〈万教帰ーの教えを視覚的に現すことを意味しています〉これは、総裁の中に「現象アリ」の思想があるからこその表現ではないのか… (12088) |
- 日時:2020年06月03日 (水) 09時01分
名前:破邪顕正
私は、これまで「和解派」の皆さんとのやりとりで、一貫して「虚説とは和解してはならない」という立場で投稿してまいりました。
新編『生命の實相』第24巻「倫理篇」に、その“虚説”とは何かがはっきりと示されています(90〜91頁)。
《虚説の中でも、最大の虚説は「物質はある」という見解であります。『生長の家』誌友の中で近頃脱線して「物質もある、心もある」という二元論に誘惑されたり、「現象も真我のあらわれである」という説に惑わされたりした人がありました。 その理由は、吾々は天地一切のものと和解しなければならないから、「物質はある」という説とも和解したとき、本当の真理が却ってわかるのだという理論から、虚説に対しても一応は耳を傾けなければならないというわけだったのであります。 吾々は天地一切の実在と和解しなければなりませんけれども、虚説に対して和解してはならないのであります。 「人は二人の主に事えることは出来ない」という諺があります。 虚説に和解したら実相をくらますことになります。 実相をくらませばみずから迷うことになるのであります。 迷えば迷いの影を現象界にうつして、現象界が儘ならぬ相にあらわれて来るのであります。》
「物質はある」「現象はある」そういう説のことを尊師は“虚説”と言われたのです。
そういうものと和解したらどうなるか。
実相をくらますことになります
実に、重要なお言葉であります。
で、今回の「通達」は、まさしく「實相」額の前にモノ≠置いて、それこそ実相をくらま≠サうとしているわけです。
これは決して看過しえない問題であります。
そもそも、「万教帰ーの教えを視覚的に現す」こと自体が論理矛盾なのです。
そのことは、新編『生命の實相』第19巻「万教帰一篇」に明らかです(3頁)。
《あらゆる宗教的経典は、それが真に生命のあるものである限り、必ず霊感によって書かれたものである。 霊感によって書かれたるものは、唯、霊感のみこれをよく解釈し能うのである。 如何なる博学者も、ただ語義のみ知って霊感なきものは、真に経典の生命を捉え得ない。 生長の家は霊感によって、仏教といわず、キリスト教といわず、日本神典といわず、あらゆる尊き経典の神髄に透徹してこれを拝むのである。》
まさしく、これこそが万教帰一の教えの神髄でありましょう。
霊感によってしか説き得ない教えを、どうして「視覚的に現す」ことが出来得ましょうか…。
こんなことを強要できるのは、自ら“霊感なきもの”と白状しているも同然…。
こんなことで「万教帰一の教え」を現すことができると思うこと自体、実に、不遜に過ぎる…。
「万教帰一の教え」を、余りにも軽く見過ぎていやしないか、そう思うのです。
それにしても、どうして、こんな安易な、安直な発想が出てくるのでしょうか。
それこそが深刻な問題だと思うのです。
で、私は、その意味で、改めて“視覚的に現す”という表現に注目したいと思うのです。
結局、こういう発想が出て来るのも、総裁の考え方の中に「現象アリ」が根強く盤踞しているからではないのか。
新編『生命の實相』第19巻「万教帰一篇」にこうあります(26〜27頁)。
《五官の心−−感覚の心にとっては、吾々の住む世界は物質的なもの−−色々の物質的原素の集合で出来ていますけれども、それは吾々の「迷いの心」を通して見る「影の世界」でありまして「実在の世界」ではないのであります。 これを「実相覚」 (自己に宿る生命の実相と、客観の実相とが直接的に触れて知る直接的なサトリ) によって観ますと、この世界は、神の言葉によって成立っている観念の世界であります。 いわば「神」という一大光源から放射された光で成立つ世界であります。》
“視覚的に現す”とは、ここに言う「五官の心−−感覚の心」で見ることであり、即ち「迷いの心」を通して見る「影の世界」でありまして「実在の世界」ではないのであります。
何を申し上げたいか。
今回の「通達」は、「迷いの心」で「實相世界」を見ることを強要するものである、それを危惧しているのです。
この危惧は、何も今に始まったものではありません。
総裁の説く“今の教え”には、常にそれがありました。
これについては、例えば、「清流の民」さんが、
〈現総裁の教えは「顛倒夢想」の教えである。 (11992) 日時:2020年05月20日 (水) 00時16分〉
この投稿の中で詳細にわたって論述されていますので、ぜひ、ご一読ください。
なかんずく、私が痛く共感したのがここです。
〈現総裁の思想は「生長の家の教え」ではなく、環境倫理学や生物学に近いものです。環境倫理学や生物学が悪いとは言いませんが、これらは「現象はアル」という前提のもとに研究をしているのです。失礼ではありますが、生物学者や環境倫理学者で實相世界の實在を信じておられる方はあまりいないと思います。〉
「あまりいない」どころか皆無と言っていいのではないでしょうか。
だって、“實相独在”とは、まさしく尊師のおサトリそのものであり、文字通り“独在”尊師お一人あるのみだと私は思います。
そのおサトリに惹かれて、私どもは「生長の家」に入信してきたのではなかったでしょうか。
ご存じのように、教団は、今、地球環境を守れと叫んでいます。
しかし、それにのめり込めばのめり込むほど、地球環境という「現象アリ」の思想に絡め取られていくしかないのです。
即ち、今の総裁から、「現象なし、實相のみ實在」の尊師のおサトリが説かれることはない…。
その心の陰として、今回の「通達」も出てきたのだと私は捉えています。
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