《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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勿論一番の被害者は我が国一億の日本国民でありました。 (9984)
日時:2018年08月16日 (木) 08時15分
名前:中仙堂

元米兵捕虜が教えてくれた、謝罪と許しの意味
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180815-00010006-newsweek-int

6月初め、私は祖父が残した物語といま一度向き合うため、赴任先のニューヨークから米南部のニューオーリンズ空港に降り立った。ジャズの街ニューオーリンズは既に夏真っ盛りで、空港を出るとむわっという熱気が身を包む。車で30分も走れば音楽と酒にまみれた繁華街フレンチクオーターに到着するが、私を乗せたタクシーが向かう先は陽気な観光地ではない。
(略)

捕虜収容所所長だった祖父
そしてあらためて私のほうに向き直ると、突然こう言った。「さて、今度は私が君に聞く番だ。君はアメリカにいて、居心地がいいか。この大会にいて、友好的なものを感じるか」

意表を突かれた思いだった。唐突な展開に付いていけず何度か質問の意味をただしたが、「さあ、正直に言ってごらん」と言われ、ますます言葉に詰まった。つらい経験を振り返り、心の内をさらけ出してくれたスタークに表面的な答えを返せば、彼の誠意を踏みにじることになる。

私は震える声で、こう切り出した。「私の祖父は、捕虜収容所の所長でした」。さっきまで取材相手だった人が、「オーケー」と続きを促す。今度は私が話す番だった。

<祖父とアメリカの間で>

祖父、稲木誠は44年4月から終戦まで、岩手県釜石市にあった収容所の所長として日本製鐵釜石製鉄所で働く連合軍捕虜約400人を管理していた。捕虜の国籍はオランダ、アメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドで、その多くは若者だった。祖父も当時28歳だった。

終戦が迫った45年7月と8月、釜石市は太平洋から連合軍による艦砲射撃を浴び、釜石収容所でも捕虜32人が犠牲になった。祖父は戦後、艦砲射撃の際の安全管理責任や捕虜への不法待遇などを問われて「B級戦犯」となり、A級戦犯らと共に巣鴨プリズンに5年半拘禁された。祖父は広島文理科大学で英語や哲学を学んだ後に学徒兵として徴集されたため、プリズンでは英字誌のタイムやニューズウィークを読んでいた。アメリカの質の高いジャーナリズムに触れて日本の敗北を思い知ったという祖父は、出所後に時事通信社の記者になり、晩年に自分の体験をいくつかの手記として発表した。

祖父は「戦犯」だった。私がそれを知ったのは、高校2年のある夏の日だ。

祖父は私が7歳のときに他界していたため、戦争体験については残された手記などを通して初めて知ることができた。手記には祖父が捕虜の管理に尽力したことが事細かに記され、戦犯とされたことに納得できない様子がにじみ出ていた。著書の1つにはこうつづられている。「戦争中の捕虜の苦痛を思い、自分の収容所から多数の死傷者が出たことを悲しんだ。その遺族の人たちの嘆き、怒りを想像すると、石をもって打たれてもいいと思った。だが、犯罪を犯したとは、どうしても考えられなかった」

しかし戦後30年が過ぎた頃、祖父の心を救うニュースが舞い込んでくる。釜石収容所にいたオランダ人の元捕虜ヨハン・フレデリック・ファン・デル・フックから釜石市長宛てに手紙が届き、「収容所での取り扱いは良く、重労働を強いられることはありませんでした」と書かれていたのだ。これをきっかけに祖父とフックは文通を始め、収容所での生活を振り返ったり、互いの家族の話や日蘭関係の歴史について語り合ったりと、敵味方を超えた友情を育んでいった。
(略)
苦しみの記憶への終止符
1つの歴史を日米双方の視点から追い掛けてきたことをかいつまんで話し、アメリカへの屈折した思いまで吐露していた私は、気付くとそんな問いを口にしていた。するとスタークは、ほとんど間を置かずにこう応じた。「その言葉はとても、心に響くよ」。そして、瞳を潤ませた。

戦争をまったく知らない世代の私の言葉が、祖父と何の面識もないスタークの心に響いている。心が通じたという大きなうれしさはあったが、自分の言葉がなぜ意味を成すのかが分からなかった。だがその後に続くスタークの言葉で、私は彼の心の動きを身をもって知ることになる。

自分の話を切り上げ、取材する側に戻ろうとする私を、スタークは「いや、聞きなさい」と制した。「心の内を話してくれて、ありがとう。私も同じような経験を何度もしてきたよ。私はあなたのおじいさんを知らないし、彼が追及されたようなことをやったのかどうかは分からない」。そして彼は目に涙をためながら、私がまったく想定していなかった言葉、だが心のどこかでずっと聞きたかった言葉を発した。

「もしやっていたとしても私は彼を許すし、もしやっていなかったとしたら、間違いが起きてしまったことを謝りたい」。そこで彼は1度言葉を止め、こう続けた。「だが私が最も申し訳なく思うのは、君がこんなに傷ついていることだ。戦争は地獄だ。単なる地獄、それ以外の何物でもない」

大変な長文で申し訳ありませんが、
ここで思う事は確かに当時日米の戦争の現場で錯綜する敵味方の「眞」「偽」が問われ、その蟠りも一部
解けるかも知れない。
しかし、元を正せばアメリカはしなくても良い戦争を我が国に仕掛け、それをカムフラージュして国内外を
裏切った。

不戦条約(ふせんじょうやく、戦争抛棄ニ関スル条約)は、第一次世界大戦後に締結された多国間条約で、国際紛争を解決する手段として、締約国相互での戦争を放棄し、紛争は平和的手段により解決することを規定した条約。パリ不戦条約とも。
それで、アメリカ国民も戦争等しない。と高をくくっていた。
処が
ハル・ノート(Hull note)は、太平洋戦争開戦直前の日米交渉において、1941年(昭和16年)11月26日(日本時間11月27日[1][注釈 1])にアメリカ側から日本側に提示された交渉文書である。交渉のアメリカ側の当事者であったコーデル・ハル国務長官の名前からこのように呼ばれている。

アメリカ合衆国大統領のフランクリン・ルーズベルトが、戦争を望んで、アメリカ国民の安らぎ≠ぶち壊したと云う事。
勿論一番の被害者は我が国一億の日本国民でありました。
なんとも罪深い大統領では無いだろうか。

反逆であります。  (9985)
日時:2018年08月16日 (木) 08時31分
名前:中仙堂

勿論一番の被害者は我が国一億の日本国民でありました。
なんとも罪深い大統領では無いだろうか。

しかし、では本当に米国大統領一人に責任が有るので有ろうか。
尊師のみ教えを拝するに

長い人類の歴史に、東洋文明、西洋文明の確執があり、それが、長い間侵略の歴史、
特に西洋列強による、植民地政策、人種差別と成って現れ、肉体的に秀でたものが、そうで無い物の
生存を脅かす、搾取する、生命を奪う。

戦争と云うものは、人類の大きく深い宿業の崩壊する大きな現象の現われだと仰って居たと思います。
つまり、キリスト教で云う処の原罪$l類の祖先が負う処のアダムとイヴの造った原罪、
仏教でいう罪業深き凡夫の重い業、罪を何百年の長きに渡って受け継いだものであります。

では、それをどの様に克服して人類は救済されるのでしょうか。

それは環境問題≠竍反日運動∞赤い思想≠ナ報われる筈も無く、

大聖師 谷口雅春先生に天降った、天来の思想

人間は神の子である°~われざる負えない
人間は神の分身分靈≠ナあり、愛し、愛されざる負えない

この眞の光明思想以外には無いと云う事でしょう。

この人類全体を救済するべき大運動を止め、
後退させたのが、現教団体制であります。

人類に対する大いなる反逆であります。


大聖師雅春先生のお声を拝聴できます。↘



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