《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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このままでは共倒れになる≠ニ危惧される向きへ (10491)
日時:2018年12月20日 (木) 10時54分
名前:破邪顕正


表題のことを言われる方がありましたので、私の思うところを書かせていただきます。

共倒れ≠ニいう表現は、よく、選挙のときに使われますね。

一人の候補者に絞ったら、当選できたのに…、という具合に。

つまり、教団も本流≠烽アのままでは共倒れになるということを言う人は、一つになればいいのにと思っているのだと思うのです。

所謂和解派≠ニいう方の中にある考え方がこれかと思います。

じゃ、どちらに一本化したらいいと言うのか。

おそらくは、生長の家教団という元の鞘に納まればいいと思っているのではないでしょうか。

で、私のいいたいことはただ一つ。

尊師・谷口雅春先生のお説きになられた御教えに従えばいい、これに尽きます。

新編『生命の實相』第1巻にこうあります(7〜8頁)。

《…退歩する者は生命の法則にかなわないのでありまして、「生命の法則」にかなわないものは生命の世界においては落伍することになっているのであります。…

生存競争にやぶれたものは何か自分と競争している同輩に打ちまかかされたように思って恨んだりしがちでありますが、実は誰にも打負かされたのではないのであって、生命顕現の法則に最もよくかなうもののみ最もよく生長するという厳とした法則によって各々の「生命」は宣告されているのであります。

競争者があるがために滅びるような「生命」は競争者がなくては生長しないで退歩またはせいぜい現状維持ぐらいのところでお茶を濁す退嬰的な「生命(たましい)」であるに相違ないのであります。…》

何を申し上げたいか。

「谷口雅春先生を学ぶ会」という競争者があるがために共倒れ≠ノなるような教団であるならば、たとい一本化したとしても、結局は、倒れるべくして倒れる運命にあるのではないのか…。

むしろ、教団は、「谷口雅春先生を学ぶ会」という存在を一つの刺激や反省材料≠ニして浄化(きよめ)の機会を与えられ≠スと捉えるべきではないのか…。

ところが、残念ながら、ご存じのように、教団はそういう心の姿勢になってはいません。

教勢がどんなに衰退しようとも、それを反省材料≠ノしようとはしないのです。

教勢が衰退するというのは、私に言わせれば、それが「生命の法則」にかなわない≠ゥらに他なりません。

そういうものは、結局は、生命の世界においては落伍する≠オかないのではないでしょうか。

つまり、共倒れ≠ノなるのではない、教団のみがどんどん衰退するのだといいたいのです。

なぜ、そう断言するのか。

これまた『生命の實相』が教えています。

《理想−−理念を失ったものは、すでに内容のない形骸ばかりのものになっているのだから、今はまだ生き生きしていようとも、それはすでに幹から断ち切られた生け花のようなものである。

それは時間のたつにしたがって、衰滅枯渇してゆくほかにありようはないのである。

どんなに小さくとも生ける理念を内部に失わないものは、時期が来れば生長するほかはないのである。

それは生命の種子であり、機会ごとに伸びるのだ。》(『生命の實相』第38巻12〜13頁)

ここに言う理想−−理念≠ニは、言うまでもなく、尊師の御教えにほかなりません。

尊師の御教えという幹から断ち切られた生け花のようなもの≠サれが今の教団なのだと私は思っています。

そして、どんなに小さくとも生ける理念を内部に失わないもの≠サれが「谷口雅春先生を学ぶ会」であると私は自負しています。

尊師の御教えは、どんな時代になろうとも永遠不滅であります。

一方、谷口雅宣総裁の説く今の教え≠ヘ、いずれは古い教え≠ニなって時代の荒波の中に没し去ってしまうしかない…。

『生命の實相』が予言する通り、教団は内容のない形骸ばかりのものになっているのだから、今はまだ生き生きしていようとも、それはすでに幹から断ち切られた生け花のような♂^命を辿るしかないと思うのです。

同じく『生命の實相』第38巻には、こういうご文章もあります。

《まちがいの上に本物を建てることはできない。…まちがいの上にどんな立派な建物を建ててもそれは倒れてしまう。》(120頁)

谷口雅宣総裁は、谷口雅春先生の御教えという土台に建っていた「生長の家」を壊して、今の教え≠ニいう土台の上に自分の「生長の家」を建ててしまいました。

原宿にあった本部会館を壊して、八ヶ岳に本部を建てたのは、まさに、その象徴的出来事であったと私は見ています。

『生命の實相』は、教団の今後の行く末を見事に暗示している、そう思うものであります。

ということで、私の結論。

共倒れ♂]々を心配するより、むしろ、今の状況下、如何にして、尊師の本当の教えをお護りし、お伝えしていくのか。

そちらの方にこそ、関心を向けるべきが尊師の弟子としての、本来のあるべき姿だと思うものであります。




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