《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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大塚家具の親子対決、和解へ≠言うのならば、谷口家の和解を≠ニいう結論へと持っていくべきなのでは? (10904)
日時:2019年04月28日 (日) 10時47分
名前:破邪顕正

「トキ」さんの投稿には、これまで教えられることも多く、常日頃からそれなりの敬意を表してきているつもりですが、今回の投稿に関しては、残念ながら、疑問を感じざるをえませんでした。

それについて、少しく、ご説明させていただきます。

今回、私が問題にしたいのは、この投稿です。

〈大塚家具の親子対決、和解へ (12469)
日時:2019年04月27日 (土) 10時18分
名前:トキ〉

まずは、こういう表現に納得がいきません。

〈教団側にも、本流復活派の団体の中にも、「和解などしない!」と意地をはっている人がいますが、これは賛成できません。〉

「和解などしない!」と意地をはっている人

こういう言い方をなさるのであれば、具体的にはっきりと仰ったがいいと思います。

そして、そこまで決め付けた理由を、或いはそう判断するにいたった投稿記事をぜひ、指し示してほしいと思うのです。

だって、これだけを読んだら、信仰上の重要な問題が意地をはる<激xルに貶められているようにしか思い得ませんから!

僭越ですが、私は、直近の拙稿

「学ぶ会」に行った皆さんはまた戻ってくるから… (10900)

の中で、こう書かせていただいています。

〈神様を変えてしまい、尊師の『聖典』を絶版にし、尊師を消し去ろうとしているのが今の教団であってみれば、戻れるわけがないではありませんか。

この度の幹部研鑽会では、尊師の『聖典』が一冊もテキストに指定されていないということを耳にしましたが、これなどは、実に象徴的ではありませんか。〉

今の教団は、尊師を蔑ろにしている!

そういう認識が大前提として私どもにはあるのです。

これは、尊師に救われた者として忽せにはできない問題なのです。

そういうとても重大な問題があるというのに、そういうものを一切、捨象して「意地」レベルで言われたら、それは違うでしょう!

とても受け入れるわけにはいかないと申し上げたいのです。

それを前置きとして、今回、私が最も言いたかったことは、既に標題に掲げさせていただきました。

「トキ」さんは、大塚家具の父親と娘さんの対立は、和解へと動き出しました≠ニいうことをもって、「和解」について少しは考えて欲しいと思います。≠ニいう結論へと導いています。

文脈からして、「教団と本流復活派の団体」というのがその主語だと思いますが、それは余りにも我田引水、牽強付会に過ぎるのではないのかと言わざるをえません。

だって、創業者の「大塚家具の父親と娘さんの対立」が「和解へ」ということを引き合いに出すのであれば、それこそ、生長の家創業者の谷口家に向けて「和解」について少しは考えて欲しいと思います。≠ニいう結論にならなければおかしいと私は思うのです。

「トキ」さん、今の現状を具にみてください。

事の経緯から言えば、谷口恵美子先生が、お山から出られたこと、それこそが非常に重要なポイントだと私は思うのです。

そして、ご存じのように、谷口恵美子先生が赴かれた先は、総裁自身が裁判で争った義兄である宮澤先生の元であったわけです。

それを見て、心ある信徒は、総裁、並びに現教団の方針を谷口恵美子先生御自ら否定なされた、そう判断したのだと思うのです。

思うに、心ある信徒は、教団の分裂よりも、谷口家の分裂にこそ、心痛めているのではないでしょうか。

そうであれば、「トキ」さんは、はっきりと、大塚家具の親子も和解へと向けて話し合いを始めましたから、谷口家の皆さまも、ぜひ、話し合いのご検討をお願いします≠ニ言うべきだったのではないでしょうか。

そうでないと、「トキ」さんの、今回の折角の投稿も、なーんだ、持論の和解論≠ノ引っ張り込むために大塚家具の話を援用しただけか、ということになりはしないか、それを恐れるのです。

ここで、米朝会談を引き合いに出してみたいと思います。

和解論≠ェ有効性を持つとしたら、話し合いのテーブルにつく人が、具体的である必要性があります。

「トキ」さんのように、「教団側」とか「本流復活派の団体」とか、言っているようでは、余りにも抽象的すぎて、本気度が疑われます。

その点、谷口家で話し合いを、と提言なされれば、それはそれで、和解論≠ニしては成り立つのではないのか。

私は、そのように思っている次第です。


和解派≠ニの語らいから、今の教団の本質的な問題を問い続ける… (10909)
日時:2019年04月30日 (火) 12時01分
名前:破邪顕正


私が、「トキ」さんの投稿に関心を寄せるのは、そこから、今の総裁、教団の本質的な問題を浮かび上がらせたいという思いがあるからに他なりません。

実際、和解派≠ニやりとりする中で、私なりに見えて来たものがあります。

それを、ここに整理して書いてみたいと思います。

今日の分裂は、現総裁に中心帰一するのか、尊師・谷口雅春先生に中心帰一するのか、そこに起因していると私は考えています。

ところが、和解派≠ヘ、「教団側」と「本流側」というような腑分けをしている…。

そういう腑分けをするから、それぞれが意地をはっている≠ニいうようなレベルで物事を見てしまっているのではないでしょうか。

帰依すべき対象が、現総裁なのか、それとも尊師・谷口雅春先生なのか。

そういう観点にたって、はじめて、総裁の思想性≠アそが、大きな問題点として浮かび上がってくると思うのです。

もっと言うならば、現総裁と尊師とは思想性が明らかに違う。

ところが、教団は、「何も違っていない、ただ時代に合わせて説き方が違っているだけだ」そういう言い方を信徒にしてきているわけです。

裏を返せば、よし、総裁と尊師とでは思想性、考え方が違うということになってしまったら、当然、分裂≠キるのもやむなしということになるからだと思うのです。

だから、教団としてはあくまでも「同じだ」という建前を貫くしかない…。

それに対して、私どもは、説き方だけではない、総裁は、教えの本質そのものを変えてしまっている…。

総裁の表現を借りれば、タマゴの黄身までも変えてしまった…。

そう判断した理由を、根拠を、私なりに色々とお知らせしてきたというわけです。

すると、今度は、「それは悪口≠セ、生長の家は悪口を言わないところだ」みたいなことを言ってくるわけです。

だったら、尊師・谷口雅春先生は、今の憲法を批判なさいませんでしたか?

それは悪口≠ネのですか?

尊師のご著書に『占領憲法下の政治批判』という批判≠フ文字が入っている聖典がありますが、あの本は、単なる悪口≠フ本なのですか?

違うでしょう!

「非真理」に対しては、厳しく批判なさったのが尊師・谷口雅春先生であります。

そうであれば、尊師のご姿勢に学び、総裁の言っていることが尊師のお説きになられたことと明らかに違うと思うのであれば、それをきちんと批判の俎上に上せていく…。

それは、当然のことだと思うのです。

つまり、考え方、思想性が違ってしまえば、自ずと目指す道も違ってしまう…。

総裁に中心帰一できないとなれば、そこから外れて、別に、尊師に中心帰一する道を歩ませていただく。

尊師も大本教と分かれて独自の道を歩まれたではありませんか?

本来ならば、総裁こそが、尊師と思想性が違うのであれば、自分の好きな、独自の道を歩むべき筈だったのです。

ところが、総裁は、権謀術数をたくましくして、教団を乗っ取り、「生長の家」の看板をそのまま自分の手中に収めてしまった!

力関係から、もはや、そういう総裁を教団からは追い出せないということが分かったら、残された道はただ一つ。

教団の外に出て、尊師・谷口雅春先生に中心帰一する団体を起ち上げるしかない。

それが「本流」の心意気であり、「谷口雅春先生を学ぶ会」もまたそうであるということです。

そして、それは、昨日今日の話ではない。

既に20年近い歴史がそこにはあるのです。

その歴史をもっと重んじていただいてもいいのではありませんか。

和解派≠フ皆さんに、それを問うことで、何故、今日、教団の分裂という事態が出来したのか…。

何故、独自の道を歩もうと志したのか…。

それを多くの皆さんに知っていただきたい。

その意味で、和解派≠フ皆さんとのやりとりは、とても意義あることだと私は思っている次第です。



和解派=内部批判派≠ノ対する私なりの疑問について (10910)
日時:2019年04月30日 (火) 15時42分
名前:破邪顕正


和解派≠ニ称する皆さんと私との間に、共通する部分が決してないわけではありません。

それは、総裁、並びに現教団に対して、極めて批判的であるということです。

双方とも、決して、今のあり方がいいとは思っていない…。

その点において、互いに共有できるものはある…。

ただし、その後が違う…。

私どもは、総裁、並びに現教団をただ批判するだけではいけない。

批判する以上は、教団から出て、自分達の信ずる道を歩むべきである…。

そのために、具体的に組織をつくり、自分たちの思いを実現させるべく運動を展開する、というものであります。

ところが、和解派≠フ中には、総裁、並びに教団を批判しつつも、そこに留まっている人がいる…。

言うならば、そういう人は、和解派≠ニいうよりかは内部批判派≠ナあるように思うわけです。

敢えて、内部批判派≠ニいう表現を使ったのには、それなりの思いがあります。

かつて、三島由紀夫と石原慎太カとの間で、この内部批判≠巡っての論争がありました。

自民党から出て当選したにもかかわらず、舌鋒するどく自民党批判を展開する石原慎太カに対して、三島由紀夫はこう言うのです。

〈…昔の武士は、藩に不平があれば諌死(かんし)しました。

さもなければ黙つて耐へました。

何ものかに属する、とはさういふことです。

もともと自由な人間が、何ものかに属して、美しくなるか醜くなるかの境目は、この危ふい一点にしかありません。〉

そこに属してなにがしかの利を得ている者が、その集団についてブツクサいうのは醜いので止めなさい。

それでも、何かしら、言わざるをえないと言うのであれば、そこを離れてからにしなさい…ということでしょう。

武士が諌死したのは、ある意味、その集団を離れたら生きていけないという時代性があり、そのために死を選んだということもあったでしょう。

しかし、勿論、今はそんな時代ではありません。

離れるのも自由だし、そこから離れて生きていけないというわけでもありますまい。

だったら、なぜ、批判してやまないところに留まるのか…?

もとより、内部にいて、そこを変革するのだということであれば、それはそれで一応の納得はできます。

石原慎太カもそのような趣旨の反論をしていたように記憶しています。

であれば、如何にして、内部から改革を展開するのか、そういうことをこそ具体的に提言すればいいと思うのです。

ところが、ご存じのように和解派≠ヘ、「教団側」と「本流側」に対して、和解≠呼びかけるわけです。

しかも、双方に呼びかるのならまだしも、何か、「本流側」に対してのみ、和解≠目指さないのはオカシイみたいなことを言っているように感じられてならないのです…。

教団に属しているのであれば、まずは、総裁に対して、教団に対して、和解に向けた提言をなすべきではありませんか。

果たして、そういうことを実際、なさっているのでしょうか。

残念ながら、私にはそういうことをやっている、実際に行動に移しているというようなことを寡聞にして知りません。

そういうところにもってきて、自ら、批判して已まない総裁、並びに教団に対して、「本流側」に対して和解せよ∞和解を考えよ≠ニ言われても、とても納得のいくものではないと申し上げているのです。

和解派≠ゥら内部改革派≠ヨと名称変更なさったら、今のような、総裁批判、教団批判を続けられてもいいかとは思うのですが、和解派≠ニいう名称でそれを言うのには、何か無理があるように思えてなりません。

ましてや、今の総裁、教団が、和解≠ノ応ずるとはとても思い得ません。

意地悪く受け取れば、総裁に言ってもムダだから、言いやすい「本流側」に対してのみ言い募っているのではないのか…。

そんな気もしないわけではないのです。

ともあれ、今は、実現性が低い和解≠ノ拘るよりかは、内部改革≠ノこそ全力を尽くす、そういう姿勢をとられたがいいのではないのか…。

それであって初めて、今、展開されている総裁批判、教団批判が、説得力をもつのではないのか。

それが私の申し上げたいことであります。




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