《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

本流宣言掲示板」「光明掲示板・第一」「光明掲示板・第二」「光明掲示板・第三

谷口雅春先生に帰りましょう・伝統板・第二
この掲示板の目的
この掲示板のルール
本掲示板への書込法
必ずお読みください
管理人への連絡
重要リンク
TOP PAGE

Página de Português/ポル語ページ
 

 

今上陛下のご会見に思う…「象徴天皇制」とは国体(おくにがら)≠陛下の御人格(おひとがら)≠セけで支える実に過酷な制度なり! (10498)
日時:2018年12月27日 (木) 19時41分
名前:破邪顕正


先の今上陛下のご会見を視聴しての感想を書かせていただきます。

なぜ、陛下がご譲位を申し出られたのか。

否!なぜ、ご譲位を申し出られざるを得なかったのか。

ご会見に感動の涙を流しつつも、何か、重苦しいものを禁じ得なかったのは、決して、私一人だけではなかったのではないかと思います。

一体、それは何故か。

それは一にかかって、「象徴天皇制」が陛下の御身上に実に過酷な責めを負わせているからにほかなりません。

それはそうでしょう。

「占領憲法」の第1条を見てください。

こうあるのです。

〈天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く〉

つまり、天皇の地位は、国民の総意に基づく≠ニあるのです。

それでは、その総意に基づかなかったら、一体、どうなるのでしょうか。

それこそ、国民の総意で「退位」、それどころか「廃位」にまでもっていけるかもしれないのです。

密かに、それを狙っているのが、実は日本共産党、社民党であると私は思っています。

「御即位三十年奉祝」に名を連ねないのがその証拠です。

両者が、一見、「象徴天皇制」を容認しているかのように振る舞っているのも、この憲法で「廃位」にまでもっていけると踏んでいればこそなのだと私は見ています。

そうであるからこそ、天皇さまは、常に、国民の総意≠ノ応えなくてはならないという、実に重たい手枷足枷を強いられておられるとも言えるのです。

仄聞するところによれば、この度の、陛下のご譲位の背景には、母君・香淳皇后(こうじゅんこうごう)様が、最晩年、認知症を患っておられたということが関係していると言われています。

もし、認知症を患ってしまったら、果たして「象徴天皇」として、国民の総意≠つなぎとめることができるのか?

そうです、「象徴天皇制」とは、国民の総意≠得られるよう、常に、万民が納得するようなおひとがら≠こそ要請されているのです。

去る、10月20日、皇后陛下さまのお言葉がありましたが、そこに、こういうお言葉がありました。

〈約三十年にわたる、陛下の「天皇」としてのお仕事への献身も、あと半年程で一つの区切りの時を迎えます。

これまで「全身」と「全霊」双方をもって務めに当たっていらっしゃいましたが、加齢と共に徐々に「全身」をもって、という部分が果たせなくなることをお感じになり、政府と国民にそのお気持ちをお伝えになりました。〉

つまり、「全霊」を傾けることはいつまでもできるが、全身をもって、という部分が果たせなくなる≠ニいうことを陛下は実に深くお気にされていたということを仰っておられるのです。

「象徴天皇制」とは何と過酷な制度かという、私の真意もまたそこにあります。

国民の総意≠ノ応えるには、常に「全身」と「全霊」双方をもって務めに当た≠轤ネければならない…。

もし、万が一、認知症≠患ってしまったら、その負託に応え得ることができなくなってしまう…。

私たちが想像だにしていなかった、陛下の実に深いご苦悩をここに見るような思いがするのです。

つまり、今回のご譲位の深刻な問題は、憲法第1条、即ち、天皇の地位の根拠を国民の総意≠ノしてしまった、まさにここに起因するのです。

誤解を恐れずに、敢えて、言わせていただきます。

日本の国体(おくにがら)≠、その時々の天皇さまのご人格(おひとがら)≠セけに委ねてしまったら、125代も続くことはなかったのではないのか。

そのことについて、重大なご指摘をなさっているのが、実は尊師・谷口雅春先生なのです。

《私は人生にうまれて、生まれて来たからには、何か人生に裨益(ひえき)するような仕事をしなければならないというような責任感を負わせられて、体の疲労感や、老≠フもたらすウンザリとしたような気分で何もしないでいる日などは、何だか申訳のないような気持で、自分を責めるような感じがしていたが、何もしないでいることが所謂る「無為にして化す」であって、それでそのまま仕事をしているのであると気がついたのである。…

○庭の樹木を眺めて見ても若木の若い枝は一年に五十センチも、或いはそれ以上も伸びるけれども、老樹の幹は殆ど全く伸びないように見える。

老樹でもその年に新芽を出した新らしい枝は伸びるけれども、枝でない幹の方は殆ど全く伸びないようなのである。

○けれども、その伸びない老樹の幹にも使命がある。

若し老樹の幹が枯れて死んでしまったら、その年に老樹の幹から新芽を出してそれが新しく随分伸びていて、或いはその新芽には花の蕾さえついていて、前途祝福されたる運命をもっているかのように見えていた新芽の枝も蕾も、ついに花咲くことなしに枯れてしまうのである。

自分は伸びない老樹の幹みたいなもので、何の業(わざ)も為さないように見えても、それが兎も角、生きているというだけで、何らかの功徳を周囲に与えているのだと思う。

それが所謂る「無為にして化す」という貢献であると思う。

○人間も兎も角、為さずして為す底(てい)の功徳を、生きている間に積んで置くほどにならないと、生き甲斐のあるその人の「生」だということは出来ないのである。

歴代の天皇さまは、歴史にはその功業が少しも書かれていない天皇さまもその中にはあるけれども、皇統連綿として続いているということは、歴代の天皇さまのうち、その御ひと方が欠けてでも、皇統連綿が前後際断されることになる。

このような天皇さまの御陰徳を私は鑚仰したいと思う。》

(『生長の家』誌・昭和56年5月号「明窓浄机」92頁より)

「無為にして化す」

何と言う貴い、有り難いお言葉でありましょうか。

そうです、「天皇」という御皇位にいてくださるだけでいいのです…。

御皇位をただただお継ぎくださるだけでいいのです…。

即ち、「御人格(おひとがら)」という、いわば、表に顕れた御顕徳≠ナはない、御皇位を継ぐというまさしく御陰徳≠アそが、日本の国体(おくにがら)の本質なのです。

改めて、日本弱体化のために占領軍が仕込んだ「憲法第1条」の問題が、今ここに今上陛下のご譲位という問題となって浮かび上がってきたのだと私は思っています。

結びに、これだけは言っておきます。

「くにがら」を破壊するような、いわば時限爆弾≠フようなものを仕込んだ「占領憲法」を、素晴らしいと擁護するような谷口雅宣総裁、現教団は、「天皇国・日本」の本質が全く分かっていない。

それは取りも直さず、尊師の御心を少しも分かってはいないからであると改めて難ずるものであります。


天と地の差 (10499)
日時:2018年12月27日 (木) 23時43分
名前:極楽とんぼ

一方で、信徒の総意を無視して踏みにじり、暴走する総裁先生。
気楽な稼業ときたものだ。
早く目覚めていただきたいですね。

何故、ご譲位をご決断なされたのか?それは宮中祭祀を守るためだった! (10500)
日時:2018年12月28日 (金) 09時40分
名前:破邪顕正

去る12月10日から13日まで、「谷口雅春先生を学ぶ会」として初めて「皇居勤労奉仕」に参加しました。

単に勤労奉仕に参加するのみならず、これを「皇居勤労奉仕練成会」と銘打って、日本橋練成道場にて、早朝の神想観に始まり、勤労奉仕後は、再び道場に戻ってきて、「天皇国日本」の研修を行い、最後は「大日本神国観」の実修で終わるという内容で取り組ませていただきました。

この研修の中で、参考図書とさせていただいたのが、明成社刊『天皇と国民の絆』(勝岡寛次・著)でした。

この本を通して、とても重要なことを学ばせていただきました。

それをご報告させていただきます。

今回の陛下のご譲位に対して、皇后陛下も当初は、反対のお立場で、摂政をおかれたらいいのでは?というご意見だったようなのです。

それに対して、陛下は、

摂政では駄目なんだ

と仰られたというのです。

その理由は?

摂政では宮中祭祀は代行できない

「四方拝」「新嘗祭」等がまさにそれにあたります。

摂政を立てても、いわば、宮中祭祀の核心部分というものが、摂政では代行できないという重大な問題がそこにはあったのです。

陛下が如何に、宮中祭祀を大事にされていたか。

先の皇后陛下のお言葉でも、それを窺い知ることができます。

〈…こちらの御所に移居してすぐ、陛下の御田(おた)の近くに一畳にも満たない広さの畠があり、そこにマクワウリが幾つかなっているのを見、大層懐かしく思いました。

頂いてもよろしいか陛下に伺うと、大変に真面目なお顔で、これはいけない、神様に差し上げる物だからと仰せで、六月の大祓(おおはらい)の日に用いられることを教えて下さいました。

大変な瓜田(かでん)に踏み入るところでした。

それ以来、いつかあの懐かしいマクワウリを自分でも作ってみたいと思っていました。〉

このように、宮中祭祀を大事にされる御心があればこそ、それを「全身」と「全霊」双方をもって務めに当た≠驍アとができなくなることを、大変、ご憂慮なされて、今回のご決断となったのではないのかと拝されるのです。

「天皇国日本」の核心部分とは、まさしく、この宮中祭祀≠ノあると言っても過言ではありません。

ここまでお考えになっての、今回のご譲位であったかと思いますと、その大御心にただただ合掌、感謝あるのみであります。

来年、4月21日(日)に開催される「第7回全国大会」において、今上陛下への限りない感謝・報恩のまごころを参加者全員で捧げさせていただきたいと念願している次第です。


宮中祭祀の中でも最も重要な一つとされる「四方拝」(しほうはい)について (10502)
日時:2018年12月29日 (土) 12時55分
名前:破邪顕正


お正月、一年の一番初めに行われる宮中祭祀が「四方拝」です。

年頭にあたって神々に日本国の安寧と世界の平和を祈られるのです。

天皇陛下自ら行われることになっています。

そのため、御代拝(ごだいはい)は認められません。

それが認められないということは、陛下のご体調が優れないなどの場合は中止になると言うことです。

そもそものはじまりは、平安時代初期、嵯峨天皇の治世(9世紀初め)で、儀式として定着したのが宇多天皇の時代(9世紀末)、『宇多天皇御記』の寛平2年元旦(890年1月25日)が四方拝が行われた最古の記録と言われています。

それが、明治41年に制定された「皇室祭祀令」で規定され、戦前までは国家行事として行われていました。

終戦後、「皇室祭祀令」は廃止されましたが、現在は天皇の私的な祭祀として、明治時代の作法に準拠して行われています。

「四方拝」について説明させていただきます。

1月1日(元日)の午前5時30分に、天皇さまが黄櫨染御袍(こうろぜんごほう)と呼ばれる束帯を着用なさり、皇居の宮中三殿の西側にある神嘉殿の南側の庭に設けられた仮屋の中にお入りになり、伊勢神宮の皇大神宮・豊受大神宮の両宮に向かって拝礼なされたのち、四方の諸神祇を拝されます。

この時に天皇さまが拝される神々・天皇陵は、以下の通りです。

・神宮(伊勢神宮)

・天神地祇(てんじんちぎ)

・神武天皇陵(じんむてんのうりょう)

・先帝三代の陵(みささぎ)(明治天皇、大正天皇、昭和天皇)

・武蔵国一宮(むさしのくに いちのみや)/氷川神社(ひかわじんじゃ)

・山城国一宮(やましろのくに いちのみや)/賀茂神社(かもじんじゃ)

・石清水八幡宮(いわしみず はちまんぐう)

・熱田神宮(あつた じんぐう)

・鹿島神宮(かしま じんぐう)

・香取神宮(かとり じんぐう)

宮内庁によりますと、陛下のご負担軽減を考慮して、今は、お住まいの御所にて行われているということであります。

この「四方拝」で忘れ得ぬのが、昭和20年の空襲警報下での「四方拝」であります。

昭和20年の元日、昭和天皇は、空襲を恐れて宮中三殿ではなく吹上御苑の御文庫の前庭で「四方拝」を行われました。

元日の零時5分にB29が東京上空に侵入して神田や浅草を空襲しました。

その後、敵機が退去し空襲警報が解除されました。

昭和天皇は午前4時に起床され、御文庫の風呂場で潔斎(身を清める)をなされ、午前5時に御文庫を出られましたが、すぐに空襲警報が発せられたため、いったん中に戻られ、皇后陛下とともに地下2階の防空室へ降りられました。

この時、陛下は防空室の時計をご覧になられて「いまに夜が明けてしまう」と繰り返し言われていたといいます。

どうしても日の出前に四方拝を済ませなければならなかったのです。

B29が江戸川に投弾して火災が起こって夜空の雲を赤く染めました。

空襲警報が解除された5時40分、陛下は軍装のまま御文庫から出られ、宮中三殿から白い屏風や真薦(まこも)、薄帖(うすじょう)が運ばれ、並べられました。

気温はマイナス1度。

いつもはかがり火が焚かれ、陛下は平安朝から伝わる束帯に黒い冠をかぶられ、屏風の囲いの中に入られるのです。

しかし昭和20年の「四方拝」は灯火管制のために、黒い覆いを被せた懐中電灯一つで行われたのです。

芝生の地面はデコボコで屏風は安定せずに風が吹く都度、侍従が倒れないように外から支えていました。

陛下が屏風に入られると、三尺四方の厚畳の御拝座にあがられ、皇大神宮の方角にお向きになり、立札をされ、座礼をされ、もう一度立たれてお辞儀され、また坐って平伏されます。

これを両段再拝といいます。

陛下は右へ廻って北西の方角に両段再拝され、北東、南東でも行われました。

四方へ向けて両段再拝されることで、皇大神宮、豊受大神宮、四方の天神地祇、天皇陵などを拝まれるのです。

陛下が「四方拝」を無事に終わられるまで敵機来襲がなかったので中断されることはなかったと言われます。

昭和天皇が如何に「四方拝」を大事に思っておられたか、それを見事に物語る話であります。

もう一つ、ご紹介させていただきたいのは、「四方拝」に込められた精神(こころ)≠フことについてであります。

前述したように、「四方拝」は、平安時代に始まりましたが、その儀式の中身において「皇室祭祀令」からは無くされたものがあります。

しかし、無くなりはしましたが、その精神≠ヘ、今なお生き続けているのではないのか…。

今上陛下は、大規模災害に遇われた国民に対して、心からのお慰めとお励ましをなさってこられました。

そのお姿を拝して、「四方拝」の精神≠ヘ、陛下の中に脈々と承け継がれていると思ったのです。

それは、『江家次第』(平安後期の儀式書。正月「四方拝」にはじまる宮廷の年中行事等について詳説したもの)の中にあります。

何でも、昔は、この儀式中、天皇さまが呪文のように唱えられるお言葉があったというのです。

〈賊冦之中過度我身(ぞくこうしちゅうかどがしん…賊冦の中、我が身を過し度せよ)

毒魔之中過度我身(どくましちゅうかどがしん…毒魔の中、我が身を過し度せよ)

毒氣之中過度我身(どくけしちゅうかどがしん…毒氣の中、我が身を過し度せよ)

毀厄之中過度我身(きやくしちゅうかどがしん…毀厄の中、我が身を過し度せよ)

五急六害之中過度我身(ごきゅうろくがいしちゅうかどがしん…五急六害の中、我が身を過し度せよ)

五兵六舌之中過度我身(ごへいろくぜつしちゅうかどがしん…五兵六舌の中、我が身を過し度せよ)

厭魅之中過度我身(えんみしちゅうかどがしん…厭魅の中、我が身を過し度せよ)

萬病除癒、所欲随心、急急如律令(まんびょうじょゆ しょよくずいしん きゅうきゅうにょりつりょう)〉

ここで重要なのが「過度」の意味であります。

ここでの「過」とはすぎる=A「度」とは悟らせる≠ニいう意味です。

「罪障は我が身を通して悟りへ至らしめん」ということです。

つまり、単純に「罪障から私を守ってください」ということではないのです。

むしろ、この世に起こる罪障をすべて引受ける、その代わりに国民をそれらから護っていきたい…そういう精神がここにはあるのです。

罪あらば我を咎(とが)めよ天津神 民は我が身の生みし子なれば

大逆を侵そうとして捕らえられた、社会主義者たちのことを詠まれた、明治天皇の御製です。

御身を害しようとするものでさえ、自分の子であると庇(かば)う御心をお持ちなのが、天皇陛下というご存在なのです。

昭和天皇もマッカーサー元帥に対して「我が身はどうなってもかまわぬ。国民を救ってほしい。」と仰いました。

まさしく、御身を投げ出されてのご覚悟を元帥にお示しになられたのです。

「四方拝」にも、同様の精神≠ェあるということを申し上げたいのです。

それあらばこそ、今上陛下は、災害地に赴かれては、深くお辞儀をなさり、国民と同じ目線にてお言葉をおかけになっていかれたのではないのか…。

まさしく、これこそが「天皇国日本」の日本たるゆえんであり、このような国に生まれることのできた幸せを心から噛みしめてまいりたいと思う次第です。



名前
メールアドレス
スレッド名
本文
文字色
ファイル
URL
削除キー 項目の保存


Number
Pass
SYSTEM BY せっかく掲示板