《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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現総裁の教えは「顛倒夢想」の教えである。 (11992)
日時:2020年05月20日 (水) 00時16分
名前:清流の民



3年ほど前に書きましたが、もう一度取り上げてみます。

観世音菩薩讃歌の「善」の項目には次のように書かれています。

「猛獣走りて鹿を倒し カマキリの鎌、小虫を捕らうれども、その結果、必ずしも悪に非ず、
善に非ず、定められたる法則の産物にすぎざるなり。
そこに善悪を見、善悪の意味を問うは、人間の心働くが故なり。
人間の心関与せざる世界は 善に非ず、悪に非ず。
唯、アイディアと法則と力に満ちたる壮大華麗なる自動運転の世界なり。
されど人間誕生し、・・・」

本題に入る前に書いておきます。私は以前に「日本には野生の虎やライオンはいないが、熊はいる。熊が鹿を襲って、鹿の肉を食べるということは現実にある。」と書きました。
ずっと後になって知ったのですが、「鹿に追いつく獣など、日本にはいない」という意見があったのです。

現象世界のことですが、シベリアでは、鹿を捕食する動物は虎と狼と熊であるとされています。日本でも北海道などでは熊が鹿を襲うことはあります。熊が鹿を襲う場面に観光バスが遭遇して、乗客の間から悲鳴が上がったのを、以前に民放のテレビで見たことがあります。そんなに昔のことでなくても、2020年4月21日(日)NHKスペシャル「ヒグマと老漁師〜世界遺産・知床を生きる〜」にはヒグマが鹿を襲う場面が2回でてきます。あともう1回は鹿の食いちぎられた足がころがっていて、それには「ヒグマのしわざである」という解説がはいります。日本でも熊が鹿を襲うことは現実にあるのです。ご理解をお願いいたします。

しかし、話が込み入ってきますが、私が「日本には」と書いたのは、谷口 雅宣総裁が「自然に対する四無量心」を言いながら他方で弱肉強食を容認・肯定することは矛盾しているということを言いたかったので、多少脚色して、いわば「方便」で書いたのです。
総裁自身は日本とか、シベリアとか、アフリカとか、そんなことは言っていないのです。
では総裁はどう言っているのかというと、これは「人類発生以前の地球」が舞台です。
だから総裁は「人間の心関与せざる世界」とか「されど人間誕生し、・・・」とか書いているのです

そこで最大の論点は、「人類発生以前の地球」は神の創造の世界か、それとも無明縁起の世界かということになります。

現総裁は、「人類発生以前の地球」を「壮大華麗なる自動運転の世界なり」とあたかも神の創造の世界であるかのごとく、理想世界であるかのごとく書いています。

総裁が環境倫理学の影響を受けていることは明らかです。過激な環境保護団体「グリーンピース」についても総裁は「生長の家がマネをすべきでない活動と言えます。しかし、彼らの目的は私たちの目的とそれほど違わないところにあるようです。」(2019年11月19日 唐松模様)と一定の理解を示しています。総裁が「人間は地球のガンである」と言ったのも環境倫理学からきています。

現総裁の世界観がどういう構図になっているかというと、まず「人類発生以前の地球」とか、「人間の心が関与しない純粋な自然界」というものがあって、そこに人間が自然の破壊者として、「悪役」として登場してきます。しかし人間の中にも良心的な人や正義の味方(総裁は自分自身をそう考えていると思われる)はいるのであり、そういう人たちが「自然保護」を叫んでいるという構図なのです。

環境倫理学にのめり込んでしまった雅宣総裁はついに「實相」を見失ってしまい、その代わりに「人類発生以前の地球」をもって理想世界と考えるに至ったのです。

しかし人類発生以前の地球は、決して神の創造の世界ではなく、エデンの楽園ではなく、理想世界でもない。それはやはり現象世界であり、物質の世界であり、迷いの世界です。
迷いの世界であるから「人類発生以前の地球」においても生物は互いに噛み合い、食い合いし、
そして巨大隕石の衝突などによって、多数の生物が死滅しているのです。

「人類発生以前の地球」には確かに人間の迷いの心はありませんが、人間の心が迷う以前に
「宇宙の心」が迷っているのです。これは仏教でも「無明縁起」と言っています。

総裁の書いたものを読んでいると、「宇宙の迷いの心」とか「無明縁起」とかいう視点がスッポリと抜け落ちている。そして人間さえいなければ迷いもなく、悪もなく、したがってそこは神の世界だと短絡的に考えているように思えてならない。

この「宇宙の迷いの心」については、既に遠島流也様が指摘されていますが、『栄える生活365章』の第12篇の「人間不幸の根源」以下の章に書かれています。


現総裁の思想は「生長の家の教え」ではなく、環境倫理学や生物学に近いものです。環境倫理学や生物学が悪いとは言いませんが、これらは「現象はアル」という前提のもとに研究をしているのです。失礼ではありますが、生物学者や環境倫理学者で實相世界の實在を信じておられる方はあまりいないと思います。

現総裁にとっての理想世界とは「食物連鎖の上に成り立つバランスの取れた生態系の世界」なのです。「これこそ考えうる最高至上の世界であり、これ以上の世界はありえない。生物学者も環境倫理学者もそのように考えている。實相世界なんて無いのだ。」と本音では思っているのです。


谷口 雅宣著『生長の家ってどんな教え?』という本があります。この本が初心者向けの本であることは解りますが、しかし総裁の考え方がよく表れていると思うのです。そしてそれは大自然讃歌や観世音菩薩讃歌の底流になっています。

この本の18頁〜19頁には生長の家の根本である唯神實相論についての説明がされています。

「では、天地を創造された神様というのは、どんな神様であるのか? それは創造されたものを見れば、創造主のことはある程度わかる。そして、世界を見ると実に素晴らしいものに溢れていますから、創造主である神はなお素晴らしく、完全円満であると生長の家は考えます。」

この文章とその後に総裁は「天地」とか「世界」とか「自然界」とか「宇宙」とか云う言葉を使っていますが、明らかに「現象の天地」「現象世界」「現象の自然界」「現象宇宙」を指しているのです。(詳細は本で見てください。)

『生命の實相』經典篇には次のように書かれています。

「この物質の世は本當の實在の世ではない、神が造つた世界ではない。完全な神が造つた完全な世界は此の物質の世界以外にどこかほかにあるといふことを知らなければならないのであります。」

また総裁は「創造されたものを見れば、創造主のことはある程度わかる。」と書いていますが、聖經『甘露の法雨』には、
「實在は五官を超越し 第六感さへも超越して 人々の感覚に映ずることなし。」
と示されています。

もう一度書きます。総裁は「神のみが世界の創造者―唯神實相」という言葉を出して、そういう説明の仕方をしているのです。
その理由としては二つほど考えられます。
(一)総裁は生長の家の教えがよく解っていない。
(二)総裁はいちおう頭脳的には教えを理解しているが、反抗心をもっていて、「唯神實相」の意味内容を自分流にすり替えている。そして信徒を自説へと誘導している。

雅宣総裁がここに書いていることは、唯神實相論ではなく、生長の家の思想ではなく、素朴的有神論なのです。素朴的有神論とは神がこの五官に見える現象世界を造ったという思想です。(総裁が本当は神を信じていないならば唯物論ということになります。)

素朴的有神論にしろ、唯物論にしろ、「現象はアル」という思想です。しかし生長の家は唯神實相論であって、「現象なし」の教えです。

仏教も「現象なし」を説いています。般若心経には「五蘊皆空」とあります。現象をアルと思うのは「顛倒夢想」(逆さまの夢の思い)であるとしています。

生長の家は「現象なし、實相のみ實在」の教えですが、現総裁の教えは「現象はアル、實相はない」という顛倒夢想の教えになっています。

結語は毎回おなじです。

生長の家本来の教えと、現総裁の「今の教え」とがいかにかけ離れているか、お分かりになりましたでしょうか。
合掌。



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