《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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御代替わりの今こそ、尊師・谷口雅春先生の御文章を味読、音読、心読してまいりましょう! (10925)
日時:2019年05月02日 (木) 10時03分
名前:破邪顕正

「谷口雅春先生を学ぶ会」の先の全国大会のテーマは「御代替わりの時、天地一新の時!」でありました。

そして、そういうときだからこそ、自らも新生する!

そういう願いのもとに開催されました。

この新生する≠ニはどういうことなのか。

その深い悟りについて、尊師は、『生長の家』誌・昭和38年3月号所収の「天照大御神の御生命のあらはれ 神・国家・人間を貫く神の子≠フ具体的自覚」の中でこうお諭しくださっています。

なお、これは、昭和38年の新年祝賀式でのご挨拶であります。

当然、祝賀式の冒頭には、国歌「君が代」が斉唱されます。

そのとき、インスピレーションが閃いたということでお話になられたものであります。

当時、「君が代」について、どんな賛否論が交わされていたか。

まず、反対派は、国民主権の憲法に「君が代」は不適切だといいます。

一方、賛成派はというと、「君が代」の君は、君と僕という意味での君だ、そう解釈すれば国民主権の世でも受け入れられる…。

それに対して、尊師は、「君が代」とは、「天孫降臨」の天照大御神の御神勅(ごしんちよく)のことを物語っているのだとして、こうこう仰るのです。

《…その皇孫(すめみま)といふのは、天照大御神から一代隔(へだ)てて孫といふ意味ではないのでありまして、常に歴代の天皇は皇孫(こうそん)と仰せられてゐるのであります。

皇孫といふのは天照大御神様の真の御子(みこ)といふことである。

孫≠ニいふのは真子(まこ)¢ヲちまことの子≠ニいふ意味でありまして天照大御神様の御(み)魂(たま)が其處に現実化して応現ましまして、そこに天降りましてゐる天皇様が皇孫であつて、その皇孫の治(おさ)め給ふ所の地が日本の国であるといふわけで、その国が千代に八千代にさざれ石、巖となりて苔のむすまで、久遠不滅の真実の相であるといふことですね。

それと同時に感じたことは、われわれのいのちそのものが、誰かに生かされてゐるのであるかといひますと、天照大御神様の御いのちが此處に宿つて、皆さんのうちに、われわれの中に宿つて生かされてゐるわけなんであります。

それを一つ、ずっと突き貰いて考へてみます時に天照大御神≠フ御生命(おんいのち)が天皇≠フ御生命として突き貫いて、さらにわれわれの生命(いのち)≠ニして此處に生きてゐるのであるといふのです。

黒住宗忠の「もはや我生くるに非ず、天照大御神のいのち此處にありて生くるなり」といふあの悟りはですね、皆さん一人々々の悟りでなければならないといふことです。…

天照大御神様のいのちが日本国家としてそこに現れてゐるとすれば、日本国家のいのちと吾々のいのちとは一つであるといふことであり、同時に、天皇の大御(おおみ)いのちとわれわれのいのちとは一つのいのちである。

それを本当に自覚した時に、それが本当の日本精神といふのではないかと思ふのです。

それが即ち新たに生まれるのであって、今まで単なる「人間神の子」と思つてをつてもですね、個人個人のばらばらの「神の子」ぢやなくて、われわれの「神の子」なるいのちは「日本国家のいのち」と「天皇陛下の御(おん)いのち」と「天照大御神様の御(おん)いのち」と一つにつき貫いて一つの存在であるといふこの自覚に立たなければ、単に「神の子」であるといふだけでは本当の悟りではない。

ここに生きてゐるのは、皆さんの一人々々の中に生きてゐるのは、日本国家のいのちが生きてをるのであり、天皇の御いのちが皆さんの中に生きてゐるんだといふこの大自覚を新たに持つて戴いて、今年を日本国家の前進の年としていたゞきたいのであります。》

「人間は神の子である」というのは、決して抽象的なことではないのであって、実に具体的に、われわれの「神の子」なるいのちは「日本国家のいのち」と「天皇陛下の御いのち」と「天照大御神様の御いのち」と一つにつき貫いて一つの存在であるといふこの自覚に立≠ツことであるのですね。

それがまた「新生する」ということでもある…。

昔の信徒は、新年に当たって、尊師からこういう、有り難いお言葉をいただいていたのですね。

そうであれば、私たちもまた、「令和」がはじまった今、この尊師のお言葉を肝に銘じて、前進の年≠ニしていきたいと心から念願するものであります。

さて、この話に因んで、皆さんにお知らせしたいことがあります。

既に述べましたように、今回のブラジル訪日団のリーダー、イバーナさんは、全国大会で、日本語での「宇宙浄化の祈り」を実修してくれました。

それに涙した参加者も多数、おられました。

そのイバーナさん、大会終了後、どこに赴いたか。

まず、皇居(125代・天皇陛下)。

次ぎに、伊勢神宮(天照大御神)。

続いて、橿原神宮(初代・神武天皇)。

そして、桃山御陵(122代・明治天皇)。

「1週間で日本の2600年の歴史を廻ってきました」と明るく話し、続けて、彼女はこう言ったのです。

「日本人の命、魂に触れて、自分が生まれ変わりました!

去年も来日しましたが、日本に来る度に、魂が喜びます。

どんどん新生するのです!

勿論、来年も来ます!

この感動を多くの仲間に伝えて、来年は、もっと沢山の人と一緒に来日します!」

ブラジル生まれの白人のイバーナさんが、こんな感想を述べたことに得も言えぬ感動を覚えました。

日本人よりも日本人である!

そんな思いに駆られました。

イバーナさんのこの言葉を励みとして、私たちも、先にご紹介した尊師のお言葉を何度も何度も読み返して、神の子としての本当の自覚を深めてまいることにいたしましょう。


「天皇国日本」に込められた尊師の深い御心を、心に滲み込ませてまいりましょう! (10929)
日時:2019年05月02日 (木) 18時58分
名前:破邪顕正


「令和」元年は、御代替わりの重要な儀式が相次ぎます。

神話の世界が今に甦る!

その崇高さを、次から次と目の当たりにさせていただくわけです。

早速、5月1日には、「剣璽等承継の儀(けんじとうしょうけいのぎ)」が執り行われました。

これなど、まさしく「神話」そのものに由来するものであります。

天照大御神が瓊瓊杵尊に授けられた八咫鏡(やたのかがみ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)を「三種の神器」と称します。

現在、八咫鏡の本体は伊勢神宮・内宮に、草薙剣の本体は熱田神宮にご神体として安置されています。

神霊の依り代(よりしろ)として形代(かたしろ)が造られ、八咫鏡の形代が皇居・宮中三殿の賢所に、草薙剣の形代が皇居内の御所・剣璽の間に保管され、剣璽の間に保管されている八尺瓊勾玉は、本体とされています。

横畠裕介内閣法制局長官は、今年1月17日の皇位継承に伴う儀式の詳細を検討する「式典委員会」で、「剣璽等承継の儀」について「皇位の世襲制をとる憲法の下で、皇位を継承した新天皇が、即位のあかしとして、皇室経済法に規定された『皇位とともに伝わるべき由緒ある物』である剣及び璽、並びに天皇の国事行為の際に使用される物である国璽及び御璽を承継されたことを明らかにする儀式である」と説明しました。

そのうえで「これは、国事行為として行われるものであり、もとより、宗教的意義を有するものではなく、憲法の定める象徴天皇の制度に沿うものであり、また、政教分離の原則に反するものでもない」と述べています。

とは言え、「三種の神器」が神話によることは明らかであり、そこに宗教的意義があるからこそ、皇位継承が実に荘厳な雰囲気の中で執り行われるわけです。

「占領憲法」の制約下、左翼勢力が「憲法違反の儀式」とわめく以上、法制局もそう解釈するしかないのでしょうが、それでも、こうして恙なく「剣璽等承継の儀」が執り行われたとを心から感謝したいと思います。

つまり、今の憲法下でも、皇位継承の伝統はそのまま守られていくということこそが大事なことなのです。

そして、それがあるからこそ、「天皇国日本」ということが言い得るのだと私は思っています。

そのことの大切さを、つとにご教示下さったのが尊師・谷口雅春先生であります。

尊師は、かつて「年頭に立って惟うこと 天皇国不滅・億兆々年無限継続」と題し、こうお話くださいました(『聖使命新聞』昭和57年1月1日)。

《私はよく日本の事を「天皇国家」と呼ぶ。

天皇が中心にましまして国家がその外延であると云えば、天皇と国家とが分離してしまう惧れがあるのである。

「天皇国家」ズバリ其の侭一つなのが日本国家である。…

日本国では総理大臣が変っても日本国は変らない。

何故なら日本国は天皇国日本であるからである。

天皇さまと日本国とは一体であるからだ。

天皇と云う天授の主権者(天孫降臨・永遠不滅)のあらわれにまします日本国家は、天授であるから滅びるということがないのである。

教育勅語に「皇祖皇宗国を肇むること高遠に徳を樹つること深厚なり」と明治天皇は仰せられた。

高遠なる世界即ち実相世界の徳を天授としてそれが天降り給いて皇祖天照大御神地上に天降りまして、「天孫降臨」となったのである。

天孫降臨とは地上に天国の種子天降って、根を張り幹が伸びつつあることである。

天孫とは天照大御神の皇御孫(すめみ真子・マコトの御生命)うるわしく地上に生々の気を延ばし給うことである。

それは本当に、実在する天国の降下であるから滅びることはないのである。

神国不滅、天皇国不滅である。》

タイトルが凄いでしょ。

天皇国不滅・億兆々年無限継続

まさに、「天壌無窮の神勅」そのままであります。

なぜ、皇統は億兆々年無限継続≠ナあるのか。

その深い意味が、皇位継承の儀式、みまつりにこそあるのです。

御代替わりのときだからこそ、尊師のお説きになられたことの意味、教えの神髄を、一つ、ひとつ、学んでいく必要があると思う次第です。

そして、その学びが、今のときだからこそ、実に心に染み入るように感じ取られるのでもあると思うものであります。


谷口雅春先生の御教えからいけば、やはり男系≠ナなければならないのではないでしょうか?! (10968)
日時:2019年05月12日 (日) 15時44分
名前:破邪顕正


谷口雅宣総裁が、所謂、「女系天皇」を容認するような発言をしたのは、2006年4月15日付け「皇室制度の議論を深めよう (2)」であります。

その肝心なところだけ、引くことにします。

…………………………………………………………

“伝統護持派”の人々が「男でなければ天皇でない」とか「男系でなければ天皇でない」という言い方をよくするが、その理由が明確でない。

この人々の説明は「それが日本の伝統だから」「それが万世一系の意味だから」「それが尊敬される必要条件だから」ということになるようだが、これは一種の循環論法のように思える。

最初にまず「男系が代々継承するのが日本の伝統」という定義があり、あるいは「男系が代々継承するのが万世一系」という定義があり、また「男系が代々継承するのが尊敬に値する」という価値判断があり、そういう“暗黙の定義”や“暗黙の価値判断”を逆さまにして説明に援用しているように聞こえる。

……………………………………………………………

総裁の書いていることで、いつも思うのは、総裁の書くことは、みんな谷口雅宣個人の意見とは見ない、「生長の家総裁」のそれとして受け止めている…。

だから、本来ならば、生長の家創始者・谷口雅春先生の教えに照らして、それはどう考えるべきなのか、どう捉えるべきなのか、そういうことを説くべきだと思うのです。

ところが、総裁は、尊師の仰ったこととは関係なく、自分の勝手な意見を述べる。

述べるだけならまだしも、それが、タチの悪いことに、今の生長の家の教えだということにしてしまった…。

生長の家創始者の教えとは関係なく、現総裁の言ったことが、いつのまにか「生長の家の教え」とされてしまったのです。

今日の教団の様々な問題の淵源には、まさにそれがあると思うものであります。

今回、私が申し上げたいのは、この女系≠ノついても、同様のことが言えるのではないかと思ったからに他なりません。

敢えて言わせていただけば、「“伝統護持派”の人々」がどんなことを言おうが、そんなことは大した問題ではないのです。

尊師の教えからして、女系≠ヘ容認されるのかということこそが、何よりも本質的な問題なのであって、その意味で、尊師が仰ったこのお言葉をどう受け止めるのか。

それこそが根本的に問われなければならないと思うのです。

《われわれの「神の子」なるいのちは「日本国家のいのち」と「天皇陛下の御いのち」と「天照大御神様の御いのち」と一つにつき貫いて一つの存在であるといふこの自覚》

その自覚を得るのに、果たして女系≠ナいいのか、ということなのです。

男系≠ニいうことは、そのまま、「天皇陛下の御いのち」は初代・神武天皇の御いのちへとつながり、そしてそれは「天照大御神様の御いのち」へと一ついのちとなって繋がっていく…。

その一ついのちの世界∞一つにつき貫いて一つの存在である≠ニ言い得る世界、それを担保するのが男系≠ニいうことなのではないのか。

だから、尊師の教えからして男系≠ナなければならないという結論へとつながっていく。

そういうことだろうと思うのです。

総裁は、男系でなければならない「その理由が明確でない」と言って憚らないわけですが、尊師のこのご文章こそは、その明確な根拠となり得る理由ではないのか、私はそう思うものであります。




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