《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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神様を取り替えてしまえば、もはやそれは「生長の家」ではありえない、新たな“雅宣教団”の誕生と言うべきではないのか… (12026)
日時:2020年05月24日 (日) 16時26分
名前:破邪顕正


尊師の求道の旅を学ぶ中で、最も重要なことは、神観にあると思います。

そのことは、何故、尊師が大本教を去られるに至ったかを見れば一目瞭然でありましょう。

新編『生命の實相』第32巻「自伝篇」にかくあります(53〜54頁)。

《私たちは勇敢に結婚式を挙げたが、今から考えてみると、心の奥底ではどこかに恐怖心が残っていたに違いないのである。私は眼にて眼を償い、歯にて歯を償い、百の負債を百だけ支払わねば赦さないような、悪人の一掃的カタストロ−フを最後に清浄無垢の世界を持来そうとするような艮の金神と称する大本教の神様の審判には到底耐えられないという気がするのだった。》

つまり、尊師は神罰を与えるような神さまでは根本的には救われないと思われたのです。

だから、大本教を去られた…。

神罰の神から愛の神へ。

それが生長の家の立教となっていくわけでしょう。

であれば、どういう神様を信ずるかは、決してゆるがせにはし得ない、最重要の問題と言っていいと思うのです。

で、今回の「通達」では、住吉大神から“造化の三神”への取り替えを全ての教化部で行うことを強要しているわけです。

神様が変われば、それは新しい宗教というしかないでしょう。

しかも、尊師の教えによれば、祀ってはならない第一義の神を祀れ、というわけです。

だったら、それはもはや「生長の家」とは言えないではありませんか。

有難いことに、ここにきて、各種掲示板で、総裁がやってきた暗黒の30年史≠ェ注目されています。

歴史的な視点で見なければ、総裁の実像≠ヘ決してわかりません。

とりわけ、今回の「通達」に隠された、総裁の本音、意図を知るには、これまでの歴史経過を見なければ掴み得ないと私は思っています。

今回の「通達」の背景には、総本山でのご祭神の変更があります。

これについて、私は、暗黒の30年史≠フ中で、こう言及しています。


〈○平成26年11月21日…総本山の「ご祭神」が変更になり、「宇宙浄化の祈り」が廃される

※「ご祭神」が、「住吉大神」のほかに「天之御中主神」「高御産巣日神」「神産巣日神」が加えられました。これは、明らかに谷口雅春先生の「教え」に反するものであります。
 昭和15年4月、「宗教結社生長の家」が生れた際、本尊について、次のように「奉齋主神」が明記されます。

《道場又は集会室に特に顕斎せる主斎神又は安置仏なし。心に幽斎する主神としては宇宙大生命(その幽の幽なる神として天之御中主神、幽なる神として天照大御神、現人神として天皇)を礼拝す。宇宙大生命は宏大無辺にしてその仁徳一切に及び一切を包容するが故に、各自は祖先伝来の宗教を信じ又は自宅にて如何なる斎神又は安置仏を奉ずるも差支えなし。宇宙大生命の道を顕揚し、日本国威を発揚し、皇威を顕揚する。道(みちびき)の神として心に幽斎する副神として生長の家大神(古事記、日本書紀に顕れたる住吉大神即ち後に塩椎神(しおつちのかみ)、仏典に顕れたる釈迦観世音菩薩及びその応化仏、基督(キリスト)教の黙示録第一章に顕れたる七つの燈台の点燈者を礼拝す。宇宙大生命は宇宙生命の根本実相にして、宗教に偏らざる哲学的表現を用ふれば「生命の実相」なり。この意味に道場又は集会室に、「生命の実相」又は単に「実相」の掛軸を掲出する事あり。》

 これについての解説が、谷口雅春先生著『神の真義とその理解』(102〜103頁)に記されています。

《さて吾々生長の家の団体では、心に宇宙大生命(みおやのかみ)を祭るのであります。その宇宙大生命と云う文字の下に括弧して、「(ソノ幽之幽ナル神トシテ天之御中主神、幽ナル神トシテ天照皇大神、現人神トシテ天皇)ヲ礼拝ス」と書いてありますが、「幽」とは「幽玄」の意味であって、現象の幽(おく)の幽(おく)にましますところの大実在として、日本の称名(よびな)を以てすれば天之御中主神と申上げる大神であります。…天之御中主神は斯くの如く、幽(おく)の幽(おく)の大実在であられますが、この宇宙の大神が、依然として幽玄にましまして、吾等の思慮の及ぶところではございませんが、幽之幽なる天之御中主神よりも一段ハッキリと、『日本書記』に録されたる通りの「光華明彩六合(ひかりうるわしくりくごう)に照徹れる」神として顕現あそばされたのが天照大御神であらせられ、更にその天照大御神様が御肉体を以て現人神として現われていらせられる神様として天皇を礼拝する―これが生長の家誌友が心に主斎する神様でございまして、御宮のような眼に見える形で御祭りするのではありませんから幽斎と申すのであります。即ち吾々は天皇様を宇宙大生命の全徳の御顕現としてそのまま現人神として拝し奉るのであります。歴代の皇霊に対して尊崇を捧げるのも同じ意味であります。》

 ここに「御宮のような眼に見える形で御祭りするのではありませんから幽斎と申すのであります」とありますように、「御宮」の「御祭神」にはなじまないのが、「天之御中主神」なのであります。
 さて、このことの重大さを知るためには、なぜ、谷口雅春先生が総本山をご造営になさったのかを知らなければなりません。
 当時、総本山のご造営に、信仰的な面から反対の声があがりました。「神示」に「吾れに神殿は不要である」とあったからであります。それに対して、谷口雅春先生はどうお答えになられたか。

《宇宙創造の大神は、神示に、「われに神殿は不要である」と仰せられているのである。絶対者にまします大神にとっては神殿は不要であるが、住吉大神と名を示して個別的にあらわれ給うた神については又別の相対的意義があるのでありまして、信仰心の集中の一点として、崇敬の心を散乱せしめないためには神殿が必要なのであります。しかし神殿に奉斉する御神体は偶像ではないのであって、護国の神剣≠もって御神体とするのであります。》(『生長の家』誌 昭和53年11月号 45頁)

 このお言葉に照らして考えてみるに、谷口雅宣総裁が今回やったことは、「ソノ幽之幽ナル神トシテ」の天之御中主神を、「住吉大神と名を示して個別的にあらわれ給うた神」と同列に扱うということを意味します。
「絶対者にまします大神」を勝手に「個別的にあらわれ給うた神」にしてしまう。こういうのを神をも恐れぬ所業というのではないでしょうか。〉


以上が引用であります。

ここで私が申し上げている神をも恐れぬ所業≠サれを今度は全ての教化部でやれ、というのが今回の「通達」の趣旨であるわけです。

このときは、総本山のご祭神の取り替え≠ナありましたが、今度は教団全体において神様を取り替えるというわけです。

よし、神様を取り替えるなら取り替えるで、新しく“雅宣教団”として再出発しますと宣言するのであれば、何も私はここまで問題視しません。

ところが、それを「生長の家」という同じ名前でやろうとしているからこそ、これは詐欺だ、騙しだと申し上げているのです。

勝手に神様を取り替える…。

こんな重大なこと、それを、しかもたった一通の「通達」でやってしまう…。

余りにも、それは信徒を馬鹿にしたやり方ではないのか。

モノを言うべきときには、きちんとモノを言う。

今、ここでモノを言わなかったら、いつ言うのか。

それほどの時が今なのだ!

そう申しあげたいのです。



割り込み、失礼します。上の12026で破邪顕正さんがおっしゃっている、ご自身の記事「暗黒の30年史」は、ここで見ることができます。 (12027)
日時:2020年05月24日 (日) 21時18分
名前:破邪顕正さんの愛読者です

上の12026で、破邪顕正さんがおっしゃっている「暗黒の30年史」は、おそらくこの記事、

「破邪顕正さんの《谷口雅宣教団の30年史》。あまり素晴らしいので別の掲示板からコピーペーストしました。 (7269)」

https://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=1701
で、見ることができるだろうと思います。

このスレッドの真ん中から少し下ったところに、

○平成26年11月21日…総本山の「ご祭神」が変更になり、「宇宙浄化の祈り」が廃される

があります。




〈万物調和のムスビの働きを表した造化の三神と、神の創り給いし無限多様の実相世界を象徴する七重塔を通して、宇宙の大生命に礼拝いたします。〉こんな文言でいいのですか… (12041)
日時:2020年05月26日 (火) 09時32分
名前:破邪顕正


今朝、「如意宝珠観」を実修させていただきました。

実修し終わって、ふと、思いました。

綿津見の神の宮なり、塩椎の神の宮なり…

“造化の三神”の宮なり、なんて、やっぱりあり得ないよなあ…。

そういうあり得ないこと、オカシイことをやらせようとしているのが、今回の「通達」なのです。

それでは、何をもってオカシイと言うのか。

結局、それが尊師の「教義」に反しているからなのです。

生長の家の信徒である限り、その正邪の判断は、すべからく「教義」によってなされるべきであると思うものであります。

その意味で、今回の「通達」の一番の問題は、尊師がお説きくださった「教義」が完全に無視されている、そこに尽きると言っても決して過言ではありません。

「教義」を無視した、好き勝手なことが罷り通ったら、それはもはや、尊師の創始せられた「生長の家」とは言えないでしょう。

ですから、「教義」など一切、関係ないと横車を押し通すのであれば、どうぞ、お好きに、自分の思うとおりの雅宣教団≠ナも何でもをつくって、そこでは第一義の神もお社に祀っていいのです、ということにしておやりくださいと申し上げているのです。

ところが、そういうことを同じ「生長の家」でやろうとするから、それでは「教義」も何もあったたものじゃない…。

何が正しいやら、何がオカシイやら、それこそメチャクチャになってしまうではないか、そう申し上げているのです。

で、今回、それが端的に表れているのが、表題に掲げたように、礼拝するときの文言の変容です。

何と、長々しい説明調の言葉でありましょうか。

こんなこと言って、本当に、礼拝できますか…。

それよりかは、「生長の家」の立教以来、ずっと称えてきた〈「實相」のご揮毫を通して〉とか〈「實相」の御額を通して〉とかが、よほどいいでしょう。

どうして、こんなヘンテコな文言で礼拝しないといけないのか…。

そういうことからも、今回の「通達」は、オカシイ…。

そういう声をどんどんあげていって欲しいと思っています。




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