日は、環境運動ではできない、宗教にしかできない方法で、この高度な自他一体感の醸成と拡大とを行うことを皆さんに提案したい。

それは「神想観」を行うということです。

ご存じのとおり、生長の家には「四無量心を行ずる神想観」というのがあります。

これの“新バージョン”を作りましたので、ここにご紹介いたします。》

つまり、総裁は、ここでも、「人間が自然界を征服して、自分だけが繁栄しようという心を捨てよ」との観点から、あくまでも“現象人間”にこだわり、「自然界を征服して」いる人間はいけないとの思いを露わにして、この“新バージョン”をつくっているのです。

しかし、そもそも、「神想観」とは、「実相観」であって、「五官の世界を去る」ところから始まるのではないでしょうか。

ところが、総裁は、その中に、現象人間≠想起させる文言を入れ込むのです。

これでは、人間は神の最高実現≠ナあるという自覚は生まれ得ないように私は思います。

違和感の正体とは、まさにそれだったのだと改めて思い知らされた次第です。
 
………………………………

「実相独在」

これが尊師のお悟りであります。

にもかかわらず、「実相」と「現象」を混在させる…。

こんな勝手な加筆が許されるのか。

『「生長の家」教団の30年史』は、この“新バージョン”のことをこう記しています(81頁)。

〈平成22年 新年祝賀式で、自分勝手な「四無量心を行ずる神想観」を作成し、信徒に強要〉

とにかく、この(中巻)の決定的な問題は、どこをどう変えたのか、どう加筆したのかが見えないことにあります。

『聖光録』と比較検討して、今回の『“新しい文明”を築こう』を検証することは、後世の信徒のためにも、どうしてもやっておかなくてはならない重大なことなのだと改めて痛感した次第です。

“背教総裁”は、明らかに尊師の教えを歪め、眩まそうとする意図をもって、この本を発刊したのだと思いますから…。


「讃歌」「四無量心を行ずる神想観」に続いて“加筆”問題の第3弾は「浄心行」について取り上げます… (12420)
日時:2020年07月26日 (日) 13時34分
名前:破邪顕正

(中巻)に「浄心行実修法」というのが掲載されています(222頁〜)。

今後、“造化の三神”教団では、これにのっとって「浄心行」が執り行われることは間違いありません。

その中に「記載上の心得」が記されています。

ここに、どんなことが“加筆”されているか。

〈「懺悔の神示」には「世の人々よ、悪を包み隠すことなかれ。悪を包み隠すは、なお悪に執着せるがためなり」と書いてあるが、この悪≠フ中には「肉食」の習慣も含まれる。〉

こうして、「肉食」したことの罪≠懺悔するように誘導され、その意義がこう記されるのです。

〈肉食から離れる決意は、温暖化抑制の力となると共に、悪因悪果の業から抜け出す尊く浄い心の導入である。〉

これは、浄心用紙に記載する懺悔文の話ですから、「肉食」のことの懺悔など書きたくないという人は、この懺悔文はご存じのように、だれも見ることはないわけですから、書かないで済むということになります。

問題は、先導者による「祈りの言葉」なのです。

これは、否が応でも、必然的に耳に入ってこざるをえません。

果たして、どんなことが“加筆”されているか(『前掲書』227頁)。

〈また、人間以外の動植物、菌類に対しては、同じ生命の星£n球を共有する仲間であるこを忘れ、劣悪な環境で飼育し、また残虐な方法で殺し、あるいはそれらを他人にさせることで自らの良心の呵責から逃れる一方、肉食や動物虐待を顧みない生き方を続け、植物や菌類に対しても、不要の虐待や生物多様性を損なう行為を無頓着に行うなど、悪しき習慣を重ねてまいりました。…〉

正直、これを抜き書きしながら、嫌な気分になってまいりました。

おそらく、先導者も、聞いている参加者も、同様の気分に襲われるのではないでしょうか。

誤解を恐れずに言わせていただけば、「現象人間」を責め立てる、裁く心が実に旺盛です。

「現象人間」の“悪”を暴き立てて、それに嫌悪感を抱かせたい…。

そういう思いが蠢いているように感じられてなりません。

これでは「浄心行」というよりかは、人間嫌悪=u増進行」ではないかとすら思ってしまいます。

ここまで書いて来て、ハタと思い出したことがあります。

その方は、長年、練成会のお世話をなさっておられました。

今の教団は何となくオカシイとは思いつつも、ずっとそのまま教団に籍をおいておられました。

その方が、教団と訣別するきっかけとなったのが、実は、この浄心行だったというのです。

「懺悔文に肉食をしたことを書きなさい」

この指導に、この方は、ついていけないと感じられたのだそうです。

これは、谷口雅春先生の浄心行≠ニは似て非なるもの。

そう直感したということでした。

私は、この方が言われた直感≠ニいう言葉に心惹かれました。

常日頃から、谷口雅春先生のご文章に親しんでいれば、この直感≠ェ働くのではないのか。

似ているけどこれは非なり!

同じ「生長の家」でも、そこで言われていることは谷口雅春先生の創始せられた「生長の家」の教えに非ず。

今の信徒に一番、求められるのは、まさしくこの直感≠ナはないのかと思うのです。

しかし、その直感≠ニいうのは、尊師の教えに触れていればこそ働くものではないのか。

それに触れ得ないできた信徒にすれば、その直感≠燗ュきようがない…。

実は、それこそが今の、深刻な壁、現実の大きな問題なのではないのか…。

かくなる上は、尊師の教えに触れた世代が、それこそ世代責任≠感じて、ここにある“加筆”の非真理性を訴え続けていくしかない…。

尊師への報恩感謝とは、“造化の三神”教団の“加筆洗脳”から如何にして信徒を護っていくか、救い出していくか、そこにあると改めて決意した次第です。



改訂版・宇宙浄化の祈りは宇治だけでは無かったですね (12426)
日時:2020年07月26日 (日) 17時04分
名前:教団擁護

楠本行孝先生や故・多湖周子先生は熱心だったようですね。

私の教区もしてましたし、破邪さんはどうして知らなかったんだろ?

参考

https://snitennoukokunippon.hatenadiary.com/entry/2020/07/15/144941

「教団擁護」さんへ。日野さんのブログの紹介、ありがとうございました。しかし… (12427)
日時:2020年07月26日 (日) 17時38分
名前:破邪顕正


多くは語りません。

楠本総務の時代ということは、いったい、この記事は何年前のことですか…

大事なことは、今なのです!

総本山で、それが、今、実修されていますか?!

総本山に問い合わせてみたらいいですよ、どんな回答が得られるか!

更に、申し上げれば、「教団擁護」さんは(多分、「日野」さんのなりすましのハンドルネームという思いはしていますが、この際、それは問いません)、日野さんのこの言葉をどう受け止めていますか?

“私は「吾が日の本と地球世界を」という改訂版を、宇治ではなく兵庫教区で「本部の方針」として、確かに聞いた。”

この「改訂版」を、「教団擁護」さんはスバラシイと思っているのですか?

もし、それを兵庫教区で実修されているというのでしたら、何という“オロカ”なことを!

益々嘆かわしく思うものであります。

それに関しての私の二つの投稿を引いておきます。

敢えて、この掲示板に出張ってこられて、私を“口撃”しようという意図をお持ちのようですから、ぜひ、私の投稿に関しての感想なり、意見をお願いしますよ。


※「tapir」さんの投稿によって真実≠ェ明らかにされる、こちらこそ、感謝です… (12367)
日時:2020年07月12日 (日) 13時37分
名前:破邪顕正

「tapir」さん、早速の投稿、有難く拝読させていただきました。

……………………………………

ありがとうございます 『新しい文明を築こう』と『聖光録』を読み比べてみます (30469)
日時:2020年07月11日 (土) 21時34分
名前:tapir
破邪顕正様

(前略)

宇治別格本山では、研修生が実修しているとのことで、禁止されていないというのが、H氏の答えでした。

けれども、宇治は、生長の家総本山や宗教法人「生長の家」とは、別の独立した法人なので、以前の流儀が残っているのかも知れません。

下総の野人様(第二掲示板)が書かれている通り、富士河口湖、宇治別格本山で、「公」にライブ配信していないというのは、「公」には、事実上、実修できないことになっていると、解釈されても言い訳できませんね。
住吉大神の御札が、いつの間にか入手できなくなっているように。

当然、「宇宙浄化の祈り」の本家本元の生長の家総本山でも、実修されていない可能性が高いですね。情報を知っている方に、教えていただきたいです。

そういう「公に実修できない」という事実があったのなら、「デマ」という私の言葉は取り消します。

総裁・生長の家本部は、なし崩し的に物事を進める姑息なところがあるので、「禁じていない」というポーズを信じていると、いつの間にか、なくされているというケースに該当する可能性が高いですね。

そうでないという方は、どうぞ、事実を挙げて、反論してください。

なお、「宇宙浄化の祈り」の言葉についてですが、以下のように改訂されているということを、聞きました。これは、宇宙浄化の祈りの、無意味な「改竄」だと思います。

“「我が日ノ本を」を「我が日ノ本と地球世界を」と改訂された”

宗教的センスのない、つまらないことをするものだと思いました。

日の本は、霊(ひ)の本と書いて、実相世界にある一つの国を現わすという、谷口雅春先生の「久遠天上理想国実現の神示」、「万教包容の神示」にあるとおりに、全世界が「光(ひ)の本」(『御守護 神示集』p59)にあるということで、「ヒノモト」(『御守護 神示集』p67)は日本を含む全世界を現わすのだと、私は、ずっと思って「宇宙浄化の祈り」を、実修して参りました。

「わが日の本と地球世界」は、その広大な実相世界の「ヒノモト」の理念を否定して、「日の本」をわざわざ現象世界の「日本国領土」に限定することになります。全く意味のない改悪、改竄だと思います。

厳しいことを言いますが、自分が手を加えた跡を残したいという「自己顕示欲のあらわれ」に見えます。

新バージョンと称する「四無量心を行ずる神想観」の文言にも思うところがありますが、それは、明日投稿したいと思います。

「大日本神国観」と「宇宙浄化の祈り」について、このようにして「事実」が、次第に明らかになってくるのは、大切なことだと思いました。

谷口雅春先生が、「万教包容の神示」でこうお説き下さっています。

“生命の実相の教えが最も鮮やかに顕れたところが形の世界の中心であるのである。"

どの名称の団体であれ、谷口雅春先生の”生命の実相の教えが最も鮮やかに顕れたところ”になっていただきたい、それが私の願いです。もちろん、自分自身の努力目標でもあります。

破邪顕正様に、色々と教えていただいたことを感謝申し上げます。

合掌

………………………………

すべて、同感、何の異存もありません。

「tapir」さんの言われる「私の願い」、それは「私の願い」でもあります。

この一致点は、本当に大きいと思わせていただきました。

これであれば、必ず「和解」の道は開かれる、そう確信した次第です。

“『新しい文明を築こう』と『聖光録』を読み比べて”、「tapir」さんがどう感じられるか、今後の投稿を大変、楽しみにしております。


※宇治の“改訂版”について思うこと… (12370)
日時:2020年07月13日 (月) 17時15分
名前:破邪顕正

「tapir」さんが、こう書いていることは、大変、重要だと思います。

〉“「我が日ノ本を」を「我が日ノ本と地球世界を」と改訂された”

宗教的センスのない、つまらないことをするものだと思いました。〈

どうして、こういう“改訂”をするのでしょうか。

思いますのに、どちらにもいい顔したいという思いが潜んでいるからではないのか…。

つまり、尊師の御教えも大事にしたい。

同時に、総裁先生の考えておられることも生かしたい…。

それが、「我が日ノ本と地球世界を」という言葉となったのではないのか…。

何を申し上げたいか。

尊師と“背教総裁”とでは、そもそもが相容れない…。

その相容れないという根本部分が、少しも分かっていない…。

ために、安易に、ごちゃ混ぜにしてしまう…。

相容れないものを一緒にしてしまう、その“醜悪さ”が、この“改訂版”にはある…。

しかし、考えて見れば、だからと言って、一方的に宇治ばかりを責められはしないようにも思うのです。

だって、それは、実は“背教総裁”が一貫してやってきたことではないのか、と思うからです。

あの「経本」然り。

新バージョンと称する「四無量心を行ずる神想観」然り。

「浄心行」「実相円満誦行」に付け加えて文言然り。

そこに“醜悪さ”を感じきれるかどうか。

それこそが、「tapir」さんの言葉を借りれば、「宗教的センス」というものではないでしょうか。



例えば光明面としての日本人の伝統的供養のこころ (12428)
日時:2020年07月26日 (日) 21時14分
名前:下総の野人

ご紹介下さいました以下の文言はすごいですね。

〈また、人間以外の動植物、菌類に対しては、同じ生命の星£n球を共有する仲間であるこを忘れ、劣悪な環境で飼育し、また残虐な方法で殺し、あるいはそれらを他人にさせることで自らの良心の呵責から逃れる一方、肉食や動物虐待を顧みない生き方を続け、植物や菌類に対しても、不要の虐待や生物多様性を損なう行為を無頓着に行うなど、悪しき習慣を重ねてまいりました。…〉

いやはや。

この件で思い出したことがあります。

以前テレビで養老孟司さんが仰っていたことです。

ケンタッキーフライドチキン。

世界広しといえども、日本のケッタッキーだけだそうです。

ニワトリさんの供養をしているのは。

いたく感心しました。

そうなのです。日本人はありとあらゆるものを供養(慰霊)してきました。

動物や植物だけではありません。

よくニュースで針供養とか筆供養とかありますでしょう。

こういうことに関する本でうろ覚えですけど、確かこれだと思うのですが、鵜飼秀徳 (著)『ペットと葬式 日本人の供養心をさぐる』 (朝日新書)も感心することしきりでした。

昔も今もほんとうにありとあらゆるものが供養の対象となっています。驚くほどです。

こういう面の方が幾倍にも大事であります。

ある行為について反省し改善することも勿論必要でしょうが、その際の基準となるのは真に日本的で、本質的、普遍的な事柄だと思います。


“加筆”問題第4弾は「祈り合いの神想観」について取り上げます… (12430)
日時:2020年07月27日 (月) 13時31分
名前:破邪顕正


(中巻)に「祈り合いの神想観実修法」が掲載されています(234頁〜)。

ここでも、“加筆”の問題が浮き彫りになっています。

その箇所を列挙することにいたします。

〈個人の問題として困難に直面する参加者の実相顕現を祈ることに加えて、自然と人間との大調和が顕現することを祈ります。その際、自然災害による被害者が参加者の中にいれば、その人に「祈られる側」になってもらったり、練成会等の直前に国の内外で大きな自然災害が起こった場合には、道場の講師の一人に「祈られる側」になってもらい、参加者の精神集中の助けとします。〉(235頁)

とにかく、“造化の三神”教団にあっては、「自然と人間との大調和」が常に一番の関心事なのです。

それを如実に露呈しているのが、最後の「感謝の思いの表明と決意表明」での“加筆”です(242頁〜)。

〈…神の子としての愛行の決意を表明する。肉食を控えるなど、神・自然・人間の大調和を目指す行為も愛行に含まれる。〉

「祈り合いの神想観」を修したあとの決意表明の場において、「肉食を控えます」というのもまた讃歎されるというのが今後の“造化の三神”教団のやり方ということなのです。

もう“違和感”ありまくり…。

この“違和感”、一体、どこから来るか…。

結局、それは「神想観」そのものの意義がわかっていないからではないのかというのが私の感ずるところです。

先に紹介した「浄心行」でも、そうですが、「肉食」云々とは、言うなれば“小懺悔”に過ぎないと思うのです…。

『實相と現象』にかくあります(18頁〜19頁)。

《「私は昨日、こういう悪いことをしました。…」なんていう小さな非行を告白することを懺悔みたいに思っている人もあるけれども、そんなものは「小懺悔」といって小さい懺悔であります。
 観普賢菩薩行法経には、「大懺悔」という言葉が使ってある。…根本的に迷いを洗い流す大懺悔にはどうしたら可いかというと、観普賢菩薩行法経には「懺悔せんと欲すれば、端座して実相を観ぜよ。…」とあります。すなわち端座して実相をみればよいのであります。…》

この「大懺悔」が神想観であります。

「祈り合いの神想観」という神想観において、「肉食」しないというような“小懺悔”が入り込む…。

こういうところが、どうしても納得がいかない…。

“違和感”を感じざるをえない所以です。



「教団擁護」さんへ。議論で大事なことは、「勝ち負け」ではありません。第一義とは何か、それだけなのです… (12453)
日時:2020年07月29日 (水) 15時07分
名前:破邪顕正

敢えて、表題のことに言及しようと思ったのは「tapir」さんがこういう投稿をされているからです。

私の関心事の箇所のみ、引かせていただきます。

………………………………

大日本神国観と宇宙浄化の祈りの議論について (31349)
日時:2020年07月28日 (火) 21時33分
名前:tapir

(前略)

この議論でもっとも大切なのは、教団が、大日本神国観と宇宙浄化の祈りを今後も、運動の中で、継続して実修して行ってくれるだろうかという点です。その結論は、まだ出ていませんが、将来、実修してくれない危惧は抱いています。教区の皆様、実修を希望される組織内の皆様次第なのかも知れません。皆様が、実修の強い希望を出さなければ、消えてしまうかも知れません。(後略)

………………………………

私が「tapir」さんとは会話できると思っているのは、何を第一義としているか、その一点において共通の認識がある…。

「大日本神国観」と「宇宙浄化の祈り」とは、絶対に実修すべきであるという同じ思いがあるからなのです。

ところが、既述したように、それが『“新しい文明”を築こう』からは削除されているわけです。

削除するということは、存在そのものを否定する…。

実修する必要はない…。

否、実修してはならないという意味がそこにはあると思うのです。

例えば、今、「飛田給」では一切、公的には実修されてはいません。

何故、実修されなくなったのか、その経緯をご存じですか?

私が知り得た情報をお知らせしましょう。

ある講師が新春練成会で「大日本神国観」を実修しました。

日頃、飛田給では実修していないにもかかわらず…。

やはり、そこは、新春という特別な思いが、その講師にはあったのでしょう。

で、それに感激した参加者が、それを感想文に記載した…。

それが「飛田給体験集」に掲載された…。

それを教団の本部職員が見つけたのです。

そして、飛田給では「大日本神国観」を実修しているのか、という問い合わせがきた…。

よろしいですか、本部では、「飛田給体験集」までチェックしているのですよ…。

本部から問い合わせがあるということは、これは暗黙のうちに、実修するなという要請である…。

そう判断するような、無言の空気、圧力というようなものが今の教団内にはあるのです…。

ここが重要なのです。

で、以来、飛田給では、自主規制、「大日本神国観」を実修することはなくなった…。

これが現実です。

そして、今回、会員必携と称されるものからも削除されたわけです。

「tapir」さんと私が違うとすれば、その一つとして、教団に対する認識の違いを上げることができましょうか。

だって、「tapir」さんは“実修を希望される組織内の皆様次第なのかも知れません”と書いておられるからです。

一旦、削除されたものが、信徒の希望、要望、願望で覆すことができる???

そんな“教団幻想”など、私はとっくの昔に捨ててしまいました。

原宿本部会館の解体、本部移転の推移を目の当たりにしてきた者にとっては、それが実感ではないでしょうか…。

教団にとって、信徒とは、言われたことに、「ハイ」と従うべきものであるとしか考えてはいない…。

それが嫌だったら、辞めたらいい…。

「飛田給」での経緯を見たら、私はとてもではありませんが

“皆様が、実修の強い希望を出さなければ、消えてしまうかも知れません”

何を言っているんですか、もう、既に削除されているではありませんか!

その現実を前にして、どう行動するのか。

私の関心事は、常に、その一点にしかありません。

「教団擁護」さんに言いたいことはただ一つ。

「教団擁護」というハンドルネームを使用する以上、「大日本神国観」と「宇宙浄化の祈り」は削除されていい、実修する必要は無い…。

それを主張、擁護する以外に他に道はないということです。

「ハンドルネーム」は伊達や酔狂でつけるものではない、それなりの言葉に対する重み、覚悟をもって名乗るべきである…。

そう思うものであります。



“加筆”問題第5弾は「実相円満誦行」について取り上げます… (12458)
日時:2020年07月30日 (木) 10時31分
名前:破邪顕正

「実相円満誦行実修法」(244頁〜)で、“加筆”された文章は、「先導者の言葉」というところです。

参加者一同は、瞑目合掌していますから、この言葉、否が応でも潜在意識に入り込みますよね…。

〈…実相世界が顕在化すれば、人間社会での争いや衝突がなくなるだけでなく、『観世音菩薩讃歌』にあるように、自然と人間との争いも無に帰することになります。
「神の世界の実相は、内外無差別、自他一体、神我一体なり」
「すべての生物と山河と海陸は、われの延長なり、われの一部なり、われの全体なり」
 ありがとうございます。〉

この“加筆”は、

〈…従って、実相が顕在となり、全世界が祝福浄化されることになります。〉

この後に続けて言う言葉とされています。

全世界が祝福浄化されたのですから、もう、それで充分ではありませんか。

わさわざ、“加筆”部分にあるようなことを言わなければならない意味がわからない…。

全く、余計な言葉だなあ…。

それが抜き書きしていて実感したことであります。

ここでも、“加筆”して、「行」が台無しになる…。

その典型的パターンだなと思ったことでした。

それより何より、どうしてここに『観世音菩薩讃歌』が入ってこないといけないのでしょうか…。

だったら、『観世音菩薩讃歌』の読誦をしたらいいではありませんか。

わざわざ「実相円満誦行」を実修しなくてもいい…。

「実相円満誦行」より『観世音菩薩讃歌』を読誦してほしい…。

それがここの本音ではないのか…。

そう思ってしまうような“加筆”であると思った次第です。




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