【3 谷口雅春先生の「天皇」】 (10484) |
- 日時:2018年12月18日 (火) 22時44分
名前:管理人
さて、谷口雅春先生が「天皇主権」とおっしゃったときの「天皇」とは、どのようなものなのでしょうか。また「国民」とは、どのようなものなのでしょうか。
そもそも上述のような、「天皇主権は同時に主権在民」(『私の日本国憲法論』p.309)という論理は、通常の形式論理ではありえないことです。これでは「天皇」イコール「国民」ということになり、「天皇」「国民」という言葉が存在する意味がなくなってしまいます。
……ということで、まずは「天皇」について。
谷口雅春先生の「天皇」はきわめて積極的・能動的な「天皇」です。谷口雅春先生は「天皇は全知全能の神の御現われである」と語っておられます。このような天皇観はよほどの「愛国者」や「尊皇家」でも、まず語らないでしょう。
私は天皇さまを、実相を直視して全知全能の神の御現われであるというように今も考えているのです。(『国のいのち 人のいのち』p.17)
ここでいう「全知全能の神」とはキリスト教的な見方です。だが、雅春先生は次のように、仏教的に「天皇は毘盧遮那仏の顕現である」とも語っておられます。しかしそこでも、「一切の創造の本源者である」とも言っておられます。
これには充分な注意が必要だと思います。谷口雅春先生の「一切の創造の本源者」という天皇観は、神道的な「生む」という穏やかだが新しいものを作りにくい天皇観ではなく、さらに仏教的な「悟り」や「解脱」で終りかねない天皇観でもありません。
谷口雅春先生の「天皇」はきわめて積極的・能動的な「天皇」です。この天皇観は谷口雅春先生が神啓を受けてお悟りになったときの「悟り」そのまままの、つまり政治論でも宗教論でもないお悟りそのままの天皇観だと思います。
わたしは戦前書いた『無門關の日本的解釋』の本を戦後『無門關解釋』と題して出すよう出版社からすすめられて、その序文に「一切は天皇より出でて天皇に帰るなり」という事を戦前同様書いておいた。
「天皇より出でて天皇に帰る」という事は、天皇は遍一切所の毘盧遮那如来の顕現として一切の創造の本源者であらせられるということです。
ここでいう「創造」とはcreation(クリエーション)のことで、天地創造――宇宙の一切のものを創り出す本源の大生命がpersonify(パーソニファイ。人格化)して、神聖人間として現われて、そこにましますのが天皇さまであるということであります。今も、私はそういうように解釈しているのであります。 (同書p.23)
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