《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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教団と本流≠ニは話し合うべきだというご意見の向きへ (10494)
日時:2018年12月21日 (金) 09時37分
名前:破邪顕正

こういう方に言いたいことは唯一つ。

何のために…それに尽きます。

私は、話し合いには、その前提として、どこかに共有できるものがなければならないと思うものであります。

果たして、今日、それがあるでしょうか。

ザックリ言って、私ども「谷口雅春先生を学ぶ会」は尊師のお説きになられたのが「生長の家」であるという立場です。

ところが、教団は、谷口雅宣総裁が今、説いているのが「生長の家」であるという立場です。

谷口雅春先生と谷口雅宣総裁との間に何か共有し得るものがありますでしょうか。

こういうと血筋≠ェあるではないかと言ってくる向きがあります。

それに対して敢えて反論させていただけば、血筋♂]々と言うのならば、何もそれは谷口雅宣総裁に限ったものではありませんよ。

お姉様も弟様も、あるいは広くとって義兄様もおられますよ。

そのことを、逆に、最も強く意識していたのが、実は谷口雅宣総裁自身であったと私は思っています。

だからこそ、上の血筋≠ノあたる方々を谷口雅宣総裁は次から次へと教団から放逐したのです。

時には裁判に訴えて。

時には、谷口清超先生の御意思、御意向を無視して。

「中心帰一」を言うのであれば、真っ先にそれに反する行動をとったのが谷口雅宣総裁であります。

自分は「中心帰一」の道から外れるようなことをしておいて、「総裁」の立場になったら、掌を返すが如く「中心帰一」を強いる。

何と身勝手な「中心帰一」であることよ。

もう、既に、そのときから、「中心帰一」はもはや真理≠ナはない、総裁専制のための都合のいいイデオロギー、道具と化したのだと私は見ています。

そして、その横暴(敢えてそう表現させていただきますが)≠支えたのが、そうです法燈継承者≠ニいう、その一点なのです。

つまり、今の教団を実質上、下支えしているのは、実は血筋≠ノあらず、総裁こそが法燈継承者≠ナある、そこなのです。

だからこそ、総裁は、血筋≠セけでは心許ない、他にも該当者がいるから何かあったら取って代わられる恐れがある…。

その恐れを払拭し、自らの立場を盤石とするには、自分こそが唯一の法燈継承者≠ナある、これに如くはなし…。

ということで、法燈継承者≠ニいう立場を、総裁は、デッチアゲしてまでも(これについては、以前、書きましたのでここでは省きます)強引に手に入れたのです。

そうであるならば、当然、ここで検証されるべきは、今の谷口雅宣総裁が果たして法燈継承者≠フ名に相応しいか、ということになりはしないでしょうか。

ところが、総裁は、法燈継承者≠ニいう立場から、あろうことか、何と法燈≠継承するのではなく、自分の説く教えをもって「生長の家」にしてしまったのです。

有り体に言うならば、総裁は、自らの立場の正統性を法燈継承者≠ノ置きつつ、その一方で、法燈≠継承するのではなく、教えの解釈権は自分にあるとして自分流に得手勝手に法燈≠替えてしまったのです…。

さしずめ、法燈継承者≠ゥら法燈改竄者≠ヨと身を替えたのが現総裁に他ならないということです

今の教団の悲劇は、まさにこれに尽きます。

悲劇も極まれば喜劇となる≠ニいう表現がありますが、まさにこれを地で行くようなことが今、「生長の家」に起きているのです。

だって、愛国=反共≠フ砦とまで言われた「生長の家」が、今や、あの日本共産党から熱い連帯のアピールを浴びるまでになっているのですから!

これを喜劇と言わずして何と言えばいいのでしょう…。

つまり、これまた何度も言って恐縮ですが、もはや今の「生長の家」はかつての「生長の家」ではないのです!

ここをしっかりと腑に落とし込んでいないから、「話し合いを…」というような、極めて短絡的な、安易な、安直な考えが出てくるのです。

私が一貫して申し上げているように、谷口雅宣総裁は確信犯≠ネのです。

「生長の家」教団から、天皇さまを心から仰慕し、占領憲法の改廃を願う愛国者≠悉く追放する…、それこそが総裁が教団に乗り込んで来たホンネであり心底のネライであったのです。

あの虚偽にまみれた『日本会議の研究』をいわば聖典化し、月刊誌等で「今の憲法はスバラシイ」と信徒を洗脳≠オていることを見れば、それは一目瞭然ではありませんか。

誤解を恐れず、私の思う、総裁とはどういう人か、ここでハッキリと言わせていただきます。

総裁は、結局、「生長の家」から尊師・谷口雅春先生そのものを追い出したかったということです。

現に、いろんなところで、尊師の御写真が外されていっています。

その代わりに、総裁の写真しか飾っていないようなところも生まれてきています。

「谷口雅春先生」という御名を称えることがどんどんなくなってきています。

今や、教団では、谷口雅宣総裁こそが「生長の家」の創始者であるかのような雰囲気をつくりあげようとしています。

それはそうでしょうね。

総裁の説くことが「生長の家」というのであれば、今の総裁が新しい「生長の家」の創始者であると言っても何らおかしくはありませんから。

つまり、あの第九条「生長の家大神−総裁・副総裁−御教」を、ここに言う総裁の中に尊師は含まれない、その時々の総裁のことを指すと解釈したら、総裁が生まれる度に、その総裁が「生長の家」の新たな創始者になってしまうのです。

歴史の完全な否定、この第九条が孕んでいる最もオソロシイところがまさしくそこなのです。

この「第九条」をもって、自分の好き勝手な「生長の家」を自分流にアレンジしてつくり替えることができる、その先鞭をつけたのが、今の総裁に他ならないというのが、私の見方です。

そういう立場からすれば、今さら、一体、何を話し合うのかということになってしまうのです。

もう、賽は投げられたのです。

谷口雅宣総裁は確信犯≠ニして、既に自分の「生長の家」をつくりあげてしまったのです。

確信犯≠ナある以上、総裁は総裁で自らが信ずる道をこのまま突き進むだけでありましょう。

確信犯≠ェ、その軌道修正に応ずるとはとても思い得ません。

ならば、吾らは吾らで谷口雅春先生の創始された本当の、本来の「生長の家」を護り抜き、それをお伝えするのみであります。

もう、お互い、別々の道を歩んでいるのです。

もはや「話し合い」ではない、自分はどちらの道に行くのか、今や、それこそが一人ひとりに突きつけられている問いなのです。

そして、どちらの道がよかったかは、それはいずれ歴史が明らかにするでしょう。

事、ここに到っては、そこに委ねるべきであるというのが私の思いであります。

時間は限られています。

あのとき、ああしていれば、こうしていれば…。

そういう悔いだけは決して残したくはありません。

時間を惜しみつつ、精一杯、自らの信ずる道に邁進するのみであります。


谷口雅宣総裁の年頭の挨拶に思う (10524)
日時:2019年01月05日 (土) 14時08分
名前:破邪顕正


谷口雅宣総裁の年頭の挨拶を視聴した方から、その報告を伺いました。

それによると、今年が御代替わりの大変、重要な節目となる年というのに、現総裁は、一切、それに触れなかったというのです。

今上陛下への感謝の言葉もない…。

勿論、新帝陛下が御即位されるということにも触れない…。

「生長の家」の総裁がこういうことでいいのか?

そう思っていたところに、<愛国本流掲示板>にこういう投稿が掲載されました。

〈3年ぶりの宇治参拝で仰天。 (25003)
日時:2019年01月04日 (金) 22時31分
名前:参拝した会員

3年ぶりの宇治参拝で仰天しました。

home pageで、西暦表記。

幽斎殿では、公式に神想観なし。

各自でお祈り下さという事でした。

幽斎顕斎、住吉の理念の封殺行為です。

生長の家を消してしまうつもりのようです。…〉

元号法制化のために、最も貢献した「生長の家」が今や西暦一本化のお先棒を担ぐようになるとは…?

これでは、同じ「生長の家」でも、尊師の創始せられた「生長の家」とは似ても似つかぬシロモノになったと言われても致し方ないのではないでしょうか。


こんな事書くと、カウンターパンチ受けそうですが。 (10529)
日時:2019年01月05日 (土) 22時21分
名前:そーれ!!

あくまで私個人の意見ですが、教団と、本流が和解すると
すれば・・・・・。

総裁夫婦及び教団の理事達は、退任では?

だって、彼等は、反 谷口雅春先生なのですから。

某掲示版で、トキさんが、しきりに和解説を唱えていますが、

トキさんも、そこまで考えているのでしょうかね。

虚説への和解は、本当の和解ではありませんね。

あくまで、私個人の意見です。

「谷口雅春先生を学ぶ会」の見解ではありませんので、

その事だけは、言っておきますよ。

  ですが・・・

  総裁夫婦、理事達が改心すれば、話は別です。



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