現在の教団の実態を「第九条」で表現すれば《総裁−御教》としかならない。これでは神様なき谷口雅宣個人崇拝=カルト教団≠ニいうほかはない… (11978) |
- 日時:2020年05月16日 (土) 12時43分
名前:破邪顕正
「第九条」について、改めて検証してみたいと思います。
尊師が創始された「生長の家」の運動とは何であったのか?
《この運動は宇宙の創造神に在しますところの生長の家大神が或る時期に住吉大神と顕れてコトバの力によって御禊祓をなしたまうところの運動であります。》
さればこそ、尊師は総本山ご造営に当たって、こう宣言なされたわけです。
《わたしはちかいうちに、九州別格本山の八十万坪の聖地に、護国の神霊住吉大神の神殿を建立する準備のために移住する》(『理想世界』誌・昭和49年12月号)
そして、そのご神体として「護国の神剣」が奉納されたわけです。
総裁は、この全てを否定したい…。
「国」とか「日本」とか「護国」とか、そういうことを強調するのでは、自らの推し進める「国際平和信仰運動」の足を引っ張ることにしかならない…。
グローバリズム、国際化の流れに逆行してしまう…。
だから、そのためには何としても御祭神の住吉大神を替えなければならない…。
そこで、総裁が考え出したのが、新たに“造化の三神”を合祀するということにして、住吉大神を脇神にし、時間をかけて無化するという手だったのです。
そして、いよいよ機熟せり、ということで、総本山での神様の取り替えを、今度は教団全体にまで及ぼそうとはかって、今回の「通達」を出すという仕儀となった…、こういうことだろうと思います。
ところが、ここで、この住吉大神外しが思わぬ問題を惹起した。
即ち、総裁に天降るはずの神様≠ェいなくなってしまったのです。
これを「第九条」で表現すれば、《総裁−御教》ということになってしまったのです。
これは何を意味するか。
そうです、「総裁」が神≠ニなってしまったのです。
「総裁=神」として、これからは「総裁先生の言われることが、すべて神意です」それでしのぐ、やっていくしかないということになってしまったのです。
これが、如何に面妖であるか。
尊師・谷口雅春先生のお言葉を思い出したら、それがよーくわかります。
例えば『實相と現象』という聖典の「はしがき」を見てください。
《このような文章−神の言に接する毎に、私は畏れ平伏すのである。そして図り知れない神のはからい、摂理、お導きに、谷口は十二分にお応えし得たであろうか、この九十余年の生を以て些かの悔いることなく尽し得たであろうか、と魂の打ちふるえるのを覚えるのである。》
尊師のこのご姿勢は、常に神様の御声を聴く、それに貫かれたご生涯であったればこそでありましょう。
ところが、総裁は自らが「神」となってしまったわけですから、神様の御声を聴くなどということは、一切必要ないのです。
自分の言いたいこと、やりたいことが、そのまま「御教」となり、神意≠ニいうことになるのですから、誰もそこに疑義を差し挟む余地などあろうはずもありません。
神意≠フ前に、信徒はただ平伏すのみだからです。
これは、実にオソロシイ世界です。
これこそが、個人崇拝であり、カルトの世界の、大いなる特徴そのものであるからです。
今回の「通達」は、「生長の家」をそういう宗教団体へと変えてしまう、本当に恐るべき「通達」であるということを、ぜひ、心ある信徒の皆さんには知ってほしいと思います。
|
|