《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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谷口雅春先生に帰りましょう・伝統板・第二
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今、教団信徒に必要なのは『ファクトフルネス』ではないでしょうか。だからこそこの「掲示板」を友人・知人に見て貰うように勧めることが今の私の愛行です≠ニいう声が投稿の励みとなっているのです… (12011)
日時:2020年05月22日 (金) 15時37分
名前:破邪顕正


ビル・ゲイツが「世界の見方が変わる本」として絶賛した『ファクトフルネス』という本が、今、売れています。

この本によれば、多くの人が悲観的な思い込みにとらわれていて、ファクト、つまり「事実」から眼を背けていると言います。

思い込みには「事実」をもって相対せよ。

それを改めて思い知らされる本であります。

何故、この本をご紹介したかと言えば、今、教団にいる信徒の皆さんは、どうもこの本とは逆で、楽観的な思い込みの中にあるように思えてならないからです。

もし、現総裁が尊師のお孫さまでなければ、どうでしょう。

到底、現教団はもたなかったに相違ありません。

血筋によってのみ支えられている、それが今の教団の実態であると思います。

即ち、尊師のお孫さまだから、そのうちに何とかなるだろう…。

色々とあっても、そのうちに分かってくださるだろう…。

「生長の家」だから大丈夫よ…。

信徒は、どうして、そういう楽観的な思い込みに逃げるのでしょうか?

誤解を怖れずに言わせていただけば、それが楽≠セからです。

そのまま教団に残ることができますし、何もストレスを感じないですみますから…。

そういう思い込みには、『ファクトフルネス』が指摘するように、「事実」をもって相対するしかありません。

「事実」を見よ!

そういう思いで、私はこれまで投稿してまいりました。

で、最近、嬉しかったのは、教団に残っているかつての知人や友人に、この「掲示板」を見るように勧めているという声を聞くようになったことです。

有難いことに、この「掲示板」を読むように勧められた方々から、

「今まで何となくオカシイと思っていたことが、すんなりと合点がいくようになった」

「だから、こういうことになっていたのね」

「こういう理由で、変わってしまったのね」

そういう反応が返ってくるようになったというのです。

更に嬉しかったのは、「掲示板」に書いてあることが、単なる意見とか、感想の類いであれば、そういう考え方もあるのか、で終わるのに、きちんと尊師の聖典から、その根拠、理由が明示されている。

だから、すんなりと納得がいく。

そういう声が寄せられているというのです。

思い込みには「事実」をもって相対する。

更に、その「事実」を『聖典』によって裏付けていく。

教団にいる信徒の方からも、それは好意をもって受け入れられている…。

改めて、尊師のご文章のもっている力をまざまざと見せつけられる思いがいたしました。

この声に力を得て、これからも、「事実」をもって勝負してまいりたいと思いますし、尊師の御文章をもってきちんとその裏付けに励んでまいりたいと思っている次第です。

「事実」そして尊師の御文章こそが、教団を突き動かす力となる…。

その信念で更に前進してまいります。



総裁の、聖なるものを破壊したい願望は、かつて天皇というご存在にも向けられたことがある。これでも「天皇国・日本」の思いは現教団から消えていないと言えるのか… (12015)
日時:2020年05月23日 (土) 11時06分
名前:破邪顕正


思い込みの怖さは、そう思い込んでいるものにとって都合のいいものばかりしか眼に入ってこない…。

それとは異なるものは、すべて捨象されてしまう…。

だから、事の本質がわからないままになってしまう…。

いわば、思い込みとは偏見≠ニいうことであります。

だから、「八正道」では正見≠ェいの一番にあげられている…。

それだけ、物事を正しく見る、ということがなかなか出来ない、ということなのでしょう。

さて、表題のことです。

総裁という人の実像≠知るに当たって、このことは決して忘れてはならないことだと私は思っています。

だからこそ、私はかつてこういう投稿をさせていただいたわけです。

〈谷口雅宣総裁の天皇陛下を侮辱する発言に我慢できず辞めました…
日時:2016年01月06日 (水) 09時23分
名前:破邪顕正

表題は、ある教化部職員の言葉です。

この職員は、谷口雅宣総裁が環境問題に走るのまでは納得していたようです。

しかし、谷口雅宣総裁の天皇陛下を侮辱する発言を聞いて、もはや我慢も限界ということで職を辞したということでした。

また、ある組織会員も、谷口雅宣総裁のこの発言を目の当たりにして、お先真っ暗になったと言って、苦悶の胸中を赤裸々に訴えてこられました。

それでは、その侮辱発言とは何を指すのでしょうか。

私も、そのことをネットで知ってはいましたが、それを直接、聞いたわけではありませんでしたので、これまでそれについては言及しないできました。

しかし、今回、それを直かに聞いたという人からの相談を受けて、ネット情報は事実であったと確信することができましたので、ここに紹介する次第です。

でも、とてもそれをそのままここに書けるようなものではありません。

私自身が、耐えられない思いであるからです。

伏字にするしかないことを、予めご容赦ください。

谷口雅宣総裁はこう言ったそうです。

…天皇陛下だって、ウ○チもすればオ○ッコもするんです

私は、「組織」に残る信徒に対しては、これからはハッキリとこう言おうと思います。

…こういう総裁に「中心帰一」するのが、谷口雅春先生の教えなのですか?!

民主党を支持し、「朝日新聞」を推奨し、「占領憲法」を擁護し、あまつさえ天皇陛下をこのように侮辱する。

そういう総裁が、本当に「生長の家総裁」でいいのですか?

これは、「環境問題は大事だと思うから」という理由で「組織」に残る人にぜひ、問いかけたいことでもあります。

だって、冒頭に紹介した職員は、この一点で職を辞したのですから!

それほどの重大な問題がここにはあるのです。

相談者の方は、こう言われました。

…どうして、総裁先生はあんなことを言われたのか、未だに理解できないでいるのですが。

それで、私はこう答えることにしました。

谷口雅宣総裁のあの侮辱発言は、「日教組」の先生がよく言ったものと同工異曲です。

天皇陛下を「現人神」とする日本人の心情を小ばかにするときに、よく、こういう言い方を用います。

世の中に、「サユリスト」という人がいます。

私の知人にもそれがいましたから、以前、何をもって「サユリスト」と言うのかと聞いたことがあるのです。

そのときに、その知人が答えた言葉が未だに忘れられません。

「吉永小百合はご飯も食べなければ、ウ○チもしない。オ○ッコもしない。そう信じている人のことをサユリストと言う」

そうです、所謂、偶像崇拝なのです。

谷口雅宣総裁は、とにかく、この偶像崇拝が大嫌いなのです。

谷口雅春先生を神様のように思う信徒がいることも大嫌いです。

だから、「谷口雅春先生だって間違うんです」と言ってしまうのです。

『聖典』という言葉も嫌い。

「神癒」というのも嫌。

同様の論理で、天皇陛下を神様のように思う信徒がいるのが我慢ならないのです。

つまり、谷口雅宣総裁は、生長の家が天皇信仰であるということが耐えられない。

だから、それを何とかして壊したい。

それが谷口雅宣総裁のホンネなのです。

そうとでも考えなければ、谷口雅宣総裁がなぜ天皇陛下をあのような言葉で侮辱しなければならなかったのか、その心理が解き明かせません。

ザックリ言ってしまえば、「天皇信仰の生長の家」を根本的に破壊し、まずは更地にして、その上で自分の「生長の家」を打ち立てる!

それこそが谷口雅宣総裁がこの30年間で考え、やってきたことだと言うことです。

谷口雅宣総裁がこの30年間でやってきたことの点と点とを結んでいけば、自ずとそれがクッキリと浮かび上がってきます。

そうとわかれば、今のSNI教団≠ノいることが、谷口雅春先生の教えに合うことなのかどうか、自ずと結論は見えてくるのではないでしょうか。

「組織」に残っている信徒の皆さん。

ぜひ、ここに紹介した私なりの見方を一つの参考にして、今後の出処進退をどうするか、ご検討いただきたくお願い申し上げる次第です。〉

このとき、私は、いみじくも偶像崇拝という言葉を使用していました。

総裁にしてみれば、所謂、原理主義者とは天皇信仰∞尊師信仰≠ノ立つ者であって、それは偶像崇拝に他ならない、そうものを壊したかったのだと思うのです。

そういう総裁が、「天皇国・日本」への思いは消えてはいない、などとどうして言い得ましょう。

「思い込み」とは、実に怖いものです。

ところで、今回の「通達」は、本来、偶像崇拝を嫌っているはずの総裁が、こともあろうに、それを今度は信徒に強要しようとしているわけです。

おそらく、総裁は、「實相」を礼拝することが尊師の御揮毫であるがゆえに尊師信仰≠ノつながると見たのではないでしょうか。

即ち、「實相」礼拝も、総裁にしてみれば、偶像崇拝にほかならない。

だったら、偶像崇拝には、偶像崇拝をもって相対せしめる…。

そういうことではなかったかと私は今、考えています。

そうとでも考えなければ、どうして「實相」額の前にモノ≠設置するのか…。

そこに、よほどの思いがなければ、とてもこんなことは想像だにできないことであります。

立教以来、90年もの長きにわたって「實相」礼拝できたわけですから…。

この「生長の家」の歴史、伝統、文化の重みを、総裁は一気に壊しにかかった…。

そこに今回の「通達」の深刻さがあるのだと思う次第です。



一応、ご参考まで。上の12015で破邪顕正さんがおっしゃっている記事、「谷口雅宣総裁の天皇陛下を侮辱する発言に我慢できず辞めました…」は、ここにあります。 (12016)
日時:2020年05月23日 (土) 15時53分
名前:破邪顕正さんの愛読者です

上の12015で破邪顕正さんがおっしゃっている記事、「谷口雅宣総裁の天皇陛下を侮辱する発言に我慢できず辞めました…」

は12015に全文が紹介されていますが、その場所は
https://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=27
です。

レスポンス記事での質疑応答が11件あるので、一応ご参考まで。



ベーコンの「4つのイドラ」になぞらえて、今の教団信徒の楽観的な思い込みに対して、どう相対すべきかを考えています… (12025)
日時:2020年05月24日 (日) 15時16分
名前:破邪顕正


今の総裁のもとにあって、それでも「天皇国・日本」の思いは消え去っていないと言い切る人の出現は、私にとって実に刺激的な問いを投げかけました。

どうしたら、そこまで思い込めるのか。

その思い込みは、決してその方だけの特別な話ではない…。

教団信徒は、大なり小なり、そのような思い込みの中にいるのではないのか…。

それで思い出したのが、「知は力なり」という有名な言葉で知られる、イギリスの哲学者、フランシス・ベーコンの「4つのイドラ」のことでした。

@種族のイドラ…人間という種族に基づく思い込みのこと

さしずめ、これを私は「信徒仲間のイドラ」として受け止めたいと思います。

仲間から外されて一人ぼっちになるのは辛いから、その仲間の間で交わされている言葉の世界を無条件に容認、肯定していくというのがそれに当たるのではないかと思っています。

とりわけ、白鳩会の中に、これがよく見受けられます。

で、私が、今でも忘れられない光景があります。

ある年の白鳩会連合会長会議でのこと。

「私たち白鳩会が率先して総裁先生をお守りしなければなりません!」

その場に出席していた人の報告によれば、それはもう異様な雰囲気だったそうです。

こういう中に入り込んだら、もはや、それに異論を唱えることはできません。

総裁先生をお守りすることが私たちの使命、そう思い込まされていくということです。

A洞窟のイドラ…「個人の思い込み」のこと

例えば、赤色のレンズの眼鏡をつけたとしましょう。

当然、見える世界は赤色となります。

それを生まれた時からずっと身につけて生きていたとすれば、その赤い世界に何の疑問も抱くことはないでしょう。

さしずめ、これを今の教団に当てはめれば、「総裁先生は尊師のお孫さまだから」というのがそれに相当するのではないでしょうか。

お孫さまのなさることに間違いがあろうはずがない、そういう思い込みです。

尊師の「天皇国・日本」を千万年にわたってご守護するとのご精神は、そのまま、お孫さまにも間違いなく脈々と流れている…。

勝手にそう思い込むことができるのも、やはり、総裁が尊師のお孫さまだから、ということに尽きるように思います。

B市場のイドラ…噂話や、人づてに聞いた情報を鵜呑みにして思い込むこと

教団信徒の「谷口雅春先生を学ぶ会」に対する悪印象がこれに当たるように思います。

よく、教団信徒の方から、「谷口雅春先生を学ぶ会」は『生命の實相』と「聖経」を盗み取った、というようなことを言われることがあります。

よし、盗み取ったとして、それで果たして裁判に勝ち得るでしょうか。

この著作権裁判は、最高裁まで行ったわけです。

その上での私どもの勝訴だったわけです。

常識的に考えて、盗み取ったという表現は当たらない、そう思うべきではないでしょうか。

にもかかわらず、未だに、盗み取ったという言われ方をするのは、結局、そういう噂が教団内で罷り通っているからこそなのだと思います。

C劇場のイドラ…両親の言っていることや、権威のある学者の言っていることをすぐ信じ込んでしまうこと。

教団内における、一番の権威は、それは何といっても法燈≠ナありましょう。

その唯一人の法燈継承者は総裁先生である。

総裁先生しかいないのです。

だから、総裁先生に「中心帰一」することが信徒の道である…。

両親がそう言っているから…。

信仰歴50年の、講師会長までなされた、あの先生がそう仰っているから…。

それで、そう思い込むということであります。

或いは、今回の「通達」の話で言うと、ある有名な先生が「造化の三神を祀ることが尊師の願いだった」と仰ったから…というのもこれに当たります。

まさに、これは権威の悪用でありますが、しかし、信徒は、「あの先生が仰るのだから間違いない」、そう思い込むのです。

以上、「4つのイドラ」について述べてまいりましたが、この思い込みを打ち破るにはどうしたらいいか。

新編『生命の實相』第24巻「倫理篇」にある、次のご文章が参考になろうかと思います(36〜37頁)。

《自分が眼を開けば世界は明るい、自分が眼を閉じれば世界が暗い。これは事実であって、理屈ではない。理屈であれば何とでも駁撃することが出来るのでありますが、事実であるから何とも否定のしようがないのであります。》

つまり、「事実」をつきつけていく以外にないということであります。

「事実」を突きつけて、眼を開かすしかない、改めてそう思った次第です。

今の教団が本当に「天皇国・日本」の思いは消えていないというのであれば、「大日本神国観」或いは「宇宙浄化の祈り」が何故、実修し得ないのか。

その「事実」から眼を背けてはならないと思うばかりです。

ともあれ、これからも、私は「事実」を提出し、尊師のご文章でその裏付けをしていくことに尽力してまいりたいと思っております。




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