《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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「無所属」さん、本当に、これは“名言”に値するものなのでしょうか… (12371)
日時:2020年07月13日 (月) 18時07分
名前:破邪顕正

所謂「トキ」掲示板に、こういう投稿がありました。

…………………………………………

tapirさん名言 (30473)
日時:2020年07月11日 (土) 23時12分
名前:無所属
仮に谷口雅宣先生が「諸悪不幸」の原因だとしても、その方を引き付けた「生長の家教団」、その方から不当な扱いを受けた自分にも「諸悪不幸」を引き寄せる原因があった、その原因をなくすにはどうしたらよいのか、そこに思いを至らせるところに、真の生長の家の価値があると思います。

“諸悪不幸のすべては責任を他に転嫁するところから始まる”

この言葉を、重く受け止めなければなりません。私自身への問いでもあります。生長の家信徒であれば、それぞれが自己に問いかけるべきことであると思います。

なぜ、自分は「諸悪不幸」を呼び寄せたのか、そこに立ち会う結果になってしまったのはなぜか? その反省がなければ、自己の内にある「諸悪不幸を引き付ける原因」は消えません。そうなれば、一つの不幸が去っても、次の不幸がやってきます。同じことが繰り返されます。

………………………………

ここに紹介されているものは、以前、「tapir」さんが、私に向けて投稿されたものであります。

勿論、これについて、私なりに回答させていただきましたが、この“名言”と言われる部分については、直接、言及することは差し控えさせていただきました。

もちろん、私なりに思うところはありましたが…。

ところが、今回、「無所属」さんが、これを取り上げてくださいました。

しかも、敢えて、“tapirさん名言”とまで題して…。

“名言”と言われる以上は、そこに「無所属」さんなりの思い入れがあるのでありましょう。

そこまで言われるのであれば、当初、控えさせていただいた思いを、ここで述べさせていただくのも、意味あることなのかなと思った次第です。

「無所属」さんには、投稿の機会を与えていただいたことに心から感謝申し上げます。

前置きが長くなりました。

本題に入ります。

生長の家の教えの一つに、ご存じのように「心の法則」というのがあります。

で、この「心の法則」というのは、相手を裁くのに、これ以上のものはありません。

実に切れ味鋭く、相手をギャフンと言わせるに充分な効果を発揮します。

だからこそ、これを用いるに当たっては、細心の注意が必要なのです。

私はある先輩講師から言われた言葉を今なお、忘れることはできません。

「心の法則」は自分を省みる際にのみ使うべし。

相手に対して用いるべきではない…。

その「心の法則」で裁かれたために、それがきっかけで「生長の家」が嫌になったという人をたくさん見てきたから…。

私のいいたいことは、こういうことです。

「無所属」さんが引用した冒頭の言葉を、次のように言い換えて、果たして“名言”といえるか、ということなのです。

〈仮に占領憲法が「諸悪不幸」の原因だとしても、その占領軍を引き付けた尊師・谷口雅春先生、その占領軍から執筆追放という不当な扱いを受けた尊師にも「諸悪不幸」を引き寄せる原因があった、その原因をなくすにはどうしたらよいのか、そこに思いを至らせるところに、真の生長の家の価値があると思います。〉

こんなことはとてもではないが、尊師に対して、言うことはできませんでしょう。

いいえ、それは尊師に対してばかりではありません。

あなたの「諸悪不幸」は、あなたにそれを引き寄せる原因があったからこそ…。

そう言ってしまったら、それこそ、相手を裁く言葉にしかなりはしません…。

自分の心のどういうところが、そういう運命、境遇を引き寄せたのか…。

自分で自分の心を振り返る、その鏡として用いるのであればいいのです。

しかし、それを他人から言われて、果たして言われた人はどう思うでしょうか…。

だから、「心の法則」は、“人・時・所三相応”ということを常に意識して、心して用いなければならないと思うのです。

更に言わせていただけば、“不当な扱いを受けた”ことは、果たして「不幸」なことだったのかということも合わせて指摘されなければなりません。

つまり、“不当な扱いを受けた”くないために、何も言わない、何も行動しないということが、果たして「好い」ことなのかどうか…。

「不当な扱い」が却って、運命を大きく好転さすきっかけとなったとすれば、それは決して「不幸」とは言えないのではありませんか。

「不当な扱い」結構。

その不当が、却って“不撓”不屈の精神を磨き上げたとすれば、如何でしょうか。

私は思うのです。

「原因をなくすにはどうしたらよいのか」

そこに価値があるのではない。

その原因がもたらした「結果」をどう受け止め、そこからどんな人生を切り拓いていくのか。

そちらの方にこそ、私は“真の生長の家の価値があると思います。”

そうでないと、「結果」を恐れるの余り、勇気が出ない、冒険できない、チャレンジできない…。

そういうことになりはしませんでしょうか。

何故、こういうことを申し上げたか。

“「諸悪不幸」を引き寄せる原因があった”

その「原因」にとらわれていたら、「谷口雅春先生を学ぶ会」は生まれていなかったと思うからです。

「不当な扱い」を受けたればこそ、“ナニクソ”という精神が引き出されて、宗教法人という資格も取得することができたと思うからです。

“ナニクソ”とは漢字では「何苦礎」と書きます。

“何”でも“苦”い経験を“礎”とするという意味です…。

出てきた「結果」をどう受け止め、それをどうプラスに転ずるか。

それが信仰の醍醐味というものではないでしょうか。


「本流ウォッチャー」さんにも、投稿の機会を与えてくださったことに感謝申し上げます… (12375)
日時:2020年07月14日 (火) 10時14分
名前:破邪顕正


有難いことに、所謂「トキ」掲示板に、こういう投稿がありました。

…………………………

破邪氏の迷言 (30638)
日時:2020年07月13日 (月) 23時19分
名前:本流ウォッチャー
「不当な扱い」を受けたればこそ、“ナニクソ”という精神が引き出されて、宗教法人という資格も取得することができたと思うからです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

破邪氏が正直に述べています。

さらに、心の法則は人を裁くために使ってはいけないとまで語っています。

ところが、彼は言葉の力を使って背教総裁と雅宣氏を批判しています。

心の法則は言葉の力により動力となるものです。

言葉で批判を続けるものが心の法則で人を裁くなという彼の発言に
みなさんは、どのように思いますか。

子供の教育でも、お前はダメな子だという親が
子供の本来の神性を開発した例はありません。

子供だけの問題ではありません。

谷口雅春先生の教えに学んでいるのでしょうか。

…………………………

この投稿、“破邪氏の迷言”というタイトルになっています。

私が「これは“名言”に値するものなのでしょうか」と申し上げたことに対して、「本流ウォッチャー」さんは、それを多分に意識なされて、“迷言”と返されたのだと推察いたします。

しかし、それって、明らかに、私に対する“批判”の思いが込められていますよね…。

「谷口雅春先生の教えに学んでいるのでしょうか。」と書いてありますから、その理解に間違いは無いと判断いたします。

何を申し上げたいか。

「本流ウォッチャー」さんも、結局、“心の法則は言葉の力により動力となるもの”によって、私を「口撃」なさっていることに違いは無い…。

何も、こう言ったからといって、私はその「批判」「口撃」がいけないと言っているのではないのです。

以前にも申し上げたかと思いますが、それがいけないとなったら、こういう「掲示板」など成り立ちはしないと思うからです。

批判する自由、口撃する自由は、何人にも保証されなければなりません。

それが保証されないのでは、まさしく、中国共産党と同じになってしまいますから…。

さて、それを前提にして、今回、私が申し上げたいのは、こういうことです。

「本流ウォッチャー」さんはこう書いています。

「言葉で批判を続けるものが心の法則で人を裁くなという彼の発言にみなさんは、どのように思いますか。」

よく読んでほしいのですが、私はこう書いたはずです。

〉“「心の法則」は、“人・時・所三相応”ということを常に意識して、心して用いなければならないと思うのです。〈

なるほど、私は、現総裁に対して“背教総裁”と申し上げております。

それは相手が「生長の家総裁」だからこそです。

“法燈継承者”とされているからこそです。

しかし、私に言わせれば、その「法燈」を破壊しているとしか思い得ないから、“背教総裁”と申し上げることにしたわけです。

「本流ウォッチャー」さんが投稿されている、所謂「トキ」掲示板には、安倍首相について“売国奴”と悪し様に言う投稿だってあるではありませんか。

それは「首相」である以上は、そういう批判に晒されてもやむを得ない、私はそう思っています。

“人・時・所三相応”即ち、だれに向かって、いつ、どこで、言うのか、それはとても大事なことなのだと言いたいのです。

何故、これを言うのか、お分かりですか。

「本流ウォッチャー」さんが、「子供の教育でも」と子供のことを引き合いに出されて言われたからなのです。

「総裁」と「子供」とを同列に論ずる神経が私には理解できません。

それこそ、「総裁」を子供扱いして、却ってそれは「総裁」に対して失礼に当たるのではありませんか。

それとも何でしょうか…。

「本流ウォッチャー」さんは、もしかして「総裁先生は素晴らしい」とヨイショだけしていれば、いい子に育つ…。

そんな風にお考えなのでしょうか。

「総裁」が教団に乗り込んできて、いったい、何年、経つと思っておられるんですか…。

もう、30余年も経っているんですよ。

しかも、その間に、教勢は半減。

70万名を優に超していた聖使命会員が今や35万名台にまで落ち込んでいるんですよ。

「総裁」として、当然、その責任は問われなくてはならないのではありませんか。

批判に晒されても致し方ないのではありませんか。

「本流ウォッチャー」さんに敢えて、申し上げるとすれば、私の“背教総裁”批判をこういうレベルで貶めるのではなくて、正々堂々と、“総裁先生”を擁護する論陣を張るべきなのです。

批判論には、擁護論をもって相対すべきである…。

そうすることが、読者の皆様にとっても、実に有益であると思うものであります。

ただ、「本流ウォッチャー」さんの投稿によって、こういう形で、私の思いを述べさせていただく機会をいただきましたことについては、心から感謝申し上げる次第です。



かくすればかくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂=i吉田松陰先生)「原因」に拘ったらこの歌は生まれ得なかった…。 (12376)
日時:2020年07月15日 (水) 08時29分
名前:破邪顕正


「原因をなくすにはどうしたらよいのか」

これは、一人ひとりの生き方を問う、実に重大な命題をつきつけていると思っています。

それをそのまま受け入れたら、表題に掲げた吉田松陰先生の歌はあり得なかったでしょう。

ご存じのように、この歌は獄中で詠まれたものです。

異国の優れた技術の前にして、今の鎖国体制では到底、太刀打ちできない…。

そのことがわかっていた松陰先生にとって、密航することはそのまま死罪になる…。

そのことも充分にご存じであった…。

しかし、このままではアヘン戦争後の清国のように日本も欧米列強の奴隷とされてしまう…。

何とかしなければ…。

祖国・日本をひたすら思うが故の、この募る危機感。

それが松陰先生をして国禁を犯さしめたわけです。

その結果はご存じのとおりです。

「武蔵の野辺に朽ちる」こととなるわけです。

身はたとい武蔵の野辺に朽ちるとも 留めおかまし大和魂

しかし、その死が、後に、明治維新の扉を開くきっかけともなっていくわけです。

私は敢えて申し上げます。

時として、「不当な扱い」を受けることも覚悟すべきであると。

教団を糺すと決意した以上は、糺されたくない教団側からしてみれば、それは「不当」でも何でも無い、「当然の扱い」ということになるのです。

つまり、「不当」かどうかは、立ち位置で変わるということです。

「原因をなくすにはどうしたらよいのか」

答えは簡単です。

総裁先生にハイ≠オたらいいだけのことなのです。

新編『生命の實相』の最新刊、第41巻「教育実践篇」に、尊師のこういうお言葉が出てきます(30頁)。

《なるべく多くの人を雇いたいと思っているのですけれども、無暗に失業者が可哀相だといって光明思想を生活にそのままに生きて行けない異分子を雇って入り込ませるということはこの中を撹乱してしまうということになるのです。それですから、臨時傭であるとか、忙しいからといって無暗に本当の生長の家になり切らない人を入れるということは私は遠慮したいと思うのです。》

ここに“異分子”という言葉が出てきます。

“背教総裁”が私どもを“異分子”として排除したのも、なるほど当然と言えば当然のことだったと思うのです。

私どもからすれば、「総裁」こそが“異分子”なのですけれど…。

そう考えると、教団を糺すと決意した以上は、それこそ「かくすればかくなるものと知りながら」…。

「不当な扱い」を受けることも覚悟するしかないということです。

何を申し上げたいか。

問題は、その「原因」にあるのではない。

当然、その「原因」がもたらす「結果」を承知の上で、覚悟の上で、そこからどう生きて行くのか。

どう、行動していくのか。

それに尽きるということです。

そして、そのとき、本当に、この真理が救いとなる。

生きて行く上での支えとなる。

或いは、先人達の生き方が背中を押してくれる。

そういうことを申し上げておきたいと思います。


「言葉の力を知っているのであれば、それを批判に使うべきではない」という論理は正しいか? (12382)
日時:2020年07月16日 (木) 08時29分
名前:破邪顕正


どうして、このことを問うかと申しますと、これを容認したら、言論の応答、思想論争は成立しないと思うからです。

そして、自らの思想が錬磨されることもなくなってしまう…。

そもそも、尊師ご自身、共産主義に対して“赤き竜”として、舌鋒鋭く批判してこられたことはご存じの通りです。

或いは、○○学会に対しても同様です。

“虚説”に対しては、決して妥協を許さない…。

そのご精神を、私どもは尊師から学んできたはずです。

ですから、表題のようなことは、尊師の教えに照らしても正当化しえないと思うものであります。

なお、私の投稿に対して「ウンザリだ」と仰った方もあるようです。

しかし、その一方で、「目覚めた」という方もあるわけです。

何が正しかったのか…。

それは時間が経ってみないとわからないということもあります。

だからこそ、その都度、「ウンザリ」と言われようが、自らの思うところを忌憚なく申し上げさせていただく…。

時を経ても決して古びることのないような投稿を…。

それが自らに言い聞かせている心がけでもあります。

本質を穿つものであれば、決して古びることはない、というのが私の信念であり信条でもあります。

そして、その本質を穿つことこそが、“造化の三神”教団を糺す、唯一の道であり、信徒の目覚めに貢献しうる大いなる道でもあると確信しております。




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