《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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生長の家創始者谷口雅春先生を学ぶ会「錦糸町深川『生命の實相』勉強会」は何をどう学んでいるか (11744)
日時:2020年03月23日 (月) 17時31分
名前:信天翁

※2月の勉強会開催案内に対して、勉強会の内容を教えて欲しい旨の要望がありました。

そこで、主催者にお願いしましたところ、下記の紹介文が送られてきましたので、ご紹介します。

末尾に3月の勉強会の内容が紹介されています。

(以下、紹介文です。)

「生長の家創始者谷口雅春先生を学ぶ会」の理念に「尊師谷口雅春先生の御教えを忠実に学び継承し、広く普及伝達する。」とあります。

この理念に沿い、特に「立教の原点に立って」を重く受け止めて、真理を学んでいます。

雅春先生が始められた生長の家教団の教えがなぜかくも変質してしまったのか、本当の教えとは何なのか、こんなことで生長の家の教えがこの世からなくなってしまっていいのか、という絶望感の中で教団を離れた人間が、雅春先生の教え自体にも問題があったのではないかとまで思い悩み、その解決の糸口を模索しもがきながら、その答えを再度雅春先生の「聖典」(立教時のものも含む)に求め広く読みこむうちに、今起こっている出来事は「生長の家」の教えが千年、万年と続く教えとするための、いわば雅春先生の言われるお釈迦様に対する提婆達多(※)なのだということを直観、そしてそれを乗越える道しるべは、生長の家がこれまで幾多の危機にめぐり合う中で、神智に導かれ乗越えて来た雅春先生の生きざまにあるのだと気づきました。

(※)釈迦に何故提婆があるのか(『新生の書』p219)
何故、釈迦牟尼仏には敵討する提婆があり、キリストには主を売る反逆の弟子ユダがあり…三界は唯心の所現、環境は心の影と云ふ原則から云ふならば、…釈迦の心の反影としての意地悪の提婆があると言い得るだらう。…光の前に行はれる乱行は業の自浄作用である。滅せんとする際の最後の自壊過程である。…一層浄めて、その魂を向上せしめるのである。神の計画は深慮遠謀。凡慮の及ぶところならずと知るべきである。

この観点から、この勉強会では、様々な危機に面した雅春先生が、如何に神に祈り、導かれて解決していかれたかを大きな柱として学んでいます。

毎号の「学ぶ」誌に加えて、雅春先生の赤裸々な心境が吐露された御文章を、『生命の實相』『真理』の聖典は勿論、谷口雅春著作集、谷口雅春法話集、谷口雅春選集はいうに及ばず、真理の吟唱、神示講義、明窓浄机、さらには五十年史、四十年史、三十年史、時には戦前の聖典、過去の「生長の家」誌、その他雅春先生が書き表わされた書物雑誌から渉猟し、さらには、輝子先生、恵美子先生、清超先生、服部仁郎先生、山口悌治先生、吉田國太郎先生、徳久克己先生、藤原敏之先生、楠本加美野先生等の諸先生の著作にもあたり、問題に直面した先生のご心情を読み取り、どのようにして解決の糸口をみつけられ、その中でどのような真理を体得されたのかを追体験し、その真理を我が情感として、生活に、光明化運動に、生かせるようになるまで深く学ぶことを目標としています。


この三月からは生長の家の原点である「甘露の法雨」がなぜ「聖経」となったのかを、『生命の實相経典篇』『甘露の法雨講義』『新講「甘露の法雨」解釈』はいうに及ばず、年史や「甘露の法雨」発表当時の「生長の家」誌まで当りながら学んでいます。そして、「聖経」となる経緯を知れば、そこに働きかけておられる神界の生長の家の大神、観世音菩薩が実感され、あらためて「聖経甘露の法雨」がありがたく日々読誦出来るようになることを目指しています。

雅春先生の来し方と立教の歴史を学べば、本当の生長の家が分る、そして雅春先生を導かれた大神は、雅春先生亡き今も、本当の教えを求める者を導いておられることを実感するのが当勉強会の目標です。


三月に行われた勉強会の学びのエッセンスです。

1.昨今の新型コロナウィルス騒動をどう考えどう対応すればよいか
(1)天地一切のものへの感謝が全てです
@汝が何物かに傷つけられたり、黴菌や悪霊に冒されたりするのは汝が天地一切のものと和解していない証拠であるから省みて和解せよ。(中略)本当の和解は互いに怺え合ったり、我慢し合ったりするのでは得られぬ。怺えたり我慢しているのでは心の奥底で和解していぬ。感謝し合ったとき本当の和解が成立する(中略)われは愛であるから、汝が天地すべてのものと和解したとき其処にわれは顕れる。(「大調和の神示」)
A神があらわるれば乃ち善となり、義となり、慈悲となり、調和おのずから備わり、一切の生物処を得て争うものなく、相食むものなく、病むものなく、苦しむものなく、乏しきものなし。(『甘露の法雨』「神」の項」)

2.尊師は『甘露の法雨』をどう見ておられたか
(1)尊師ご講話より(『新講「甘露の法雨」解釈』p308はほぼこれと同じ文言)
@“大体『甘露の法雨』は、生長の家の全ての教えが、わずかこれだけの少しの文字の中に、完全に入っているのでありまして、この『甘露の法雨』が本当に解りましたならば、生長の教えはすっかりもう解ったと、こういってもいいのであります”
(2)「生長の家」の根本聖典『生命の實相』の縮約である(『新講「甘露の法雨」解釈』p12)
@生長の家というもの、そのものが、もともと宗教として出発したのではないのであります。宗教を拵えるなどという逞しい野心など決してなかったのであります。それが発表されると驚くべき奇蹟的な功徳があらわれて、人が集ってくるようになり、自然に宗教としての形態をとることになったのであります。宗教というものは人間が製造するものではなく、神から出発して高級霊界の動きとなり、それが人間界に顕れて自然に救済の力があらわれて来るものであります。
(3)「生長の家の歌」が「甘露の法雨(生長の家の歌)」に、そして「甘露の法雨(聖経)」を経て「聖経甘露の法雨」になる歴史



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