《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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コピーする場合は全文をコピーする事がこのブログの方の決まりなので、全文をご紹介しました。 (11564)
日時:2019年12月27日 (金) 16時43分
名前:コスモス

https://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/bf59f5b1183be0124758f15a02e3e91d  より

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       「正論で武装しても共犯だったオチ」



記事「善一如(ぜん いちにょ・一筋のこと)に生きること」からの続き。

出家した修行者と、在家で信仰する猟師は、同じ信仰者であっても、
信仰の中身と、日常生活は大きく異なります。

在家の信仰者は、家族を持ちます。
修行者は、家族も含めて、何も所有しません。

在家の信仰者の猟師は、生きるために殺生(せっしょう)も行います。
修行者は、生活のすべてを自ら制限して犠牲にするために、生きるために殺生を行う必要がありません。すべての生き物を守ります。

(原始仏典  釈尊の言葉 スッタニパータ編 第1章12節-No.220)

(感想)

この項は、釈尊の言葉では無くて、後世に弟子により加筆されたと想定します。
霊的な真理よりも、修行者を弁護する内容に比重が置かれていると感じます。

出家した修行者と比較する在家の信仰者の職業に、猟師を選んでいることは興味深いです。
殺生を宿命とする職業を、わざわざ選んでいます。

でも、社会の人々が暮らすためには、食料として殺生を行う仕事を、「誰かが」しなければ生けません。
猟師は、殺生をする楽しみのために猟師をしているのではありません。
社会のためと、家族が生きるためにです。

修行者は、肉を食べないかも知れませんが、修行者が生きるために食べる托鉢(たくはつ:食事の寄付)で得られた食事とは、肉を食べて働いた人々が汗水たらして得たものから寄付されるわけです。

自分は、殺生もしないし、肉も食べない。
でも、自分が食べる食事は、殺生を行い肉を食べる人々の御蔭で得られるものである。

はたして、修行者は、殺生をしていないと本当に言えるのでしょうか?
この矛盾は、まさに現代社会にも発生中です。

原子力発電も、石炭火力発電も禁止!
地球と人類と動物たちのために、無いほうが良い!
と声高に叫び、それで飯を食う人々が世界に居ます。

それは、正しいことでしょう。無いほうが良いと思います。
でも、病院の電力も、命に関わるインフラ(水道、ガス、暖房、冷房)も、
そのダメだという存在が供給するものを使用しながら、「止めろ!」と叫んでいるわけです。

いくらクリーンなエネルギーを使用しましても、もし安定供給が出来なければ、自分の家族も含めて大量死が簡単に発生するのが、現代の現実です。

修行者と猟師の比較の話と、現代のエネルギー問題の根底に在る問題は、似ているものが有ると感じます。
このような視点で見れば、2500年も前に選択された修行者と猟師という極端な比較は、非常に正しいことが分かり、目が覚める思いがします。

正論者が正しいのは、ごもっともです。
でも、その正論者は、ダメだとされる人々の御蔭で暮らしている。
会社でも、上司と部下、社長と社員の間でも、このような矛盾が存在することでしょう。

この項からの学びは、
・ 自分が他人に注意したり、怒ったりする時は、
・ 自分は、本当にそれが言える人間なのか?
・ その相手の御蔭で、自分も暮らしている部分が無いか?
こういう点に注意をしたほうが良さそうです。

釈尊の御話は、続きます。



生かして頂いて 有り難う御座います

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 肉食に関する現在の教団の理論とやり方には、耳の痛い話ではないかと思います。ただ、自分たちの正論なるものとやり方の欠点に気付けばの話ですが。




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