《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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「生長の家教規 第6章 本尊」を心読すれば、現総裁のことを“背教総裁”と言いたくなるのも無理はないとご理解いただけるでしょう… (12385)
日時:2020年07月16日 (木) 12時45分
名前:破邪顕正


宗教団体において、何より、大事なのは言うまでもなく本尊であります。

その本尊について、「生長の家教規」はこう記します。

〈第6条 この宗教の本尊は生長の家の大神と仮に称するも、その教義にては生長の家とは「大宇宙」の別名なれば、大宇宙の本体者の応現又は化現とみとめられる。正しき宗教の救いの本尊たるものは如何なる名称の神仏もわが宗教の本尊として礼拝するのである。但しこの宗教には社殿、仏殿等を設けず、あらゆる宗教の本尊の奥にある「實相」(唯一の真理)を礼拝の対象とするため『實相』の書を掲げるものとする。〉

ここに記されていることはどういうことか。

私なりに解釈してみます。

“本尊は生長の家の大神と仮に称するも、その教義にては生長の家とは「大宇宙」の別名なれば”

つまり、本尊は「生長の家の大神」である…。

しかし、それは“仮に称”しているものであって、“生長の家とは「大宇宙」の別名”であるから「大宇宙の大神」ということになる…。

その「大宇宙の大神」のことが、次にはこう表現されています。

“大宇宙の本体者の応現又は化現とみとめられる”

その「大宇宙の大神」のことがここでは「大宇宙の本体者」ということになり、その“応現又は化現”こそが本尊であるということを意味しているのです。

これをわかりやすくするために、「招神歌」で説明してみましょう。

第一首…生きとし生けるものを生かし給える御祖神元津霊

「御祖神元津霊」これが“大宇宙の本体者”ということになります。

『詳説 神想観』には、このことがこう説明されています(77頁)。

《生長の家の礼拝する本尊の神様は「生きとし生けるものを生かし給える御祖神」すなわち天地の主なる神様であります。その天地の主なる神の元津霊(大元霊)よりみたま先延え(元より先へ延長する意)頂いて生かされている。》

そして第四首…天地の祖神の道を伝えんと顕れましし生長の家大神守りませ

「天地の祖神」これもまた“大宇宙の本体者”であり、そこには神の道がある…。

それを伝えるために“顕れましし”

ここで「顕れる」というのが、先ほどの「第六条」にあるところの“応現又は化現”ということにあたります。

これを『詳説 神想観』は、どう説明しているか。

《天地の主なる神の道を示さんがため神の生命が方便神なる大天使としてあらわれ給うた生長の家大神の守護を祈るのが第四首の歌であります。》

ここには、“方便神なる大天使”という表現になっています。

つまり、“大宇宙の本体者”が“応現又は化現”して“方便神なる大天使としてあらわれ給うた”のが“生長の家の大神”ということになるのです。

まさしく、“生長の家の大神”とは応現神、方便神であり、具体的にそれが顕れたのが“住吉大神”であられるということなのです。

そのことは極めて重要なことで、『白鳩』誌・昭和48年3月号「十四日の箴言 絶対の神は、相対の人格神となって自己完成する」には、こう記されているのです。

《超越的絶対者は、それは絶対者≠ナあるが故に、われらに語りかけて対話を交えることはあり得ない。それ故に絶対者の慈悲を体現したところの相対的に顕現する人格神、又は天使、又は菩薩、又は教祖があらわれなければ絶対者はその救済を具体化することが出来ない。…神≠ェ救済を完うし得る本当の神となり得るためには、絶対者が相対的人格神としてあらわれて救済の御業を現実になさなければならない。即ち法身の阿彌陀佛が、報身又は応身の佛如来として顕現しなければならないし…天之御中主神が住吉大神として顕現しなければならないし、宇宙普遍の神が、ある教祖として顕現しなければならない。》

絶対者は相対的人格神としてあらわれてはじめて救済の御業を現実にすることができるということが大事なのです。

ですから、“天之御中主神が住吉大神として顕現しなければならないない”と記されてもいるのです。

にもかかわらず、“背教総裁”は、生長の家の本尊を“住吉大神”から“造化の三神”即ち“天之御中主神”に取り替えてしまったのです。

これは、明らかに、尊師の教えに真っ向から反しています。

これは、絶対に、やってはならないことなのです。

“天之御中主神が住吉大神として顕現しなければ”“その救済を具体化することが出来ない”からです。

もはや、こんなことをしてのけた以上、“造化の三神”教団から、救いのお働きは望み得ないと覚悟すべきです。

救いを求めて信仰している信徒に対する、これは明らかなる裏切りであります。

殆どの信徒は、その看板に「生長の家」とあるから、尊師の創始せられた「生長の家」と同じであると思い込んで、教団に所属しているのだと思います。

しかし、その中身たるや、本尊からして全く違ってしまっているのです。

本尊を取り替えてしまっているのに、看板だけは「生長の家」そのままにしている…。

この卑怯なやり方に対する、私なりの抗議の意思が、この“造化の三神”教団という呼称に込められているのです。



礼拝の本尊を変えたら、万教帰一の教えは成り立ちません… (12389)
日時:2020年07月17日 (金) 18時04分
名前:破邪顕正


新編『生命の實相』第18巻「霊界篇」にこうあります(173頁)。

《日蓮宗が「南無妙法蓮華経」を礼拝の本尊にしているのも「生長の家」が「生命の実相」を礼拝の本尊にしているのも、真宗が「南無阿弥陀仏」を礼拝の本尊にしているのも「生長の家」に於てはすべて同じことになるのであります。キリスト教でも「アブラハムの生れぬ前から我はある」といったキリスト、「われは生命である、道である、真理である」といった永遠実相のキリスト、即ち肉体キリストではなく、真理そのものを本尊とする段になれば「生長の家」に一つに帰入してしまうのであります。》

ここにはっきりと示されていますように、「生命の実相」を礼拝の本尊にしているからこそ、日蓮宗も真宗もキリスト教も“「生長の家」に一つに帰入してしまうのであります。”

「實相」額の前にモノ≠置き、“造化の三神”を礼拝することは、この重大な教えを根本から踏みにじるものなのです。

『生命の實相』の教えに反して、果たしてそれで「生長の家」を名乗ることができるのでしょうか。

それで、果たして「万教帰一」の教えを説き得るのでしょうか。

それほど、本尊、礼拝の対象というのは、宗教上、とても重大なことなのです。

そのことが、少しも分かっていない…。

昔、私の先輩などは、よく「生長の家」の教えは大学院に相当する…。

そういう高い教えに触れ得たことに誇りをもたないといけないと口を酸っぱくして言っていたものです。

確かに、これほどの量の聖典は、どこの教団にもありはしません。

○○学会の人が「谷口雅春という人は、いったい何人いるんですか」と真顔で聞いてきたという話を伺ったことがあります。

所謂、ゴーストライターという人がいないと、ここまでの本は出し得ない、それが普通の感覚なのでしょう。

それを、尊師は、お一人で自ら執筆してこられたのです。

もう、それだけで、如何にスゴイことなのか…。

それなのに、“背教総裁”は、ここまで貶めてしまったのです…。

これを問題視しないで、いったいいつするのですか?

それが、今の私を奮い立たせる原動力となっているのです。


“すばらしい宗教でしょう”という尊師のお言葉を、台無しにしてしまったのが“造化の三神”教団です… (12403)
日時:2020年07月22日 (水) 08時29分
名前:破邪顕正

表題は、岡正章氏のブログ「みすまるの珠」の「近況心境」に掲載された“571 本尊は外にはあらず、内にあり。”を読ませていただいて感じたことです。

詳細はそちらを御覧いただくとして、読者の皆様にご紹介したいのは、尊師のこのお言葉です。

《「悟りというものは、一切を外的原因だとして、責任を外に負わしていた者が、一転、一切の責任は自己にありと、脚下照顧、自己に反照して、一切万事吾より出でて吾に還ると知ることである。外に神を求め、社殿に廟宮に寺院に教会に跪(ひざまず)いて、此処に神仏があり自分を不幸にも幸福にもする力ありと思っていた迷信から一転して、汝の祖師、釈迦仏もキリストも汝の内にあり、功徳の本源は自己の内にありと自覚する事が真の宗教であるのである。」

 これが生長の家なんです。すばらしい宗教でしょう。いわゆるご利益信心みたいに、跪(ひざまず)いて、外に神を求め、社殿に、神社のやしろにあるいは廟宮に、どこかの寺院に、教会に、跪いて 「お蔭を下さい」 というような、そんなのは迷っている心であって、「自分の内に一切のものがあるんだ」 と、「念々の馳求(ちぐ)の心」、外へ求めて走りまわって得たいと欲(おも)う心を歇得(かつとく)せば、便(すなわ)ち祖仏と別(こと)ならず、祖神様なる仏さまと同じなんであると。

「功徳の本源は自己の内にありと自覚する事が真の宗教であるのである。引用せる臨済録の 『馳求(ちぐ)の心』 とは外に求める心であって、『外に求めていた心を歇(や)めてしまったら、汝は、便(すなわ)ち、今直(す)ぐ仏と同体だ。汝、仏が何処にあるかを知りたいと思うか。では教えてやろう。此の眼の前で仏法を聴いている其奴(そいつ)が仏その者じゃ』」 と、そういう意味がこれであると言って、説明が書いてあるわけなんであります。まことに素晴らしいことでしょう……》

ここにあります、“すばらしい宗教でしょう”という尊師のお言葉。

まさに、これがあったからこそ、私たちは、誇りをもって自信をもって伝道できたのではないでしょうか。

その精神がそのまま礼拝というかたちになっているのが「實相」礼拝に他なりません。

その「實相」額の前にモノ≠置く…。

しかも、その「實相」を隠さんばかりに、台座まで設け、あろうとことか礼拝の言葉から“「實相」額を通して”という文言まで排除する…。

それって、

“社殿に廟宮に寺院に教会に跪(ひざまず)いて、此処に神仏があり自分を不幸にも幸福にもする力ありと思っていた迷信”

そのものではないのですか?

これは、尊師の御教えを台無しにするも同然の愚行です…。

御教えに対する完全な反逆であり、裏切りです…。

“造化の三神”教団は、本来の「生長の家」に非ず、似而非教団なり…。

改めて、そう申し上げたいと思います。




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