《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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整然たる日本国家の構造に回帰せよ。日本政策研究センター代表・伊藤哲夫氏の「五箇条の御誓文」論に学ぶ。(前半) (11652)
日時:2020年02月17日 (月) 19時26分
名前:一愛国者

先日、知人が『致知』誌3月号のコピーをPDFファイルで送ってくださった。同号のなかに日本政策研究センター代表である伊藤哲夫氏の「五箇条の御誓文」に関する発言が載せられているので、それを読んでみるとよいということである。

一愛国者は以前、同センターの政策提言月刊誌『明日への選択』に掲載された同氏の「昭和天皇と五箇条の御誓文」論を読んで何か重要な意味が含まれているように感じて何回も読み込み、考え、調べ、また読みこんで最後に「日本国の基本的構造」が見えてきてひどく感動したことがある。

ここでいう「日本国の基本的構造」とは、

簡単にいえば、国家全体の非常時には天皇が先頭に立って国民を激励し、国民を一丸にして国家全体を安定発展するように導き、そのあとで国家が安定してくると静かに政治から身を引いてジッと国家国民を見つめて祈っている。……しかし国家全体が危機に瀕して国民のバラバラな努力では問題が解決できないようになると、また天皇が状況を見極めて政治の先頭に現れて国民を激励し、国民とともに尽力して難問を乗り越える……

という構造である。

伊藤氏がそこまで言っておられるわけではなかったが、一愛国者は『明日への選択』に掲載された氏の論文を読んでそのように理解した。



さて、知人が送信してきたPDFファイルをさっそく紙に印刷してみた。すると表題に、「『五箇条の御誓文』の真実……日本をひらいた国家理念」と書いてある。

これだ。これである。ここでいう「国家理念」が、一愛国者が『明日への選択』を読んで発見した「日本国の基本的構造」である。まちがいない。もしまちがっていたら伊藤氏には「変なやつに誤読された」と思ってあきらめていただく。ということで、以下、『致知』3月号の内容にそって氏の発言を紹介・説明する。




【民主主義時代を先取りした「五箇条の御誓文」】

伊藤氏は、今の日本は大局的な将来像を描いて国内外の様々な難題に対処しなければ未来がないと言う。また、その大局的な将来像を描くときの中心軸が「五箇条の御誓文」であるとも言う。

もちろんこの「五箇条の御誓文」とは、「広く会議を興し、万機公論に決すべし…」などで有名な五つの誓いの文である。それでは、なぜ「五箇条の御誓文(以下、御誓文)」を中心軸として国内外の様々な難題に対処しないと日本の未来がないのだろうか。それは、

>御誓文は近代日本の「国家像そのもの」

だからである。

氏によれば、御誓文は徳川幕府が倒れた混乱の時代に明確な国是として民主政治、人権尊重の端緒をひらいた。また「知識を広く世界に求める」という進取の気性に富んでいる。

しかも当時の国民は政府側の人間も反政府側の人間も「御誓文」の精神を実現して新日本を築いていこうという気概に満ちていた。だから、「五箇条の御誓文」は決して国家権力が国民を縛るために作ったものではない。

この氏の発言は事実であり重要である。

あまり知られていないことであるが、氏の発言が事実かつ重要であることを示す実例があるので少し紹介する。それは明治時代に発生した足尾鉱毒事件を解決するために明治政府を批判して、ついに天皇直訴を敢行した田中正造の発言である。

現在、田中正造は左翼と誤解されることが多いが、決して左翼ではない。そもそも左翼ならば天皇に頭をさげる直訴などしない。田中正造は、「日本は太古に神が造った」(岩波書店『田中正造全集』第13巻181頁)といい、さらに、「日本は神を信じて組織した国である。それは天皇陛下を神奉させたからである」(同10巻227頁)ともいって、死ぬまで「神国日本」を主張してゆずらなかった人である。田中正造が左翼と誤解されるようになったのは戦後の左翼的研究者たちが「階級闘争の旗手・田中正造」を勝手に造り上げた結果に過ぎない。

……それはともかく、田中正造は明治元年に28歳で、国政をになうことを目指して自由民権運動に身を投じ、日本初の衆議院議員になった。その田中正造(くりかえすが政府批判の立場である)は明治6年のころを、自由活発な明るい時代で「まことに宜しかった」(同7巻307頁)と述べている。その「まことに宜しかった」理由は日本が万機公論に決するようになったからである。彼は、「国会を開いて万機公論に決するならば、皇室は安定して日本は発展するのだ…」(1巻397頁)とも述べているのである。

……もっとも、明治23年ごろに田中正造の地元である足尾の鉱毒事件が発覚して、それ以降、田中正造は徹底した政府批判者となった。田中正造が「階級闘争の旗手」と誤解される所以である。だが、田中正造の政府批判の論拠は「五箇条の御誓文」にあった。彼は国会で政府を罵倒している明治31年6月に次のように言っている。「国内は…万機公論に決すべし。国外は、信義を以て国を交えるべし。…これが立国の基礎である」(10巻37頁)と。

なお、ついでに触れておくと、田中正造は明治憲法(大日本帝国憲法)を「ありがたい憲法」(同2巻104頁)と語っている。これが死ぬまで明治政府を批判した田中正造の根本的思想である。だから現在の一部の学者がいうような、「五箇条の御誓文」や大日本帝国憲法を当時の政治権力が国民を縛るために作ったものとする解説は誤りである。この理由で、伊藤氏の次の発言、

>明治の先人たちは、この御誓文を単なる理想として終わらせるのではなく、総力を挙げてその実践に努め、魂を吹き込むことで近代日本の礎を築きました。…このことは国家の重大時に日本国民が深刻な対立や分裂を克服し得た証左であり、その紐帯となったのは「五箇条の御誓文」であったことは明らかだと思います。

は、当時の政治意識と「五箇条の御誓文」がはたした歴史的役割を正確に表現している発言なのである。




【御誓文はどのようにして起草されたのか】

ここで伊藤氏は、どのようして「五箇条の御誓文」が作られたのかについて説明しておられる。ここには興味深いことが含まれているのだが、長くなるので引用・解説は割愛する。ただし氏は最後に、五箇条につづいて添えられている勅語についてきわめて重要なことを述べておられるので、次に触れておく。

まず、「五箇条につづいて添えられている勅語」とは、五番目の「智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし」のすぐあとに明治天皇が加えられた勅語である。それは次のような内容である(明治神宮の現代語訳を利用させていただいた)。

これより、わが国は未だかつてない大変革を行おうとするにあたり、私はみずから天地の神々や祖先に誓い、重大な決意のもとに国政に関するこの基本方針を定め、国民の生活を安定させる大道を確立しようとしているところです。皆さんもこの趣旨に基づいて、心を合わせて努力して下さい。

伊藤氏はこの勅語について、

>これは天皇から国民に発せられたメッセージでもあります。歴代の天皇は宮中の奥にいて民の先頭に立つようなことはなさらなかったことを考えると、この…お言葉は画期的な意味を持っていました。

と解説しておられる。

それでは、なぜこの勅語が画期的な意味をもつのであるか。氏は、「天皇を前面に立てなくては日本はやっていけない」という臣下(つまり国民代表)の思いを受けて、天皇みずからが強い決意で「五箇条の御誓文」に臨んでいると天皇自身が表明したからである、と解説している。

つまり当時は新政府の薩長の指導層がいくら声を大にして改革を叫んでも本当に国民全体を動かすことはできなかった。なぜならば当時の旧武士たちの半分は旧江戸幕府を心情的に支持する人たちだったからである。それに対して新政府は金もなければ大規模な軍隊ももっていなかった。

だから日本全体が明治元年に勃発した戊辰戦争のような混乱にもどってしまう可能性は十分にあった。そこで天皇ご自身が「自分が先頭に立つ」と宣布された。これによって国民が発奮し、新政府も天皇の権威のもとで「版籍奉還(政府が藩から土地と人民と金を奪うこと)」などの荒療治を施すことができた。だからこの勅語には国家全体をリードする重みと重要性があったのである。

この勅語から見えるように、天皇は国家全体が非常時になると政治の先頭に立って国民を激励し、国民を一丸にして国家全体を安定発展させる。そのかわりに国家が安定してくると天皇は静かに政治から身を引いてジッと国家国民を見つめて祈っている…。これが日本の基本的な国家構造なのである。日本史の有名な学者で「実証主義の権化」とまで言われた坂本太郎博士は、「日本政治の理想は天皇親政」(講談社学術文庫『日本歴史の特性』175頁)とまで言い切っている。

しかも天皇が直接政治にかかわるときには必ず神々に祈り誓いをたてるのである。「五箇条の御誓文」を発したときも同様であった。明治神宮のホームページ
http://www.meijijingu.or.jp/about/3-3.html
には、「五箇條の御誓文」を御神前に奉読する光景が描かれているが、ここでは当時の副総裁である三條實美(国民の代表)が天皇につづいて神々に報告と誓いをのべている光景が描かれている。この意味で日本は整然たる国家構造をもつ神国である。話が少しそれるが、明治政府を批判した田中正造が死ぬまで「日本は神国である」と言って譲らなかったのは、実は、明治政府がしだいに神国日本を捨てはじめたことに対する御誓文信奉者からのプロテストとレジスタンスであったのである。







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