「七重塔」の塔頂部は「如意宝珠」なのだそうです。だったら、それを授けたところの住吉大神を外してはならないのではありませんか… (12279) |
- 日時:2020年06月26日 (金) 14時26分
名前:破邪顕正
今回の「通達」の、大きな疑問、不信は何か。
それは、何故、住吉大神から所謂“造化の三神”へと神様を取り替えなくてはならないのか、それが一切、説明されていないことなのです。
なるほど、総裁は“造化の三神”については、“ムスビ”のことをもって説明はしています。
しかし、なぜ住吉大神を脇神にしたのか、それについては、何の説明もしていないのです。
で、実にオカシイのは、「七重塔」の塔頂部は「如意宝珠」だと説明していることなのです…。
その「如意宝珠」は言うまでもなく、塩椎の大神、即ち住吉大神から授かったものであるわけです。
住吉大神から授かった「如意宝珠」を塔頂部にいただいて、その一方で、住吉大神を外す…。
支離滅裂ではありませんか。
因みに、総裁の、それに関するブログを引いておきます。
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2013年4月 6日 (土)
七層の石塔について (2)
3月16日の本欄で、生長の家の国際本部が移転する山梨県北杜市の“森の中のオフィス”の敷地には、白髪白髯の霊人の神像を東京から移設するだけでなく、「七層の石塔」を建てることを書いた。この石塔がどんなものであるかの詳細が、4月3日の会議で決まった。正式名称を「七重塔(しちじゅうのとう)」と言い、毎年、7月7日の万教包容の神示の日に、オフィス敷地内にできる「万教包容の広場」に1基ずつ増設し、その際、万教帰一の教えによる世界平和の実現を誓願する「万教包容の御祭」を行うことになった。 「塔」は、もともとインドで死者を葬る施設「Stupa」を漢訳した「卒塔婆」から来ていることはすでに書いた。また、仏教がこの習慣を取り入れて、仏舎利を安置する塔を各地に建てることを始め、塔が増えて仏舎利が分けられなくなると、「法舎利」として経典を収めるようになったことにも触れた。生長の家はこの習慣を取り入れて、七重塔の最下層には、聖経『甘露の法雨』のほか『大自然讃歌』と『観世音菩薩讃歌』の経本を収めることになった。七重塔のデザインはここに掲げたようなもので、高さ2.5メートル、生長の家のオリジナルである。七層の石塔は日本各地に存在するが、それらは塔頂部に「相輪」と呼ばれる独特の構造をもっている。これは、雨風から卒塔婆を護る傘状の蓋を起源とするもので、それ自体が多層の卒塔婆を表している。私たちの七重塔では、この二重の表現を採用する代わりに、塔頂部に如意宝珠を置くことで、運動の目的をより明確に表現することにした。つまり、実相世界の荘厳を地上に顕現させるーーそういう役割をもった如意宝珠をいただいた運動であるということを表現したのである。 この点については、『法華経』見宝塔品のクライマックスの解説で、谷口雅春先生は次のように、如意宝珠と多宝塔との関係を説かれている−− 「(前略)地より湧出したことは、地下の竜宮城がそこに姿をあらわしたことであります。竜宮城の甍は七宝をもって葺いてあるので、私たちが、如意宝珠観に於いて「此処、竜宮城なり、海津見神の宮なり、塩椎神の宮なり、住吉神の宮なり、一切の宝あまねく満ち、一切の調度悉く七宝をもて荘厳せり」と観想する龍宮無限多宝の世界が、法華経の真理の説かれる処に実現することが此処に書かれているのであります。私たちは現象の“利”などを齷齪と追求することは要らない、法華経の真理が正しい意味で説かれれば、自然に多宝如来(竜宮の大神・住吉大神)の御出現を見るのであります。そこでこの七宝の塔を“多宝塔”と呼び、多宝塔の中から多宝如来の声が聞えて来るのであります」。(『法華経解釈』、p.357)
仏教の伝統では、多宝塔は基本的に2層構造であるが、生長の家では「七つの燈台」との関係で7層構造を採用していることは、すでに書いた。そこで今回採用された塔のデザインも7層となっている。さらに、七重塔のもう1つの構造的特徴は、中心部に垂直方向に鉄筋が貫いていることで、これは「多様性を中心にまとめる」という中心帰一・万物調和の理念の象徴としてとらえられる。また、この「7」という数字は「完成」や「すべて」を表現していることから、生長の家の七重塔は、「完全円満」な「すべての存在」を包蔵する実相世界を様々な角度から表現する“象徴”としての役割を担うことになった。この役割は“7つの象徴”として次のような7項目にまとめられた−−(略)
七重塔は、生長の家の世界の各拠点、あるいは多様な組織をあらわし、各拠点・組織の人々が多様性をもちながら調和して発展する様子を象徴する。 このような“古くて新しいシンボル”ができたことで、私たちの運動が今後、さらに飛躍的に進展することが期待されるのである。
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これは7年前の文章です。
総裁は、「七重塔」によって“飛躍的に進展することが期待される”と思ったようですが、現実は厳しかった、その期待は見事に裏切られたようです。
何故、裏切られたのでしょうか。
答えは簡単です。
『法華経解釈』に書いてあることを、文字通り“裏切った”からですよ。
「如意宝珠観」を実修したら、住吉大神を外すことなど絶対にあり得ないことなのです。
これはとても重大なことで、「七重塔」の塔頂部が「如意宝珠」というのであれば、新編『生命の實相』第21巻「万教帰一篇」にある「この身このまま如意宝珠」というところをしっかりと踏まえておく必要があります(185頁〜)。
《如意宝珠というのは一体何かというとみたまであります。自分のみたまそのままが如意宝珠であります。…始めなき始めからずっとその如意宝珠を貰っていて、今も貰っているのであって、それが皆さんのいのちであり、魂であり、珠である。如意自在の珠である。病気していらっしゃる人も如意自在の珠によって病気していらっしゃるのです。又健康の人も如意自在の珠の働きによって健康になっていらっしゃる。勝っている人も如意自在の珠によって勝っている。負けている人も如意自在の珠によって負けている。立身出世、家業円満もみな如意自在の自分の魂の働きでどうにでもなるのであります。 如意宝珠には、潮満の珠と潮干の珠とがある。潮満の珠というのは栄えるところの珠であって、大いにいのちが働き伸びて行き何でも欲するものが自ら満つるところの珠であります。潮干の珠の方はだんだん潮即ちいのちの働きが減ってゆくところの珠であります。ですから貧乏になったり、死にそうになったり、不幸になったりするのも、これは潮干の珠の働きでありまして、どちらも如意自在が現れているのであります。…誰でも潮満の珠と潮干の珠をみんな有っていらっしゃる。「吾は生と死との鍵を有てり。我はアルファなり、オメガなり。始めなり、終わりなり。」−−と『黙示録』に出て来る七つの燈台の間を歩む白髪の老翁の神様はいっていらっしゃいますが、これは生長の家でいっている「七つの燈台に火を点ずる神様」でありますが、これが生長の家の神様、住吉の神様、塩椎の神様で、海の神様であり、産みの神様であります。ウミの神様であるから生と死との鍵をもっている。その生と死との鍵をもっているウミの神様は、今どこにおられるかといいますと、皆さんの中に今宿っていらっしゃるのです。》
これを読めば、『黙示録』に出て来る七つの燈台の間を歩む白髪の老翁が「七つの燈台に火を点ずる神様」で生長の家の神様、住吉の神様、塩椎の神様であることが明らかです。
ここのどこにも、生長の家の神様は“造化の三神”であるなどとは書いてありません。
にもかかわらず、総裁は、生長の家の神様を住吉大神から“造化の三神”に取って替えたのです。
いくら“ムスビ”が大事だと言おうとも、それをもって住吉大神を外す理由には絶対になりはしません。
総裁もそれが分かっているから、なぜ、住吉大神を外したのか、その説明はようしないのです。
自分で説明できないことを、信徒には権力をもって力づくで強要する…。
信徒の皆さんには、この理不尽なやり方を決して黙認してはなりません。
勇を鼓して、ぜひ「ノー」という声を上げてもらいたいと切に切に願うものであります。
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