《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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人工妊娠中絶に対する谷口雅春先生、谷口輝子先生、谷口恵美子先生のお言葉を集めて下さった方がありましたので、転載させて頂きました。有難うございます (10183)
日時:2018年09月08日 (土) 17時00分
名前:コスモス

 http://bbs5.sekkaku.net/bbs/daityouwa/&mode=res&log=8146

 唯物論的人間観では生命の尊重は成立たない (23376)
日時:2018年09月07日 (金) 10時50分
名前:まゆみ


   生長の家創始者 谷口雅春大聖師 『白鳩』誌 昭和48年9月号 31―32P



    唯物論的人間観では生命の尊重は成立たない



人間の生命は、どうして尊重しなければならないか、 その根本はどこにあるかという問題を考えて見たいのであります。


 単に、女性の卵子と男性の精子とが結合した、 その結果、化学的に物質的成分が結合してそれが積み重なって人間の形になった。 それだけの肉の塊が人間である ――― としたならば、それを尊重するという根拠は無いということになるのである。 



 物質と物質とが化合して、アミノ酸みたいなものが出来て、そのアミノ酸が複雑に結合して細胞が出来て、その細胞が色々に組み合わされて脳髄みたいなものが出来て、人間が色々苦しんだり悩んだりしなければならないというのなら、人類から悲しみや苦しみや悩みを取り去ってやる為に脳髄細胞が働かないようにして殺して人間細胞の結合を分解させてやればよいということになるのである。



 しかしながらそれでは、道徳というものも成り立たないし、人間の生命尊重ということも成り立たない。 平和平和、戦争反対、平和運動と称するけれども、単に物質が固まって脳髄みたいなものが出来たから苦しまねばならないというのだったら、そういう肉体の機構を破壊することこそ、人間の苦しみ悩みをなくしてしまうことになるということになる。


 人間が単なる物質分子の結合なら、平和運動とか反戦運動とかいうものは却って人類の苦しみを引き伸ばしているということになるのであって、原子爆弾、水素爆弾が世界を覆って全人類が死滅してしまった方が、もうどこにも悲しみも無いということになって、却って平和を地上にもたらすところの救の手段となるのである。



 こう考えて行けば唯物論的人間観では、生命の尊重ということは無いのであります。 唯物論を唱えている共産主義的な人々が、平和運動、戦争反対などと言っているのは、之は頭が悪いためにその矛盾に気がつかないのである。 もし本当に生命を尊重するのだったら、この唯物論的人間観を捨てて人間の生命を尊重しなければならない。


 まことに人間は、神の生命が地上に顕現して或る使命を果すべく地上に出現してきたのだということを先ず承認しなければ、生命の尊重という道徳の根拠が失われてしまうのである。



           人間の地上降誕の意義について



 人間は、神の生命が天降って来て、そして神の生命の個性的顕現として、その人で無ければ出来ない特殊な個性を与えられ、使命を授かって地上に顕現しているのである。 この事実の内にこそ人間生命の尊重の根拠があるのである。 唯物論的人間観ではその根拠が失われしまう。


 指紋の同じ人間が一人も居ない、それと同じ様に、全ての人間は、神から与えられた使命が異なるのである。 だからその人間が出現して来つつあるのを途中で殺す、言い換えると堕胎する ――― 人工妊娠中絶するということは、せっかく神が個性を与えて特殊なる使命を与えられて神の生命が自己実現して来ようとしているのを中断してしまうことになる。 それは取返しのできない過ちをしたことになるのである。


 その人間の魂は、別の人間を以ては代用することの出来ない、全然違う個性と使命を持って生まれて来るのであるから、彼は絶対価値の生命である。 かけ換えのない、代用品の無い貴い生命であるのを殺して仕舞うというのは、神の計画に対する非常なる反逆であるということになるのであります。

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 生長の家創始者 谷口雅春大聖師『白鳩』誌 昭和48年9月号  95―96P    


             人工中絶された胎児の霊魂



霊魂と現実界とは別に関係が無いように普通の人には見えるのでありますけれども、霊界の影響が人間に非常な影響を与えているのを人は知らないのであります。


 胎児は殺してしまえばそれで仕舞いだと思っているかも知れないけれども、そうじゃないのである。 肉体を殺しても霊魂は死なない。 その霊魂は或る使命を持って地上に出現して、そして神の子としての使命を完うしょうと思っていたのを、途中で中断されてしまって非常に嘆き悲しんでいるのだ。


 人間の霊魂が肉体が死んで霊界に行った時にその霊魂は、霊界へ移る刹那の最後の現実界のその有様を心に記憶して霊界へ誕生するのである。


 人工中絶された胎児の霊魂は、子宮の中の羊水の中に泳いでいて殺された。 その死の瞬間、水の中に漂うていたその記憶が、霊界へ行って意識が回復した刹那思い出され、そこは 『心の世界』 であるから、その思い出した通りの水漬かりの状態にあるのが彼胎児の霊界に於ける現実である。


 突然にそういう状態を強いられ、 『救われたい!』 と彼は思うのである。 そして自分に因縁のある父親とか母親とか親類の人に、 “救われたい” という切実なる念を送って来るということになるのである。

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 生長の家白鳩会副総裁 谷口恵美子先生『小さな生命を大切に』  4P


               小さな いのち


 法律は、人間がより良き生き方をするためにあるのです。


 人道上あきらかに悪いということを許す法律があるならば、当然改正しなければなりません。 優生保護法が、未だに経済的理由による中絶を認めているということは、誰の目から見ても理解しがたいことです。


 インドの国で、飢えと病に死んでゆく多勢の人びとに祈りと愛を捧げていらえる、マザー・テレサが来日されたとき、世界の中でも豊かな日本において、日本の母たちが、いとも簡単に自分の子を中絶していることに、どんなに憤りを感じられたことでしょう。



   『日本のお母さん方、胎児を殺さないでください』

 と切々と訴えられました。

 どんな場合でも人を殺してよいなどということはありません。 あまり小さいから人間と認めなくてもよいなどと誰も決めることはできません。


 神様からいただいたいのちを守るのが母の役目であり医者のつとめです。 必要であるとかないとかで人の生死を決めることは人間に許されてはいないのです。

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 生長の家創始者 谷口雅春大聖師 『理想世界』誌 昭和48年8月号より


                  神への反逆


無限の個性を内蔵したまう神は、人間を、自己の個性的延長として他に類例のない特殊な個性を人に与えて、それぞれ異なる使命を遂行する役割を賦与して地球上に遣わされたのである。


 他に類例や類型のあるものなら、その人間的顕現が失われ代用品がる訳だけれども、類例も類型もない、かけ替えのない生命的顕現をなしているのが各人であるから、各々の人間は絶対価値ある存在として尊いのである。


 胎児の生命も、その 『かけ替えのない生命的顕現』 の途上にあるのであるから、それを人工中絶によって殺してしまうということは恐るべき 『神への反逆』 という大罪を犯すものであるのである。

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             鬼はだれか 子殺しと親の責任


             作家  曽 野 綾 子



 『鬼のような』 という形容詞で表現される嬰児殺し、子ども虐待がふえて久しくなる。


 一般に女の方が残酷だとか、享楽的な生活が子育てを邪魔だと思うようになったのだとかさまざまなことを言われるけれど、その点をもう一度考えてみる必要はないだろうか。


 教育勅語が、古い日本人の心理の一つの型を作ったとすれば、優生保護法という法律が、こういう流行の底に潜む心理を作ったようにみえる。


 もう少し正確にいえば、この法律の適用の現状が堕胎に関する恐れを人間の心から奪ったように思えるのである。

 
 ちょっと会社を休んで、歯でも抜くように中絶できるというのである。 夏休みなど、学生たちは北海道へ堕胎旅行に行くという話も聞いた。 札幌でもあちこちの絵ハガキを買い、文面をいい加減に書いておいて、友だちに頼んで行く先々で投函してもらう。 その間にゆっくり手術を受ければ親も気づかないのだという。


 自分の胎内にある時、これほど自由になるのに、生んだ後で捨てるとどうしてそれほど悪いのだろう。 “自分のもの” として自由に始末できたものなのだ。 だから、めんどうくさくなったら、ほうり出してどこが悪い、こういう理論になるだろうということは想像にかたくない。


 生命は断ってはならない。 という原則は、国家が先に立って守るべきものであろう。 母体を危険におとしいれそうだという重大な危機をのぞいて堕胎を許すことじたいが問題である。 その代わり、生まれてしまった子供を母親が育てられない場合のさまざまな受け入れ体制を国が作ることである。


 お守りから産着一式をそろえて捨てた昔の捨て子が、今となっては何とあわれに、優しく思えることか。 ひとつだけ真実さと言われていることは、生む時にさまざまな困難があっても生まれてしえば何とか育ち、そこでもまだ悔いる親はほとんどあり得ないことである。


 子供を殺している根拠は法律であり、責任の一端は国家がとるべきだと思う。


      《讀賣新聞 昭和45年10月1日付》

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        生命尊重にスジを通す 政治家  村 上  正 邦



 年間二百万とも三百万ともいわれるおびただしい人工妊娠中絶。 哀れにも現代っ子達はおびただしい中絶の網の目をくぐり抜け、ようやくこの世にでてきているのだ。 子供が両親の兄弟殺しを知ったとき、親子の断絶現象が起っても不思議ではない。


 胎児も人間であり、生命体である。 生命は尊重されなければならない。 むしろ法律がどんな内容であろうとも生命ははじめから尊重されているべきであるものなのだ。 これが大原則である。 この大原則が破られたとき、人間社会の歯車が狂いはじめた。 年間三百万人(推計)という赤ちゃんの大量虐殺をやっていて、大人達だけが幸福であろうはずがない。


 先の国会に優生保護法改正法案が上程され、中絶是非論議がマスコミをはじめとし、各界で活発に展開された。 現行優生保護法の改正に反対する人々はいう。 胎児は人間ではない。 母体の一部である。 従って中絶は殺人ではないと。 ウーマンリブと称する女性群などは 『産む産まないは女が決める。 国家は干渉するな』 などといいはじめた。 朝日新聞は 『将来は中絶は扁桃腺や盲腸の手術並になり、特別の規制があること自体が不思議なことになるかもしれない』 (昭和48.5.19付) と “堂々” と主張した。


 はたして中絶手術は扁桃腺や盲腸の手術と同じことなのか。 私はそうは思わない。 もし胎児が母体の一部で、出もの腫ものなら、その出もの、腫ものが十ヶ月前後経つとどうして五体をそろえた立派な “人間” として生まれ出てくるのだろうか。 その摩訶不思議な現象をどう説明するのだろうか。 


 いうまでもなく胎児は母体の一部ではなく、一個の生命体である。 いかなる大人といえどもかつては必ず胎児であったはずだ。 従って中絶は殺生行為であり、殺人行為であると私は思う。


     『政治にスジを通す』(日本教文社) 76P

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                   いのちを拝む


         生長の家白鳩会 初代総裁  谷 口  輝 子




 私の許へいろいろな質問の手紙が来るが、時々本末転倒したことを言って来る人がある。


 “生長の家では宇治で、堕胎した子供を祀って下さると聞いたが、私も近日中におろそうと考えているから、祀って頂く手続きを教えて下さい” というのである。


 祀ってさえ貰えば何人でも堕すつもりで居られるらしい。


 生長の家では、 “祀って上げるから心配しないで堕しなさい” と勧めているのではない。 鬼のような親に殺されて、それを恨み悲しんでいる赤ん坊たちが可哀想なので、その霊魂を慰め祀って上げ、霊界で幸せに暮らすように祈って上げるのである。


 教えにふれた親たちは、たとい胎内にいる小さい子供でも、一個の人命をもつものであるから、殺人の大罪を犯したことだと教えられ、再び同じ罪を犯さなくなるのが当然である。 実家の親が勧めたからとか、夫が堕せと命令したからだとか言って、責任を他になすり附ける母親があるが、母親さえしっかりした信仰をもっていたならば、悪に抗して、神より与えられた幼い命を護って行けるのである。


 誰の責任でもない。 胎内に子をもつ母親が、子を殺す意志が無かったなら、誰も堕したりは出来ないのである。 “親がすすめたからだ、夫がすすめたからだ” などと言ってはならない。 自分が為したのであるから。



 子供を堕しては祀って貰い、また堕しては祀って貰いしていて、それでよいと考えて、くり返しくり返し罪を犯しているのである。 そこには神の子の救いは永遠にない。

    

         『白鳩』誌   昭和40年7月号 39ー40P

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              堕胎が最大の盗罪である理由


           生長の家創始者  谷 口  雅 春 大聖師




 人間の魂は、肉体を殺しても死なないのである。 だから堕胎して胎児を殺しても霊魂は霊界で生きて居り、個性は存続している。 けれども、彼が地上に天降って出現する筈であった時と場所は二度とないのである。 同じ機会というものは再度ない。



 若し中絶して霊界へ帰った魂がもう一ぺん出直して地上に生まれ出て来る時には、もうその前回とは全然異なる環境であり、異なる時代であり、異なる場所であるから、その魂を磨くべきすべての資料が違ってくるのであって、二度と代用される環境も機会も無いのである。


 それ故、彼にとって絶対価値の魂が、二度とふたたびない時と場所と条件とに触れるべく出現して絶対価値ある使命を果そうとしているのを、それを中断してしまうのが堕胎なのであるから、これは絶対価値を奪うものであって、何億何兆円の価値あるものを奪うよりも尚一層大なる盗罪であると言わねばならないのである。


 最近、尊属殺人刑が廃止されて普通の殺人犯と平等に判決されたが、尊属は大抵、地上で長く使命を果して来た人たちが多いが、胎児は、前途に一層多くの、かけがえのない遂行すべき使命をもっているのであるから、普通の殺人よりも、もっと彼から奪う事が大なる犯罪である。


    『白鳩』誌   昭和48年9月号33P

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                   “法悦” とは何か


            生長の家創始者   谷 口  雅 春 大聖師




 『生命の實相』〈頭注版〉の第35巻102頁にですね、その7行目に、こう書いてあります。


 「生長の家ではまず内在せる神というものを 『われわれの内に宿っているところの無限の善さ』 と定義いたします。 無限の善さ、無限の愛、無限の深切さ、無限の美しさ ―― そんな尊いものが、われわれ人間の中には宿っているのであります。


 その無限の善さが少しでも余計出ればわれわれは歓びを感ずる。 喜ばすにはおれない。 そしてさらにその善さを一層余計にあらわしたい、そして遂に無限にまで到達したく希うところの、無限に対する要求というものが、わがうちに宿っているのであります」


 と書いてありまして、その次の頁の3行目の所には、


 「無限を発揮するまでは、それを憧れ求めずにはおられない。 それはなぜであるか? それは 『無限なるもの』 が自分のうちにすでに宿っているからです。 そして、その無限なるもの ―― 無限の善さ、無限の美しさが、われわれの念のレンズをとおして、意識なり、観念を指導すべく、ある標準を示した場合、これを理想といいます」


 という様なことが書いてあります。

 この “法悦” というものは何処から起って来るかといいますと、法悦の法というのは、あの 「妙法蓮華経」 の法と同じでありまして宇宙の実相であります。 実相の中から出て来るところの喜びが、これが “法悦” という意味であります。


 それで、その実相の中の無限の善さ、無限の愛、無限の深切さ、無限の美しさとか、色々数え切れない無数の徳がわれわれの内部に在る。 


 それが、少しでも前より余計に発揮された時に、そこに法悦 ―― 実相から湧き出て来る喜び ―― というものを感ずるんだということになるのであります。


 私がいつも申上げるように、人間には五つの根本的願いがあるのであります。 それは 

(1)認められたい (2)愛されたい (3)褒められたい  (4)人のお役に立ちたい  (5)自由になりたい  

 この五つの願いであります。


 この五つの願いが満足された時、人間は本当に生き甲斐を感ずるのであります。 この五つの願いが閉塞されて了ったら人間は生き甲斐が感じられないでスランプに陥る。 


 信仰も衰退して行くことになる訳です。 そこで折角誌友にしたり、聖使命会員になった人を組織に入れたらですね、これを認めてあげるということをやらなくちゃいかんのです。


 その人達を認めてあげ、褒めてあげ、愛してあげる。 又色々の相談にものってあげる。 そして、その人が生長の家に入って誌友になったら、本当に世のため人のためお役に立っているんだという喜びを自覚させるように導いてゆかなければ、折角誌友になったけれども、なっていることが何の役に立つのかというのでは、これは継続していかんということになるんです。


 大は日本国家のためになり、或は優生保護法改正の運動に参加して、毎年三百万人も殺されている胎児が救われることになるんだというような偉大な運動に自分は参加しているのだという、そういう喜びを感ぜしめることが必要であると思うんです。


 昭和43年7月28日 生長の家本部大道場に於ける御指導(速記録)

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              優生保護法と刑法の堕胎罪について


               金 澤  文 雄  法学博士
                   



 『最近では堕胎を罰する法律などないのではないか』 と思っている人が多いようだが、刑法にはちゃんと第212条から第216条まで立派な “堕胎罪” の規定があり、刑も重い。


 ところが、昭和23年に優生保護法ができ、その第13条にいわゆる “人工妊娠中絶” を許容する場合を設けた。


 当初は二人以上の医者が合意して、しかも地区別に設けられた優生保護法審査会の審査を経た上でのみ許された。


 刑法の定める “堕胎罪” の規定を優生保護法の定める特別の条件に限り、堕胎を許可する以上、このような厳密な規定があって当然だった。  ところが27年にこの点が改められて、産婦人科医一人の判断で堕胎してもよいことになった。  これを境にし、わが国の堕胎はうなぎのぼりに増加した。


 制定当時は僅か二十四万件だったのが、28年には一挙に百万台を突破、その後36年頃をピークにして次第に減少、昭和49年には届出件数は六十七万九千と、七十万を割った。 ただし、実数は届け出の二倍以上、年間ほぼ二百万、そのうち七十万は未婚女性の堕胎だと推計されている。


 この事実を見るとき、現代の社会で生命尊重ということがよく言われるが、最も生命が尊重されていないのが 『胎児』 であることがよくわかる。  実は1959年11月の国連総会で  『児童の権利に関する宣言』  が決議された。


 この宣言の前文に、 “児童は生まれる前も後も含む” という文言を置いて、 第2条に児童は法的その他の保護のもとで、健全に発育する権利があると規定して、児童の権利宣言を行った。 その中には “胎児の人権” もうたわれているのである。 この国連決議は、わが国会でも全員一致の賛成決議を得ている。 してみると、わが国会では一応 “胎児の人権” としての尊厳性というものを認めているわけだ。 


 ところが他方において、優生保護法が非常に幅広く堕胎を許しているのみならず、優生保護法の規定を乱用して、もう何も理由なしに、ただ子供が多いとか、住居がどうであるかとかいうことから堕胎するという風潮が広がっている。


 そういう現状と、国会の決議とはどうしても調和しない。 従って、倫理及び法理の双方の面から、現行優生保護法の検討は必要である。


    『生政連ニュース』  昭和50年11月号より

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          生長の家白鳩会 初代総裁  谷 口  輝 子 先生



 まことに私たちの生も死も、すべて神の御意志(みこころ)の中にあるのであって、生れることも、死ぬることも、自分勝手に為すことは許されないことである。 


 いと小さい一人の人間をも、私たちは創り出す能力はないし、一人の老人をも、死に到らしめることは許されないのである。 一羽の雀を創ることも出来ないし、それを地に堕すことも赦されないのであって、一切の生きとし生けるものの生命は、すべて神心(みこころ)によって生かされ、神心によって亡びるのである。


 
 最近、催眠薬サリドマイドを服用していた妊婦たちが、畸形児を生むのが多いので、世界中の服用妊婦たちをふるえ上らせていることが各紙に報ぜられている。


 最も被害の多い西独では六千人も畸形児が生れているそうである。 弁護士のシュルテヒン博士は、畸形児救済の両親連盟をつくりつつあるが、博士の妹は両手の短い女児を生んだし、博士夫人の生んだ赤ん坊は、両手が短く、手首が内側に曲っているし、お尻も曲っているし、左指が三本、右指が四本しかないそうである。


 サリドマイド赤ちゃんのことをアザラシ赤ちゃんと言うのは、両手が短いからであるし、「人間の繭」 と言うのは、繭のように手足がないからだそうである。 また、耳タブや耳の穴のない子も居ると言う。 西ドイツで生れた六千人のうち、半分は死亡した。


 米国のフランセス・O・ケルシー女史は、米連邦食糧薬剤局に医務官として就任したトタンに、サリドマイドの認可問題にぶつかった。 


 動物実験で無害というデーターにも関らず、動物の睡眠に薬効のないことの矛盾を発見し 「理屈に合わない」 と認可を却下した。 


 製薬業者や上司の圧迫をはねのけて認可を拒否し、米国に畸形児出産の悲劇を未然に防いだので、ケネディ大統領は官吏としての最高の勲章を授与した。 それは彼女の科学者としての良心的態度として当然のことであるが、その誠意と勇気とにふさわしい名誉である。



 女性は優しいとか、柔かいとかだけでは足りないと私は常に言っていることであるが、正義に適ったこと、愛に値することのためには、勇気をふるって戦わねば神心に生きるものとは言われないのである。



 さて、ケルシー女史の行為は正しく立派なものであったが、ここに宗教的見地から大問題にされていることが、アメリカの一夫人の行為によって起きつつあるのである。


 アメリカのアリゾナ州で、テレビのプロデューサーをしているシェリ・フィンクバン夫人はサリドマイドを愛用していたが、畸形児が生れるという評判を聞いて恐れをなし、州の裁判所へ堕胎を申請したが、法律上認められないとて却下されてしまった。


 アメリカでは許可されないのなら、妊娠中絶を認めている日本へ渡ろうとしたが時間の余裕がないので、やむを得ずスウェーデンに飛び、ストックホルムの病院へすべり込んだ。


 堕胎には理解のある国だと思って行ったが、医療審議会の審議にかけても賛否両論に分れた。 夫人は 「堕胎するのは、子供をみじめな畸形児として、一生を送らせたくないとの母親の真情以外にはありません」 と訴えつづけた。


 ついに審議会も、 「手術を行わなければ、母親の精神に異常を来す恐れがある」 として断を下した。 胎児は両親の恐れていたとおり畸形児であったそうである。



 このニュースがカトリックの総本山バチカンに入り、手術の翌日バチカン放送は、夫人の名をあげて痛烈に非難した。 道義的に言っても、宗教的に言っても、堕胎はまぎれもなく、犯罪である。


 しかも 『合法の仮面』 にかくれて行われたことは、一層遺憾であると云う意見であった。 バチカンは畸形児の堕胎にさえ痛烈な批判をしている。


 このバチカン放送に応えてスウェーデンのルーテル教会は 「われわれは、夫人の行為を是認する。 何となれば、それは愛の精神によって行われたからである」 と反論している。


 もちろん、催眠薬の発売中止は言うまでもない。 日本でも害毒を知らないので、サリドマイド系の催眠薬を服用していた妊婦が、畸形児を生んだのがあるそうであるが、まことに気の毒なことに思う。


 
 私たち生長の家白鳩会が、堕胎防止運動をはじめてから数年になるが、近来はこの運動は政府も認め、一般社会でも多くの人が知るようになったので、私たちは法律の改正の日を楽しみに待っている。 最近の本部の白鳩会で、わざわざ質問のために近県から上京して来られた中年の一婦人が、


 「私は四十六歳で目下妊娠中でございますが、この歳になって子供を生んだら将来困ることになるだろうとて、周囲の人たちが口を揃えて中絶をすすめるが、一番身近な夫が中絶を希望するのが悲しい。 夫に対して、どういう風に祈ったらよいか」  と言われるのであった。


 その婦人は  「こんなに幸福感に満たされた善い心境の時に妊娠したのだから、きっと善い子が生れると思うと楽しみに思う ・・・・・ 」  と言って居られた。


 そのような幸福な母親の子供は、何人でも生れたらよい。 神の与え給うた子供であるから、神が必ず老後といえども困らせないで、立派に子供を養いたまい、成長させて下さるに相違ないのである。 


 どんな子供でも、たとい畸形児でも、神が創りたまい、神が与え給うた “いのち” である。


 神は絶対に、生命(いのち)を殺すことを喜び給わないのであり、殺すことを赦しはなさらないのである。 神はすべてのものを生かし給うことのみを喜ばれるのである。 如何なる理由があろうとも神は殺すことを欲したまわないのである。

                              

 白鳩会の堕胎防止運動は、完全なる胎児はもとよりのこと、畸形児の堕胎をも防止しなければならない。 


 みこころによって生れて来る子供たちは、素直にそれを受けて、その子供を育てることに最善をつくさねばならない。


 神がもし、その畸形の子供を、この世の修行を終えたからとて、お引取りになろうとされたなら、素直に御手にお返ししたらよい。


 西ドイツの六千人の畸形児の半数は死亡したということは、神が適当な時にお引取りになったのであろう。


 親たちはひたすらに、みずからの生活を反省し、サリドマイドを呑まねばならなくなった原因を解消せねばならない。 そして、ふたたび催眠薬を服用しないですむような心境にならねばならない。



 白鳩会の会員たちは、堕胎防止運動だけが仕事でないことは勿論である。 


 畸形児を妊娠する以前の多くの婦人たちが、何故に催眠薬を呑まねばならなくなったのであろうかということを考え、催眠薬を必要としない心境に導くべく、それらの婦人たちに愛の手を差しのべて上げて欲しい。 


 それが先決問題である。 催眠薬をのまなければ眠れないような人たちは、必ず何か心に悩みがあるものである。 


 平常な心の状態、他を愛し、自分を愛し、他の幸福を祈り、自分の幸福を感謝して、やわらいだ平安な心境であったなら、おのずからすやすやと静かな眠りにつくことが出来るものである。 誰からも祝福され、誰をも祝福する人は、その日その日に安らぎを得ることが出来るものである。


 白鳩たちの使命の一つは、人々に平安な眠りをもたらすことである。 


 西ドイツだけでも六千人もの母親たちが、畸形児を生んで嘆き悲しんでいるのであるから、世界中ではどんなに多くの母親たちが苦悩にあえいでいるかわからない。 


 不眠の母親たちが、サリドマイド系の催眠薬以外の催眠薬をのんで、たとい畸形児を生むことをまぬがれたとしても、心の悩みを催眠薬によって一時的に押えたり、ごまかしたりしただけであるから、永遠の平安は得られないし、確乎とした幸福の自覚も得られないのである。


 催眠薬によって不自然な眠りにつくという生活が毎日つづけられることによって、その服用者たちの肉体は、次第に除々に害われ行き、悩みはそれに正比例して加わるであろう。 


 人間は誰でも、その人に応じて六、七時間眠る人や、三時間ほとを眠る人や、徹夜しても平気な人などもあるが、それは必要に応じて、おのずから眠りたくなり、体を横たえたらひとりでに夢の国へ行ってしまうのが自然の姿であるから、自然に反する行為をしていたなら、結果はよくないのが当然である。


 アメリカは、フィンクバン夫人など少数の婦人たちが畸形児を妊娠したであろうけれど、ケルシー女史の誠意と勇気とによって、大多数の不眠症の妊婦たちは、畸形児を生むことから救われたのである。


 私は世界中の不眠症の人たちが、この世の一切の人と物とに感謝をもち喜びをもって、心の平安を得られ、安らかな眠りを得られることを祈りたい。


 そしてまた、すでに畸形児を抱いて、悲嘆に打ちひしがれている母親たちが、自分の不幸な精神のゆえに、神に心を向けないで、毒薬に頼ったがために、愛する我が子を畸形にしてしまったことを懺悔し、心の転換をこころざし、ひたすらに神との波長を合わせ、


 『み心のままになさしめ給え。 愛する哀れな我が子を、最も幸福な在り方にあらしめたまえ。 我が子の生も死も、御手にゆだねます』

 と祈られたがよい。 神様は各自の心境にふさわしく、その子を生かしたまうたり、引き取りたまうたりされるであろう。


 ヘルマン・ヘッセは、あらゆる辱めや苦悩も、神から与えらたものならば喜んで受けると言い、亡ぼされることも、生かされることも、すべて神のみ手によって為したまえと祈っているが、私たちの信ずる神は、辱めや苦悩を与えはなさらない神である。 


 愛の神は、私たち神の子には、善きものだけを与えたまうのであるから、私たちは安んじて、一切を神にゆだね、みこころを素直に受けて生きてゆくのが幸せの道である。


 『白鳩』誌   昭和37年12月号 18ー24P 

ーーーーーー

 現教団の白鳩会が、谷口雅春先生、谷口輝子先生の御心に沿って、「いのちを生かす運動。小さい命を本気で護る運動」を起こされたならば、神様はどんなにお喜びになるであろうと思います。

 生長の家白鳩会は、何を為すために生まれた団体であるかを、谷口輝子先生はしっかりと述べておられます。今一度、白鳩会の運動のあり方を、真剣に考えて頂きたいと思います。合掌





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