《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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谷口雅春先生の憲法論とくに「主権」について、管理人の知見を申し上げます。 (10475)
日時:2018年12月17日 (月) 21時52分
名前:管理人

【はじめに このスレッドについて】

このスレッドは谷口雅春先生の憲法論とくに「主権」に関して、管理人が知っていることと管理人が理解していることを【1】から【5】にわけて説明もうしあげるものです。
【1 谷口雅春先生の「主権」】
【2 谷口雅春先生の日本国家観】
【3 谷口雅春先生の「天皇」】
【4 谷口雅春先生の「国民」】
【5 谷口雅春先生の「政治と宗教」】
なお、ここで説明する内容は管理人個人の見解であって本流諸団体の見解ではありません。

また、この説明の発端は、本掲示板の10265記事「きわめて重大なテーマなので、少しお待ちください」
https://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=2357
で、

管理人が「会員改め生命の実相信者」さんに約束し、「会員改め生命の実相信者」さんもそれを期待する旨を10268に投稿されたことに由来します。ここで「会員改め生命の実相信者」さんに、長らく待たせてしまったことをお詫びします。




【1 谷口雅春先生の「主権」について】 (10476)
日時:2018年12月17日 (月) 21時55分
名前:管理人

谷口雅春先生がおっしゃる「主権」は対立概念ではなく「全体概念」である。この「全体」は、すべてを生かす全体。

ふつう「主権」という言葉は「多くの人や集団のなかで最も上の権威(あるいは権力)」というような意味で使われます。

簡単にいうと、「おまえたちよりも私の方が上だ。だから私の言うことを聞け」ということです。たとえば「国民主権」とは「国民が国王よりも上」ということです。「天皇主権」は「天皇のほうが上だ」ということです。

ここには「複数のものが分裂・対立しているのだ」という前提が潜んでいます。複数のものがなければ、「私のほうが上だ」という主張は出てきません。また、複数のものがあっても分裂・対立していなければ、やはり「私の方が上だ」は出てきません。

谷口雅春先生はいわゆる愛国書のなかで、たびたび「天皇主権」という言葉を使っておられます。またその言葉の多くは、「明治憲法(大日本帝国憲法)は天皇主権であった。だから明治憲法に復元して、今の時代に合うように改正すべきである(いわゆる復元改正論)」という主張のなかで使われています。

ところが谷口雅春先生は、「天皇主権は主権在民(つまり国民主権)である」ともおっしゃっています。それが次のご発言です。これは昭和31年11月1日号「聖使命」新聞(昭和31年11月1日号)に掲載された「思想戦争と心理戦争――生命把握の認識より出発して「国」と「家」とを観る――」のなかの文章です。これはのちに『我ら日本人として』に本題で集録されました。

天皇主権制は民主主義と両立し得る

熱心な誌友からの投書のなかにも、「天皇主権制よりも民主主義の方がよいのは常識になっている今頃、明治憲法の復元などは時代錯誤だ」という投書も来ている。……(省略)……しかしここに明かにしておきたいのは、天皇主権の明治憲法の復元は決して民主主義に背反しないことである。日本における天皇と国民との関係を、他国における「征服者としての君主」「被征服者としての国民」との関係と同じように考えるのは間違いである。

日本の"天皇"と"国民"との関係は、"征服者"と"被征服者"との関係にあるのではなく、「罪あらば我をとがめよ天津神、民はわが身の生みし子なれば」との明治天皇御製にあらわれているように、君民一体、親子一体の関係における天皇主権であり、それは君民一体なるがゆえに、天皇主権は同時に主権在民であり、天皇の名において政治が行われるのは、実際は国民が政治を行うのである……。
(『私の日本国憲法論』p.307〜p.309)


この文章にあらわれているように、谷口雅春先生がおっしゃっている「主権」は「全体の権力(あるいは権威)」です。この権力は「個々」を圧殺する権力ではなく、「個々」さらには「全体」を生かす力です。少し飛躍していうならば、招神歌のなかの「あめつちを貫きて生くる祖神の権能」です。谷口雅春先生はその意味の「天皇主権」が明治憲法を貫いていたのだと主張し、現行憲法ではその「主権」が否定されているから「明治憲法に復元改正せよ」と、大号令をおかけになりました。

なお、ここで、「現行憲法が70年も続いてしまった現在、はたして復元改正が実現できるのか。そもそも復元改正論は今も有効なのか」という疑問が出るかもしれません。この問題にふれると、多くの意見が分かれて出るでしょう。だが、本記事では論の混乱をさけるために、谷口雅春先生の「主権」だけを述べます。

……ということで話をつづけると、この谷口雅春先生の論理にしたがうならば、「天皇主権」イコール「国民主権」だから全てに主権があることになります。だったら、雅春先生は「主権」などという面倒な言葉をはじめから使わなければ良かったということになります。それで改めて明治憲法をしらべると、明治憲法は「主権」という言葉をまったく使っていません。

それでは、なぜ谷口雅春先生が戦後になって「主権」「天皇主権」という言葉を頻繁に使われたのか。それは、そのころ左翼・護憲派に支配されたマスコミや学者文化人が、「明治憲法は悪で、天皇主権。今の日本国憲法は善で、国民主権」という国史に反するスローガンを広め、保守派や愛国者と言われた人達もそれに正面から反論しなかった、いや、反論できなかったからです。(https://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=2321

谷口雅春先生は世論に訴えるために、対抗上わかりやすく「天皇主権」という言葉をお使いになりました。しかし、谷口雅春先生の「天皇主権」に、「天皇対国民」を前提とする「天皇主権」は一つもありません。また、「国民が分裂・対立していて、それを天皇が力ずくで一つにする権力」という「天皇主権」もありません。谷口雅春先生がおっしゃっている「天皇主権」は常に「全体の権威(あるいは権力)」であり、「個と全を生かす権能」です。ここには「分裂・対立」が存在しません。





さて、ここで西洋の政治思想史に目を転じると、世界の政治思想や憲法思想に大きな影響を与えたジョン・ロックの『統治二論(別名、市民政府論)』は「主権sovereignty」という言葉を使う事を慎重に避けています。それには色々の理由があるのですが、ロックの頭のなかに「国王と国民の国家的統一性」を維持しようとする意識があって、その結果、「分裂・対立」を連想しやすい「主権」という言葉をロックが避けたことは、まず間違いありません(もともと西洋近代の「主権」は、自分の正当性を主張し、相手を抑えこむために発展してきた武器としての概念です。せいぜい国内を力ずくで安定させようとして作りあげた善意の武器概念です。どちらにしても「分断・対立」が当然視されています)。

それと同じように、明治憲法を制定した伊藤博文たちの頭のなかにも同様の配慮が十分にありました。明治憲法を制定するために十年もの年月をかけ、国内で多くの憲法草案が作られ、政府内でも激しい議論が行われたのはそのためです(現行憲法の草案は一週間です)。そのロックや伊藤たちの「全体意識」を知らずに、日本国憲法の前文に「主権が国民に存する」などという余計な言葉を書きこんで、「天皇と国民は分裂対立するものだ」という国史に反する思想を押しこんだマッカーサーは、まことに迷惑なことを行ったのであります。





【2 谷口雅春先生の日本国家観】 (10477)
日時:2018年12月17日 (月) 22時21分
名前:管理人

さて、細かなことをいうと、「主権」を語るならば、その国をどう見るかについて語らなければなりません。

なぜならば、ふつう「主権」とはその国における「主権」であるから、自分の国をどう見るかによって「主権」にかんする考え方が大きく変わるためです。

実際に、今の世界には多くの「主権概念」があります。もしインターネットで「主権」を検索するならば、多くの「主権概念」が出てくるのに驚かされるでしょう。

それでは、なぜ多くの主権にかんする考え方が出たのか。それには色々の理由がありますが、最大の理由は、いま申したように、人によって国家観が異なるためです。

すでに、古典的なフランスのルソーとイギリスのロックの「主権」にかんする考え方にも大きな違いがありました。それはロックが「主権」という言葉を使わなかったのに対してルソーが『社会契約論』のなかで「主権」という言葉を使った…というような違いではなく、両者が持っていた「理想の国家像」さらに「現実に見ている国家像」がまったく異なるために発生した違いです。(詳しくは、管理人が投稿した記事
https://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=2317のなかの、「ルソーの社会契約論」と「ジョン・ロックの社会契約論」をご参照)。





そこで谷口雅春先生の日本国家像です。谷口雅春先生は「日本国憲法の背景となる哲学」(昭和42年『白鳩』誌4月号)という論文のなかで、「宇宙の大神である天照大神の心の中に『理念の日本国』が造られて、その理念が天降って来て現実化したものが日本国である」と述べておられます。

……ところで日本国家は何処から来たかと云う問題であります。現実的に言いますならば、神武天皇が大和に都を造り給いて、そして六合兼都・八紘為宇の詔勅を降し給うたあの時に、日本は建国されたのであります。

しかしながら、もっと遡りますと、日本の建国は古事記あるいは日本書紀に書かれております如く、天照大神が「とよあしはらの千五百秋の瑞穂の国は、これ吾が子孫の王たるべき地なり。よろしく爾皇孫行きて治せ。さきくませ、あまつひつぎの栄えまさむこと、まさに天壌と窮り無かるべし」と詔を以って仰せられたあの時に始まるのであります。

……天照大神とは宇宙を照らし給う大神であります。宇宙の大神の具体的顕現として現われられた天照大神様の心の中に、日本国なるものの根本的設計、すなわち「理念の日本国」というものが造られまして、その理念が天降って来て現実化したのが神武天皇の建国であるということになっているのであります。天照大神様の天孫降臨の神勅そのものこそ、日本国の根本的設計であり「理念の日本国」そのものである訳であります。
(『私の日本国憲法論』p.14)


さらに続けて、この「理念の日本国」は「現象の日本国」がどのように破壊されようとも永遠に壊れないものであると、説いておられます。これは、生長の家(本物の)の信徒ならば見落とすことができない重要な指摘です。

もちろん、このご発言の背後には「実相」と「現象」を区別して「現象はない」と断ち切る、生長の家独特の(現在の「生長の家」はどうなのか知りません)存在論があります。これを大前提として、谷口雅春先生の文章を引用しつづけます。

……それは丁度、車と云うものは、真中に心棒があって周囲が円くて回転するものであるという車の根本設計たる理念が造られたら、現象の車はどんなに壊れても途中でいたんでも、また新たにその根本設計に従って、真中に心棒があって、周囲が円くて回転するところの姿が出て来ることになるのであります。

日本の国も神武天皇が具体的に建国なさいましてから後に幾多の変遷があったに致しましても天照大神様の御意の中に造られた日本国の根本的在り方――即ち根本的理念というものは永遠の存在として壊れないものなのであります。これが日本国の実相であります。
(同書p.15)


さらに以上の論をうけて、雅春先生はこの論文のなかで初めて「主権」という言葉を出しておられます。「主権が天皇にあるということは、日本国の理念(霊的原型)……として既に定められているのである」と。谷口雅春先生が「明治憲法に復元せよ」と仰ったときの「天皇主権」とは、この「主権」です。

天照大神の神勅には「これ吾が子孫の王たるべき地なり」と書かれておりまして、主権が天皇に在るということは、はっきり日本国の根本的在り方――すなわち「日本国の理念」(霊的原型)としてそこに定められているのであります。

ところが現行の日本国憲法に於ては主権は国民に在るということになっているのであります。ここに非常に重大なすり替えが行われているのであります。……「主権の存する国民」というのは部分に主権があり、部分が相談をして国家という全体をそこに造ったのであるという唯物論的立場に立って日本国憲法は書かれているのであります。
(同書p.16)


この引用文の最後に、「唯物論的立場に立って日本国憲法は書かれている」と書かれていることには充分な注意が必要です。

つまり、今の日本国憲法が唯物論的立場に立って書かれているのならば、以前の明治憲法はどのような立場に立って書かれていたのか…。明治憲法は神話的国家観に立って書かれていました。ただ、神話といってもギリシア神話や創世記の神話のように神と人が断絶しているような、さらに神と人間が戦うような神話でなく、神と人との境界があいまいで、しかも神と人が協力して地上の国を作った日本神話です。この日本神話に明治憲法は立脚していました。

実は、

明治憲法を否定して今の憲法を肯定する多くの憲法学者も、今でもこの事実は認めています。そのうえで99%の憲法学者は「神話的国家観に立った憲法は個人を圧殺する。危険だ」と言っているのです。しかし、それは日本神話と外国の神話との性格がまったく異なることを無視した(あるいは曲解した)意見にすぎません。

日本神話とギリシア神話との相違にかんする詳細は、https://bbs6.sekkaku.net/bbs/kaelou/&mode=res&log=2325を参照ねがいますが、戦後の谷口雅春先生が99%の憲法学者や圧倒的な戦前否定の風潮にたいして、ただ一人、敢然として「神話的国家観」を主張なさったことは谷口雅春先生が本物の勇気と思想を持っていた人であったことを余すところなく示しています。余計な話かもしれませんが、管理人はこの事実を思うだけで谷口雅春先生にたいする尽きることのない親しみと尊敬の念が沸きあがって来るのを抑えることができません。





【3 谷口雅春先生の「天皇」】 (10484)
日時:2018年12月18日 (火) 22時44分
名前:管理人

さて、谷口雅春先生が「天皇主権」とおっしゃったときの「天皇」とは、どのようなものなのでしょうか。また「国民」とは、どのようなものなのでしょうか。

そもそも上述のような、「天皇主権は同時に主権在民」(『私の日本国憲法論』p.309)という論理は、通常の形式論理ではありえないことです。これでは「天皇」イコール「国民」ということになり、「天皇」「国民」という言葉が存在する意味がなくなってしまいます。

……ということで、まずは「天皇」について。

谷口雅春先生の「天皇」はきわめて積極的・能動的な「天皇」です。谷口雅春先生は「天皇は全知全能の神の御現われである」と語っておられます。このような天皇観はよほどの「愛国者」や「尊皇家」でも、まず語らないでしょう。

私は天皇さまを、実相を直視して全知全能の神の御現われであるというように今も考えているのです。(『国のいのち 人のいのち』p.17)

ここでいう「全知全能の神」とはキリスト教的な見方です。だが、雅春先生は次のように、仏教的に「天皇は毘盧遮那仏の顕現である」とも語っておられます。しかしそこでも、「一切の創造の本源者である」とも言っておられます。

これには充分な注意が必要だと思います。谷口雅春先生の「一切の創造の本源者」という天皇観は、神道的な「生む」という穏やかだが新しいものを作りにくい天皇観ではなく、さらに仏教的な「悟り」や「解脱」で終りかねない天皇観でもありません。

谷口雅春先生の「天皇」はきわめて積極的・能動的な「天皇」です。この天皇観は谷口雅春先生が神啓を受けてお悟りになったときの「悟り」そのまままの、つまり政治論でも宗教論でもないお悟りそのままの天皇観だと思います。



わたしは戦前書いた『無門關の日本的解釋』の本を戦後『無門關解釋』と題して出すよう出版社からすすめられて、その序文に「一切は天皇より出でて天皇に帰るなり」という事を戦前同様書いておいた。

「天皇より出でて天皇に帰る」という事は、天皇は遍一切所の毘盧遮那如来の顕現として一切の創造の本源者であらせられるということです。

ここでいう「創造」とはcreation(クリエーション)のことで、天地創造――宇宙の一切のものを創り出す本源の大生命がpersonify(パーソニファイ。人格化)して、神聖人間として現われて、そこにましますのが天皇さまであるということであります。今も、私はそういうように解釈しているのであります。
(同書p.23)





【4 谷口雅春先生の「国民」】 (10489)
日時:2018年12月19日 (水) 22時49分
名前:管理人

さて、谷口雅春先生はたびたび「天皇主権」と言いながら、同時に、「天皇主権」イコール「国民主権」とおっしゃっていました。

それでは谷口雅春先生の「国民」とは、どのようなものなのでしょうか。

谷口雅春先生は、『国のいのち 人のいのち』の「天皇の御いのち"神の子" に宿りい給う」のなかで、「宗教によって名前は異なるけれども、全知全能の神が天之御中主之神であり、それが天照大御神となってあらわれ、さらに天皇となってあらわれ、その神がわれわれにも宿っている」と、おっしゃっています。谷口雅春先生の「天皇主権」イコール「国民主権」は、ここに論拠があります。



「真理は人間を解放する」という私の説く真理は、今申し上げましたように、万教帰一の真理である。名称は異なれども、宇宙の中心座にまします神は万教共通の本源神がましますのである。その本源神は無限智、無限愛、無限生命である。換言すれば遍在にして全知全能である。そしてその天之御中主之神→ 天照大御神→天皇にあらわれていたまう神、その神がわれわれにも宿っている。
(p.32)


この文のなかの「われわれ」が国民です。

「われわれ」は複数だから、谷口雅春先生だけを指しているのではありません。日本人全体をさしています。ひょっとすると世界中の人間をさしているのかもしれません(今は話が広がりすぎるので、この点にかんしては踏み込みません)。ともあれ、我々が「われわれ」を生きることが「中」であり「今」である。また、「天皇主権イコール国民主権」が「忠」であり「今」である。この点を、未熟ですが次の【5】で申し上げたいと思います。

……ということで、

以上、【1】からこの【4】までの内容によって、谷口雅春先生の「天皇主権」に天皇と国民を分断する意味や前提がまったくなく、明治憲法にも「主権」という言葉が存在しなかったということが確認できるでしょう。だから、「明治憲法には主権という言葉が書いてあった」とか「明治憲法に復元して『主権』という言葉を加えろ」という発言は、谷口雅春先生の思想に合わないことを主張している発言なのです。

憲法の中に「主権」という用語を記入しない方が安全です。また、世界中の憲法には「主権」という言葉を使っていない憲法はたくさんあります。著名な欧米の法学者で「主権」という用語を批判している人もいます。いや。欧米の学者の権威を錦の御旗にしなくても、明治憲法は「主権」という言葉を使わず立派に日本国を支えてきたのです。日本国の憲法に「主権」を記入する必要も道理もありません。





さて、

以上のように管理人が申しても管理人の見解を信用してくださらない読者がおられるかもしれません。だが、現役の憲法学者が管理人の意見と同じことを主張しておられます。

「憲法学会」の学術誌『憲法研究・第十九号』(昭和62年6月23日発行)に掲載されている論文「主権の最高性」は興味ある論を展開しています。まず、西洋の「主権」の概念について述べています。「西洋の著名な学者も、西洋の『主権』が『分裂・対立』を本質的に含む概念であることを認めている」と述べています。

>ゲオルグ・イェリネックが主権概念を「抗争的概念」であると指摘しているが、「主権の概念は歴史的に、国家と他の諸権力との闘争において生じ」、「国家権力と他の諸権力との対抗関係において発展し」てきたものであった。(p.72)

この引用文のなかの「ゲオルグ・イェリネック」とはドイツを代表する公法学者です。ここで西洋の有名な学者を権威の旗印にするような言い方はしたくありませんが、社会科学を学んだ人ならば、イェリネックは有名なマックス・ウェーバーの「ウェーバーサークル」に定期的に参加していた有力会員の一人で、いわゆる新カント学派に近い法学者だといえば、その厳密な概念分析力と正確な論理構築力が想像できるだろうと思います。

……ということで続けます。この論文はさらに、「現代日本の憲法学者が明治憲法をどのように見ているか」を紹介しています。今の日本の憲法学者たちは西洋の政治概念を無条件に国史に強制適用してしまう思想性のない者が大多数であることを紹介しています。

>日本国憲法の国民主権に対立させて、帝国憲法においては天皇主権であったという説明は……数多く見受けられる。(p.72の注23)

この一文は、「帝国憲法(明治憲法)を天皇主権として説明している憲法学者が多い。だからそれが正しい」と言っているのではありません。「それが誤っている」と言いたいのです。だから、次に日本の天皇と国民の関係について述べて、「日本の天皇制は君民対立の西洋思想と異なる思想性を持っている」と主張しています。

>「我が天皇制は…かの(注。欧米の)君主対人民の対立的二元的国家構成の思想と、別異のものである」と言い得るだろう。(p.87)

そして最後の「むすび」で、「明治憲法をどのように見るべきか」について述べています。「明治憲法に、西洋の概念である『主権』を強制的に当てはめて理解するのは誤りだ」と、述べておられます。

>君民間の対立抗争の歴史を侍たなかった我が国における…天皇の統治を、西洋の君民抗争の中で生じた…主権概念と結合させて天皇主権と指称し、……主権の語を採用していない帝国憲法の天皇統治の説明に主権の語を使用することは誤りではないだろうか。(p.90)

ただ、

詳しくこの結論を読めばわかるように、

この結論は管理人のように、「日本の憲法に『主権』という用語を入れるべきではない」とまでは主張していません。しかし、この論文は、日本の天皇制が欧米の「君主対人民の対立的二元的国家構成の思想」と別異のものであることを認めていました。だから、「憲法の中に『主権』という用語を記入しない方が安全だ」という管理人の主張を否定することは、まずありえない。いや。賛同して下さるにちがいないと思われるのです。







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