《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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谷口雅春先生に帰りましょう・伝統板・第二
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「 日々読誦毎月真理経 」 谷口雅春 先生 (10548)
日時:2019年01月22日 (火) 20時06分
名前:明鏡


合掌 ありがとうございます。


『 光の泉 』誌より、 「 日々読誦毎月真理経 」 を謹写させていただきます。


以前に童子様が、「お慕いする 」 掲示板に投稿されたご文章に啓発された次第であります。

全文 http://bbs5.sekkaku.net/bbs/yu0529/&mode=res&log=5227


< 童子 - 2013年05月27日 (月) 13時18分

 昭和45年『 真理の吟唱 』  昭和59年『 続真理の吟唱 』 が出版されましたが

 それらに未掲載の“ 祈りの言葉 ” がまだまだ沢山あります。


 奇妙な“ 祈りの言葉 ”を創作発表されて有難がたっている場合ではなく

 谷口雅春先生に啓示された“ 祈りの言葉 ”を大事にすべきです


 『 光の泉 』誌に発表された『 日々読誦毎月真理経 』から少しづつ集め

 来るべき『 続々真理の吟唱 』 発刊に向けて・・・・・。

 
 「 一月で あなたを自己改造するすばらしい方法をお伝えしましょう。

 それは『 光の泉 』を枕元におき、眠りに入る前の十五分間と朝目が覚めた直後の

まだ何も頭に浮ばない十五分間に、この頁を開き 真理のコトバを繰返し繰返し読むのです。


その原理は、真理のコトバで潜在意識〈心の奥に隠れているあなたをあやつる心〉の中の暗い心を

すっかり明朗化してしまうからです。またこの時間は潜在意識の感受性が一番高い時間です」 >



以下の 「 日々読誦毎月真理経 」 を 謹写させていただきます。


1、「 万教帰一して百福招来の祈り 」 『 光の泉 』 昭和53年4月号


2、「 不滅の“生き如来”を自覚する祈り 」『 光の泉 』 昭和51年9月号


3、「 神の生命と智慧と愛とを讃嘆する祈り 」『 光の泉 』 昭和50年12月号





万教帰一して百福招来の祈り  谷口雅春 先生  (10549)
日時:2019年01月22日 (火) 21時49分
名前:明鏡


人間の実相は肉体ではなく、神の生命の自己顕現であるから霊的実在である。

それゆえ物質界の法則や、時間・空間の現象世界の枠内に縛られることなく

自由自在神通無礙(じんずうむげ)の存在であるのである。


時間・空間の中に生命が生きているのではなく、時間・空間を自己の心の掌中に把握していて、

これを握れば一点となり、これを展(ひら)けば無窮(むきゅう)となる神通無礙の存在が

人間の実相である。


本来神通自在にして何物の制約にも縛られない、常に解(ほど)けたる状態であるのが

人間の実相であるから、“人間の実相の霊(たましい)”をホトケ(解け)と称(い)うのである。


『 涅槃経(ねはんぎょう)』には 「 解脱(げだつ)をもって仏となす 」 と説かれているのは

そのためである。本来、仏であり、如来(にょらい)であり、解脱であるところの人間は、

完全に自分の生活を自己統御し得(え)、環境や、境遇に縛られることなく、完全に自己の

生活を支配し、自分の運命を自分で自分の欲するごとく創造することが出来るのである。


仏教的に謂(い)えば、人間の実相は仏陀(ぶつだ)であり、如来であるが、

日本民族古来の伝統的信仰によれば、人間の実相はミコトなのである。


日本古代の民族は、神々を皆ミコト称し、自己をも亦(また)、ミコトと称したが、

漢字が渡来してから後(のち)は、“命(いのち)”という字を当て嵌(は)めて、“命(みこと”と

読ませたり、自己が神の生命(いのち)の顕現として最高の尊貴(そんき)のものであるという

自覚から“尊(そん)”という漢字を当て嵌めて“尊(みこと)”と読ませたりしたのである。


ミコトの語源は御言(みこと)であり、神のミコトバ われに宿りて、人間となっていることを

意味するのである。直観的に古来の日本民族は、この真理を知っていたので、別に哲学的論理を

追うこともなく、自己を“何某(なにがし)の命(みこと)”と自然におのずから呼び、

彼を亦(また)、“何某(なにがし)の命(みこと)”と尊称して互いに拝み合ったのである。


はからずも、それがキリスト教の深い信仰をもつ人の自覚と一致することになっているのである。

すなわち、新約聖書の『ヨハネ伝』には、神の言(ことば)が宿りて人間の生命(いのち)となったと

いう日本民族古来の自覚と全く一致することが書かれているのである。


すなわち録(しる)して曰(いわ)く。

「 太初(はじめ)に言(ことば)あり、言(ことば)は神と偕(とも)にあり、

言(ことば)は神なりき、この言(ことば)は太初(はじめ)に神とともに在(あ)り、

万(よろず)の物これに由(よ)りて成(な)り、成りたる物(もの)一(ひと)つとして

之(これ)に由(よ)らで成りたるはなし。之(これ)に生命(いのち)あり、

この生命(いのち)は人の光なりき 」と。


しかし悲しいかな、多くの人々はこの自己に宿る“ 神の光 ” を自覚することなく、

迷いによって暗黒の世界をさ迷(まよ)っているのである。


併(しか)し此処(ここ)に人間生命の実相が神の光そのものであると説く教えがあらわれたのである。

それが生長の家と謂(い)う広大(こうだい)な慈門(じもん)であって、人類の魂の光の泉である。


諸宗(しょしゅう)を排斥することなく、諸宗の神髄(しんずい)を礼拝(らいはい)して

万教(ばんきょう)一(ひと)つに帰(き)する真理を説(と)く。


誰(たれ)よりも早く、この教えに来(きた)る者は、それだけ早く平和と調和の祝福を

授(さず)かり、人生百般(ひゃっぱん)の幸(さいわ)いを受けるのである。


『 光の泉 』昭和53年4月号 「 日々読誦毎月真理経 」(18〜19頁)




不滅の “ 生き如来 ” を自覚する祈り  谷口雅春 先生 (10550)
日時:2019年01月23日 (水) 21時40分
名前:明鏡


釈尊は涅槃経に於いて「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」と説き給うた。

一切衆生とは一切の衆(もろもろ)の生(せい)ある者のことである。


すべての生きとし生ける者は、悉(ことごと)く仏性を内に有しているということである。

仏性とは“仏(ほとけ)”即ち 如来の本性(ほんせい)である。すべての生(せい)ある者は

内に如来の本性を具有(ぐゆう)するのである。


特に生ある者のうち最も発達したる人間に於いては、その仏性を単に内に具有するだけではなく、

生(い)ける如来として 今ここに顕現しているのが人間なのである。

謂(い)わば人間は “ 生き如来 ” であるのである。


人間は“生き如来”であるから、決して病むことなく、老いる事なく、

金剛不壊の霊身(れいしん)であるのである。

自己を肉体と称する物質身(ぶっしつしん)として見るのは、五官の感覚によって、

便宜上、縦(たて)横(よこ)厚みの三次元空間面上に翻訳して視(み)ているだけのことであって、

翻訳文は原文とよく似ているけれども、原文の全相(ぜんそう)を伝えるものではないのである。


翻訳文は原稿紙の上に書かれている。しかし原著者の文章は、本来原稿紙の上にあったのではなく、

原著者の心の中にあった霊的理念が、文字というもので綴(つづ)られたものであり、

その時、既に心の中にあった霊的理念が完全に表現せられず、文字という三次元空間面上に

投げ出されて、その時に、霊的理念が文字の表現力の範囲内に押し込まれて限定されたものと

なっているのである。


これは霊的理念が現象界にあらわれる際におこる自己限定を、文章に喩(たと)えて説いたもので

あるが、仏性といい、如来(にょらい)という霊的実在者が人身(じんしん)というものに顕現する

時にも同様のことが起(おこ)るのである。


二千数百年前、肉身(にくしん)の釈迦牟尼如来を見たところの弟子たちは、

本当は釈迦牟尼如来そのものを見(み)奉(たてまつ)ったのではなかったのである。

彼ら弟子たちは、食物を食(しょく)し成長し やがて老衰し涅槃(ねはん)に入(い)る

肉身に翻訳された釈尊を見たのである。


純陀(じゅんだ)はせめて肉体の釈尊が生きて い給う間に、自分の作った食物を

一箸(ひとはし)でも食べて頂(いただ)く光栄を得(え)たいと、心づくしの御料理を

釈尊に奉持(ほうじ)して献(ささ)げている。


その時に釈尊は 「 自分は仏身(ぶっしん)であり金剛身であり、非雑食身(ひぞうじきしん)であって、

未(いま)だ曾(かつ)て一度も物質の食物はたべたことはないのだ 」 と仰(おお)せられて

折角(せっかく)奉持(ほうじ)した食物をお契(あが)りにならないのである。


非雑食身(ひぞうじきしん)というのは 「 雑(いろいろ)の食物を捏(こ)ねあげて

出来ている身(み)ではない 」 という意味である。

つまり 生まれ、物質の食物を食(しょく)して成長し、老衰して死滅する自分ではないということである。


純陀(じゅんだ)は純情な青年僧であったらしいが、実在の釈尊を見奉(みたてまつ)ることが

出来なかった。肉体という三次元空間面に翻訳されたお姿を見ていたのであった。


釈尊は法華経の“ 如来寿量品 ”に於いても、 「 われ常に此処にありて滅せず 」 と仰(おお)せられ

「 自分は五百塵点 阿僧祇劫(あそうぎこう)以前の まだその以前より不滅に存在する霊的実在で

あるのに、汝(なんじ)らは如来の実相を見ずして 滅(めつ)ありと見る 」 という意味を

説かれているのである。


わたしたちは肉身に翻訳された釈尊を見た純陀(じゅんだ)のようには、自分自身の実相を、

食物を捏(こ)ね上げて作った肉体だと見てはならないので、すべての人間は釈尊と同じく

「 われ常に此処にありて滅せず 」 であるのである。


その 「 常・此処の世界 」 とは何処(どこ)であるか、それはイエスがいみじくも 「 神の国は

汝の内にあり 」 と指摘したところの 「 内在の世界 」 であり、三次元空間面上に翻訳し出され

ない以前の無次元の世界であり、われら人間すべて此の 「 常・此処の世界 」 にありて

死することなき不滅の存在なのである。この真理を知らせ給いし神に感謝いたします。


『 光の泉 』昭和51年9月号 「 日々読誦毎月真理経 」(18〜19頁)





神の生命と智慧と愛とを讃嘆する祈り  谷口雅春 先生 (10551)
日時:2019年01月24日 (木) 11時38分
名前:明鏡


この世界は神の生命と智慧と愛とが表現せられたる世界であるのである。

それは神の生命によって支えられ生長し発展し進歩し行(ゆ)く世界である。

その形相(けいそう)及び組織は 神の智慧によって構図(こうず)せられているのであるから、

到(いた)る処(ところ)に美が展開して行(い)くのである。


神の愛は、万物の生みの親として、すべてのものをいつくしみ給うのである。

神の愛は、発展し行(ゆ)くすべてのものを互いに相扶(あいたす)け生かし合うように結びつけ

つなぎ合(あわ)せて、この世界に愛の理想境(りそうきょう)をつくり給うのである。


もし神の愛がなければ、此の世界は全てが てんでんばらばらになって、調和も平和も得られない

のである。智慧が計画した組織も構図も美も、愛がなければ それが長く保たれ持続することは

できないのである。すべてのものを調和した関係に於いて、美しき姿に於いて、発展し

生育(せいいく)し実(み)を結ぶのは、神の愛によってである。


山に生(お)い茂(しげ)る樹木、野に生い茂る草、草の間(ま)にすだく虫、

山野(さんや)に飛び交(か)う大小の鳥、家畜その他の生き物 ―

数(かぞ)うれば限りがないが、すべては神の生命と智慧と愛とを表現しているのである。

わたし達はその姿を見(み)、その声を聴(き)くごとに、茲(ここ)に神がいますと

感動せずにはいられないのである。


まだ巣立(すだ)ちの出来ない雛鳥(ひなどり)に餌(えさ)をはこんで口移(くちうつ

)しに食べさせている親鳥を見るとき、私もそれと同じように、まだ体の不自由な赤ん坊だった

ときに、両親から はぐくまれて育って来た わたし達であることを憶(おも)い出すのである。


親鳥の愛も、人間の両親の愛も、すべては神の愛の表現であるのである。神の愛なくば

吾々(われわれ)は、今日(こんにち)この地上に生きていることが出来なかったに

相違(そうい)ないのである。


わたし達の両親は、神の愛がわたし達を護(まも)り育てるために 仮りに人間の姿をして

地上に顕現せられた神の化身(けしん)であるのである。それだから、神さまは、

「 神に感謝しても父母に感謝し得(え)ない者は神の心にかなわぬ 」 と仰せられているのである。


古語に 「 孝は 百行(ひゃこう)の基(もとい)」 と言われているのは、神の愛の展開として、

親が子を愛する愛情ほど、神の愛が最も完全にあらわれているものはないから

それに報(むく)いる心になるとき、あらゆる善徳(ぜんとく)が完成するのである。


形の美しさは 神の智慧から生まれて来るものであるが、心の美しさは神の愛から生まれて来る

のである。智慧のないところに形の美しさは無く、愛のないところに心の美しさはないので、

智慧と愛とは生命がこの内包(ないほう)する美を展開するための車の両輪(りょうりん)とも

言うべきものである。


わたし達は、すべての存在を見るとき、そこに生きている神の生命を感じて感謝しなければならないし、

そこに表現されている美を讃嘆しなければならないし、更にそれらのものが神の愛によって護られ、

互いに調和ある姿に結び合わされている真実を見て、今更(いまさら)の如(ごと)く神の愛の

行(ゆ)き届いた御護(おまも)りに合掌せずにはいられないのである。神さま、有りがとうございます。


『 光の泉 』昭和50年12月号 「 日々読誦毎月真理経 」(24〜25頁)

( ※ 『 聖経 続 真理の吟唱 』 20〜23頁 に所収 )






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