谷口雅宣総裁は「如意宝珠観」をこのように解していた… (10730) |
- 日時:2019年03月15日 (金) 09時39分
名前:破邪顕正
ある方から、谷口雅宣総裁に疑問を持ち始めたきっかけを伺いました。
その方によれば、谷口清超先生の追善供養祭での総裁の挨拶にとても納得がいかなかった、そこからどんどん不信感ばかりが募っていったと言うことでした。
それでは、総裁は、そのとき、どんな挨拶をしたのでしょうか。
詳細は、総裁の「小閑雑感」、2008年12月17日付けの「谷口清超先生を偲んで」に譲るとして、肝心のところを引くことにします。
〈…如意宝珠観では、ご存じのように、家族の名前を一人ずつ呼んで、「○○さんは、身健やかに、心美しく、姿形麗しく、和顔愛語讃嘆に満たされたり」と唱えます。
(※筆者註…「姿形麗しく」ではない、本来ならば「相形美(すがたかたちうる)しく」でなけければならないところです)
それと同時に、名前を呼んだ人の顔を心に思い描いて、その人がニコニコと笑っている姿をイメージします。
ちょうどここにあるお写真のように、私は谷口清超先生のニコニコ顔をこの時に思い描く習慣ができているのです。
ところがこの祈りの言葉をよく吟味してみると、「肉体が健やかであり」「姿形が麗しい」ということですから、霊界へ行かれて姿形がこの世にはない人に対しては、あまり適当ではないのです。
そこで私は、先生がお亡くなりになってから後、先生のお名前を呼ぶのを省略して、「谷口恵美子先生」から始めるように努めているのです。…〉
「この祈りの言葉をよく吟味し」た結果がこれであると、総裁はいうのです。
心ある読者の皆さん、これをどう思いますか?!
よし、総裁のいうとおりだったと致しましょう。
そうすると、両親を既に亡くしてしまっていたり、或いはその上に独身者の方であってみれば、誰の名前も呼べないということになってしまいます。
それが、本当にこの『如意宝珠観』の意味なのでしょうか?
そもそも、総裁は、「神想観」が「吾れ今五官の世界を去って実相の世界に入る」ということを根本から失念しています。
だから、
霊界へ行かれて姿形がこの世にはない人に対しては、あまり適当ではないのです
というような、全くもって、的違いなことを言ってのけてしまうのです。
結局、総裁は、実相世界と現象世界とを混同してしまっているのです。
因みに、『詳説 神想観』にはどう記されているか、見てみましょう。
ポイントだけを抜粋して引くことにします。
《…「吾れ今五官の世界を去って実相の世界に入る」というのは、五官の世界、肉眼の世界を去って、今ここが竜宮城であると観ずるのであります。…
『住む人悉く身健(すこや)かに、心美しく、相形美わしく和顔愛語讃歎に満たされたり。』
こう念じて今この甍高く聳え、宮柱太しく立っているその素晴らしい竜宮城の有様を心の眼でじっと見詰めて、その竜宮城が自分から一間半(約三メートル)くらい離れたところにあるように心に描いてそれがだんだん近づいて来て、自分の中にすっぽりと入って来てその竜宮城の中に自分が坐っている。
そう観ずる訳であります。
自分が今坐っているこの道場を竜宮の宮殿であると観ずるのであります。
自宅でおやりの時は、どんな小さい家でも、ここが竜宮城であるとお観じになればよいのであります。…
そして住む人悉く竜宮の乙姫さまのように立派な、相形美わしく和顔、愛語、讃歎に満たされているその有様をじっと観じます。
乙姫というと「おと」というのはコトバです。
コトバによって一切を成就している女神というわけなんですけれども、なにも女性だけに限らず、男でもみんな乙姫です。
この場合、くわしくは全ての家族を一々思い浮べて次の如く、
『わが父、誰それは身健かに、心美しく、相形美わしく、和顔、愛語、讃歎満たされたり。
わが母、誰それは身健かに、心美しく、相形美わしく、和顔、愛語、讃歎に満たされたり。
わが夫、誰それは身健かに、心美しく、相形美わしく、和顔、愛語、讃歎に満たされたり。
わが妻、誰それは身健かに、心美しく、相形美わしく、和顔、愛語、讃歎に満たされたり。』
と念ずるとよいのであります。…
こう家族ずっと一人一人唱えて皆んなが既に健康で心美しく、相形美わしく、和顔愛語讃歎に満たされている有様をじっと心に描くのがよいのです。…
最後に自分に移って、
『われ今此処竜宮城に坐して、塩椎の大神より如意宝珠を得たり、わが全身如意宝珠なり、光明燦然として十方世界を照らす、十方世界光明遍照、わが全身光明遍照、十方世界光明遍照……』
何回でも繰返します。
「われ今此処」という事が大切なのです。
「われ」と「今」と「此処」が一つなんです。
そして今此処竜宮城と自分のいのちが一つであって塩椎の大神より如意宝珠を得たりという、その如意宝珠というのは実は自分の生命のみたまの事であります。
いのちのみたま即ち自分の魂というのは自分の心によって、如意に、心のままに何でもあらわすところの御魂でありますから、これを如意宝珠と称えたのであります。…》(124〜128頁)
総裁が、この記事を書いてから、既に10年以上の月日が流れました。
しかし、この記事を訂正したという足跡は未だ、認められていないように思います。
今回、これを紹介したのは他でもありません。
法燈継承者≠ニ言うには、余りにも、総裁は、尊師の本来の御教えを学んでいないのではないのかと思えてならないからです。
冒頭にご紹介したこの方も、同様の感想を漏らしておられました。
そして、こう言葉を継がれました。
この3代目さんでは、谷口雅春先生の教えがメチャクチャになってしまう。
しかし、信徒はそれでも「中心帰一」に縛られて、総裁の言うことに間違いはないと思い込んでいる、いや、思い込もうとしている、それが実にコワイ≠ニ。
尊師の教えとは違うことを教えられ、それをもって「生長の家」の教えだと思い込まされている現状を見て、それに対して、何の声もあげないということは、私には到底、できるものではありません。
どんな非難、口撃、圧力を受けようとも、自らの信ずる道をただ突き進んでいくだけであります。
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