ライト兄弟より前に世界初の動力飛行機を飛ばした日本人! (11343) |
- 日時:2019年10月03日 (木) 14時49分
名前:コスモス
黒木安馬
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マッカーサーが歴史から抹殺した・・・
「正義が勝つはウソ。 強いほうが勝つ。 そして勝った方が自分の論理を押し付けて 歴史も作り変えられていく」
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ライト兄弟より前に世界初の動力飛行機を飛ばした日本人!
銃を肩から下ろし、峠にある岩に座って、竹の皮に包んだ握り飯をほお張っている時だった。 行軍演習の兵隊たちが捨てた昼食のゴミをあさりに空から降下してくるカラスの動きに目を奪われた。
滑空の着地態勢時に翼を広げたままなのが不思議だった。 常に翼を上下に動かしていなくても、広げたままの固定翼でも自由に飛ぶことが出来る、前進させる動力さえあれば人間も空を飛ぶことが可能かもしれない!
陸軍歩兵隊の看護卒として入隊して2年目、23歳の二宮忠八は、 香川県琴平と高知を結ぶ十郷村の山道にある樅の木峠で、胸を高鳴らせた。
忠八は明治維新の2年前である1866年に愛媛県八幡浜の裕福な商人の四男として生まれ育ったが、やがて家は商売に失敗して小学校へもろくに通えない極貧の少年時代を送った。
関サバで有名な九州大分の佐賀関に向かって、豊後水道の海をせき止めるかのように四国から長く突き出た佐田岬の付け根にある港町。 八幡浜市は、九州や関西地方との海上交易が盛んな商業都市で、かつては、伊予の大阪と呼ばれ、四国の西の玄関口として大型フェリーが行き交っている。
忠八は、格段に高く舞い揚がり、鳥や提灯型や空からビラをまけるような珍しい意匠と趣向を凝らすなど、人よんで“忠八凧”を次々と作ってみせ、町の人たちを驚かす名物の発明少年だった。
10歳の頃、丁稚奉公先で子守りをさせられながら楓の実がクルクルと回転して落ちるのを見て、羽だけで飛ぶ竹トンボや、さらに強力に高く飛ぶ4枚羽の竹トンボを発明していた。
写真館や測量技師、呉服商、薬剤問屋などで小僧として仕事を変わるたびに、製図や物理化学、薬学の知識や技術を貪欲に身につけていった。
西郷隆盛が政府軍に反旗を翻した西南戦争では兵隊の多くが死傷して、徴兵逃れは世間一般の風潮になっていたが、忠八は外の世界に出て知識や見聞を広めたくて21歳で好奇心満々の志願兵になった。 薬剤の知識が買われて陸軍衛生部看護卒に合格する。
樅の木峠で観たカラスの滑空が頭から離れず、幼少から作っていた凧が飛ぶ原理に飛魚や昆虫、トンビのスケッチを重ね、水面に投げられた平たい石が沈まずに飛び跳ねていく水切りの飛ぶ角度などの理屈に思索を巡らせていた。
そこで気付いたのは、上下二枚ずつの堅い羽を両側に持つ玉虫の飛び方だった。
“カブト虫など、上の硬翼は広げたままであるが、下の軟翼は大きく、その下に折り畳んで納められる。 玉虫だけは硬翼も軟翼も同じ大きさで、軟翼は折り曲げない。 飛ぶ時には硬翼を固定翼のように張って空中で空気に抵抗し、 軟翼は下から硬翼を押し上げるようにしている”と書きとめた。
固定翼でどのくらいの角度で空気抵抗を受けて飛べるのかは不明だったので、忠八は休日には大きな番傘をさして橋の欄干から何度も飛び降りる実験をした。
狂人扱いをされるのを避けるために暗闇で飛び降りを繰り返すうちに、あの河原では鵺(ぬえ)という物の怪が出るという噂が立ち始め、夜の人通りがパタと絶えたこともあった。
推進力の道具さえ整えば必ず飛べるはずだと日々確信を強めていった。 “空を飛ぶ器”、そうだ、“飛行器”と言う名称にしよう! 忠八は筆で力強くはっきりと書いてみた。
早速、設計図を何枚も書き、竹ヒゴを曲げてカラスが羽を広げている形を作り、それに和紙を張った。 カラスらしく黒墨で塗り、目まで入れた。
問題は推進力である。
4枚ばねの竹トンボを後ろにつけてみる。 動力源はどうするか。 軍病院勤めで使っている聴診器のゴム管を思いついた。 太いままでは役に立たないので、細いヒモ状に切り裂いて、寄り合わせてみた。
ゴムヒモにコブが出来るまで竹トンボを逆回してエネルギーを蓄えさせてから手を離してみる。 飛行器は畳の上を勢いよく飛び出して襖に激突した。 すごい速さだ!忠八は狂喜した。
だが、勢いをつけて自力で離陸させるためには、 スムーズな滑走をさせなくてはいけない。 流行し始めていた子供用の三輪車が脳裏をよぎる。 前方に一か所、翼の下に2か所の小さな車輪をつけてみた。
1891年4月29日、
陽も沈んで夕闇せまる中を風呂敷に包んだ飛行器を抱えて、 人気のない丸亀練兵場の広場へ急いだ。 プロペラを逆にどんどん回してゴムヒモのコブが大きくなっていく。 手を離すと地上を勢いよく滑走して3mほど走ると機体が浮き上がり、1mほどの高さで飛び始めると9mも飛行! そして草むらに落ちた。
次は滑走させないで手の高さから投げるように飛行させてみると想像以上に36mも飛んで着陸した。
動力付き飛行機が自力で離陸して、空を飛んだ世界初の瞬間であった。
忠八は、その2年後には、人間が乗って操縦できる複葉機の玉虫型飛行機の精密な設計図と大型模型も完成させている。 1903年12月17日のライト兄弟が動力付き初飛行に成功、何と12年8カ月も前のことであった。
飛行器は、人間こそ搭乗していなかったが、ライト兄弟のレール上を滑って離陸する方法と違い、車輪での滑走方法を考案するなど、現代の航空機にそのまま採用されている原型になっている。
その頃に勃発した日清戦争で日本軍は苦戦を重ねる。
前線に赴任していた忠八は、飛行器を製造して敵陣を偵察することを提案し、参謀長の長岡外史大佐に設計図と上申書を提出したが、“機械が空を飛ぶとは狂気の沙汰”と一蹴、却下される。
当時とすれば世界中で誰も作ったことも見たこともない発想だから、まともに相手にされること自体が奇跡であっただろう。 3度目の提案拒否で諦めた忠八は、軍を去ることを決意する。
その後、大日本製薬の東京支社長などに抜擢され、後のそれぞれの大手製薬会社となる、番頭の武田長兵衛・田辺五兵衛・塩野義義三郎などと協力、頭角を現して実業界の第一人者となる。
それでも青春時代の夢を捨て切れなかった忠八は、京都の石清水八幡宮近くにあった発動機付きの精米所を買い取り、そこで本格的にエンジン動力付きの飛行機製造に着手する。
木津川の砂原に滑走路も準備。 間もなく完成して離陸、自分の手で操縦して大空を思いのままに飛翔するイメージは、既に37歳になっていた忠八を少年に変えていた。
いよいよ明日だ!と心を躍らせていた時、新聞の見出しを見て目の前が真っ暗になり、そのまま座り込んだ。 “世界初、ライト兄弟・・・” のニュースであった。
この十数年の実業界での空白と、軍隊で3度も却下された事件が走馬灯のように回り始め、悔し涙がとめどなく流れ続けた。 忠八は泣きながら、ハンマーを何度も振りおろして、夢の宝物をこなごなに潰し始めた。
日露戦争を経て、1910年12月には代々木練兵場で日本初飛行が日野熊蔵・徳川好敏大尉によってなされた。
忠八のカラス型機初飛行から20年の歳月が流れていたが、何の因縁か、政府の飛行機推進機関の最高責任者は、忠八の天敵である長岡外史陸軍中将が就任していたのである。
が、天はちゃんと見ていてくれた。
飛行機が世界中で注目されるようになると、忠八の設計図が世間の目に触れるチャンスに恵まれ、大臣表彰を受け、国から勲章を授与され、国定教科書にも掲載され、長岡将軍は先見の明が無かった非を、新聞紙上で深く詫びた。
忠八は、飛行機の犠牲者が増えていくたびに心を痛め、八幡市の邸内に飛行神社を建て、自ら神主になって供養を始めた。
1936年4月、70歳の夢多き少年は、ついに大空に舞い上がっていった。
“ライト兄弟よりも早く飛行原理を発見した男”として、英国王室航空協会が正式に認定した、その時であった。
なぜか敗戦後に、この様な数々の日本人の世界的発明や発見の偉業は、ほとんどが記録や教育の世界から消されてしまっている。
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さぞかし悔しかったろうと、読みながら涙が流れました。賢く、勤勉で、道徳的に優れた日本人は、数知れない発明、発見を成してきたはずです。その先祖の心を受け継いで、科学の面だけでなく、凡ゆる面において、今こそ、先日のラグビーの選手のように、日本人らしい力を発揮して行きたいものですね。有難うございます。
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