《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

本流宣言掲示板」「光明掲示板・第一」「光明掲示板・第二」「光明掲示板・第三

谷口雅春先生に帰りましょう・伝統板・第二
この掲示板の目的
この掲示板のルール
本掲示板への書込法
必ずお読みください
管理人への連絡
重要リンク
TOP PAGE

Página de Português/ポル語ページ
 

 

一筋の道(4) 両軸体制 (11184)
日時:2019年08月21日 (水) 20時48分
名前:遠島流也

 今,「大聖師御講義『続々甘露の法雨』」を読んでいる。今から丁度,13年前と11年前のいずれも8月に癌の手術をしており,2回目の手術の後,毎年8月には,この本を読むことにしている。雅春先生の肉声を間近に聞くような懐かしさと,暖かを感じながら,数多くの体験談を読ませて頂き,雅春先生の悟りの偉大さと,それをそのまま信じた人達の素晴らしさに感激しながら,当時病気に至った自分を顧み,延いては,反省を新にするためである。

 ところで,この御本は,雅春先生帰幽後の平成5年8月15日の出版となっている。学ぶ誌には,中島省治代表の御文章が連載されているが,その平成30年6月号に,三代目主導による両軸体制の強行と,その前後の教団内及び教文社内の悲しい動きが述べられている。その両軸体制の下で,例外的に発刊された書籍が,この「大聖師御講義『続々甘露の法雨』」である。

 この両軸態勢なるものであるが,平成5年前後のことであるが,当時の私はまだ純情で,その態勢における普及誌なるものをポスティングしたりして愛行したつもりになっていた。卵の黄身と白身の話しも,当時出ていた何かの本で読んでいた。当時もある違和感を持ったかもしれないけれども,こんな有様に生長の家がなるなどとは,当時は思いもしなかった,純情な一信徒であったのだ。

 思えば,生長の家は,雅春先生が,「生長の家」と題した雑誌に悟の内容を記載し,有縁の人々に無料配布して広まっていったもので,そこにお書きになった内容がその全てとして広まっていったもので,それはその後も変わらず,会員とその以外の人とを分けることも,その違いで配布するものも違うものにするなどの発想はどこからも出てくるはずのないものであったはずである。

 今となっては,両軸態勢は,雅春先生を排除するため,先見の明のある三代目が考えたことであるのは,明白に分かることである。今,この両軸態勢は無くなっているようであるが,それは,三代目においては,雅春先生の排除がひとまず完成した,あるいは完成に近づいたと思っているというところか。その象徴的な出来事が,事もあろうに,この「生長の家」と題する雑誌に,トンデモ本の「日本会議の研究」を推奨し,特集したことではないか。遂に雅春先生を「生長の家」誌から実質排除し,それと正反対のものを「生長の家」に載せたぞーってなもので,勝利感に三代目は酔っていたのでないか。愚かなり。この点については,別途投稿させてもらうつもりである。そういえば,「今の教え」なることを,三代目がしばしば言っていたことがあったのではないか。今は,聞かないがどうなっているのか。ほぼ,雅春先生を排除できたから,敢えて言う必要がなくなったと云うことか。

 「続々甘露の法雨」御講義本に移らせてもらうと,清超先生の,序文には,この本の基となった原稿等について,講習会の録音筆記のほか,「その後さらに多くの追加原稿が,昭和43年1月号から昭和48年9月号にかけて『白鳩』誌に連載された」と書かれており,確かに,まだ,私が大学のころ,自宅で取っていた「白鳩」誌に連載されていたことを懐かしく覚えている。そして,あの講義が,その後,長いこと一切単行本にはなっていなかったことが,むしろ不思議にも思うのである。

 「生長の家」,「白鳩」,「理想世界」,「光の泉」,「精神科学」等の複数の雑誌に毎月お書きになった雅春先生の御文章は、膨大になるものと思う。生長の家は,雅春先生が開祖である。その開祖の御文章を,弟子達が結集していくことは当然ではないか。
 ここで,両軸態勢を編み出した三代目の先見の明が光るわけである。「『生長の家』教団の平成30年史」(私の欲しくて堪らない「生長の家30年史」ではない。悲しい30年史である)を読むと,平成4年7月15日,日本教文社取締役会において,磯部和男から,「1 今の態勢は会員とそれ以外を分ける両軸態勢である。雅春先生の御文章はどちら向けに書いた文章か分からない。2 雅春先生は故人で出版の了解を得られない。3 今は清超先生が法灯を継承しており,そこに中心帰一しなければならない」(要約)ということで,今後,雅春先生の本は出さないという提案があったという。雅春先生の御文章は,そもそも全て両軸態勢なるものが出来る以前のものである。両軸態勢の理屈で雅春先生の御文章を日の目を見ないようにしようというのである。その他の理由についても,全く理由にもならない理屈であることは常識的にも分かる。仏陀が迦葉に法を継承したからと云って,迦葉に中心帰一しなければいけないから,釈迦の言葉を結集する必要はないということはならんだろう。清超先生はご存命で,その意見を聞いてからとのもっともな意見も出たらしいけど,その必要はないと三代目が言って決まったらしい。清超先生は,法灯継承者ではなかったのか。その意見は必要ないとは一体どういうことか。既に三代目は中心帰一していないのである。どうしても雅春先生を排除しようとの,三代目の暗澹たる非情・無情さである。平成30年誌には,「それ以来,谷口雅春先生の新刊書は全く出版されていない。」(P108)とあり,その文章に続け,括弧書きで(「大聖師御講義『続々甘露の法雨』」は平成5年の新刊聖典の出版であるが,これは当時の副理事長・谷口貴康講師部部長の強い働きかけで出版したものであるが,明らかに谷口雅春先生の単独の御著書であるにもかかわらず,「谷口雅春著」とせず「谷口清超編纂」としたのは,上記決定に対する苦肉の策であり,例外的出版であった)と記されている。なんと,毎年8月に読み続けてきたこの御本は,例外的な出版だったのである。このような素晴らしい雅春先生の御講義の本が,本来なら出版されなかったはずだというのである。万感の思いを込めて,冗談じゃないと言いたい。

 確かに,私が,大学当時,「白鳩」誌に,「続々甘露の法」の講義が掲載されていたから,その時は読んではいたはずである。しかし,この平成5年の出版がなければ,将来にわたって,何回も,この素晴らしい御文章を読む機会は失われていたわけである。この本の出版を強力に働きかけ,両軸態勢のもと,例外的に出版を実現させた,谷口貴康氏には感謝あるのみである。

 ところで,令和元年7ー8月号の「心のかけはし」誌に,宮澤潔代表の解説とともに,昭和15年2月号の『生長の家」誌中の「生活の慶びの手紙」からの引用がなされている。分かったように思うけど,やはり難しい,実相と現象との関係について,実に懇切丁寧に雅春先生がお説きになっている文章である。例えば,「今まで自分を『肉体の人間』と思っていたその迷妄から覚めて,その自分を『完全人の原形』そのものだと知るーこれを『観の転換』と申すのでございます。併しながら『完全人の原形』たる『本当の人間』をどこか他の世界にあるように考え,この『肉体の自分』とまた別の人間であるように考えているのでは,まだ本当に『観の転換』ができたのではございません。」,「・・・言い換えると吾々は,肉体としては,『時間空間の世界』に生活しながら,同時に『無時間無空間の生命の世界』で息しているのでございます。・・・。」,「・・・『無時間無空間の生命』が『有時間有空間の肉体』の中に宿ると考えれば二元的になりますが『無時間無空間の本質』が『有時間有空間の肉体』を表しているのだとお考えになるならば,即身即仏ーこのままこの身このまま仏ーと云うことがおわかりになると思います。ヨハネの云った『生命(ことば)肉体となりて吾等の中に宿り給えり』と云うのもそういう意味でございましょう。」等々何とも素晴らしいご教示が続くのである。読んで分かったつもりになり,また読んで,また読んで,ということで何回も読み直している。また,引用の文の中には,如意宝珠観の原型ともいうべき観法をお示しになっている文もある。初めての御開示ではないかと思う。
 これも,膨大なる雅春先生の御文章の一部であるが,これは単行本となって出版されているものに掲載されているものかどうか,分からない。少なくとも「生命の実相」全集中にはない御文章である。

このような,生長の家関係雑誌に存在する雅春先生の宝玉のような福音が埋もれているというのは,実に残念,無念と言うべきである。
 毎月取っている神誌を,長期間保存することは信徒個人々には期待出来ないわけで,神誌を保存している事業団等に,単行本掲載に漏れている雅春先生の御文章の結集を期待するほかない。このような素晴らしいご教示の文章が,昭和5年から延々と積み重ねられているのである。これを結集しないという選択はないでしょう,ということである。




名前
メールアドレス
スレッド名
本文
文字色
ファイル
URL
削除キー 項目の保存


Number
Pass
SYSTEM BY せっかく掲示板