和解派≠ニの語らいから、今の教団の本質的な問題を問い続ける… (10909) |
- 日時:2019年04月30日 (火) 12時01分
名前:破邪顕正
私が、「トキ」さんの投稿に関心を寄せるのは、そこから、今の総裁、教団の本質的な問題を浮かび上がらせたいという思いがあるからに他なりません。
実際、和解派≠ニやりとりする中で、私なりに見えて来たものがあります。
それを、ここに整理して書いてみたいと思います。
今日の分裂は、現総裁に中心帰一するのか、尊師・谷口雅春先生に中心帰一するのか、そこに起因していると私は考えています。
ところが、和解派≠ヘ、「教団側」と「本流側」というような腑分けをしている…。
そういう腑分けをするから、それぞれが意地をはっている≠ニいうようなレベルで物事を見てしまっているのではないでしょうか。
帰依すべき対象が、現総裁なのか、それとも尊師・谷口雅春先生なのか。
そういう観点にたって、はじめて、総裁の思想性≠アそが、大きな問題点として浮かび上がってくると思うのです。
もっと言うならば、現総裁と尊師とは思想性が明らかに違う。
ところが、教団は、「何も違っていない、ただ時代に合わせて説き方が違っているだけだ」そういう言い方を信徒にしてきているわけです。
裏を返せば、よし、総裁と尊師とでは思想性、考え方が違うということになってしまったら、当然、分裂≠キるのもやむなしということになるからだと思うのです。
だから、教団としてはあくまでも「同じだ」という建前を貫くしかない…。
それに対して、私どもは、説き方だけではない、総裁は、教えの本質そのものを変えてしまっている…。
総裁の表現を借りれば、タマゴの黄身までも変えてしまった…。
そう判断した理由を、根拠を、私なりに色々とお知らせしてきたというわけです。
すると、今度は、「それは悪口≠セ、生長の家は悪口を言わないところだ」みたいなことを言ってくるわけです。
だったら、尊師・谷口雅春先生は、今の憲法を批判なさいませんでしたか?
それは悪口≠ネのですか?
尊師のご著書に『占領憲法下の政治批判』という批判≠フ文字が入っている聖典がありますが、あの本は、単なる悪口≠フ本なのですか?
違うでしょう!
「非真理」に対しては、厳しく批判なさったのが尊師・谷口雅春先生であります。
そうであれば、尊師のご姿勢に学び、総裁の言っていることが尊師のお説きになられたことと明らかに違うと思うのであれば、それをきちんと批判の俎上に上せていく…。
それは、当然のことだと思うのです。
つまり、考え方、思想性が違ってしまえば、自ずと目指す道も違ってしまう…。
総裁に中心帰一できないとなれば、そこから外れて、別に、尊師に中心帰一する道を歩ませていただく。
尊師も大本教と分かれて独自の道を歩まれたではありませんか?
本来ならば、総裁こそが、尊師と思想性が違うのであれば、自分の好きな、独自の道を歩むべき筈だったのです。
ところが、総裁は、権謀術数をたくましくして、教団を乗っ取り、「生長の家」の看板をそのまま自分の手中に収めてしまった!
力関係から、もはや、そういう総裁を教団からは追い出せないということが分かったら、残された道はただ一つ。
教団の外に出て、尊師・谷口雅春先生に中心帰一する団体を起ち上げるしかない。
それが「本流」の心意気であり、「谷口雅春先生を学ぶ会」もまたそうであるということです。
そして、それは、昨日今日の話ではない。
既に20年近い歴史がそこにはあるのです。
その歴史をもっと重んじていただいてもいいのではありませんか。
和解派≠フ皆さんに、それを問うことで、何故、今日、教団の分裂という事態が出来したのか…。
何故、独自の道を歩もうと志したのか…。
それを多くの皆さんに知っていただきたい。
その意味で、和解派≠フ皆さんとのやりとりは、とても意義あることだと私は思っている次第です。
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