《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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涙の内坂峠 ねずさんのひとりごとより (12393)
日時:2020年07月20日 (月) 12時56分
名前:コスモス

https://nezu3344.com/blog-entry-4573.html?fbclid=IwAR38MFTShsMhLnU-s4OwBJH_F0mdpYI9EjE2ILMpmn8zrUAjxOopPBYjrw0

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終戦後、まだ間もない昭和22(1947)年9月1日午前8時頃のことです。
長崎市の北側の山中にある打坂峠(うちさかとおうげ)の急な坂道を、大瀬戸発長崎行きの木炭バスが、満員の乗客を乗せて登っていました。


この頃の打坂峠は、舗装などされいていないデコボコ道です。
道は狭くてくねくね曲がり、道路勾配は20%もありました。


いまの道路構造令では第20条で、道路勾配は最大12%以下と定められています。
勾配5%の坂が20メートルもあったら、もはや坂の向こうはみえないくらいの急な坂です。
それが勾配20%です。
どれだけ急な怖い坂だったか伺われます。


その木炭バスが坂の半ばに差し掛かったとき、突然エンジンが停まってしまいました。
運転手は直ぐにブレーキを踏みました。
ところがブレーキが利きません。
サイドブレーキも利かない。
エンジンもかからない。

上り坂の途中です。
バスがバックで坂を転げ落ちないよう、運転手はギアを前進に入れようとしました。
ところが前進ギアも入らない。
あとでわかったことですが、ギアそのものが壊れてしまっていたのです。


上り坂でいったん停止したバスは、ズルズルと坂道を後退し始めました。
運転手はバスを止めようと必死に操作しましたが、バスはドンドンうしろに下がって行きます。
急な坂道です。
しかも曲がりくねっています。
乗客は30人あまりです。



このままでは大惨事になると思った運転手は、車掌をしていた鬼塚道男(おにづかみちお、当時21歳)さんに向かって、
「鬼塚!直ぐに降りろ!
 石ころでん棒きれでん、
 なんでんよかけん車の下に敷け!」
と叫びました。


声を聞くやいなや、鬼塚車掌はバスから飛び降りました。
そして近くにあるものを片っ端から車輪の後ろに置きました。
ところが急な下り坂で加速がついたバスの車輪は、木片を弾き飛ばし、乗り越え、石を粉々に砕(くだ)いて、後退してしまいます。


乗客たちには、なすすべもありません。
「こいは、もう、おしまいばい!」
乗客全員が、そう思ったとき、バスは崖っぷちギリギリのところで止まりました。
すぐ後ろは、高さ20メートルの険しい崖でした。


あとすこしで、大事故になるところでした。
運転手も乗客も、みんなほっとしました。


運転手はバスから降りました。
そして、
「鬼塚!どこに、おっとか!」
と声をかけました。


けれど返事がありません。
乗客たちも、降りてきました。
そしてひとりの乗客が、
「バスん後ん車輪に、人のはさまっとる」
と指差しました。


車輪の下に、鬼塚車掌がいました。
彼は自分の体を輪止めにしてバスを止め、崖からの転落を防いでいたのでした。

 *

朝の10時過ぎ、自転車に乗った人が「打坂峠でバスが落ちた。早く救助に!」と長崎バスの時津営業所に駆け込んできました。
時津営業所の高峰貞介さんは、すぐにトラックに飛び乗り、大急ぎで現場に駆けつけました。


バスは、落ちてはいませんでした。
崖、ギリギリのところで止まっていました。
バスの外に運転手はいました。
真っ青な顔をしていました。
必死になってジャッキで、バスの車体を持ち上げていました。

 *

高峰貞介さんは後に事故の様子と鬼塚さんについて次のように語っています。
=======

たしか、朝の10時少し過ぎだったですたい。
自転車に乗った人が「打坂峠でバスが落ちとるばい、早よう行ってくれんか」って、駆け込んで来たとです。
木炭のトラックの火ばおこしてイリイリしてかけつけると、バスは崖のギリギリのところで止まっとったとです。


もうお客はだれもおらんで、運転手が一人、真っ青か顔ばしてジャッキで車体を持ち上げとったですたい。
「道男が飛び込んで輪止めになったばい。道男、道男」って涙流しとったです。


当時の打坂峠は胸をつくような坂がくねくねと曲がっとりましたけん、わしら地獄坂と呼んどったです。
自分で輪止めにならんばいかんと思うたとじゃなかでしょうか。
丸うなって飛び込んで。


道雄の体をバスの下から引きずり出して、木炭トラックの荷台に乗せました。
背中と足にはタイヤの跡が付いていましたが、腹はきれいでした。

十秒か二十秒おきに大きく息をしていたので、ノロノロ走る木炭トラックにイライラしながら、しっかりしろ、しっかりしろと声をかけて。


9月といっても一日ですから、陽がカンカン照って、何とかして陰をつくろうと鬼塚車掌に覆いかぶさるようにして時津の病院に運んで、先生早く来てくれ、早く早くって大声を出しました。


その晩遅くに、みかん箱でつくった祭壇(さいだん)と一緒に仏さんを時津営業所に運んで来たとです。


道男君は、おとなしかよか男じゃったですたい。
木炭ばおこして準備するのは、みんな車掌の仕事ですけん、きつか仕事です。
うまいことエンジンがかかればよかが、なかなかそげんコツは覚えられん。
よう怒られとりました。


それでもススだらけの顔で口ごたえひとつせんで、運転手の言うことばハイ、ハイって聞いとったです。
ばってん、そげん死に方ばしたって聞いた時には、おとなしか男が、まことに肝っ玉は太かって思ったもんですたい。

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鬼塚車掌は、炎天下のトラックの荷台で熱風のような空気を大きく吸い込んだのが最期でした。

この事故が起こった昭和22年のことです。
日本はまだ敗戦の虚脱状態にありました。
長崎は、原爆被害のあとで、病院通いをする人たちがたくさんいた頃です。


闇市への買い出し、市内の病院に被爆(ひばく)したお子さんを連れて行く母親、そういう30人あまり乗客でした。
その乗客たちの命と引き換えに、鬼塚さんは若い命を閉じました。


みんな生きるだけで精一杯の時代でした。
原爆が落ちて日もない。
他人のことなんかかまってる余裕なんてなかった、そんな時代でした。


それでも乗客たちはみんな、口々に身代わりになってくれた鬼塚車掌さんや、たすけてくれたバス会社の人たちにお礼を述べました。
けれど、物資が不自由な時代です。
誰も何もしてあげることは出来ませんでした。



鬼塚道雄車掌(当時21歳)(写真)
鬼塚道雄車掌


それから26年が経った昭和48年のことです。
新聞の投書欄に、そのときの乗客だった方が、感謝の思いを綴った記事が載りました。
その記事を、たまたま長崎自動車(長崎バス)の社長が眼にしました。


社長は、その日の内に緊急の役員会を招集しました。
「私が発起人になる。浄財を集めて、鬼塚さんを供養する記念碑を造ろう!」

こうして一年後、事故が起きた打坂に、記念碑とお地蔵さんが建てられました。


救命地蔵(長崎市打坂)
救命地蔵


以降毎年、鬼塚車掌の命日となった9月1日に、長崎自動車では社長以下、幹部社員が地蔵の前で供養を行っています。

また、近くにある時津幼稚園の年長組みの園児たちも、毎年地蔵尊にお参りして、花を手向けて小さな手を合わせています。


時津幼稚園の山口理事長は、「近年、子供の犯罪が問題化しており、園児達に小さい頃から命の尊さを感じとって貰いたい」と鬼塚車掌の話を子供たちにして園児達の地蔵尊へのお参りを実施しているそうです。

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このお話は、長崎の教育委員会からパンフレット等で紹介され、また、ネット上でも
『伝えたいふるさとの100話』でも紹介されています。

命は、たったひとつしかない、たいせつな、かけがえのないものです。
けれどみんなのために役に立つこと。
そのために自分の命を使うこと。
それは間違ったことなのでしょうか。


鬼塚道雄さんは、バスを止めようとして、若い命を散らせました。
それは「自分の命を粗末にした」ということなのでしょうか。


鬼塚さんの勇気のおかげで、30人の乗客乗員の命が救われました。
あと数メートルで、バスが崖から転落するとわかったとき、鬼塚さんにはきっと他に選択肢がなかったのだろうと思います。
そのときに、自分の命を優先するか、乗客の命を優先するか。


そういうとき、バスが転落して乗客もろとも運転手までお亡くなりになっても、自分だけが先にバスから降りていたことを奇貨として、ひとりだけ助かる道を選ぶ人や民族や国もあります。


けれどひとついえることは、戦前の軍人さんも、鬼塚さんのような民間人も、そして東日本大震災のときの被災地の皆さんも、限界ギリギリの状態になったとき、自分の命を犠牲にしてでも同胞の命を助けようとして、お亡くなりになっています。


そういえば、幕末の思想家、藤田東湖も、安政の地震のとき家屋が倒壊し、屋内にいた母を助けるために自分の命を失っています。

「正しい道を生きよう。
 乞食したって、
 この魂だけは穢すものか」


日頃からそう言って、自分の命よりも、自分は共同体の一員であると自覚して、どこまでも「みんな」を優先して生きてきたのが日本人です。


大東亜戦争における特攻隊戦死者は、海軍4156名、陸軍1689名、その他回天、震洋、会場挺身隊、空挺隊などを加えると、特攻作戦による日本人戦没者は1万4千名をこえます。


誰のためでもない。
みんなを守るために、命を散らせました。
人を守るために自分の命さえも惜しまなかった日本でした。


日本は、そういう国であり、そういう先人たちによって支えられ、育まれてきた国です。
その日本を守りぬくことは、世界中の宗派を越えた神々の御心なのではないかとさえ思います。


そしてそれは、いまを生きる私達に与えられた、とっても大切な使命なのではないかと思います。


※このお話は2010年1月の記事をリニューアルして再掲したものです。
お読みいただき、ありがとうございました。

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もう既にご存じの方も多いかと思いますが、改めて激しく心打たれる事実として、取り上げさせて頂きました。





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