《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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今回の「通達」には、総裁も理事長も参議長の名もない。そんな代物で、実質上、総裁は“宗教改悪”をやろうとしているのに“総裁リコール”の声は挙がらないのか… (12090)
日時:2020年06月03日 (水) 11時30分
名前:破邪顕正


「トキ」さんが、こういう投稿をしています。

〈6月号の機関誌 (28927)
日時:2020年06月02日 (火) 18時45分
名前:トキ

6月の機関誌が届きましたが、オンライン行事やオロナバスターズに関する記事がメインで、「造化の三神」の祭祀に関する記事が掲載されていませんでした。

礼拝の対象や文句を変えると言う極めて重要な変更にも関わらず、関連記事が掲載されないのは、信徒が知らない間に既成事実を作り上げたいと言う魂胆だと思われます。間違っているかもしれませんが、そのような卑劣な手段に出るのは、自分たちのしていることが、間違っているのを自覚しているのではないか、と感じております。〉

私も、「トキ」さんの見方に賛成です。

それについては、以前、私は

〈今回の「通達」が、コロナ禍のただ中で出された背景について考える−既成事実を固めたら「後は何とでもなる」というヨミが教団にはあったのでは… (11916)〉

この投稿でも言及しています。

さて、今回、申し上げたいことは、教団にいる「トキ」さんの目から見ても、そのやり方が“卑劣な手段”に映っている…。

これは、とても重要な指摘だと思うのです。

そもそも、今回の「通達」そのものが、実に信徒を“小馬鹿にしたもの”でありました。

「通達」に、総裁の名前もなければ理事長、参議長の名前もない…。

にもかかわらず、そういう代物で、「通達」の内容から言えば、事実上“宗教改革”とも言うべきことを、全ての教化部に強要しているからです。

その上、「トキ」さんも指摘しているように、何故、今、このときに、そういうことをするのか。

その理由について、一切、触れようともしない…。

「トキ」さんは、そのことをもって“自分たちのしていることが、間違っているのを自覚しているのではないか”と見ているわけですが(こういうところも実に「トキ」さんは善意に解釈する人だなあと思ってしまいます)、私は、必ずしもそうは思わないのです。

こういうことです。

問題は、一体、何をもって“間違っている”と言うのか、そこなのです。

「トキ」さんは、教団内“本流派”ですから、その正邪の判断基準は、尊師の教えに依っているのだろうと思うのです。

しかし、今の教団では、総裁の言うことが“正しい”とされているわけです。

「住吉大神」から“造化の三神”への神様の取り替えは、既に、総本山で執り行われたことであるわけです。

「七重塔」の説明も既に終えている…。

今更、説明しなければなならないことは何もない…。

既に、「通達」で説明済みだ…

後は、各教化部で、その「通達」にあることを信徒に伝えればいいだけの話だ…。

案外、教団は、そんな程度にしか考えていないのではないでしょうか。

「木で鼻をくくる」と言う表現がありますが、教団はいつもそういう対応をしてきたのではありませんか。

私が問題にしたいのは、「トキ」さんの言うような“卑劣な手段”は、何も今に始まったことではないということなのです。

そのことは「トキ」さん自身、ずっと実感してきたのではありませんか。

だからこそ、常に、こうすべき、ああすべきの“べき論”を言い募ってもきた…。

しかし、残念ながら、何の力にもなりはしませんでした。

その声が、単なる“ガス抜き”にしかならないできたからです。

信徒の心を揺り動かすまでの、教団に幾ばくかの影響力を及ぼすほどのことはなかった…、残念ながら…。

既成事実の前に、殆どの教団信徒は、ただ黙して語らずできた…。

私は今でも痛恨の極みに思っていることがあります。

それは、「ご神像」が撤去された日のことです。

中には、実力で阻止すべきではないのか、何か、そういう行動に訴えるべきではないのか。

そういう声が決してなかったわけではありません。

しかし、勝てない勝負はしない、それを心に誓ったのが、あの屈辱の5月30日だったのです。

ただ、「ご神像」が無残にも撤去されるのを、私たちは、歯がみする思いで見送るしか術はありませんでした。

聖経読誦しながら、この屈辱を何としても晴らす…。

そして、いずれの日か、必ず「ご神像」を取り戻す…。

その誓いの日を5月30日に定めたのは、そういう思いからなのです。

イカニセバ、教団を糺すことができるか。

イカニセバ、教団に打ち克つことができるか。

イカニセバ、教団に取って替わる団体になり得るか。

実は、今回の「宗教法人」の取得も、その“イカニセバ”の切実なる思いから生まれてきたことでもあるのです。

「トキ」さんと私どもの決定的な違い、それは何か。

「トキ」さんは、自分の言ったことが残ればいい、そういう立場です。

しかし、私たちは違います。

やる以上は、勝たなければならない。

教団が本気で間違っているというのであれば、ただそれを指摘するだけに終わってはならない。

本気になって、人生賭けて、それをやろうとしているのです。

おそらく、今回の「通達」に関しても、教団は既成事実の前に信徒は黙認するだろうと高をくくっていると私は見ています。

本来ならば、今回の「通達」は、信徒が“総裁リコール”の声をあげてもいいぼとの、それほどの問題です。

私は、その思いで、とにかく7月7日のその日まで、その重大な問題点について指摘し続けようと思っています。

教団信徒のお一人でもいい、この思いが届くことを信じて…。

この思いが、必ず、明日の勝利につながると信じて…。



割り込み、失礼します。上の12090で破邪顕正さんがおっしゃっている、トキさんの記事「6月号の機関誌 (28927)」と、破邪顕正さんの11916記事は、ここにあります。 (12092)
日時:2020年06月03日 (水) 16時20分
名前:破邪顕正さんの愛読者です

上の12090で破邪顕正さんがおっしゃっている、

トキさんの記事、「6月号の機関誌 (28927)」は、
https://bbs5.sekkaku.net/bbs/toki2/mode=res&log=6531

上から43番目ぐらいの場所にあります。


破邪顕正さんの11916記事、〈今回の「通達」が、コロナ禍のただ中で出された背景について考える−既成事実を固めたら「後は何とでもなる」というヨミが教団にはあったのでは…」は、

https://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=2898

上から43番目です。

どちらも43番目…。すごい記事数です。




「七重塔」の塔頂部は「如意宝珠」なのだそうです。だったら、それを授けたところの住吉大神を外してはならないのではありませんか… (12279)
日時:2020年06月26日 (金) 14時26分
名前:破邪顕正

今回の「通達」の、大きな疑問、不信は何か。

それは、何故、住吉大神から所謂“造化の三神”へと神様を取り替えなくてはならないのか、それが一切、説明されていないことなのです。

なるほど、総裁は“造化の三神”については、“ムスビ”のことをもって説明はしています。

しかし、なぜ住吉大神を脇神にしたのか、それについては、何の説明もしていないのです。

で、実にオカシイのは、「七重塔」の塔頂部は「如意宝珠」だと説明していることなのです…。

その「如意宝珠」は言うまでもなく、塩椎の大神、即ち住吉大神から授かったものであるわけです。

住吉大神から授かった「如意宝珠」を塔頂部にいただいて、その一方で、住吉大神を外す…。

支離滅裂ではありませんか。

因みに、総裁の、それに関するブログを引いておきます。

………………………………

2013年4月 6日 (土)

七層の石塔について (2)

3月16日の本欄で、生長の家の国際本部が移転する山梨県北杜市の“森の中のオフィス”の敷地には、白髪白髯の霊人の神像を東京から移設するだけでなく、「七層の石塔」を建てることを書いた。この石塔がどんなものであるかの詳細が、4月3日の会議で決まった。正式名称を「七重塔(しちじゅうのとう)」と言い、毎年、7月7日の万教包容の神示の日に、オフィス敷地内にできる「万教包容の広場」に1基ずつ増設し、その際、万教帰一の教えによる世界平和の実現を誓願する「万教包容の御祭」を行うことになった。
 
 「塔」は、もともとインドで死者を葬る施設「Stupa」を漢訳した「卒塔婆」から来ていることはすでに書いた。また、仏教がこの習慣を取り入れて、仏舎利を安置する塔を各地に建てることを始め、塔が増えて仏舎利が分けられなくなると、「法舎利」として経典を収めるようになったことにも触れた。生長の家はこの習慣を取り入れて、七重塔の最下層には、聖経『甘露の法雨』のほか『大自然讃歌』と『観世音菩薩讃歌』の経本を収めることになった。七重塔のデザインはここに掲げたようなもので、高さ2.5メートル、生長の家のオリジナルである。七層の石塔は日本各地に存在するが、それらは塔頂部に「相輪」と呼ばれる独特の構造をもっている。これは、雨風から卒塔婆を護る傘状の蓋を起源とするもので、それ自体が多層の卒塔婆を表している。私たちの七重塔では、この二重の表現を採用する代わりに、塔頂部に如意宝珠を置くことで、運動の目的をより明確に表現することにした。つまり、実相世界の荘厳を地上に顕現させるーーそういう役割をもった如意宝珠をいただいた運動であるということを表現したのである。
 
 この点については、『法華経』見宝塔品のクライマックスの解説で、谷口雅春先生は次のように、如意宝珠と多宝塔との関係を説かれている−−
 
「(前略)地より湧出したことは、地下の竜宮城がそこに姿をあらわしたことであります。竜宮城の甍は七宝をもって葺いてあるので、私たちが、如意宝珠観に於いて「此処、竜宮城なり、海津見神の宮なり、塩椎神の宮なり、住吉神の宮なり、一切の宝あまねく満ち、一切の調度悉く七宝をもて荘厳せり」と観想する龍宮無限多宝の世界が、法華経の真理の説かれる処に実現することが此処に書かれているのであります。私たちは現象の“利”などを齷齪と追求することは要らない、法華経の真理が正しい意味で説かれれば、自然に多宝如来(竜宮の大神・住吉大神)の御出現を見るのであります。そこでこの七宝の塔を“多宝塔”と呼び、多宝塔の中から多宝如来の声が聞えて来るのであります」。(『法華経解釈』、p.357)

 仏教の伝統では、多宝塔は基本的に2層構造であるが、生長の家では「七つの燈台」との関係で7層構造を採用していることは、すでに書いた。そこで今回採用された塔のデザインも7層となっている。さらに、七重塔のもう1つの構造的特徴は、中心部に垂直方向に鉄筋が貫いていることで、これは「多様性を中心にまとめる」という中心帰一・万物調和の理念の象徴としてとらえられる。また、この「7」という数字は「完成」や「すべて」を表現していることから、生長の家の七重塔は、「完全円満」な「すべての存在」を包蔵する実相世界を様々な角度から表現する“象徴”としての役割を担うことになった。この役割は“7つの象徴”として次のような7項目にまとめられた−−(略)

七重塔は、生長の家の世界の各拠点、あるいは多様な組織をあらわし、各拠点・組織の人々が多様性をもちながら調和して発展する様子を象徴する。
 
 このような“古くて新しいシンボル”ができたことで、私たちの運動が今後、さらに飛躍的に進展することが期待されるのである。

……………………………………

これは7年前の文章です。

総裁は、「七重塔」によって“飛躍的に進展することが期待される”と思ったようですが、現実は厳しかった、その期待は見事に裏切られたようです。

何故、裏切られたのでしょうか。

答えは簡単です。

『法華経解釈』に書いてあることを、文字通り“裏切った”からですよ。

「如意宝珠観」を実修したら、住吉大神を外すことなど絶対にあり得ないことなのです。

これはとても重大なことで、「七重塔」の塔頂部が「如意宝珠」というのであれば、新編『生命の實相』第21巻「万教帰一篇」にある「この身このまま如意宝珠」というところをしっかりと踏まえておく必要があります(185頁〜)。

《如意宝珠というのは一体何かというとみたまであります。自分のみたまそのままが如意宝珠であります。…始めなき始めからずっとその如意宝珠を貰っていて、今も貰っているのであって、それが皆さんのいのちであり、魂であり、珠である。如意自在の珠である。病気していらっしゃる人も如意自在の珠によって病気していらっしゃるのです。又健康の人も如意自在の珠の働きによって健康になっていらっしゃる。勝っている人も如意自在の珠によって勝っている。負けている人も如意自在の珠によって負けている。立身出世、家業円満もみな如意自在の自分の魂の働きでどうにでもなるのであります。
 如意宝珠には、潮満の珠と潮干の珠とがある。潮満の珠というのは栄えるところの珠であって、大いにいのちが働き伸びて行き何でも欲するものが自ら満つるところの珠であります。潮干の珠の方はだんだん潮即ちいのちの働きが減ってゆくところの珠であります。ですから貧乏になったり、死にそうになったり、不幸になったりするのも、これは潮干の珠の働きでありまして、どちらも如意自在が現れているのであります。…誰でも潮満の珠と潮干の珠をみんな有っていらっしゃる。「吾は生と死との鍵を有てり。我はアルファなり、オメガなり。始めなり、終わりなり。」−−と『黙示録』に出て来る七つの燈台の間を歩む白髪の老翁の神様はいっていらっしゃいますが、これは生長の家でいっている「七つの燈台に火を点ずる神様」でありますが、これが生長の家の神様、住吉の神様、塩椎の神様で、海の神様であり、産みの神様であります。ウミの神様であるから生と死との鍵をもっている。その生と死との鍵をもっているウミの神様は、今どこにおられるかといいますと、皆さんの中に今宿っていらっしゃるのです。》

これを読めば、『黙示録』に出て来る七つの燈台の間を歩む白髪の老翁が「七つの燈台に火を点ずる神様」で生長の家の神様、住吉の神様、塩椎の神様であることが明らかです。

ここのどこにも、生長の家の神様は“造化の三神”であるなどとは書いてありません。

にもかかわらず、総裁は、生長の家の神様を住吉大神から“造化の三神”に取って替えたのです。

いくら“ムスビ”が大事だと言おうとも、それをもって住吉大神を外す理由には絶対になりはしません。

総裁もそれが分かっているから、なぜ、住吉大神を外したのか、その説明はようしないのです。

自分で説明できないことを、信徒には権力をもって力づくで強要する…。

信徒の皆さんには、この理不尽なやり方を決して黙認してはなりません。

勇を鼓して、ぜひ「ノー」という声を上げてもらいたいと切に切に願うものであります。



ふたたび割り込み、失礼します。上の12279で破邪顕正さんがおっしゃっている総裁のブログ記事「七層の石塔について (2)」は、ここにあります。 (12284)
日時:2020年06月26日 (金) 20時53分
名前:破邪顕正さんの愛読者です

上の12279で破邪さんがおっしゃっている総裁のブログ記事「七層の石塔について (2)」は、
http://masanobutaniguchi.cocolog-nifty.com/monologue2/2013/04/2-c0fa.html
です。



住吉大神に取って替わって“造化の三神”を礼拝する必然性は少しも無い。総裁の言う“ムスビ”を言うのならば、「水火津霊(シホツチ)の神」が既にそのお働きを担っておられる… (12286)
日時:2020年06月28日 (日) 15時11分
名前:破邪顕正


表題は、頭注版『生命の實相』第37巻「幸福篇 上」にある「二月十二日」の御文章を拝読したら、一目瞭然です。

《わたしは御影町および住吉村に住んでいたとき、たびたび住吉神社に参拝して人類光明化のために祈願をつづけたものである。そのころからわたしは雑誌『生長の家』を書きはじめたのである。
 その後、生長の家神と申し上げるは塩土老翁、筒男神であらせられると知らされ、ハッとしてその端倪すべからざる因縁に驚いたのである。
 塩槌神とは水火津霊(シホツチ)の神である。水の霊(陰の原理)と火の霊(陽の原理)とを津なぎ結びて、一切を生み出す「生みの神」である。だから塩槌神(住吉神社・塩釜神社に奉斎)は古来安産の神として称せられ、エホバ神の「懐妊(はらみ)の劬労(くるしみ)を増すべし、汝は苦しみて子を産まん」という宣言を覆して、子を産むのに無痛分娩なることを実証したのである。生長の家の教えを聞いてそのとおりに守るものは無痛分娩であるのはそのためである。塩釜大神とは水火醸神(しおかみのかみ)として陰陽交叉(かみあ)いて産み出す神という意味である。》

総裁は、“ムスビ”が大事だとして“造化の三神”を祀るのだと説明していますが、それをいうのならば、既に水火津霊(シホツチ)の神≠アそが、水の霊(陰の原理)と火の霊(陽の原理)とを津なぎ結びて、一切を生み出す「生みの神」である≠ニ、ここにはっきりと津なぎ結びて≠ニ示されているのです。

わざわざ、“ムスビ”のために“造化の三神”をお祀りしなくてはならない理由など、どこにも見当たりません。

結局、“造化の三神”をお祀りしたのは、総裁は何としても住吉大神を外したい、その私的、個人的理由からの強攻策だったとみるのが至当であると思うものであります。

で、その住吉大神を外すことが如何に尊師の御心を踏みにじるものであるのか。

引用文中にある、「生長の家神と申し上げるは塩土老翁、筒男神であらせられると知らされ、ハッとしてその端倪すべからざる因縁に驚いた」というお言葉を見たら、誰しも首肯せざるを得ないでしょう。

尊師が端倪すべからざる因縁に驚いた≠ニ仰っているのに、それをまるで足蹴にするかのような、今回の「通達」…。

尊師の御教えを護る信徒としては、これは決して黙過できない問題であると言えるのです。


造化の三神を祀ることは、住み吉しの世界¢ヲち地上天国実現を放棄することに等しい… (12291)
日時:2020年06月29日 (月) 11時51分
名前:破邪顕正

総裁は、住吉大神を外したくて、尊師の教えでは本来祀ってはならない第一義である造化の三神を祀ることを強要しました。

信仰の世界から言えば、これは、明らかなる尊師の教えに対する裏切りということになります。

なぜならば、住吉大神を外すということは、とりもなおさず、住吉大神のそのお働きそのものを排除、否定してしまうことになるからです。

それでは、そのお働きとは何でありましょうか。

それは、神名に象徴的に示されていると『美しき日本の再建』は教えます(155頁)。

つまり、「綿津見大神」と「塩椎大神」と「住吉大神」との、この3つなのです。

《塩椎神は水日津霊神(しほつちのかみ)であり、陰(水)と陽(火)を連結(津、つなぐ、つづける等)して、一切を生み出し給う実相・竜宮海の創造神にましまし、産み≠フ本源神であるから、海の神≠もって表現し、綿津見大神とも申上げるのである。ワダとは海原のことであり津≠ヘ接続詞であり見≠ヘ身≠フ発音類似のアテ字≠ナあって、本体≠ニいうことを意味する。それゆえにワダツミノ大神とは、「産み(創造)の御本体の大神」を意味するのである。水火津霊大神と申し上げるときは、その陰陽和合して一切を産み給う御はたらきの方に重点を措いた表現であり、住吉大神と申上げる場合は、その創造の御はたらきを汚れなき状態にあらわしめて住み吉き世界を表現するための創造の御はたらきを浄化し給う御使命を表現した御神名であり、綿津見大神、塩椎大神、住吉大神は三神にして同時に一神にてましますのである。》

ここにはっきりと示されていますように

@綿津見大神…海の神≠もって表現し「産み(創造)の御本体の大神」を意味する

A塩椎大神…陰陽和合して一切を産み給う御はたらきの方に重点を措いた表現

B住吉大神…住み吉き世界を表現するための創造の御はたらきを浄化し給う御使命を表現

で、『美しき日本の再建』には、こうも記されています(153頁)。

《この塩椎神こそは生長の家の大神であらせられ、竜宮の本尊であらせられ、その世界は実相世界であり、極楽浄土であり、住み吉き世界であるから住吉大神とも名づけられるのである。》

ご存じのように総本山は「龍宮住吉本宮」と申します。

それはまさしく、「塩椎神こそは生長の家の大神であらせられ、竜宮の本尊であらせられ」るからにほかなりません。

ですから、その本尊を造化の三神に取って替えるということ自体、あってはならない、教えに真っ向から反することなのです。

にもかかわらず、総裁は、この総本山での神様の取り替えを、今度は総ての教化部で執り行えと命じたわけです。

本来の教えに背くことを、ここまで押し切ってやらせることができるのも、ひとえに総裁に絶対権力があればこそです。

しかし、その結果、実は失うものも甚だ大きい…。

即ち、「ムスビ」のみの価値で造化の三神をお祀りしたために、住吉大神のお働きである「住み吉き世界」を現成する…。

換言すれば、極楽浄土、地上天国実現という立教の大使命を放棄することになってしまうからです。

いずれ、総裁、並びに教団は、その失ったものの大きさに気づかされるときを迎えるでしょう。

そして、それについて行った信徒もまた臍をかむような、苦い思いを強いられるでありましょう。

それがはっきりと見える者のみが、その先駆けとなって、警鐘を鳴らしていくしかない…。

そう覚悟を固めている次第です。




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