| “視覚的に表現しています”と言ったために、聖なるべき「實相」礼拝が台無しになってしまうという、これは悪しき見本なり… (12107) |
- 日時:2020年06月06日 (土) 10時24分
名前:破邪顕正
それでは、次の文章に移ります。
〈この三柱の神々(を天之御中主大神の両側に配置した“造化の三神”の神霊符)を實相額の手前に祭祀することにより、高御産巣日神と神産巣日神が無限内容の実相の「ムスビ」の働きを表したものであることを、視覚的に表現しています。〉
“視覚的に表現しています”
ここに言う「視覚的に」というのは、言うまでもなく、間伐材等に記された神霊符の〝神名〟を指します。
この〝神名〟が視覚に入った瞬間、人は、その〝神名〟よりも、その字に関心がいきます。
これは、一体、誰が書いたの?
これは、一体、いくらしたの?
そこに関心が移ってしまう…。
それが視覚という“五官”がもたらす世界なのです。
で、総本山職員が書いたもので2,000円以上の奉納金でもとめたものである、ということが知らされる…。
その瞬間、信徒の心にどういう思いが生ずるか…。
「何でも鑑定団」という番組があります。
ホンモノかニセモノかを鑑定する番組ですが、ニセモノという鑑定がでると思わず失笑が起きる…。
そんな場面によく出会いますが、“視覚的に表現しています”と言ったために、同様のことが起きないと、どうして言えましょうか。
ましてや、その奥には、尊師のお書きになられた「實相」の文字があるわけです。
どうして、そういうものの前に、こんな〝シロモノ〟を置かないといけないのか?
ホンモノの前にニセモノが置かれ、そのニセモノを礼拝せよ、と言われたら、普通、どう思います?
「やってられない」
普通の信徒であれば、そう思うのではありませんか。
“視覚的に表現しています”と言ったばっかりに、立教以来、90年もの長きにわたって守られてきた「實相」礼拝という荘厳であるべきはずの宗教的雰囲気が根底から覆されてしまう…。
「視覚的に」という、その五官がもたらす世界の、オソロシイ、オゾマシイところが、まさにそこなのです。
これでは、折角の〝神名〟までもが無残なものになってしまう…。
如何に、“無限内容の実相の「ムスビ」の働きを表し”ていると謳おうとも、「視覚的に」と言ったために、却って現象世界に引き戻されてしまう…。
これでは、「實相」礼拝を根本的に破壊しようとしているとしか思えないというのも、決して無理もないのではないでしょうか。
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