《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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今回の「通達」を私なりに読めば、尊師御揮毫の「實相」を通して宇宙の大生命を礼拝していたものを、職員の書いた“造化の三神”のご神名を通して礼拝する、それを強要するものです。これは余りにも尊師を侮辱するものではないのか… (12017)
日時:2020年05月23日 (土) 16時02分
名前:破邪顕正


「生長の家」の教えとは、言うまでもなく唯神実相哲学≠ナあります。

それを象徴するものこそ、尊師御揮毫の「實相」に他なりません。

だから、神様は、こう仰ったわけです。

《諸君は生長の家≠フ本部道場や練成道場の講壇の正面に『實相』という大文字が掲げられてあることを知っているであろう。あれはわたし≠ェ掲げるように命じたのである。》(『神真理を告げ給う』14頁)

その神さまの命を受けられて、尊師は御揮毫なされたわけです。

尊師が、どんな御思いで御揮毫なされたか。

それに関する資料を当たってみました。

@『谷口雅春墨滴集』「序に代えて」谷口恵美子先生のご文章より

《一日に半紙を百枚、ときには二百枚も書かれるご様子は人間業とは思えませんでした。》

A『師と仰ぎ夫と仰ぎて』谷口輝子先生のお言葉より

《起ち上るたびに私の股の筋肉と右の二の腕の筋肉とが痛みを感じた。…これは…御揮毫された夫の手伝いをして、二百二枚に捺印したために、不なれな筋肉をはげしく使ったからであった。一枚に三つずつ押したので、六百六回捺印したことになるわけである。》(128頁)

B『輝子先生を偲んで』「はじめに」谷口恵美子先生のご文章より

《昭和三十一年の日記は、雅春先生が御揮毫を毎日、二百枚以上もなさっていた記録が書かれています。御揮毫をされる傍で、輝子先生がオートメーションのように落款を押しつづけられた姿は、生涯お二人で協力して歩まれた一つの光景として忘れることができません。》

C『明窓浄机』「新生篇」より

《十一日からは月末まで約二十日飛田給から五人、東京青年会から一人、墨すり等の手伝いに来て下さって一気呵成に揮毫する。一日に大体平均百七十枚は書くのである。…私は正味二時間にわたって、間断なく、前屈みで左の手で体の重を支えながら、筆を走らすのである。大分、重労働である。》(219頁)

D『明窓浄机』「戦後篇」より

《どんなに神様は、その愛していられる神の子に、「神と直結している」と云う感じを持たせてあげたがっていられるか。ほととぎす血を吐く思い以上のものがあるのです。そのために忙しい私に又一つの仕事が殖えたのです。それは私が画仙紙や色紙や短冊に揮毫をすることです。》(77頁)

「生長の家」の信徒は、尊師御揮毫の「實相」を通して、宇宙の大生命を礼拝する…。

当然、尊師は、そのことをご存じの上で御揮毫されていかれたわけです。

「神と直結している」

その感じを持たせてあげた≠「という、尊師の御思いが、あの御揮毫には込められているのです。

ところが、今回の「通達」は、それを恰も遮るかのように、その「實相」の前にモノ≠置くわけです。

当然、礼拝するときには、その目の前に、総本山の一職員の書いた“造化の三神”のご神名があるわけです。

それを通して、宇宙の大生命を礼拝せよ…。

それが、今回の「通達」の言っていることなのです。

皆さん、これで、本当に、宗教的な敬虔な祈りが出来るものでしょうか?

これは考えれば考えるほど、尊師の御思いを踏みにじる以外のなにものでもないと言わざるをえません。

敢えて、キツい言い方を許していただくならば、これは侮辱に値する、そこまで思ってしまうのです。

今回、改めて、尊師の御揮毫に関する資料に当たらせていただいて、そのことを痛感しないではいられませんでした。

ここまで、尊師を、そして「實相」を冒涜するか…。

私の信条の一つは、「本質以外は寛容であれ」であります。

それについては、過去にも言及したことがあります。

〈「分裂するのは谷口雅春先生の教えが不完全だからだ!」と言われてどう答えたらいいのでしょうか? (9568)
日時:2018年06月22日 (金) 08時34分
名前:破邪顕正

表題のような質問を受けました。

それに対する私なりの答えを申し上げて、皆様の参考に供したいと思います。

まず、分裂は果たして悪いことなのかということを指摘しておきたいと思います。

大事なことは、尊師の御教えが広まることなのではないでしょうか。

分裂して、それぞれの立場で、尊師の御教えをお伝えしていく。

結果として、尊師の御教えが拡がったら、それもまた良しではないでしょうか。

実際、分裂して以前にも増して教勢が大きく発展したという事例はよく見受けられます。

つまり、分裂=悪、だから分裂するような教えは不完全。

どうも、このような短絡的な思い込み、それが表題の背景にはあるような気がしてなりません。

更に、言わせてもらえば、分裂することと教えとはそもそも関係がない。

切り離して考えるべきではないのかと私は思うのです。

分かりやすく、今の教団のことをもって説明いたしましょう。

一方に、『生命の實相』という聖典、これは実に素晴らしい、人類に対しての大いなる福音であると思う人達がいます。

ところが、一方に、『生命の實相』は古い、時代遅れであると考える人がいる。

当然、この両者は相容れないということになります。

で、教団はどうなってしまったのか。

そうです、後者の方が組織のトップに立ってしまい、『生命の實相』はなくても結構ということになってしまったというわけです。

前者にしてみたら、『生命の實相』のない生長の家なんて考えられない、いや有り得ない!

だとすれば、どうするか。

自ずと進むべき道は明らかです。

後者が支配する教団とは袂を分かって、独立するしかない。

これが今の現状認識であろうと思います。

さて、こう見てくれば、果たして、これは教えが不完全だから起きたことなのかと思うのです。

決してそうではない。

むしろ、分裂の引き金は、後者の方が組織のトップに立ってしまったことに由来する。

そう捉えることの方が極めて自然だと思うのです。

何を申し上げたいか。

分裂の根本因は、教えの不完全さにあらず。

「総裁」に就いた人にこそ帰せられるべきであると思うものであります。

こういう言葉があります。

《本質以外は寛容であれ

他者とも違いを認め合い

お互いを尊重することは大切です

しかし、本質については

妥協することなく

はっきり言うべきことも大切》

では、ここに言う本質とは何か?

生長の家創始者・谷口雅春先生を心から仰慕する。

具体的には、尊師の記された「聖典」を常に第一義とする。

これに尽きると思うのです。

今の総裁が、その姿勢に徹してさえいれば、それぞれいろんな思いが吹き上がろうとも、何とか寛容≠ノ処することも可能だったのではないのかと思うのです。

しかし、現実はそうではありませんでした。

あろうことか、総裁は、私に言わせれば、その「本質」を敢えて変えてしまおうとしたわけです。

『聖典』を絶版にするわ、神様を変えてしまうわ、サヨク思想にかぶれるわ…。

事ここにいたっては「妥協することなく はっきり言うべきことも大切」ということになるしかないのではありませんか。

で、結果として教団と袂を分かつ選択したということであります。

で、今は、本当にそれで良かった!

いや、それが良かった!

いや、それが最高!

そう思う自分があります。

だって、尊師の教えをそのまま、何の気兼ねもなく、周りの目を気にせず、思う存分、お伝えできるのですから!〉

今回の「通達」もまた、実に本質的な、信仰上の大重要問題である…。

そうである以上は、寛容にはなれないし、否、寛容であってはならない、そう思うのです。

これを投稿するに当たって、『輝子先生を偲んで』を拝読させていただいておりましたら、徳久克己先生のご文章の中に、輝子先生のお言葉が紹介されていました。

《求道生活の間に、いろいろの誘惑がありましたが、先生は、いかなる誘惑にもめげず、断固として、自分の正しいと思う道を、あゆみ続けられました。もし、一度でも、その誘惑に負けていたら、今の生長の家は、生まれていなかったでしょう。調和と妥協とは違うのです》(234頁)。

最後のお言葉、「調和と妥協とは違うのです」それを貫いてきたからこそ、「谷口雅春先生を学ぶ会」も生まれたのだし、この度、宗教法人を取得することもできたのだと思っています。

妥協することなく、信仰の純粋性に生きようとする信徒のためにこそ、私どもは存在している…。

その思い一念で、更に前進してまいる決意です。



割り込み、失礼します。上の12017で破邪顕正さんがおっしゃっている9568記事、「『分裂するのは谷口雅春先生の教えが不完全だからだ!』と言われてどう答えたらいいのでしょうか?」は、ここにあります。 (12019)
日時:2020年05月23日 (土) 17時48分
名前:破邪顕正さんの愛読者です

上の12017で破邪顕正さんがおっしゃっている9568記事、「『分裂するのは谷口雅春先生の教えが不完全だからだ!』と言われてどう答えたらいいのでしょうか?」は、12017で全文が引用されていますが、その場所は

https://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=2236
です。

レスポンス記事が4件ありますので、一応ご参考まで。




神様を取り替えた古代エジプトの歴史から、今の教団の今後を占うと… (12043)
日時:2020年05月26日 (火) 14時28分
名前:破邪顕正


古代エジプトと言えば、ツタンカーメンが有名です。

その父君がアメンホテプ4世。

当時、エジプトでは、太陽神アメンを信仰するのが全盛期を迎えていました。

アメンを讃えるエジプトの神官たち(アメン神団)は、王様(ファラオ)をも凌ぐ権勢を誇っていました。

で、アメンホテプ4世は、アメン神団を抑圧し王権を強化する目的で、アメン神に取って替わってアテン神を信仰するようになります。

自分の名も『アクエンアテン』に改め、アメン神の文字を削り、王家としてのアメン信仰を停止し、他の神々の祭祀までも停止させてしまいます。

まるで一神教の様相を呈するに至ります。

それをもって、人類史上最初の唯一神教という見方もありますが、今では、唯一神教ではなく単一神教または拝一神教の段階に留まるものであったと見られています。

これを「アマルナ宗教改革」と言います。

ところが、この宗教改革は、あまりにも急激だったために、アメン神団の抵抗が激しく、疫病などの蔓延もあり、最終的に失敗に終わります。

アメンホテプ4世アクエンアテンが失意のうちに亡くなった後、その息子であるツタンカーメン王の時代にエジプトは再びアメン信仰に戻ることになります。

この古代エジプトの歴史を、今の教団に当てはめてみると、今回の「通達」は、「アマルナ宗教改革」ならぬ「雅宣宗教改革」とは言えないでしょうか。

それまでの住吉大神信仰を“造化の三神”信仰へと変えたからです。

古代エジプトでは、その急激な変化に対して、アメン神団が激しく抵抗しました。

その顰みに倣い、ここで住吉大神信仰に立つ吾らが本気になって起ちあがれば、「雅宣宗教改革」も挫折して終わるのではないのか…。

そして、元のような住吉大神信仰が蘇ってくるのではないのか…。

歴史は繰り返す…。

これを範として、今回の「通達」には、猛烈な抗議の声をあげていかなければならないと思う次第です。




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