〈万物調和のムスビの働きを表した造化の三神と、神の創り給いし無限多様の実相世界を象徴する七重塔を通して、宇宙の大生命に礼拝いたします。〉こんな文言でいいのですか… (12041) |
- 日時:2020年05月26日 (火) 09時32分
名前:破邪顕正
今朝、「如意宝珠観」を実修させていただきました。
実修し終わって、ふと、思いました。
綿津見の神の宮なり、塩椎の神の宮なり…
“造化の三神”の宮なり、なんて、やっぱりあり得ないよなあ…。
そういうあり得ないこと、オカシイことをやらせようとしているのが、今回の「通達」なのです。
それでは、何をもってオカシイと言うのか。
結局、それが尊師の「教義」に反しているからなのです。
生長の家の信徒である限り、その正邪の判断は、すべからく「教義」によってなされるべきであると思うものであります。
その意味で、今回の「通達」の一番の問題は、尊師がお説きくださった「教義」が完全に無視されている、そこに尽きると言っても決して過言ではありません。
「教義」を無視した、好き勝手なことが罷り通ったら、それはもはや、尊師の創始せられた「生長の家」とは言えないでしょう。
ですから、「教義」など一切、関係ないと横車を押し通すのであれば、どうぞ、お好きに、自分の思うとおりの雅宣教団≠ナも何でもをつくって、そこでは第一義の神もお社に祀っていいのです、ということにしておやりくださいと申し上げているのです。
ところが、そういうことを同じ「生長の家」でやろうとするから、それでは「教義」も何もあったたものじゃない…。
何が正しいやら、何がオカシイやら、それこそメチャクチャになってしまうではないか、そう申し上げているのです。
で、今回、それが端的に表れているのが、表題に掲げたように、礼拝するときの文言の変容です。
何と、長々しい説明調の言葉でありましょうか。
こんなこと言って、本当に、礼拝できますか…。
それよりかは、「生長の家」の立教以来、ずっと称えてきた〈「實相」のご揮毫を通して〉とか〈「實相」の御額を通して〉とかが、よほどいいでしょう。
どうして、こんなヘンテコな文言で礼拝しないといけないのか…。
そういうことからも、今回の「通達」は、オカシイ…。
そういう声をどんどんあげていって欲しいと思っています。
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