住吉大神を拒否していないというのであれば、住吉大神宇宙浄化を祈る神想観≠実修すべきだし、総本山においてその御札を下賜すべきです… (12404) |
- 日時:2020年07月22日 (水) 09時38分
名前:破邪顕正
毎日、一章ずつ『真理の吟唱』を拝読させていただくのが、楽しみの一つとなっています。
本日は、『続 真理の吟唱』にある「目無し堅間の小船≠ノ乗りて龍宮城に到る祈り」を拝読させていただきました。
文中、こういうお言葉があります。
《住吉大神はまた水火津霊(しおつち)の神とも申し上げる創造の神でもあらせられるのである。水は陰であり、火は陽であり、陰陽をつなぎ合わせて天地宇宙の創造を成し給うときの御名にましますのである。》
どうして、ここに目が留まったかといいますと、『“新しい文明”を築こう』(中巻)に「なぜ、造化の三神≠祭祀するか」と題してこうあるからです(161頁〜)。
〈私たちは、住吉大神の宇宙浄化の働きに加えて、高御産巣日神・神産巣日神のムスビ≠フ力をいただきながら、さらに多くの人々に唯一絶対の神≠ヨの信仰を伝え、自らも自然と共に伸びる$カき方を日常生活に実践して、世界の平和を実現していきましょう。》
おそらく、この箇所をもって、「生長の家教団」は「住吉大神」を排除していないと抗弁する向きも出てきましょう。
だったら、こう問い返します。
ならば、どうして『“新しい文明”を築こう』から「宇宙浄化の祈り」を削除したのですか?
因みに、新編『聖光録』には、これは住吉大神宇宙浄化を祈る神想観≠ニして記されています(141頁)。
それを見て、改めて痛感します…。
これは単なる「祈り」ではない、一つの「神想観」なのだと…。
尊師は、それほどまでに重要視なされた…。
それもそのはず、これは総本山御造営に当たって、尊師が始められた「神想観」であったのですから…。
さればこそ、総本山では「住吉大神」の御札が下賜されてきたわけです。
ところが、今や、総本山ではそれが下賜されてはいないのです。
どうしてでしょうか。
もし、住吉大神を排除していないというのであれば、「tapir」さんが指摘されているとおり、
“住吉大神を拒否していないと言われるのなら、谷口雅宣先生は、生長の家総本山の御札を復活してください。”
その事実がない限り、「宇宙浄化の祈り」を公的に実修しているという実態がない限り、どう弁護しようとも、“造化の三神”教団は、住吉大神を“拒否”していると見なされても致し方ないと思うものであります。
閑話休題。
今回、もう一つ、言いたかったことは、“高御産巣日神・神産巣日神のムスビ≠フ力をいただ”かなければならない必然性は、毫もないのではないのかということなのです。
だって、“住吉大神はまた水火津霊(しおつち)の神”でもあられるのですから、その“水火津霊の神”のお働きによって、充分に説得できると思うからです。
既に、この観点から私は投稿したことがあります。
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住吉大神に取って替わって“造化の三神”を礼拝する必然性は少しも無い。総裁の言う“ムスビ”を言うのならば、「水火津霊(シホツチ)の神」が既にそのお働きを担っておられる… (12286) 日時:2020年06月28日 (日) 15時11分 名前:破邪顕正
表題は、頭注版『生命の實相』第37巻「幸福篇 上」にある「二月十二日」の御文章を拝読したら、一目瞭然です。
《わたしは御影町および住吉村に住んでいたとき、たびたび住吉神社に参拝して人類光明化のために祈願をつづけたものである。そのころからわたしは雑誌『生長の家』を書きはじめたのである。 その後、生長の家神と申し上げるは塩土老翁、筒男神であらせられると知らされ、ハッとしてその端倪すべからざる因縁に驚いたのである。 塩槌神とは水火津霊(シホツチ)の神である。水の霊(陰の原理)と火の霊(陽の原理)とを津なぎ結びて、一切を生み出す「生みの神」である。だから塩槌神(住吉神社・塩釜神社に奉斎)は古来安産の神として称せられ、エホバ神の「懐妊(はらみ)の劬労(くるしみ)を増すべし、汝は苦しみて子を産まん」という宣言を覆して、子を産むのに無痛分娩なることを実証したのである。生長の家の教えを聞いてそのとおりに守るものは無痛分娩であるのはそのためである。塩釜大神とは水火醸神(しおかみのかみ)として陰陽交叉(かみあ)いて産み出す神という意味である。》
総裁は、“ムスビ”が大事だとして“造化の三神”を祀るのだと説明していますが、それをいうのならば、既に水火津霊(シホツチ)の神≠アそが、水の霊(陰の原理)と火の霊(陽の原理)とを津なぎ結びて、一切を生み出す「生みの神」である≠ニ、ここにはっきりと津なぎ結びて≠ニ示されているのです。
わざわざ、“ムスビ”のために“造化の三神”をお祀りしなくてはならない理由など、どこにも見当たりません。
結局、“造化の三神”をお祀りしたのは、総裁は何としても住吉大神を外したい、その私的、個人的理由からの強攻策だったとみるのが至当であると思うものであります。
で、その住吉大神を外すことが如何に尊師の御心を踏みにじるものであるのか。
引用文中にある、「生長の家神と申し上げるは塩土老翁、筒男神であらせられると知らされ、ハッとしてその端倪すべからざる因縁に驚いた」というお言葉を見たら、誰しも首肯せざるを得ないでしょう。
尊師が端倪すべからざる因縁に驚いた≠ニ仰っているのに、それをまるで足蹴にするかのような、今回の「通達」…。
尊師の御教えを護る信徒としては、これは決して黙過できない問題であると言えるのです。 ……………………………………
改めて申し上げます。
百歩譲って、(中巻)が言うように、ムスビ≠フ力をいただかないといけない時代だとしても、“水火津霊神”の意義をもって、それに充分にお応えし得ると思うのです。
現に、尊師はそうお説きくださっています…。
何も、新たに、神様を取り替える必要性など微塵もありはしないのです。
これまた、「tapir」さんが指摘されているとおり、
“住吉大神が御祭神であることの意義を、折に触れ、きちんと説いてください。”
こうして、尊師の『聖典』を拝読させていただけば、“造化の三神”教団のやっていることのオカシサや矛盾点がくっきりと鮮やかに見えてまいります。
おそらく、“造化の三神”教団としては、信徒が、所謂「三猿主義」(見ざる、聞かざる、言わざる)になってくれるのが最も好都合なのでしょうが、しかし、それでは本当の救いは生まれ得ない…。
そもそも、それは尊師の御教えを眩ますことにしかならない…。
今こそ、“破邪顕正”の勇気を奮い起こすトキだと信ずるものであります。
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