《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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谷口雅春先生に帰りましょう・伝統板・第二
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「tapir」さん、本当に感動しました。我が意を得たり。現教団の根本的、本質的問題がここにあり… (12386)
日時:2020年07月16日 (木) 14時08分
名前:破邪顕正


何という本質を穿つ投稿でありましょうか。

こういう投稿をこそ待ち望んでいました。

「tapir」さん、これは本当に素晴らしい投稿です。

ぜひ、この投稿は、「トキ」掲示板のみならず、こちらの掲示板の読者にも読んでほしい。

そう思って、全文、ここにご紹介させていただきます。

何卒、ご了承くださいませ。

………………………………

「神意」に「中心帰一」するのであって、「人」に「中心帰一」するのではない (30784)
日時:2020年07月15日 (水) 21時42分
名前:tapir

このところ、中心帰一について、考えています。

「神意」に「中心帰一」するのであって、「人」に「中心帰一」するのではないということ。

住吉大神を遠ざければ、総裁への「中心帰一」は成り立たないということ。

総裁・生長の家本部が、住吉大神を軽視している、との疑惑があります。

・生長の家総本山に、住吉大神の御札を置かない。
・造化の三神の礼拝を強調するが、住吉大神についてほとんど言及しない。
・住吉大神のお働きの表現である「宇宙浄化の祈り」を軽視する傾向がある。

住吉大神を、「公」に否定していなくても、実質的に遠ざける行為は、総裁の求心力を否定する行為です。

「神意」の体現者たる「総裁」への「中心帰一」の根拠が、まさに「住吉大神」にほかならないからです。

住吉大神の影が薄くなるほど、「中心帰一」の形骸化を促進し、ひいては「中心帰一」の否定につながります。

『“新しい文明”を築こう 上巻』(pp76〜83)の「人類光明化運動指針 第9条」をもとに、その理由を述べます。

@光明化運動の中心は「人」ではない、「神意」である

 総裁・副総裁には、生長の家大神の御教えが流れ出るパイプ的役割があります。 

“この運動は宇宙の創造神に在しますところの生長の家大神がある時期に住吉大神(すみのえのおおかみ)として顕れてコトバの力によって禊祓いをなしたまうところの運動”(p79)

その“住吉大神として顕れてコトバの力によって禊祓いをなしたまう”運動の“住吉大神として顕れて”を否定するなら、“生長の家大神の御教えが流れ出るパイプ的役割”を否定するのと同じです。

総裁から「神意」は流れ出て来ないことになります。

そうなれば、谷口雅宣先生は、ただの「人」であり、「神意」の体現者ではなくなります。

「神意」の体現者ではない、肉体の「人」に従うのは、「その人が有力者であろうと、長年光明化運動に献身して来ようと」、中心帰一ではありません。

「人」としての谷口雅宣先生に従うのは、もはや、中心帰一ではありません。

A生長の家の大神は天之御中主大神なのだから、住吉大神を通さなくよいのではないかという人には、こう申し上げたいと思います。

“この運動は宇宙の創造神に在しますところの生長の家大神がある時期に住吉大神(すみのえのおおかみ)として顕れてコトバの力によって禊祓いをなしたまうところの運動” (p79)であります。

住吉大神を通さなければ、生長の家における「神意」は天降りません。

神の世界は、人間世界よりも、整然とした秩序のある世界です。

「神意」を伝える地位にある御祭神を軽んずるという、人間界においてさえ不自然なことが、神の世界では、許されると思うのは、幼児のような甘えであり、心得違いです。

神は罰を与えませんが、心の法則により、そのような、あいまいで、いい加減な幼児的信仰は、あいまいで、いい加減な結果しか生みません。だから、信徒が減少するのです。

現に、生長の家の大神よりも、上位にあるはずの天之御中主大神・造化の三神をお祀りするのに、より偶像的な、形ある、御社や七重の搭を必要だと、生長の家本部が主張していることが、天之御中主大神からの啓示によるのではなく、住吉大神より下位の、現象人間の浅知恵に基づいた祭祀であることを、鮮やかに証明しています。

五感を超越しているはずの宇宙の大神を、「視覚的に」五感を通さなければ、礼拝できないという、より低次の偶像崇拝に陥っているのを見れば、生長の家本部が、現象に引っかかった、より低次な信仰に堕していることは、宗教心のある人にとっては、火を見るよりも明らかなことです。

それが分からない人は、残念ながら、宗教心を、理解できない人です。

信徒は、「神意」を体現していない、ただの肉体の「人」である総裁・谷口雅宣先生に、「中心帰一」してはなりません。

それは、「光明化運動指針 第9条」のみ教えにも、反することです。

信徒が中心帰一するのは、「神意」であって、「人」ではない、からです。

実は、総裁・谷口雅宣先生は、そのことが十分に分かっていて、あえて住吉大神を否定しておられるようにさえ、見えます。

以前、私は以下のように述べました。

“谷口雅宣先生を生長の家総裁に任命したのは、住吉大神である”

しかし、谷口雅宣先生は、その任命者である、住吉大神の御導きに、素直に沿うことを拒否されているように見えます。

任命された事実は消えていませんが、谷口雅宣先生御自身が、住吉大神の御導きを拒否される限り、運動に生命が吹き込まれず、空疎な抜け殻になります。それが、信徒・会員の、顕著な減少として、既に結果が現れています。

住吉大神を拒否していないと言われるのなら、谷口雅宣先生は、生長の家総本山の御札を復活してください。

そして、造化の三神だけでなく、住吉大神が御祭神であることの意義を、折に触れ、きちんと説いてください。

御札の復活の無い限り、住吉大神について説かれない限り、谷口雅宣先生が、住吉大神を拒否しているという、疑惑が晴れることはありません。

……………………………………

「tapir」さんの、今回の投稿は、今の総裁、並びに教団の本質をもののみごとに剔抉しています。

文字通り、胸がすくような鮮やかさです。

全ての問題は、神様を取り替えた現総裁に、果たして、「神意」が天降るのか、それに尽きるのです。

だから、以前、私なりに、件の「第九条」こそが実に重大な問題であると思って、投稿もしてきたわけです。

「tapir」さんの投稿に尽きていると言ってもいいわけですが、それに少しでも参考になればと思い、蛇足とは思いつつも、ここに以前の投稿を引用させていただく次第です。

………………………………

谷口雅宣総裁は神からの啓示を受けているのか? (162)
日時:2016年01月15日 (金) 10時45分
名前:破邪顕正

表題は、“生長の家「本流復活」について考える(続したらば版)”という掲示板の「真の日本国実相顕現を目指す青年」の投稿に関して感じたことです。

「組織」に残っている信徒は、改めて、こういう心情をもっているのかと分かり、実に興味深く読ませていただきました。

で、それについての所感を投稿しましたので、それをここにも引いておきます。


※貴兄の文章を読んで感じたことを申し上げます。

貴兄が何を信じようと構いませんが、その前に事実認識はきちんとしていてほしいと思います。

貴兄の文章の問題箇所は、ここです。

>私はここでは詳しくは語りませんが、雅宣先生が神からの一種の啓示を受けられている方であると信じています<

こういう思い込みをする方が信徒には多数、見られます。

そこで、まず、事実のみを書き込みます。

実は、谷口雅宣総裁のブログのコメント欄で、かつて、こんなやりとりがあったのです。


>2011年3月19日の読者からのコメント

合掌ありがとうございます。

先生のお言葉はやはり、重みと説得力が違います。
……住吉大神様、雅春先生、清超先生のお言葉として、有難く深く受取らせて頂き、ぜひ友人にも伝えさせて頂きます。……
投稿: 上田 | 2011年3月20日 10:50

上田さん、
 コメントと提案、ありがとうございます。……
>>住吉大神様、雅春先生、清超先生のお言葉として、有難く深く受取らせて頂き、ぜひ友人にも伝えさせて頂きます<<
 何か誤解があるようですが、ここに私の名前で書いたことは住吉大神の言葉でも、雅春・清超両先生の言葉でもなく、私自身の言葉です。
投稿: 谷口 | 2011年3月20日 13:31<


このやりとりをご覧になってどう思われますか。

谷口雅宣総裁自ら、自分の言っていること、書いていることは、「住吉大神の言葉」とは関係ないと、ここではっきりと言い切っているのです。

それだからこそ、総裁は、自分の書いたものを『聖典』とは呼ばせないとも言ったのです。

更に凄いのは、「私の書いたものを『聖典』と言うのであれば、私にもそれなりの考えがあります」そう言って、副総裁職(当時)を辞することもありうると仄めかしたことでありました。

その、脅迫じみた物言いにより、そのときの運動方針は、すべて『聖典等』というように、『聖典』の後に等≠ェ入れられたのでありました。

運動方針に、『聖典等』とあるのは、そのような事情があったからこそなのです。

教団に残っている信徒は、なぜ、総裁が自分の書いたものを『聖典』と呼ばせないでいるのかを、しっかりと考えてみるべきであります。

貴兄が言うように、「雅宣先生が神からの一種の啓示を受けられている方である」というのであれば、谷口雅宣総裁が書いたものを『聖典』と言っても何ら問題ないのではありませんか。

「雅宣先生が神からの一種の啓示を受けられている方である」というのは、私に言わせれば、谷口雅宣総裁の考えにも反していると思うものであります。

………………………………

今、読んでも、手前味噌になりますが、実に重要な投稿であったと思っています。

総裁自身が、「神意」とか「啓示」とかは、何ら信じてはいない…。

「tapir」さんの表現を借りれば、“現象人間の浅知恵に基づい”て、やっている…。

そうとでも考えなければ、神様を取り替えるなどということは、絶対に為しえない…。

そう思って投稿したのが、これです。

………………………………

「神意」を伺おうともしない人≠中心としたばかりに、神様まで取り替えられるような事態が生まれたのです… (11881)
日時:2020年04月30日 (木) 09時14分
名前:破邪顕正

(前略)

谷口雅宣総裁という人は、ここに明らかなように、自分の言うことは、住吉大神の言葉でも、雅春・清超両先生の言葉でもな≠「…。

換言すれば、住吉大神の神意を伺うことも、或いは尊師や前総裁先生のお説きになられたことに対して自分の主張がそれに合致しているかどうか、一々、意に介するようなことはしない…。

自分は自分の考えで書くのだし、またやっていくのだということを総裁は宣言したのだと思います。

さて、ここで考えたいのは、神様の導きを得ようしない、「神意」を伺おうともしない姿勢は、いったい、どういうことを意味するのかということなのです。

ざっくり言って、それは自分が絶対的な神≠ニなることではないのか。

即ち、恐れ慎むという姿勢がない、ということを意味するのだと思うのです。

総裁の著書に『神を演ずる前に』というのがありました。

この書名をもって言うならば、まさしく、谷口雅宣総裁は、みずから神を演ずる≠ェ如く振る舞っているのではないのか。

そういう人が、教団権力を握り、教義の解釈権のみならず、人事権も財産も独り占めにしたらどうなるか。

まさしく、総裁という名の専制体制≠フできあがりです。

(中略)

古今東西を問わず、独裁に恐怖政治はつきもの。

総裁専制≠フ今の教団もまた例外にはあらず。

そういう中で、どうして、内からの改革が生まれ得ましょうか。

教団の内情を具に体験してきた者からすれば、教団に残ることは、ただひたすら我慢、辛抱、忍耐…それしかありません。

その先に、教団が変わるという希望の灯でも見えているのであれば、ちゃんとその保証があるというのであればまだしも…。

それはそれで我慢、辛抱、忍耐のしがいもありましょう。

しかし、本当にその日が来るのか。

その何らかの兆しでも見えているのか。

何のあてもないことに、あたら時の過ぎるのを待つだけでいいのか。

現教団が総裁専制♂コにあり、その力をもって神様の取り替えまで押しつけようとしている今、どういう選択を為すべきなのか。

今回の「通達」は、その決断を否応なく、信徒に迫るものではないのか。

そういうときに、「谷口雅春先生を学ぶ会」が宗教法人を取得したこと、心ある信徒にとって明るい兆し、何かの支えになることができればと願っております。

信徒の皆様の賢明なる判断を期待したいと思います。

………………………………

「tapir」さんの投稿で、私は限りない希望の光を見出すことができました。

こういう信徒が一人でも二人でもいる限り、本来の「生長の家」を取り戻すことは可能である……。

尊師の教えが、こんなことで眩まされるわけがない…。

ホンモノを求める声は必ずある…。

その信念を持つことができたからです。

どう考えても、今回の神様の取り替えは、「神意」とは言い得ません…。

それほどの大事件なのです。

どんなに教団が「第九条」を振りかざして、信徒に対し「総裁先生に中心帰一しましょう」と洗脳しようとも、それに疑問を呈する信徒が必ず出て来る…。

「實相」額の前に置かれた“モノ”が更にその疑問にますます拍車をかける…。

この疑問は、まさしく、「生長の家」の神様とは何か、そのご本尊とは何か。

何故、ご本尊であった“住吉大神”は外されなくてはならなかったのか。

“造化の三神”を祀ることがどんな問題を引き起こすのか…等々。

そういう根本的な問題へと必ず突き進んでいきます。

今回の「tapir」さんの投稿の“凄み”とは何であるか。

それは、はっきりと、教勢が落ちた原因を真っ正面から提示しきっていることなのです。

ある教団幹部は、この問いに「日本の人口が減っているから」と答えて失笑を買ったことがありましたが、「tapir」さんの今回の回答。

“谷口雅宣先生御自身が、住吉大神の御導きを拒否される限り、運動に生命が吹き込まれず、空疎な抜け殻になります。それが、信徒・会員の、顕著な減少として、既に結果が現れています。”

これに、一体、だれが反論し得ましょうか。

“背教総裁”並びに“造化の三神”教団が、最も問われたくない、痛いところを「tapir」さんはズバリ、突いたのです。

「tapir」さんのこの回答を、私なりの言葉に置き換えるならば、

教勢が落ちたのは、まず総裁自身が“背教”しているから…。

尊師の創始せられた「生長の家」ではなくなったから…。

そういうことになります。

ともあれ、「tapir」さんの投稿によって、問題の本質に関心をもつ信徒が増えることを心から願っております。

改めて「tapir」さんに、心から感謝申し上げます。



住吉大神を拒否していないというのであれば、住吉大神宇宙浄化を祈る神想観≠実修すべきだし、総本山においてその御札を下賜すべきです… (12404)
日時:2020年07月22日 (水) 09時38分
名前:破邪顕正


毎日、一章ずつ『真理の吟唱』を拝読させていただくのが、楽しみの一つとなっています。

本日は、『続 真理の吟唱』にある「目無し堅間の小船≠ノ乗りて龍宮城に到る祈り」を拝読させていただきました。

文中、こういうお言葉があります。

《住吉大神はまた水火津霊(しおつち)の神とも申し上げる創造の神でもあらせられるのである。水は陰であり、火は陽であり、陰陽をつなぎ合わせて天地宇宙の創造を成し給うときの御名にましますのである。》

どうして、ここに目が留まったかといいますと、『“新しい文明”を築こう』(中巻)に「なぜ、造化の三神≠祭祀するか」と題してこうあるからです(161頁〜)。

〈私たちは、住吉大神の宇宙浄化の働きに加えて、高御産巣日神・神産巣日神のムスビ≠フ力をいただきながら、さらに多くの人々に唯一絶対の神≠ヨの信仰を伝え、自らも自然と共に伸びる$カき方を日常生活に実践して、世界の平和を実現していきましょう。》

おそらく、この箇所をもって、「生長の家教団」は「住吉大神」を排除していないと抗弁する向きも出てきましょう。

だったら、こう問い返します。

ならば、どうして『“新しい文明”を築こう』から「宇宙浄化の祈り」を削除したのですか?

因みに、新編『聖光録』には、これは住吉大神宇宙浄化を祈る神想観≠ニして記されています(141頁)。

それを見て、改めて痛感します…。

これは単なる「祈り」ではない、一つの「神想観」なのだと…。

尊師は、それほどまでに重要視なされた…。

それもそのはず、これは総本山御造営に当たって、尊師が始められた「神想観」であったのですから…。

さればこそ、総本山では「住吉大神」の御札が下賜されてきたわけです。

ところが、今や、総本山ではそれが下賜されてはいないのです。

どうしてでしょうか。

もし、住吉大神を排除していないというのであれば、「tapir」さんが指摘されているとおり、

“住吉大神を拒否していないと言われるのなら、谷口雅宣先生は、生長の家総本山の御札を復活してください。”

その事実がない限り、「宇宙浄化の祈り」を公的に実修しているという実態がない限り、どう弁護しようとも、“造化の三神”教団は、住吉大神を“拒否”していると見なされても致し方ないと思うものであります。

閑話休題。

今回、もう一つ、言いたかったことは、“高御産巣日神・神産巣日神のムスビ≠フ力をいただ”かなければならない必然性は、毫もないのではないのかということなのです。

だって、“住吉大神はまた水火津霊(しおつち)の神”でもあられるのですから、その“水火津霊の神”のお働きによって、充分に説得できると思うからです。

既に、この観点から私は投稿したことがあります。

………………………………

住吉大神に取って替わって“造化の三神”を礼拝する必然性は少しも無い。総裁の言う“ムスビ”を言うのならば、「水火津霊(シホツチ)の神」が既にそのお働きを担っておられる… (12286)
日時:2020年06月28日 (日) 15時11分
名前:破邪顕正

表題は、頭注版『生命の實相』第37巻「幸福篇 上」にある「二月十二日」の御文章を拝読したら、一目瞭然です。

《わたしは御影町および住吉村に住んでいたとき、たびたび住吉神社に参拝して人類光明化のために祈願をつづけたものである。そのころからわたしは雑誌『生長の家』を書きはじめたのである。
 その後、生長の家神と申し上げるは塩土老翁、筒男神であらせられると知らされ、ハッとしてその端倪すべからざる因縁に驚いたのである。
 塩槌神とは水火津霊(シホツチ)の神である。水の霊(陰の原理)と火の霊(陽の原理)とを津なぎ結びて、一切を生み出す「生みの神」である。だから塩槌神(住吉神社・塩釜神社に奉斎)は古来安産の神として称せられ、エホバ神の「懐妊(はらみ)の劬労(くるしみ)を増すべし、汝は苦しみて子を産まん」という宣言を覆して、子を産むのに無痛分娩なることを実証したのである。生長の家の教えを聞いてそのとおりに守るものは無痛分娩であるのはそのためである。塩釜大神とは水火醸神(しおかみのかみ)として陰陽交叉(かみあ)いて産み出す神という意味である。》

総裁は、“ムスビ”が大事だとして“造化の三神”を祀るのだと説明していますが、それをいうのならば、既に水火津霊(シホツチ)の神≠アそが、水の霊(陰の原理)と火の霊(陽の原理)とを津なぎ結びて、一切を生み出す「生みの神」である≠ニ、ここにはっきりと津なぎ結びて≠ニ示されているのです。

わざわざ、“ムスビ”のために“造化の三神”をお祀りしなくてはならない理由など、どこにも見当たりません。

結局、“造化の三神”をお祀りしたのは、総裁は何としても住吉大神を外したい、その私的、個人的理由からの強攻策だったとみるのが至当であると思うものであります。

で、その住吉大神を外すことが如何に尊師の御心を踏みにじるものであるのか。

引用文中にある、「生長の家神と申し上げるは塩土老翁、筒男神であらせられると知らされ、ハッとしてその端倪すべからざる因縁に驚いた」というお言葉を見たら、誰しも首肯せざるを得ないでしょう。

尊師が端倪すべからざる因縁に驚いた≠ニ仰っているのに、それをまるで足蹴にするかのような、今回の「通達」…。

尊師の御教えを護る信徒としては、これは決して黙過できない問題であると言えるのです。

……………………………………

改めて申し上げます。

百歩譲って、(中巻)が言うように、ムスビ≠フ力をいただかないといけない時代だとしても、“水火津霊神”の意義をもって、それに充分にお応えし得ると思うのです。

現に、尊師はそうお説きくださっています…。

何も、新たに、神様を取り替える必要性など微塵もありはしないのです。

これまた、「tapir」さんが指摘されているとおり、

“住吉大神が御祭神であることの意義を、折に触れ、きちんと説いてください。”

こうして、尊師の『聖典』を拝読させていただけば、“造化の三神”教団のやっていることのオカシサや矛盾点がくっきりと鮮やかに見えてまいります。

おそらく、“造化の三神”教団としては、信徒が、所謂「三猿主義」(見ざる、聞かざる、言わざる)になってくれるのが最も好都合なのでしょうが、しかし、それでは本当の救いは生まれ得ない…。

そもそも、それは尊師の御教えを眩ますことにしかならない…。

今こそ、“破邪顕正”の勇気を奮い起こすトキだと信ずるものであります。


追記/聖経『続 真理の吟唱』を拝読するように指導すべきです… (12408)
日時:2020年07月23日 (木) 08時08分
名前:破邪顕正


「宇宙浄化の祈り」の復活、住吉大神の御札を下賜すること、以上の2点を申し上げましたが、もう一つ、大事なことを忘れていました。

それが表題に掲げたことです。

何でも、今や、教団では、『日々の祈り』を拝読するようになっているそうですが、本気で、住吉大神を拒否していないということ示す気があるのであれば、聖経『続 真理の吟唱』の拝読をお願いしたいと思います。

本日、私は、その中にある「龍宮無量寿国に入る祈り」を拝読させていただきました。

再び、新型コロナウィルスの感染が広がり始めた今、生長の家の信徒は、この祈りを徹底すべきだと改めて痛感いたしました。

《…住吉大神、龍宮無量寿いのちの泉を汲み給いてわれに灌ぎ給うのである。いのちの泉、五彩七彩の色を放ちてわれに灌がれ、淊々乎(とうとうこ)として光の波となって、わが全身に流れ亘り、わが全身ことごとく潔められて、すべての汚れと濁りとは完全に洗い流され、全身の細胞ことごとく龍宮無量寿のいのちに満たされ賦活せられ、若返り、ひとつひとつの細胞ことごとく最高のダイヤモンドの輝きに優りて、無量寿の生命の光輝を放つ。その光荘厳を極めて、如何なる悪しき微生物も病菌もヴィールスも近付くこと能わず、もし近づけば、光に近づく暗の如く消えてしまうのである。…》(17頁)

これを拝読すれば、今こそ、浄化のとき、住吉大神の出番だということがはっきりとわかってまいります。

なのに、どうして、教団は、神様を取り替え、住吉大神を排除、拒否するのでしょうか?

それでは、生長の家の立教の使命、そのものに反することになりはしませんか?

もし、教団信徒の方が、この掲示板をお読みならば、ぜひ、聖経『続 真理の吟唱』と『日々の祈り』とを読み比べてみてください。

どちらの方が心清まるか…。

どちらの方が心安まるか…。

どちらの方が心明るくなるか…。

今、信徒一人ひとりの信仰が問われているということを申し上げておきたいと思います。

そうです、後世に伝え遺すべきはどちらであるかということを…です。




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