《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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今回の「通達」は読めば読むほど頭の中が混乱をきたすばかり。言っていることが自己矛盾、自己撞着に陥り、支離滅裂である。これでは信徒は救われない… (12102)
日時:2020年06月05日 (金) 09時03分
名前:破邪顕正


表題は、「通達」の6頁に記されている、次の文章を読んでの実感です。

〈①實相額の手前に“造化の三神”の神霊符を納めた三社造りの社を祭祀するのは、高御産巣日神と神産巣日神が、無限内容をもつ実相のうち、「ムスビ」の働きを表した神名だからです。この三柱の神々(を天之御中主大神の両側に配置した“造化の三神”の神霊符)を實相額の手前に祭祀することにより、高御産巣日神と神産巣日神が無限内容の実相の「ムスビ」の働きを表したものであることを、視覚的に表現しています。そして、“造化の三神”の神霊符の真ん中には宇宙の本源の普遍神である天之御中主大神が祀られており、生長の家では、宇宙本源の唯一絶対神への中心帰一を重視しますから、その「中心帰ー」を視覚的に表現するため、實相額を中心に見立てて、その正面に“造化の三神”の神霊符を祭祀します。〉

こういうのを悪文の極みというのではないでしょうか。

誰が書いたのか知りませんが、案外、書いた本人も自分が何を言っているのか、分かっていないのではないでしょうか。

読んでいて、何を言いたいのか、さっぱりわからないのですから…。

さて、この文章は、3つのセンテンスから成り立っています。

その一つずつを紹介しながら、その問題点を浮き彫りにしていきたいと思います。

〈“造化の三神”の神霊符を納めた三社造りの社を祭祀するのは、高御産巣日神と神産巣日神が、無限内容をもつ実相のうち、「ムスビ」の働きを表した神名だからです。〉

実相とは無限内容をもつ…。

それはその通りです。

ところが、にもかかわらず、その無限内容のうちの「ムスビ」の働きだけをとりあげるというのです。

どうして、無限内容のうちから、「ムスビ」の働きだけをとりあげないといけないのか、その必然性が皆目、わかりません。

「ムスビ」の働きだけをとりあげた瞬間、もはや無限内容ではなくなってしまうのではありませんか。

よし、どうしても「ムスビ」の働きだけをとりあげたいというのであれば、「高御産巣日神」と「神産巣日神」だけで良かったのではありませんか。

なぜ、そこに、「天之御中主大神」まで一緒にしたのですか…。

いや、それは分けられないんだ、“造化の三神”として一体だから…。

そういうのであれば、〝「ムスビ」の働きを表した神名だから〟という理由が、却って「天之御中主大神」を外すような格好となってしまい、既にそこからして、もう論理が破綻してしまっているのです。

結局、こうなってしまうのは、無限内容のうちから「ムスビ」の働きだけをとりあげたいと考えたことに由来します。

問題は、何故、そこまでして「ムスビ」の働きだけをとりあげなければならなかったのか、すべてはそこに帰着します。

それを突き詰めていくと、やはり、何としても「住吉大神」を外したかった…。

はじめに「住吉大神」外しありきがあった…。

そうするには、「住吉大神」より格上の神様をもってくるのがいい…。

そこで、選ばれたのが“造化の三神”であった…。

ちょうどいい具合に、その神名の中には「ムスビ」が入っている…。

この「ムスビ」については、尊師もよくお話になっていた…。

新編『生命の實相』第19巻「万教帰一篇」にも、こうあります(41頁)。

《「創造」ということを日本の古典では「産霊(むすび)」といっています。物質を生むのではなく「産霊」すなわち霊を産むのであるから面白いではありませんか。》

なるほど、「住吉大神」外しには、“造化の三神”はもってこいの神様だ…。

自分の思惑を遂げるためには、神様だって何だって利用する…。

まさしく、総裁の面目躍如というところか…。

しかし、ここで立ち塞がったのが、尊師の「教義」でありました。

「万教帰一の神示」に『吾れに神殿は不要である』とあるからです。

即ち、尊師の「教義」に従えば、絶対神は祀ってはならない。

そもそも、祀られるべきものではないのです。

でも、そこが総裁の凄いところです。

それはあくまでも尊師の時代の話。

時は移り、教えは時とともに変わる…。

今は私が総裁だ、私の言うことが新たな「教義」なのだ…。

それで押し通すことにしたということなのです。

何度も申し上げますが、すべては「住吉大神」を外したいという総裁の思惑から出発したことなのです。

それを無理に正当化しようとするから、却って突っ込みどころ満載の文章になってしまうのです。

この続きは、稿を改めて書くことにします。


“視覚的に表現しています”と言ったために、聖なるべき「實相」礼拝が台無しになってしまうという、これは悪しき見本なり… (12107)
日時:2020年06月06日 (土) 10時24分
名前:破邪顕正


それでは、次の文章に移ります。

〈この三柱の神々(を天之御中主大神の両側に配置した“造化の三神”の神霊符)を實相額の手前に祭祀することにより、高御産巣日神と神産巣日神が無限内容の実相の「ムスビ」の働きを表したものであることを、視覚的に表現しています。〉

“視覚的に表現しています”

ここに言う「視覚的に」というのは、言うまでもなく、間伐材等に記された神霊符の〝神名〟を指します。

この〝神名〟が視覚に入った瞬間、人は、その〝神名〟よりも、その字に関心がいきます。

これは、一体、誰が書いたの?

これは、一体、いくらしたの?

そこに関心が移ってしまう…。

それが視覚という“五官”がもたらす世界なのです。

で、総本山職員が書いたもので2,000円以上の奉納金でもとめたものである、ということが知らされる…。

その瞬間、信徒の心にどういう思いが生ずるか…。

「何でも鑑定団」という番組があります。

ホンモノかニセモノかを鑑定する番組ですが、ニセモノという鑑定がでると思わず失笑が起きる…。

そんな場面によく出会いますが、“視覚的に表現しています”と言ったために、同様のことが起きないと、どうして言えましょうか。

ましてや、その奥には、尊師のお書きになられた「實相」の文字があるわけです。

どうして、そういうものの前に、こんな〝シロモノ〟を置かないといけないのか?

ホンモノの前にニセモノが置かれ、そのニセモノを礼拝せよ、と言われたら、普通、どう思います?

「やってられない」

普通の信徒であれば、そう思うのではありませんか。

“視覚的に表現しています”と言ったばっかりに、立教以来、90年もの長きにわたって守られてきた「實相」礼拝という荘厳であるべきはずの宗教的雰囲気が根底から覆されてしまう…。

「視覚的に」という、その五官がもたらす世界の、オソロシイ、オゾマシイところが、まさにそこなのです。

これでは、折角の〝神名〟までもが無残なものになってしまう…。

如何に、“無限内容の実相の「ムスビ」の働きを表し”ていると謳おうとも、「視覚的に」と言ったために、却って現象世界に引き戻されてしまう…。

これでは、「實相」礼拝を根本的に破壊しようとしているとしか思えないというのも、決して無理もないのではないでしょうか。


“「生長の家」の本尊は「生命の実相」”これを完全に無視し“「中心帰ー」を視覚的に表現する”という、とても考えられないことを強要している… (12114)
日時:2020年06月07日 (日) 08時56分
名前:破邪顕正


いよいよ最後の一文です。

〈“造化の三神”の神霊符の真ん中には宇宙の本源の普遍神である天之御中主大神が祀られており、生長の家では、宇宙本源の唯一絶対神への中心帰一を重視しますから、その「中心帰ー」を視覚的に表現するため、實相額を中心に見立てて、その正面に“造化の三神”の神霊符を祭祀します。〉

まずは、〈宇宙の本源の普遍神である天之御中主大神が祀られており〉という文章が、そもそも尊師の教えに従えば間違っているのです。

このことは、これまで何度も指摘してきましたが、実に重要なポイントなので、ここでも言及することにいたします。

“宇宙の本源の普遍神”は、果たして祀られるべき対象となり得るのか…。

それを正当化し得る典拠が一切、詳らかにされてはいません。

結局は、尊師の教えは一切、関係ありませんと言っているのも、これは同然のことなのです。

次の文章に移ります。

〈生長の家では、宇宙本源の唯一絶対神への中心帰一を重視しますから、その「中心帰ー」を視覚的に表現するため、實相額を中心に見立てて、その正面に“造化の三神”の神霊符を祭祀します。〉

ここにも再び“視覚的に表現する”という表現が出てきます。

前段では、無限内容の実相の「ムスビ」の働きを表すことが、その趣旨でした。

今度は、“「中心帰ー」を視覚的に表現する”そのために“實相額を中心に見立てて、その正面に“造化の三神”の神霊符を祭祀します”というわけです。

皆さん、これがどういう意味なのか、理解できますか?

何がオカシイと言って“實相額を中心に見立てて”、これなのです。

“見立てて”という表現を使うのは、「實相」額を〝モノ〟として見ているからではないのか、そう思えてならないのです。

これが、如何に、尊師の教えに背反しているか…。

ここでは、新編『生命の實相』第20巻「万教帰一篇」から学んでみましょう(20~21頁)。

《「生長の家」の本尊は何であるかといいますと「生命の実相」であります。
それで「生長の家」では「生命の実相」を拝む。
「実相」と書いた軸が床の間に掛けてあります。
「生命の実相」の中にこそ、すべての諸仏がいまし、すべての本当の神々がいますのであります。
「生命の実相」はいわば『法華経』の中に説かれてある「七宝の塔」である。
この「七宝の塔」の中には十方の世界に分身分霊を派遣している本源(もと)の神「多宝仏」がいまして、その「多宝仏」と「生命の実相」をお説きになる「生長の家の神様」とは一体なのである。
否、本当の真理をいえば「生命の実相」をさとった方は誰でもみなこの「多宝仏」と一体である。
誰も皆自分が無量無辺無限時間前から生き通しの神そのものであり、無量無辺百千万億那由他阿僧祇劫以前から悟りを開いている仏であるということが判る。
二千年前ユダヤで説教していたイエスも自分自身であった。
四千年前インドで説教していた釈迦も自分自身であった。
三千大千世界をこの世に現じ運転せしめていたのも自分であったという実に大きな自覚に入ることが出来るのであります。》

何という凄いご文章でしょうか。

まさしく、これこそが尊師のおサトリの真骨頂なのです。

そして、それが、「實相」に込められてるからこそ、私どもは、長年にわたって、それを礼拝することにしてきたのです。

ところが、今回の「通達」では、その「實相」額はただ“中心に見立て”られるのみなのです。

何という、軽い扱いでありましょうか。

何故、「實相」額が掲げられているのか、少しも分かってはいないのです。

で、実際は、「“造化の三神”の神霊符」をこそ礼拝せよと言っているわけでしょう。

それを礼拝することが、〝「中心帰ー」を視覚的に表現する〟ことになる…。

一体、これは何をいいたいのか?

私なりの結論はこうです。

これまでの「實相」礼拝では、それをお書きになられたのが尊師であられるから、どうしても尊師を礼拝する、即ち尊師への中心帰一をもたらしかねない…。

しかし、それは何としても避けなければならない。

これからは、尊師への中心帰一から総裁先生への中心帰一へと取って替える必要がある…。

そこで、「實相」礼拝から“造化の三神”の礼拝へと、無理スジだろうとなんだろうと構わない…。

教義なんかなんのその、強引にそちらへもっていこうとしたということではないでしょうか。

まさしく、今回の「通達」は、新たな“雅宣教団”の出発宣言にほかならないと思う所以です。



神授の「實相」礼拝という黄金の卵を取り替えて、奇妙な異物の卵を育てさせる 「托卵」の行為。 (12115)
日時:2020年06月07日 (日) 09時17分
名前:毘沙門天

破邪顕正氏は、様々な視点から、この度の七重の塔と造化の三神の札を納めた社を本尊「實相」の御額の前に置くという決定・通知は「尊師谷口雅春先生が説かれた神様の取り替え」ることに他ならないと繰り返し訴え続けている。全く同感。
「取り替え」という言葉で思い出したことがある。それは「托卵」である。
 カッコウ(郭公)やホトトギスなどの鳥は他種の鳥の巣に卵を産み、抱卵・育雛 (いくすう) をさせる習性があるが、それを 〝托卵(たくらん)〟という。一種の寄生である。托卵する鳥は仮親の巣に卵を産み込むと同時に仮親が産んだ卵を取り除き、孵化した雛は仮親の卵を巣外に放り出すというのである。

 この度の「七重の塔の小模型と造化の三神の札を納めた社(神棚)を本尊「實相」の御額の前に置く」という決定通知は、尊師谷口雅春先生がお説き下さった大調和の世界を現す鍵として神啓によって受けられた「實相」礼拝という大切な卵を捨てたり隠して自分の卵を育てさせるという〝托卵〟の行為に他ならない。まさしく現総裁が「雅春先生が私達人類に授けてくださった〝真理の黄金の卵〟「實相」と人類光明化運動を捨て(托卵)し、自らが進めようとする国際平和信仰運動・自然と共に伸びる運動に活用するシンボル材料と「取り替え」させることにほかならないことを各位は是非知りそれを拒否せねばならない。
 教団総裁に就いて、谷口雅春先生が創始せられた「生長の家」の法燈継承者であるとして、その権威をもって、創始者谷口雅春先生が最も大事にして説かれ続けた「実相」礼拝の精神を遮断する・夾雑物、遮蔽物の「七重の塔と社の設置」を教団役員参議4名を通じて全国正副教化部長に命じた。
 通達には「日本国内において、万教帰一の教えを視覚的に現すことを意味しています。」と記しているが、創始者谷口雅春先生は、発祥の草創期より「万教帰一」の教えを最もわかりやすい形で私達に示して下さったのが〝聖旗〟「生長の家のマーク・徽章」なのである。ただそれを再び掲げればよいのである。
 教団総裁はかつて、あの聖旗の中に入っていた吉祥卍が全く違う旧ドイツ・ナチスのハーケンクロイツ(ナチスのマーク)と似ていると、よく理解もしていない米国信徒地方講師から指摘されたことを理由の発端にして取り外し、自分が進める国際平和信仰運動のマークという〝鳩と葉っぱのマーク〟に取り替えた。まさしくこれも〝托卵〟的行為である。このように谷口雅春先生がお説き下さった根幹の實相礼拝の精神・真義に対して傍若無人の振る舞いを働くは、創始者谷口雅春先生が説かれた御教えの継承者とは見做されない。自己信念の押しつけ者に他ならない。

 谷口雅春先生が説かれた『生命の實相』哲学に今、改めて回帰し、人類全体にその真理の灯を高く掲げて人間神の子の救いの喜びが続々と生み出すときである。原理主義などではない。釈迦・キリストが説かれし真理をよみがえらせてくださった尊師谷口雅春先生の御教え復興の時である。再生のときである。

〝雅宣教団〟を作り上げるために総裁が行った「托卵」の行為を具に検証してみると、いくつかの特徴があることに気づかされます… (12118)
日時:2020年06月08日 (月) 10時28分
名前:破邪顕正


「毘沙門天」さんの投稿は、実に正鵠を射ていて、大きな共感をもって読ませていただきました。

私が書いて来た〝取り替え〟を「托卵」という、またとない誠に適切なる比喩をもってご紹介いただきましたことに心から感謝申しあげます。

で、この「托卵」ですが、総裁のこれまでのやり方には、いくつかの特徴があるように感じます。

いろんな手口をもって、総裁は、実に巧妙に「托卵」を仕掛けてきたのだと、そのように思います。

それを思いつくまま列挙させていただきます。

(1)自分にとって都合の悪いもの“ホンモノ”は眼にふれさせない…

総裁は、自分の卵が“ニセモノ”であることを察知されないために、“ホンモノ”をまずは隠すということにしました。

それが、即ち尊師の『聖典』の実質上の絶版であり、新刊書の発行停止であり、尊師のご講話ビデオの視聴の禁止であったと思います。

総裁は、そのために著作権を自分のものにしたかった…。

総裁にとって、著作権とは絶版できる権利に他ならなかったからです。

それが証拠に、例えば、心ある人たちが『古事記と現代の預言』の発刊をいくら嘆願しても未だに実現しないでしょう。

何故か。

それを発刊したら、総裁の“ニセモノ”ぶりが明らかになるからです。

だから、著作権を楯に、総裁は、その出版を許さないのです。

大変、失礼ながら、こういう本を出してほしいと、願っておられる向きがありますが、それが総裁の耳に届くことはないのです。

絶版に処せられている本がどういう本か、その背景を知るものからすれば、そういう願いを言うこと自体が、そのまま総裁批判につながるということなのです。

言い方は悪いですが、本の出版を願うことは、著作権を握っている総裁権限に異議を申し立てるも同然のことなのです、いわば虎の尾を踏んでいるのです。

自分たちの願っていることが、客観的にどう映るのか、それがどうも分かっていないのではないのか、そう思えてなりません。

幸い、『生命の實相』や「聖経」等の著作権に関しては(公財)生長の家社会事業団にあるということが、最高裁判決で決着しましたからよかったものの、もし、その裁判で敗訴していたら、一体、どうなっていたことか。

想像だにオソロシイ気がしてまいります。

だって、総裁は「『生命の實相』は古い」と言ってみたり、『生命の實相』をテキストとした誌友会を禁止させたりしてきたのですから…。

その影響を多分に受けたのでしょう、教団内には『生命の實相』を読んでいる信徒を〝原理主義者〟呼ばわりする悪しき雰囲気まで生じてしまいました…。

おそらく、今なお、教団内では『生命の實相』を拝読するような信徒は少ないのではないでしょうか。

その一事を見ただけでも、もし著作権が総裁の手に握られていたら、おそらくは『古事記と現代の預言』の如く『生命の實相』の教えは消されていた…そう捉えるべきなのです。

それが分からないのは、ザックリ言って、“事実”から目を背けているか、そもそも想像力に乏しいか、それとも本流に敵意を抱いているか、そのいずれかなのだと私は見ています。

この続きは稿を改めて書いていきます。


(2)呼称そのものを変えて、中身を変えていく… (12128)
日時:2020年06月08日 (月) 13時46分
名前:破邪顕正

その代表例が、「人類光明化運動・日本国実相顕現運動」を「国際平和信仰運動」に名称変更したことでしょうか。

これがどんな意味をもっていたかについては、既に投稿しています。

〈共産主義思想につきまとう〝ウソ〟は、実は総裁にもあって、その〝ウソ〟の始まりは「宗教目玉焼論」と「国際平和信仰運動」ではなかったか… (11948) 〉

こちらをお読みいただくとして、それに類することは結構、あります。

「久遠の真理」を「今の教え」に。

「鎮護国家特別誓願」を「世界平和実現のための特別誓願」に。

「七つの燈台」を「七重塔」に。

『神誌』を『普及誌』に。

この『普及誌』については、実に嫌な記憶があります。

鳴り物入りで、この『普及誌』の見本誌が出回りました…。

そのときの、周りのみんなの驚きよう…。

勿論、『神誌』よりもビジュアルになったということはありましたが、とにかく大きくて、持ち運びに不便…。

それ以上の問題が、その中身にありました。

尊師のご文章がわずかしか、それこそ申し訳程度にしか掲載されていなかったからです。

つまり、『神誌』という名称であれば、どうしても『聖典』からの引用を多くしなければならない…。

しかし、『普及誌』という名称にすれば、必ずしも『聖典』からの引用に縛られる必要もない…。

そういう計算が、多分に働いていたのだと考えます。

呼称を変えることによって、尊師のご存在を漸次、希薄化させていくという、これまた実に計算し尽くされた手だったのではないでしょうか。

今一つ、この『普及誌』誕生にまつわる、私の見方を紹介させていただきます。

ご存じのように、総裁は、自分の書くものは「聖典とは呼ばせない」と言って、運動方針を強引に“「聖典」等”という表現に変えさせた経緯があります。

つまり、そのまま『神誌』という言い方をされたら、総裁はとてものこと、そこには書けないと思っていたのではないでしょうか。

『聖典』と言われたら書けないと言い張った総裁のことですから。

『神誌』という表現が、実は吾々が思っている以上のプレッシャーを総裁に与えていたのではないのか…。

それから解放されるには、『神誌』という言い方は何としても改めたい…。

自分の関心のあること、自分の好きなこと、所謂「真理」に拘らないでもいいようなことを自由に書いていくために、総裁としては、どうしても月刊誌の名称を変更する必要があった…。

それが『普及誌』という名称に変わった、もう一つの理由ではなかったか、私はそのように捉えています。



(3)とにかく、難癖、言いがかり、イチャモンをつけて貶める… (12132)
日時:2020年06月08日 (月) 14時38分
名前:破邪顕正


この代表事例が、『経本』ではないでしょうか。

『聖経』は環境問題についての言及がない、だから〝補強〟されなければならないとして、総裁は、この『経本』を作ったのでした。

〝補強〟という表現そのものが、私に言わせれば、イチャモン以外のなにものでもありはしません。

また、これは、「毘沙門天」さんも言及されていましたが、「聖旗」へのイチャモンもひどいものでした。

失礼ながら、ヤクザまがいの言いがかりの類いではないかと思ったほどです。

〈教団総裁はかつて、あの聖旗の中に入っていた吉祥卍が全く違う旧ドイツ・ナチスのハーケンクロイツ(ナチスのマーク)と似ていると、よく理解もしていない米国信徒地方講師から指摘されたことを理由の発端にして取り外し、自分が進める国際平和信仰運動のマークという〝鳩と葉っぱのマーク〟に取り替えた〉

総本山を「聖地とは言わない」と言ってみたり、顕齋殿を土足履きにしたり、奥津城をヒルクライムの場所にしてみたり…。

とにかく、総本山をコケにするような言動も相次ぎました。

総裁は、尊師の御思いをどこまで貶めれば気が済むのかと、今、思い出しても怒りが湧いてまいります。

総本山の一木一草に至るまで、尊師の説法が鳴り響いている…。

だから、単なる清掃ではない、「神域清掃」なのだと私どもは言ってきたのです…。

それなのに、総裁は、総本山を悉く貶めてきました。

聖地というと、その聖地を巡って無用な対立、戦争を引き起こすからとか、国際的には靴を脱ぐ文化はあまりないからとか…。

こういうのを〝為にする論〟〝屁理屈〟〝詭弁〟というのではないでしょうか。

ここまで書いてきて、ハッと気づきました。

原宿本部会館の移転のとき、その理由として挙げられたのが、耐震構造が不十分だということであったことを…。

これまた、本当にオカシイ理由だとは思われませんか。

こんなことで、信徒の思いの結晶、本部会館は破壊されていったのですからね…。

尊師のご足跡をすべてご破算にしたいという潜在意識が働いているからとしか思えない、それほどの総裁の所業の数々であります。


(4)合祀したり、その前にモノをおいて隠してみたり、或いは重ね置きして遮蔽したりして、最終的には「住吉大神」を無化してしまう… (12133)
日時:2020年06月08日 (月) 15時51分
名前:破邪顕正

①合祀…総本山のご祭神「住吉大神」を外すために“造化の三神”を合祀して、まずは脇神にしてしまう。

その上で、時間をかけて「住吉大神」を無化してしまう…。

念には念を入れて、「住吉大神」のご神符も下賜しないようにする…。

加えて「宇宙浄化の祈り」も廃して、完全に「住吉大神」の排除を狙ったのでした。

②前にモノを置いて隠す…これが今回の「通達」です。

わざわざ「實相」額の前に、“視覚的に表す”と謳って「モノ」をおき「實相」隠しを行いました。

「實相」礼拝に取って替わって、「七重塔」及び“造化の三神”のお社が礼拝の対象とされてしまいました。

③重ね置き…「天照大御神」や「住吉大神」のご神腑の上に、“造化の三神”の神霊符を重ねて、それが見えないようにしました。

これで、「毘沙門天」さんの言う「托卵」が完成したというわけです。

以上、総裁の手口を4つのポイントで紹介させていただきました。

(1)自分にとって都合の悪いもの“ホンモノ”は眼にふれさせない…

(2)呼称そのものを変えて、中身を変えていく…

(3)とにかく、難癖、言いがかり、イチャモンをつけて貶める…

(4)合祀したり、その前にモノをおいて隠してみたり、或いは重ね置きして遮蔽したりして、最終的には「住吉大神」を無化してしまう…

なるほど、「毘沙門天」さんが言われるこどく、これらはまさしく“傍若無人の振る舞い”という他はありません。

しかし、それを許してきたのも、結局は私たち信徒なのだと思うのです。

こういう総裁を生んだのも、他ならぬ私たち信徒自身である…。

その覚悟をしなければならないのではないでしょうか。

私自身、その覚悟を固めたからこそ、今の立ち位置が定まったという気がしています。

ともあれ、こうして共感、同感の輪が広がったことを、私自身、一つの励みとして今後とも精進してまいりたいと思っています。

改めて、「毘沙門天」さんに心から感謝御礼を申し上げます。



「“造化の三神”の神霊符の真ん中には宇宙の本源の普遍神である天之御中主大神が祀られており、生長の家では、宇宙本源の唯一絶対神への中心帰一を重視します」というのであれば、男系天皇を絶対護持すべきなのでは… (12136)
日時:2020年06月09日 (火) 11時25分
名前:破邪顕正

今回の「通達」の趣旨を貫徹しようと思うならば、表題の結論になるしかないのではないでしょうか。

ここに言われる天之御中主大神について、昭和15年4月に誕生した「宗教結社生長の家」ではこう明記されているからです。

《心に幽斎する主神としては宇宙大生命(その幽の幽なる神として天之御中主神、幽なる神として天照大御神、現人神として天皇)を礼拝す。》

つまり、“宇宙本源の唯一絶対神への中心帰一”とは、即ち、天之御中主神-天照大御神-現人神として天皇を礼拝することなのです。

さればこそ、手元にあります『久遠の実在』には

《第一章 中心に帰一する道》(422頁)

この「中心」には“すめろぎ”とふりがながふってあるわけです。

この意味について、『神の真義とその理解』にはこうあります(102~103頁)。

《天之御中主神は…幽(おく)の幽(おく)の大実在であられますが、この宇宙の大神が…「光華明彩六合(ひかりうるわしくりくごう)に照徹れる」神として顕現あそばされたのが天照大御神であらせられ、更にその天照大御神様が御肉体を以て現人神として現われていらせられる神様として天皇を礼拝する…即ち吾々は天皇様を宇宙大生命の全徳の御顕現としてそのまま現人神として拝し奉るのであります。
歴代の皇霊に対して尊崇を捧げるのも同じ意味であります。》

これではっきりとしたのではないでしょうか。

「生長の家では、宇宙本源の唯一絶対神への中心帰一を重視します」そう言うのであれば、当然のこと、“歴代の皇霊に対して尊崇を捧げ”ていかなければならないのです。

ところが、ご存じのように、総裁・白鳩会総裁は、揃いも揃って、女性天皇・女系天皇に賛同しています。

“歴代の皇霊に対して尊崇を捧げ”る心があれば、決して、こういうことにはならないはずだと思うのです。

先の今上陛下の御即位に関しても、教団としては、その祝意を新聞広告に掲載したのみで、具体的な奉祝活動を何一つ展開しようとはしませんでした。

つまり、総裁は、「宇宙本源の唯一絶対神への中心帰一を重視します」ということの、本当の意味、真意を理解してはいないと判ずるしかないのです。



24年以上も前から「實相」を軽んじ礼拝の「本尊」の意義、日本国と天皇の實相についての尊師の御言葉が隠蔽された。 (12142)
日時:2020年06月10日 (水) 10時11分
名前:毘沙門天

破邪顕正さまより12118の書き込みで、小生書き込みの「托卵」について取り上げて頂き、誠にありがとうございました。

24年以上も前から「實相」を軽んじ礼拝の「本尊」の意義、万教帰一的解釈から日本国と天皇の實相について説かれた谷口雅春先生の御言葉を隠蔽されたと見做される証拠が残っている。
 地元の誌友への個人指導や練成会等のお世話・講話等々生長の家人類光明化運動を推進する大きな役割を担う地方講師・幹部に示された必携書ともいうべき、『地方講師活動指針』-神意を実現する光明化運動-(昭和49年~平成3年2月20日(11版))があった。それが平成8年4月に『地方講師活動指針』『求道と伝道のために』と改訂された。
 その二つを対比して、主な項目を見るだけでも、大きな変更が加えられたことがよくわかる。

☆谷口雅春先生監修『地方講師活動指針』-神意を実現する光明化運動-
昭和49年~平成3年2月20日(11版)    
第1部 教化活動における教義の基本 
第1章の1.日本を救う真理の根元
      2.真理は古いと新しいとを超える
  ※改訂版では第1部は第2部に移動し、上記2項が削除された。
 第1部 第2章「本尊とその出現の使命」
 ※改訂版では谷口雅春先生の解説のご文章が削除された。

☆谷口清超先生監修改訂版『地方講師活動指針』-求道と伝道のために-
 平成8年4月改訂
第1部「生長の家法燈継承の真義」
第1章「中心帰一の真理」
・御心のままに  ・面授による継承
   ・摂理による出現 ・不立文字の継承 ・重大の中心帰一
第2部 第2章 一、教義の重要事項「本尊」
※元の指針では第1部の第2章にあったのがここに下げられた。)

 元の『地方講師活動指針』の「本尊とその出現の使命」の項には冒頭に生長の家教規第6条が引用され、
「…生長の家とは「大宇宙」の別名なれば、大宇宙の本体者の応現又は化現(けげん)とみられる。正しき宗教の救いの本尊たるものは如何なる名称の神仏もわが宗教の本尊として礼拝するのである。但しこの宗教には社殿、仏殿等を設けず、あらゆる宗教の本尊の奥にある「實相」(唯一の真理)を礼拝の対象とするため「實相」の書を掲げるものとする。」と紹介され、続けて、谷口雅春先生が直々に説かれた「本尊」についての解説文章が2頁にわたって詳しく抜粋紹介されていた。その一部を下記に紹介する。
 
 「……天之御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)は斯くの如く、幽の幽(ゆうのゆう)の大実在であられますが、この宇宙の大神が、依然として幽玄にましまして、吾等の思慮の及ぶところではございませんが、幽之幽なる天之御中主大神よりも一段ハッキリと、『日本書紀』に録(しる)されたる通りの『光華明彩六合(ひかりうるわしくりくごう)に照徹(てりとお)れる』神として顕現あそばされたのが天照大御神(あまてらすおおみかみ)であらせられ、更にその天照大御神様が御肉体を以て現人神(あらひとがみ)として現われていらせられる神様として天皇を礼拝する--これが生長の家誌友が心に主斎(しゅさい)する神様でございまして、御宮(おみや)のような眼に見える形で御祭りするのではありませんから幽斎(ゆうさい)すると申すのであります。
即ち吾々は天皇様を宇宙大生命の全徳の御顕現としてそのまま現人神として拝し奉るのであります。歴代の皇霊に対して尊崇を捧げるのも同じ意味であります。…中略…
 次に宇宙大生命(みおやのかみ)即ち宇宙大生命の道を現わし、日本国威を発揚し、国体を明徴にするところの導きの神様として心に幽斎する副斎神(ふくさいしん)として生長の家大神を礼拝すると言うことをハッキリ本尊の項目にあらわしてあります。この生長の家大神とは誰方(どなた)であるか、生長の家大神と言う文字の下に括弧をしまして、(『古事記』、『日本書紀』にあらわれたる住吉大神(すみのえのおおかみ)と申しました。……以下略)」

 以上のように谷口雅春先生は、
「幽の幽なる天之御中主神が副祭神として心に幽斎する生長の家大神としてあらわれられた住吉大神を礼拝する」とハッキリと仰っておられるにもかかわらず、
平成8年の改訂版『地方講師活動指針』では、この大事な「本尊」の項目を第2部の第二章に追いやり、先に紹介した規則の文章だけ即ち〝「實相」を掲げる〟ということだけ残し、解説文は削除してその深い意味を地方講師には知ることができないように編集した。 
 そして24年を経て今日、谷口雅春先生が説かれたことと真逆の形で幽の幽なる神の「造化の三神」を神符にして神棚に納めて礼拝させるという異様な形の礼拝形式を現場の一線に押しつけることになり、発祥以来谷口雅春先生が説き続けられた唯神實相の御教え、實相礼拝の精神に沿わない偶像崇拝を行うこと日本信徒会員に求めている。
また旧版の第一部の冒頭の「教化活動における教義の基本」のはじめには
「日本を救う真理」と題する谷口雅春先生の御文章が掲げられ、法華経で説かれる〝多宝如来〟こそ龍宮の大神・住吉大神であることを解説せられ、華厳経には日本国の實相を、さらにはキリスト教に触れられ、主の祈りの「御心の天になる」世界は創造の根元世界であり龍宮世界・實相の世界である説かれたところであるが、それらの解説が全面削除されている。


 その他にもこの改訂版「地方講師活動指針」の問題がある。
旧版の第一部の冒頭は「真理は古いと新しいとを超える」という谷口雅春先生の御文章を掲げられていたのも削除されている。そこには「宗教家に求むべきものは話の斬新さではないのである。宗教家に求むべきものはその人のさとりの深さであり、その人の深さでなければならない。………先輩祖師の言行であるから「古い」ことはいうまでもない。しかも真に味えば、津々(しんしん)として新しい味わいが湧き出て来るのである。それを味わうことを知らずして、古い言行ばかりを持ち出して話しているから「あの講師の話は古い」と評するのは要するに自己の浅薄さを暴露しているに過ぎないのである。……後略」

 このご文章を削除することにより、み教えには「古いとか新しい」という概念が招ずる余地をまずつくり出し、谷口雅春先生の説かれたことは古いものであり「原理主義である」との悪のレッテル貼りを始めた。そして教えを〝卵の白身と黄身〟にたとえて「教えの中心部分と周縁」と自分の都合に色分けして、「今の教え」という呼称で持ち上新総裁が推し進めることを権威づける道筋をひらいたと見えてくる。

「毘沙門天」さんの素晴らしい投稿を、多くの方にぜひ読んでほしいと願っています… (12152)
日時:2020年06月11日 (木) 10時58分
名前:破邪顕正

総裁のことは、点で見てはわからない、歴史的観点から見るべきである…。

それが私の一貫した持論でありますが、こうして総裁は既に24年も前から尊師の本来の教えを軽んじ、変えてきていたということを、資料に基づいて指摘していただくと、誰しも納得するほかはないように思います。

私は、総裁の“思想性”こそが、一番の問題なんだとかねてから思ってきました。

尊師とは、根本的に相容れない思想の持ち主である、それを抜きにした“総裁論”はあり得ない…。

それが“和解派”の皆さんとの決定的な違いでもありました。

今回の「毘沙門天」さんの投稿で、改めて心強い援軍を得たような喜びを感じております。

これからもまた投稿、よろしくお願いいたします。





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