《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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『聖光録』にあって『“新しい文明”を築こう』から削除されたものを見て、“背教総裁”の考えが見えてきます… (12368)
日時:2020年07月12日 (日) 14時22分
名前:破邪顕正

飛田給の新春練成会で、ある講師が「大日本神国観」を実修しました。

すると、それが問題視されました。

で、どうなったか。

言わずともおわかりでしょう。

以来、だれも実修しなくなりました。

これが「空気の支配」というものなのです。

何も、面と向かって「実修するな」とは言わないのです。

ただ、如何なものかな…、そういう空気をつくるのです。

すると、だれも実修しなくなる…。

どうして、こういう話をしたかというと、今回の投稿で、宇治では実修しているという“事実”が明らかにされました。

私、予言しておきます。

これで、宇治では、「大日本神国観」の実修は沙汰止みとなります…。

飛田給と同じように、必ず、これを問題視する人が出てくるからです…。

前置きが長くなりました。

どうして、こう予言するのか。

ここからが、表題に関することなのですが、『聖光録』にあって『“新しい文明”を築こう』から削除されたもの。

その一つを紹介します。

『“新しい文明”を築こう』「中巻」に「祖先供養及び霊魂祭祀の方法(要項)」という箇所があります(248頁)。

それは『聖光録』にも「祖先供養及び霊魂祭祀の祭式・儀礼(要項)」として掲載されています(183頁)。

ところが、「中巻」では、『聖光録』にある「毎日の祖先礼拝の注意」というご文章が、スッポリ、抜け落ちているのです。

さて、そこには、どんなことが記されているか…。

《私達日本人の祖先は天皇中心の愛国者であったので、その様な祖先の霊魂の冥福と守護を祈願する時、皇霊を遙拝し時間の許す限り大日本神国観≠フ神想観を厳修されるがよい。『生命の實相』頭注版第二十八巻には、「毎朝、皇霊を遙拝し奉り、次で一家の祖先の霊魂を祀れる祭壇又は仏壇の前に坐してその冥福と守護を祈願し…」と書かれてある。》

お分かりいただいたでしょうか。

これを削除するということは、もはや“背教総裁”の意志ははっきりとしている…。

そうです、「大日本神国観」は排除する…。

だから、宇治でだけ、それが容認されるということは、あり得ない…。

これまでの流れから言って、当然、そうなると予言できるのです。

ただ、今回のことで、関係者に迷惑がかからなければいいがなとそればかりが気がかりですが…。


たぶん、また…そうなるのでしょうね。 (12369)
日時:2020年07月12日 (日) 23時27分
名前:月見草

大変お気の毒なことですが…。

当然のことをしておられるのに、「大日本神国観」も出来なくなるなんて。

何か良い知恵はないものでしょうか?


ただ、宇治では、これ迄も本部のM氏に通報されて処分された講師があったように聞いていますが、今回は密告されなかったのですね。


「月見草」さんへ。これで“造化の三神”教団と「谷口雅春先生を学ぶ会」教団との違いが明確になります… (12374)
日時:2020年07月14日 (火) 09時17分
名前:破邪顕正


投稿、ありがとうございました。

おそらく、公的には、“造化の三神”教団で、「大日本神国観」を実修することはないと考えるべきでしょう。

後は、個人として、実修するしかないように思います。

でも、これで、私は却って好かったと思っています。

その理由を申し上げさせていただきます。

私は、以前、この「大日本神国観」の重要性について、こう投稿したことがあります。

………………………………

何かと言えば生長の家は中心帰一だから…≠ニ言われる向きへ (10804)
日時:2019年03月31日 (日) 19時11分
名前:破邪顕正

ある会員の方から、「生長の家は中心帰一!と言われて返答に窮してしまいました。こういうときには、どう返したらいいのでしょうか?」というご質問をいただきました。

教団では、常に、この中心帰一≠ェ言われているようです。

答えは簡単です。

標題に書きましたが、生長の家は中心帰一だから…≠アの「…」に何を入れるかで全ては決まるということです。

さしずめ、教団は、生長の家は中心帰一だから、総裁先生に中心帰一しなさい≠ニいうように使っていると思うわけです。

で、続けて「生長の家大神−総裁・副総裁−御教」これを頻りに刷り込んでくる…。

しかし、私は、尊師・谷口雅春先生の教えからすれば、こうなると思うのです。

生長の家は中心帰一だから、「大日本神国観」を実修しなさい

生長の家は、「神想観に始まり神想観で終わる」そういう教えだと思うのです。

だから、『人生の秘訣365章』は、こういうわけでしょう。

《生長の家の誌友でありながら、神想観をしない人があるのは誠に不思議なことなのである。

聖典を読むのは、無限の宝が充ちている未知の世界に旅行するための旅行案内書を読んで、どこに行きどうしてその無限の宝を発見し得るかの手段を知らされるようなものである。

神想観は、案内書によって知った「未知の宝庫」に直接触れる途なのである。

神想観を毎日励まないでいて、「私は生長の家です」というのは少々無理である。》(285〜286頁)

生長の家を名乗るには、やはり神想観を実修しなくてはならない。

その神想観の念ずる言葉の中で「中心帰一」が出て来るのは「大日本神国観」であります。

そして、それが如何に重要な神想観であるか。

『生長の家五十年史』はこう言います。

《生長の家の瞑想法である神想観は、まず現象界の存在の完全否定の後、自らを神の個性的顕現者としての自覚に高めて行なわれる絶対力の行≠ナあるが、谷口先生によって、かかる「神我一体」の自覚の深化を主眼とする「基本的神想観」を第一段階として、この「大日本神国観」を最終段階とする十六種の神想観が説かれている。

最終段階の「大日本神国観」は、「天皇」という実相世界の中心者の生命に帰一することを教えるが故に、人類光明化という大業の実現には、極めて重要な役割をもつものであり、言わばその中心的役割を果すものである。

そして人類を最大最勝の中心に帰一せしめるという意味において、この「大日本神国観」は従来の世界の瞑想法はもとより「生長の家」の全ての神想観を完成するものと言えるのである。》(482頁)

神想観を完成するもの

それが「大日本神国観」であるならば、その実修をしないのでは生長の家とは言えないと思うのです。

だから、私はこう応えたらいいと思っています。

教団組織の方が、生長の家は中心帰一だから…≠ニ言ってきたら、だったら、当然「大日本神国観」を実修するようにと徹底的にご指導されているのでしょうね≠ニ言い返したらいい。

もし、そういう指導がなされていないならば、生長の家は中心帰一だから…≠フ本当の教えがわかっていないということになる…。

そう言ってさしあげたらいいというのが私の考えです。

現場での様々な問題、返答に困るようなことがあれば、少しでもお役立ちしていきたい…。

この掲示板をそのような場として、私は活用していきたいと思っております。

………………………………

神想観を完成する=u大日本神国観」を実修しないということは、とりもなおさず、尊師の本当のお悟りを得ることは出来ない…。

つまり、“造化の三神”教団にいては、尊師の御教えは、伝わらないということを意味するのです。

ここに、新たに宗教法人を取得した「谷口雅春先生を学ぶ会」の存在意義が、俄然、高まってくることになります。

“造化の三神”教団と新たな「谷口雅春先生を学ぶ会」教団との違いは、奈辺にあるか。

その一つとして、この「大日本神国観」「宇宙浄化の祈り」を実修し得るか否か、それを示していくことで明らかにできる…。

それは、非常に大事な観点なのではないのか…。

今後、吾らの運動は、何故、「谷口雅春先生を学ぶ会」教団が誕生したのか、その必然性、その今日的意義をどんどん伝えていくことにあります。

その意味で、今回のことは、大いなる追い風になると私は思っております。


「破邪顕正」様へ。「谷口雅春先生を学ぶ会」が誕生し、そして、宗教法人を取得したことの 大いなる意義が 益々 明らかになりましたね。  (12380)
日時:2020年07月15日 (水) 23時38分
名前:月見草

過去のご投稿より、「大日本神国観」が如何に重要な神想観であるかを確認できて、はっきりと解らせて頂きました。有り難うございます。

“今後、吾らの運動は、何故、「谷口雅春先生を学ぶ会」教団が誕生したのか、その必然性、その今日的意義をどんどん伝えていくことにあります。”

しっかり「大日本神国観」「宇宙浄化の祈り」を実修し、皆様と運動を展開していける一員となれるように 精進してまいります。

尊師への報恩感謝の思いで、教団信徒を“折伏”する時代へ (12384)
日時:2020年07月16日 (木) 09時39分
名前:破邪顕正


「月見草」さん、再びの投稿、誠にありがとうございました。

最近、発刊されました新編『生命の實相』第41巻「教育実践篇」に尊師・谷口雅春先生のこういうお言葉が出てまいります(103頁)。

《宗教とは何であるかという問題に対して「一つの尊敬すべき人格の周囲に集った人々の団体である」というような定義を下しておられた人がありました。》

確かに、「生長の家」教団は、尊師の人格に触れて、それに惹かれた多くの人々が相集い、飛躍・発展してまいりました。

それを今に伝えるのが『谷口雅春先生のご日常』(栗原得二・著)です。

その中に「報恩」と題する文章があります(137頁〜)。

〈吾々も、吾々を導いて下さった先輩その他の方々に対して、絶対に報恩せねばならないことをお示しになっているのではありませんでしょうか。…恩とは「因(もと)の心」と書きます。根元をつちかわねば枝葉は繁るものではないのです。〉

私たちが今あるのも、尊師との出会いがあればこそです。

常に、報恩感謝の真心で日々、精進していかなければならないと思います。

それでは、今、この時に、どうやって報恩の誠を献げたらいいのか。

私は、それには、今の教団を「生長の家」と“錯覚”してしまっている信徒を“折伏”することにあるのではないのか…。

“折伏”と言えば、○○学会を想起しますが、実は尊師もそのお言葉をお使いになっておられるのです。

新装新版『真理』第6巻「人生篇」の第七章「果して讃めるばかりが好いか」(62頁〜)をご紹介します。

冒頭、宮川修氏が、谷口雅春先生がある記事を指摘して「非なりとして攻撃されて」いるのは、「他人の悪を攻撃する勿れ」という“真理”と相矛盾するのではないかと質問されます。

それに対する尊師のお答えが極めて重要なのです。

《御たずねに関しては『生命の實相』倫理篇の終に近きところに、詳しく説明してございますから、それをお読み下さいませ。その要点を摘記しますと、「非真理」を駁撃するのは「真理」を宣揚し、「真理」を却って調和する所以となると云う一語につきるのであります。相手の「非真理」を絶滅し、「真理」を宣揚するのには「讃嘆門」と「折伏門」とがありますが、生長の家では「讃嘆門」をより多く使っているのであります。人、時、処三相応と云う事を言っていまして、讃嘆以外に採るべき手段を失ってしまうときは、自由を失うのであります。だから生長の家は「ねばならぬを解放する教」とも云われております。…その人の説くことが「非真理」であれば、非真理崇拝者(迷える人、救われない人、真理帰一に背く人)が多く出来る。これはそれらの人の為にも国家の為にも甚だよくないことなのであります。》(63〜65頁)

私は、“背教総裁”に率いられた“造化の三神”教団は、ここで尊師が仰っている

“その人の説くことが「非真理」であれば、非真理崇拝者(迷える人、救われない人、真理帰一に背く人)が多く出来る。これはそれらの人の為にも国家の為にも甚だよくないことなのであります。”

それにまさしく、該当するものであると思うものであります。

だから、はっきりと「折伏門」で臨まなければならない…。

それには、どうするか。

その一助として、「大日本神国観」の素晴らしさをお伝えする…。

有難いことに、この「大日本神国観」の著作権は、私どもの方にあります。

遠慮無く、堂々と、お伝えできます。

自ら実修し、その喜び、感激をぜひ、信徒の皆様にお伝えしていく…。

それが伝われば、どうして、こんなに素晴らしい神想観を排除するのか。

信徒も、それをオカシイと思うはずです。

素晴らしいものを敢えて隠す…。

そういうところから、不信感というものは生ずるものです。

ですから、まずは、素晴らしさをお伝えすることから始める…。

それが私の言う“折伏”であります。

如何にして、教団信徒を目覚めさせ得るか。

自らの信仰が試されています。

ともに、切磋琢磨して、尊師への報恩感謝の人生を歩んでまいりましょう。


「破邪顕正」様へ (12392)
日時:2020年07月19日 (日) 18時40分
名前:月見草

これから残りの人生、“尊師への報恩感謝の人生”ですね。

嬉しいです🎵 とても有難いことです。


『谷口雅春先生のご日常』(栗原得二・著) を拝読し始めて まだ途中ですが、

素晴らしい 有難いありがたいご本ですね! 沢山の方にお勧めしたいです。

今の教団は“異教徒”の教えとしか思えないから、そこを指摘しているということをご理解いただきたいですね… (12434)
日時:2020年07月27日 (月) 16時10分
名前:破邪顕正


頭注版『生命の實相』第30巻「児童教育篇 聖典講義篇」にこういうご文章があります。

《裁縫にも不要な巾は裁って捨てなければならない。事務の上にも小さな無駄でも切り捨てる必要があります。事務上の無駄や欠点を除くように指摘したからといって、「先生は人を審いた」と言うのはまちがいであります。教えの上にも同じことでありまして、イエスも釈迦も異教徒の教えの欠点を指摘してその欠点を廃除して、裁縫の「裁」を行ない、さらにそれを総合統一して裁縫の「縫」を行ない、かくのごとくして初めて、イエスや釈迦の天衣無縫の教えというものができているのであります。「審くな」ということはあくまでも、「人を審くな」ということであって、「事務を審くな」ということではないことに注意しないと実際生活が成り立たないことになり、あらゆる所に「ものを審く人」のみを見出して、この世がいやになり、社会がいやになり、団体がいやになって、生長の家は教えはよい教えだが、実際生活に行なえぬなどということになるのであります。》

私どもが相手にしているのは、あくまでも、総裁が説いている教え、そのものなのです。

尊師の教えから言えば、もはや、それは“異教徒”の教えというほかはない…。

だから、どこがどのように違うのか、それを明らかにしようとしているだけなのです。

そこのところをぜひ、理解してほしいと思いますね。

それが報恩感謝の誠を献げるということなのだと私は思っています。






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