副総裁(当時)の「退職届」から見えてくるもの (10504) |
- 日時:2018年12月29日 (土) 15時26分
名前:破邪顕正
件の「退職届」は、このような書き出しから始まります。
〈私は平成11年3月末日をもって宗教法人「生長の家」を退職致しました。〉
で、その理由ですが、こう書いてあります。
〈何といっても、新しい制度下にあっては理事長に責任と権限があり、私には責任も権限もないのです。〉
つまり、「副総裁」という立場に対する、根本的な不満があった、それが「責任も権限もない」という言葉に集約されています。
そして、その後に、とても重要な指摘が続くのです。
〈…この新体制は私以外のすべての理事皆様の総意にもとづくものでした。
この冷厳な事実に気づいた時、私は自分の誤りを知りました。〉
ここで「副総裁」の言う誤り≠ニは何を指すのでしょうか。
これは私の勝手な憶測なのですが、「副総裁」は、当初、自分にはそれなりの権限があり、それを十分に揮えるという思い込みがあったのではないでしょうか。
ところが、実際は、理事皆様≠ノよって、様々な掣肘を受け、思うように権限が揮えない…。
その具体的な記述が次のように記されます。
〈理事長や松下理事等の有力者が「唯一正しい見解」であるかの如くこれを扱っているため、今や法人の意志決定過程に関与しえない私は、そのような見解を甘んじて受け入れるほか仕方ないのです。〉
法人の意志決定過程に関与しえない私
「副総裁」の不満、苛立ちが手に取るように窺える表現ではありませんか。
そして、最後、こういう文章で「退職届」は締めくくられているのです。
〈今後、私に副総裁としての手当を支給するか否かは(あるいは法的に支給できるか否かは)、すべて理事・役員の皆様の判断に任されます。
私としては今後、家族を含めた生活のこともありますから、また新たな道を模索してまいりたいと思います。
皆様、長い間、有り難うございました。〉
要するに、「副総裁」は、教団の「意志決定過程に関与」できる権限が欲しかったということなのです。
で、「副総裁」は前述したように、この「退職届」を出した翌月の4月、新年度から、「講習会時に開いていた幹部会を廃止」という挙に打って出ます。
そして、その半年あまり先に、教団の運命を決定づけることが起きます。
前出の『「生長の家」教団の平成30年史』から引きます(57〜58頁)。
〈総裁代行就任。(11月)
11月22日に生長の家総本山で行われた「生長の家総裁、谷口清超先生傘寿お祝いの会」で、谷口清超総裁が、谷口雅宣副総裁を総裁代行に任じたことを発表。〉
この発表を聞いた瞬間、法務に明るいある理事はこう漏らしたそうです。
「これで生長の家は終わった…」
総裁代行≠サれがどんな意味をもつのか…。
分かる人には分かっていた、見える人には見えていたということです。
実は、先の「退職届」の中に、こういう文章があるのです。
〈運動の方向を決定し、教団の運営を行うのは、副総裁ではなく「総裁先生と理事」の皆様なのであって、私は「助言者」としてその脇に立っているだけで、先生に助言を求められた時にのみ何かを言えばいいのでした。〉
当時の「副総裁」の怒り≠ェ眼に見えるようです。
つまり、「教団の運営」に直接、関わろうとするならば、もはや総裁≠ノなるしかない。
いずれ、このままでも「総裁」になる日はやって来るであろうが、そこまで待つことはできない!
何の権限もない「副総裁」にいつまでも甘んじて居続けることはできない!
これまた憶測ですが、「副総裁」は、谷口清超総裁先生に、総裁同様の「権限」を揮える「総裁代行」を要求したのだと私は思います。
それが叶わなければ、「副総裁」も辞するぐらいのことは言ったのではないでしょうか。
実際、「副総裁」は、それ以前にも、自分の書いたものは聖典≠ニは呼ばせない…。
それでも聖典≠ニいうのであれば、自分にも覚悟があります…。
暗に辞意を仄めかすような言動をして、最終的に、聖典等≠ノするということで一見、落着を見たという話があるのです。
「副総裁」という人は、自分の意思が通らないようなことがあると、常に、この辞意を仄めかして脅す≠ニいうようなことをやる人なのです。
裏を返せば、「副総裁」は、どこかに、どうせ自分を外すことはできないのだと見切っていた節があるように思うのです。
それが最悪の形で出たのが、この総裁代行就任≠ナあったと私は見ます。
考えてもみてください。
その当時、谷口清超総裁先生は、まだお元気で、講習会のご指導等をなさっていたのですよ。
何で総裁代行≠ェ必要でありましょうか。
実に、不自然きわまりないことだったのです。
今、思えば、「副総裁」はどうしても権限がほしかった、それに尽きるのです。
実際、「総裁代行」となるや、早速、権限を揮い始めます。
「副総裁」を縛っていた理事皆様≠ノ対する報復人事が始まるのです。
これまた『「生長の家」教団の平成30年史』から引きます(59頁)。
〈谷口貴康氏が副理事長からはずされる。
松下昭氏理事解任。(6月)〉
更に、教団の運命を決定することが翌年(平成13年)の11月20日に起きます。
拡大最高首脳者会に教規改正案が出されるのです。
ざっくり言って、これは「総裁代行」が人事も金も一手に握るというシロモノでした。
これは、まさに谷口雅宣総裁代行による教団乗っ取りにほかならないと見て、今後の行く末に危機感を抱いた心ある教化部長たちによって、この案は、一旦は継続審議に持ち込まれます。
しかし、「総裁代行」に睨まれたら、これからの将来はないと思ったのでしょう、多くの教化部長が転んで行き、翌年(平成14年)1月22日、この案が賛成多数で可決されます。
『「生長の家」教団の平成30年史』はこう書きます(62〜63頁)。
〈拡大最高首脳者会で教規を改訂し、「参議」新設。
総裁に独裁権を与える。…
※…谷口雅宣氏は、…参議制度を新設し、参議は総裁の任命で決定され、事務事項以外の案件はすべて最高首脳者会(総裁と参議等で構成)の決定で行われるようにした。
これによって、総裁(実質的に谷口雅宣氏)の教団完全支配体制が完成した。〉
つまり、谷口雅宣総裁の支配体制のはじまりは、まさしく、この「参議制度」の新設にあったと言って過言ではありません。
そして、それを遡れば、実は総裁代行就任≠ノ行き着くのです。
なぜ、それを現総裁は熱望したのか。
その根本的な理由、背景が、「退職届」の中に既に見受けられるのだということを申し上げたかったのです。
平成30年の教団の歴史は、谷口雅宣総裁の権力奪取の歴史そのものであり、その権力を笠に着て、自分好みの左傾化した「生長の家」をつくりあげてきた、その足跡に他ならないということです。
この30年の歴史、足跡を俯瞰すれば、現総裁が路線転換をはかって「谷口雅春先生のもとに戻ろう」などと言うわけがないのです。
その可能性は、些かもない、毫もない…。
もう、谷口雅宣総裁を創始者とする、尊師のつくられた「生長の家」とは全く違った「左翼・生長の家」が出来上がってしまったのです。
全ては、その認識から出発すべきなのです。
ですから、このような左翼=護憲教団≠ニははっきりと訣別して、未練たらたらとしがみつくようなことはせず、こちらも全く新たに、谷口雅春先生を心から思う信徒による組織づくりに専念したがいいというのが私の思いです。
新らしい御代は、尊師・谷口雅春先生の「生長の家」復活の時代!
それを目指して、大いに精進・前進してまいりたいと思っております。
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