《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

本流宣言掲示板」「光明掲示板・第一」「光明掲示板・第二」「光明掲示板・第三

谷口雅春先生に帰りましょう・伝統板・第二
この掲示板の目的
この掲示板のルール
本掲示板への書込法
必ずお読みください
管理人への連絡
重要リンク
TOP PAGE

Página de Português/ポル語ページ
 

 

大自然讃歌「生物種互いに 与え合い、支え合い」の本当の意味 (11891)
日時:2020年05月02日 (土) 01時54分
名前:清流の民

3回目の投稿です。

2回目の投稿の後、遠島流也様や明鏡様や数名の方から賛同の投稿をいただきました。有難うございます。

それから立葵様からかなづかいについての投稿もありました。私も福田恆存(つねあり)先生の『私の國語教室』を読んだことがありますので、仰ることは理解できます。
しかし私自身は長い文章を「正かなづかひ」で書くのは無理と思いますので、現代かなづかいで書きますが、谷口雅春先生の著作からの引用文については原文通り「正漢字・正かなづかひ」で書くことにしました。また「実相」はすべて「實相」と書くことにします。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


大自然讃歌と観世音菩薩讃歌には隠れているキーワードがあって、それは「食物連鎖」であると、私は思っています。谷口 雅宣総裁はこの言葉を肯定的に使いたかったのですが、信徒が反発するかもしれないので、封印して、文面には一度も出てこないのです。
食物連鎖とは、生物群集内で生物が食う・食われるの関係で繋がっていることであり、生物学や環境倫理学で使われる用語です。近年では食物網と書かれることも多いようですが、ここでは食物連鎖と書くことにします。尚、大自然讃歌と観世音菩薩讃歌の全文はインターネットで検索すれば見ることができます。


谷口雅春先生は自宅の庭で蛇が蛙を食うのを見られたときに、「弱肉強食の悲惨な世界である、生命と生命の同士討ちの世界である。このような世界は神の創造の世界ではない」と観ぜられました。谷口雅春先生にとって神観の一大転機になった事件であります。
では雅宣総裁はそのことをどのように考えているのか、「本心・本音」ではどう思っているのでしょうか。だいたい次のように考えていると思われるのです。
―――蛇が蛙を食べるのは弱肉強食というよりも「食物連鎖」というほうが適切である。食物連鎖はその全相を見るならば「いのちの環」であり、生物種が互いに与え合い、支え合うすがたである。食物連鎖の一部のみを見て弱肉強食とか殺し合いとかいうのは間違っている。食物連鎖はいのちの連鎖であり、殺し合いではなく生かし合いと見るべきものである。―――


「汝ら、生存競争・適者生存の用語に惑わさるることなかれ。」(大自然讃歌)

谷口雅春先生は生存競争とか適者生存とかあるいは弱肉強食とかいう言葉を使われていますが、こういう用語の使い方は適切でないと、雅宣総裁は言っています。ではどういう用語を使えばよいのかというと、それは書いてないのです。
ここで注意すべきことは、総裁は「用語の使い方が適切でない」と用語を否定しているのであって、内容そのもの(たとえば蛇が蛙を食うこと)は否定していない、むしろ肯定しているのです。


「悪から善生ずるとの迷いを去れ」(大自然讃歌)

ここに総裁の云う善とは多様な生物種と多様な生態系のことでしょう。もし食物連鎖が悪だというならば悪から善の生ずるわけがないと言っているのです。これは観世音菩薩讃歌の「必ずしも悪にあらず、善にあらず」と同一思考の流れであって「食物連鎖は悪ではない」と繰り返し述べているのです。しかし総裁は肝心の食物連鎖という言葉を封印しています。


「生物種互いに 与え合い、支え合い」(大自然讃歌)

生物の種間関係には「共生」や「寄生」や「捕食・被食」などがあります。共生とは昆虫が花粉を運ぶとか鳥が植物の種を遠くに運ぶとかいうことですが、総裁はここではそんなことを言っているのではないのです。いや、そういう意味も含まれているのかもしれませんが、総裁がこの言葉に込めた思いというのは、「捕食・被食」の関係であり、食物連鎖のことなのです。

総裁が「生物」と書かずに「生物種」と書いている点に注意してください。これはその後に出てくる「個々の生物」と対義語になっています。つまり自然界において個々の生物は殺されたり食われたりするかもしれないが、「生物種」という観点からみるならばそれは与え合い、支え合いであるという考えなのです。
猛獣は走って鹿を倒すが、しかし猛獣は鹿を絶滅に追い込むようなことはしない。鹿の一定の個体数は確保されている。「生物種」という観点からみるならば猛獣と鹿とは与え合い・支え合いの共存共栄の関係にあるという考えなのです。そういう思考の流れで総裁は、「これら生態系はすべての生命の共栄圏にして」(大自然讃歌)と書いているのです。
(注・生物学上の「科」・「属」・「種」などの分類がどうなっているかは、専門書で見てください。)

総裁は「食物連鎖」という言葉を封印していますが、それは「生命与え合いのシステム」(2020年3月22日 唐松模様)とか「いのちの環」(普及誌の名称)とか「自然の与え合い・支え合いの仕組み」(自然と人間の大調和を感ずる祈り)とかいう抽象的な美しい言葉、どのようにも解釈できる玉虫色の言葉となって、表現されています。

聖経『甘露の法雨』には、「神があらはるれば乃ち 善となり、義となり、慈悲となり、調和おのづから備はり、一切の生物處を得て爭ふものなく、相食むものなく、病むものなく、苦しむものなく、乏しきものなし。」と示されています。
生長の家は、「一切の生物處を得て爭ふものなく、相食むものなく」という教えであって、「生物種や生態系が大切だ。個々の生物は犠牲になってもしかたがない」という教えではないのです。総裁もそれは解っているので、大自然讃歌にはその後に、「個々の生物 神の無限を表現する如く 周囲へ拡がり、高みを目指し、深みを極めんとし、・・・」と自説をカムフラージュして、書いているのです。

蛇は蛙やモグラを食べますが、蛙もモグラも喜んで食べられているわけではありません。恐怖と苦痛のうちに殺され、食べられているのです。

総裁は大自然讃歌のなかで、『人間は他者を思いはかること 地上の生物随一なり。されば仏道にて「四無量心これ菩薩の浄土なり」と説くに非ずや。 イエス・キリストも「いと小さき者の一人に為したるは、即ち我に為したるなり」と教え給う。』と書いています。
総裁は神の愛や仏の四無量心を説いていますが、一方では生物界の弱肉強食を容認・肯定しています。
弱肉強食を「食物連鎖」と言い換えてみても、さらに「生命与え合いのシステム」とか「いのちの環」とか「自然の与え合い支え合いの仕組み」とかいう美しい言葉に言い換えてみても、残酷なことに変わりはないのです。
猛獣が走って鹿を倒したり、カマキリが小虫を食べたり(観世音菩薩讃歌)するのは弱肉強食の世界であって菩薩の浄土ではありません。



『 今こそ自然から学ぼう 』( 谷口雅宣 著 )について明鏡様が書いておられましたので、私も読んでみました。

「自然」という言葉、確かに「神」を意味することもありますが、そうでないこともあるので注意が必要だと思います。仏教でも、「自然法爾」(じねんほうに)という言葉もありますが、また「自然見の外道」(じねんけんのげどう)とか天然外道という言葉もあるのです。蛇が蛙を食うのは「自然現象」ですが、谷口雅春先生はそれを迷いであるとして、否定されました。
「自然」だから何でも彼でも良いのだというわけではないのです。


雅宣総裁はこの本の「はじめに」でアメリカの生物学者の言葉をを紹介した後、次のように述べています。

≪宗教的な言葉は一切使われていないが、これは「すべては神において一体である」という思想を生物学の言葉で表現している、と私は思った。また「自然界においてはすでに生物間の大調和が実現している」という考えが背後にあると感じた。≫

ここには総裁の神観・世界観がよく表れていると思います。


谷口雅春先生はその著『聖道へ』の中で「弱肉強食のこの世界は誰がつくつたか」「犠牲者の傷ましい叫び声のない世界はないか」と書かれています。そして現象を否定して、「一切の生物處を得て爭ふものなく、相食むものなく」という實相大調和の世界を悟られました。
しかし雅宣総裁は「自然界においてはすでに生物間の大調和が実現している」と書いています。
雅宣総裁は實相世界を観て「大調和」と言っているのではありません。現象の食物連鎖の世界を見て「大調和」と言っているのです。谷口雅春先生と雅宣総裁は同じ「大調和」という言葉を使っていますが、その意味する内容は全く違っています。生長の家本来の教えは現象を否定し,實相を肯定するのですが、現総裁は現象を否定せず、そのまま肯定しています。生物界の弱肉強食そのままに「大調和」と言っているのです。

もっとも総裁は、「弱肉強食という用語は適切ではない、これは生命与え合いのシステムである」と言うのでしょう。「これは自然の与え合い・支え合いの仕組みであって、生物種が互いに助け合い、補い合い、与え合っているすがたである」「美しい調和が到るところに充満している」と言うのでしょう。―――


食物連鎖は神から来たのでしょうか、それとも無明(宇宙の迷いの心)から来たのでしょうか。
食物連鎖は神が定めた法則、あるいは不可不の法則であって、もうどうすることもできないのでしょうか。それともそれは迷いの法則であり、光の前に暗(やみ)が消えるように、本当に神が現れたら消滅する法則なのでしょうか。

両論併記にしておきます。

生長の家本来の教えと現総裁の「今の教え」とは神観・世界観が全く違っていることをお分かりいただけたでしょうか。

                    合掌。



「両論併記」は相応しくありません (11892)
日時:2020年05月02日 (土) 08時39分
名前:聖地巡拝参加者

「真理」と「迷い」とを「両論併記」することは危険です。

「清流の民」様は、過去、雅春先生の實相論を深く理解されたうえで、

雅宣経本の矛盾点と欠陥を指摘されていたと思います。

しかし、今回のこのご投稿は「両論併記」に拘られたゆえか、

雅宣経本の迷い、無明の肯定を「これもまた是」とされている、

かのように読める文章となっています。

「迷い」を「あり」として研究する環境倫理学というような

学問的用語である「食物連鎖」といった言葉の陰に隠れて、

「迷い」を有りと想像することは厳に戒めなければなりません。

そうした間違った言葉の力の利用は排除すべきです。

(例えば、人間が熊に食べられたとして、それも「食物連鎖」と

言い募るのでしょうか?そこに食われる側の苦しみ、悲しみへの

思い遣りはあるでしょうか?全ての動物は食われる危険を

察知したとき、「苦」から逃れるため逃避行動を取ります。

雅春先生は、それを感じる動物の発達段階についても

考察されています。生類への慈愛ゆえでしょう。)

「両論併記」について、ご一考願えれば、と思います。

聖地巡拝参加者さまへ (11896)
日時:2020年05月03日 (日) 00時42分
名前:清流の民


(11892)
日時:2020年05月02日(土)08時39分
名前:聖地巡拝参加者

「真理」と「迷い」を両論併記することは危険です。


清流の民―――

現在の教団信徒には、「谷口雅春先生はすばらしいが、雅宣総裁もすばらしい」と言っているような人が結構多いのです。私はそういう人たちに対して、「谷口雅春先生を信じて雅宣総裁を否定するか、それとも雅宣総裁に中心帰一して谷口雅春先生を否定するか、二つに一つである、両立はありえない」ということを言いたかったのです。
それでまず違いを明確にして「両立はありえない」ということを解っていただければ、あとは各人のご判断になると思って、ああいう書き方になりました。どうぞ、ご了解をお願い致します。


それから私の文章全体を読んでいただければ、食物連鎖を容認・肯定しているのは現総裁であって、私は否定しているということは、解っていただけると思います。

≪蛇は蛙やモグラを食べますが、蛙もモグラも喜んで食べられているわけではありません。恐怖と苦痛のうちに殺され、食べられているのです。≫

≪弱肉強食を「食物連鎖」と言い換えてみても、さらに「生命与え合いのシステム」とか「いのちの環」とか「自然の与え合い支え合いの仕組み」とかいう美しい言葉に言い換えてみても、残酷なことに変わりはないのです。
猛獣が走って鹿を倒したり、カマキリが小虫を食べたり(観世音菩薩讃歌)するのは弱肉強食の世界であって菩薩の浄土ではありません。≫

≪蛇が蛙を食うのは「自然現象」ですが、谷口雅春先生はそれを迷いであるとして、否定されました。「自然」だから何でも彼でも良いのだというわけではないのです。≫

どうぞよろしくご理解をお願いいたします。

真理の立場から「一刀両断」を! (11898)
日時:2020年05月03日 (日) 04時12分
名前:聖地巡拝参加者

「清流の民」様


丁寧なご返事を頂き、ありがとうございます。

お陰様にて、ご投稿の真意を理解できました。

「清流の民」様は、以前のご投稿から、充分に深い真理への

ご理解に立たれているものと思いましたが、

今回は「両論併記」に拘られるあまり、雅宣経本にも

それなりの価値をお認めになっているかの文面になってしまった、

かのように感じてしまいました。

ご返事により、ご真意を理解できました。感謝申し上げます。

一方で、雅宣教の狡猾なところは、「妙な屁理屈だな」と思い、

その不明を正そうと躍起になって読み込んでいくうちに、

いつの間にか、その詐術に取り込まれてしまうところにある、

と思っております。

そんな教団信徒さんを何人もお見掛けしました。

そんな杞憂をもとに投稿させて頂きましたので、

充分読み取れていなかったかも知れず、申し訳ありません。

ただ今後の希望と致しまして、できますれば、

雅宣教(経)の迷いと無明に満ちた言説に対しては、

「清流の民」様の真理への深いご理解にもとづき、

「一刀両断」に付すかの気迫と勢いで

ご投稿頂ければ、閲覧者としまして、胸のすく思いに

浸れるものと、勝手な希望を抱かせて頂いております。

(この掲示板だけはいつ閲覧しても、雅春先生の真理がいま現在も

息づき、躍動しているんだ! との実感を得たい、という

気持ちかも知れません。)

今後とも、よろしくお願い申し上げます。



名前
メールアドレス
スレッド名
本文
文字色
ファイル
URL
削除キー 項目の保存


Number
Pass
SYSTEM BY せっかく掲示板