礼拝の本尊を変えたら、万教帰一の教えは成り立ちません… (12389) |
- 日時:2020年07月17日 (金) 18時04分
名前:破邪顕正
新編『生命の實相』第18巻「霊界篇」にこうあります(173頁)。
《日蓮宗が「南無妙法蓮華経」を礼拝の本尊にしているのも「生長の家」が「生命の実相」を礼拝の本尊にしているのも、真宗が「南無阿弥陀仏」を礼拝の本尊にしているのも「生長の家」に於てはすべて同じことになるのであります。キリスト教でも「アブラハムの生れぬ前から我はある」といったキリスト、「われは生命である、道である、真理である」といった永遠実相のキリスト、即ち肉体キリストではなく、真理そのものを本尊とする段になれば「生長の家」に一つに帰入してしまうのであります。》
ここにはっきりと示されていますように、「生命の実相」を礼拝の本尊にしているからこそ、日蓮宗も真宗もキリスト教も“「生長の家」に一つに帰入してしまうのであります。”
「實相」額の前にモノ≠置き、“造化の三神”を礼拝することは、この重大な教えを根本から踏みにじるものなのです。
『生命の實相』の教えに反して、果たしてそれで「生長の家」を名乗ることができるのでしょうか。
それで、果たして「万教帰一」の教えを説き得るのでしょうか。
それほど、本尊、礼拝の対象というのは、宗教上、とても重大なことなのです。
そのことが、少しも分かっていない…。
昔、私の先輩などは、よく「生長の家」の教えは大学院に相当する…。
そういう高い教えに触れ得たことに誇りをもたないといけないと口を酸っぱくして言っていたものです。
確かに、これほどの量の聖典は、どこの教団にもありはしません。
○○学会の人が「谷口雅春という人は、いったい何人いるんですか」と真顔で聞いてきたという話を伺ったことがあります。
所謂、ゴーストライターという人がいないと、ここまでの本は出し得ない、それが普通の感覚なのでしょう。
それを、尊師は、お一人で自ら執筆してこられたのです。
もう、それだけで、如何にスゴイことなのか…。
それなのに、“背教総裁”は、ここまで貶めてしまったのです…。
これを問題視しないで、いったいいつするのですか?
それが、今の私を奮い立たせる原動力となっているのです。
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