《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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深く心打たれたお話  @真南に向ってキリリと冷えた祖国の水を硫黄島で亡くなられた英霊に捧げる人々が万を超えた時に、遂に政府が動いた. A東北の大震災の時に、福島の原発の現場で命懸けで働く名もなき人々と、南三陸町の瓦礫の山に素手で立ち向かう自衛官の深い想い (9953)
日時:2018年08月11日 (土) 02時12分
名前:コスモス

 合掌 有難うございます。
 
 大変感動しましたので、ご紹介させて頂きました。

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https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=1075091502640823&id=100004199499150

上村義郎  (お話されているのは青山繁晴氏です)

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青山繁晴著『ぼくらの死生観 − 英霊の渇く島に問う』の紹介2回目です。


 第7部「ニッポンの変化 硫黄島クルーズ連続講演 第2回」から、「命のドラム缶」の項を、少々長くなりますが引用します。


 この写真を見て、ぼくにはさらなる小さな決心が生まれました。

 「お前はただ硫黄島に行っただけではなくて、生き残りの方に会いに行け」ということを、天がお示しになっていると思いました。

 ぼくは記者時代の人脈も使って、生き残りの方を探しました。
 そうしますと、東京都武蔵野市吉祥寺に金井啓さんという、ひとりのご老人がお住まいになっていて、その方がわずかな生き残りのおひとりだということがわかりました。


 それで連絡を取って、吉祥寺の金井さんのおうちに伺いました。
 そして、ぼくは金井さんと3時間にわたってお話をしました。

 今日はその3時間の話をわずか10分でしないといけませんが、一番大事なことだけ申します。

 実は金井啓さんはとても穏やかな方で、3時間の間、大きな声を上げられることはなかった。


 金井さんは硫黄島協会という団体を、自らのお金を出して、自ら苦労されてつくられています。

 硫黄島の戦友の遺骨について、政府は何もしてくれないから、自分たちの手で遺骨を取り返すために硫黄島協会を立ち上げられ、そこに私財をなげうたれ、事務局長をなさっている方だったのです。


 みなさん、この金井さんのことは『ぼくらの祖国』(扶桑社)という本にも書きました。書きましたが、今日は時間はなくとも、いちばん詳しくお話ししたいと思います。



 金井さんと話しているとあっという問に時間が来てしまい、3時間も座っていますから、ご家族にもご迷惑がかかっているので、そろそろぼくはお暇しないといけないと思いました。


 そしてぼくのほうからこう金井さんに申しました。

 「金井さん、本当は今日はぼくは叱られに来たんです。60年以上も忘れておいて、いまさら何を訊きに来たんだよ、お前はと、叱られに来だのに、金井さんはお叱りにならない。ずっと我慢をしておられる」


 ……「だから我慢をなさる金井さんの代わりに、あえてぼくから申しましょう。ぼくも含めて、ぼくのような外交安全保障の専門家でさえも、硫黄鳥のことは忘れ果て、どこの大学でも教えない。

 
 どこの報道番組にも出てこない。しかしアメリカでは昨日のことのように記憶していて、だから毎年3月、日米の憎み合った兵士が自ら硫黄島に集うて、手をとりあって合同慰霊祭をやっている」


 ……「そのときにやってくるアメリカ軍の元兵士は、ご自分だけではなくて、子、孫、ひ孫に至るまで全部アメリカ国民の支え、すべての費用を税金から出してもらい、英雄として島に戻っている。


 ところが金井さん、記録を見ますと、あなた様は毎回この3月の合同慰霊祭に参加されているけれど、すべて私費ですね。硫黄鳥協会も全部あなたの私財を投じましたね。この違いはいったいなんてすか?」


 ……「わたしたち敗戦後の日本人は、アメリカと違う教育を受けています。すなわち、わたしたちのために戦った方々は悪者だったと教えられています。


 普通の日本国民なのに、悪者の日本軍だったということを、わたしたち日本国民が教わっています。

 だから悪者の応援なんかしなくていい、滑走路の下に閉じ込めたままでいい。暑い島に取り残しても構わないということになっています。それで合同慰霊祭に対する姿勢が日米でこんなに違ってしまっているんじゃないですか」


 そうしたら、本当に小柄な穏やかなご老人でいらっしゃった金井さん … つい最近残念ながら亡くなってしまいました … が


 その時だけ大きな声を出されて、のどを振り絞って、「その通り!どこが悪者なんだ!お前らのために戦ったんだっ!」と言われました。


 ぼくはもう時間も来ているから、お暇しようと思って、クルマに乗りました。


 そのとき、穏やかだった金井さんが急にぼくの腕をうしろから掴まれたのです。すごい力です。こんな小柄なご老人のどこにこんな力があるのかと思うくらいギュッと掴まれて、


 「青山さん、あなた、一日自由に島を回ったんだってね。硫黄島を全部自由に見たんだって?」と急におっしゃったので、


 「はい、金井さん、申し訳ございません。みなさんのような方々が回れないのに、ぼくは国民のひとりとして、見せていただきました」と言いましたら、


 「では、ドラム缶、ありましたか?」と訊かれたのです。「地下壕という地下壕にドラム缶があったはずだ。ドラム缶、ありましたか?」と訊かれたのです。


 ぼくはびっくりしました。

 その通り、行ったすべての地下壕にドラム缶が立っていて、下は溶けて穴が開いていました。すべて真っ直ぐ立っていました …


 おそらく自衛官が真っ直ぐにしてくれたのだとぼくは思います。自然の状態であんなに真っ直ぐなわけはありません。


 硫黄島は今朝も船内放送で申しました通り、硫黄の噴き出る暑い島で、小川の1本もありません。水のないところです。そこにたまにスコールが降ります。


 「スコールをあのドラム缶に溜めて、その水を飲んで戦われたんですか?」と訊いたら、


 金井さんが「その通り。あのドラム缶はな、あなたが言った通り、スコールを溜めたんだ。その水はあっという間にこの髪の毛」 … 金井さんはそうおっしゃって髪の毛に触られた … 「この髪の毛、そして人間の皮膚、肉が、全部混じるんだ。


 周りでドンドン戦友が吹き飛ばされるから、ドンドンドンドンそのドラム缶の水に髪や皮膚や肉が混じるんだよ。しかしそれを飲むとね、甘露みたいにおいしかった、青山さん。あの水のお陰で、われわれは最後の最後まで戦うことができたんだ」


 ……「ところが目の前ではらわたが出ている戦友に、末期の水、最後の水だと思って、そこから水を汲んで戦友の唇に浸してやると、どいつもこいつも唇が火傷して、プクーッと腫れ上がる。


 俺たちは飲んでいるときは気が付かなかったけれども、本当は喉もただれている。壕の中は気温70℃だから、熱湯なんだ。


 甘い露みたいだと思って飲んでいたのに、本当は熱湯なんだ。だから、死んでいく戦友の唇に浸してやると、みんな大火傷をして、唇が腫れるんだ。だからわたしは生き延びて帰ってきて」。そこでいったん金井さんの言葉が途切れました。


 金井さんがどうやって生き延びたか。

 金井さんは総攻撃が終わったあとも地下壕の中で年若い兵も含めて、一緒に戦っていました。


 そしてアメリカ軍の攻撃が続くなかで、地下壕の天井に穴が開いて生き延びたのです。


 それはどうしてかというと、金井さんの部下のまだ十代だった兵士がアメリカ軍の攻撃ではらわたが出た。


 栗林中将は「自決をしてはならぬ」とおっしゃっていて、総攻撃に出ていかれたから、その誓いを守って「自決だけはするな」とみんなで言っていたけれど、


 その少年兵がはらわたを触りながら、真っ暗な中で苦しんで苦しんで「小隊長殿、自決させてください!」と言うから、金井さんは思わず認めました。


 そうしたらその少年兵が手りゅう弾を噛み切って、その爆発で上に穴が開いた。


 そこから光が差して、そしてもう本当は硫黄島の戦闘は終わっていて、アメリカの兵士が中を覗き込んできて、金井さんたちが見つかって、生き残った。


 そうやって、生き残って戻られた金井さんは、こうおっしゃいました。


「わたしはなあ、青山さん、あの唇の火傷した戦友の顔だけを思い出して、毎日毎日一杯の水をキリリと冷やしてね、真南に向かって捧げて祈ってきたんですよ。それだけの60年でございました」


 みなさん、このにっぽん丸で航海してきまして、真南に向かって硫黄島に着いたことをご記憶ですね。


 東京・吉祥寺から真南に向かって、あるいは日本のすべてのところから真南に向かって水を捧げれば、あの硫黄島に取り残された方々の喉に届くのです。



 金井さんはだからどうしろということはひと言もおっしゃられませんでした。そしてぼくも、だからどうします、金井さんにそれを聞いたから、どうしますということは何も言わずに、クルマに乗り込みました。


 そしてクルマの後ろの窓から金井さんの様子を見ていました。

 ぼくはたまたま目がとてもいいので、金井さんがぼくの小指くらいの大きさになったときの金井さんの顔まで、よく見えました。


 金井さんのほうからはもうぼくは見えない。だから金井さんの顔に、ああ青山さんはもう見ていないという表情が浮かびました。


 そのときになって、金井さんはキリリと帝国海軍の敬礼をなさった。


 それまで「海軍は」とか「帝国は」なんてことは、ひと言もおっしゃらない謙虚なご老人でいらっしゃったのに、ぼくが見ていないとわかったら、そのときに初めて帝国海軍の正式な敬礼をキリリとなさいました。


 「ああ、本当に美しい日本国民、誇りある謙虚な日本国民がここにいらっしゃる」と思い、自分がなにをしないといけないかということを、わたしなりに悟りました。


 そのあと仕事ではないのに、こうやってみなさまに一杯の冷たい水のお話をするようになりました。


 そうしたら、とても若い中学生からご高齢の方まで、一杯の水に氷を入れてキリリと冷やして、南に向かって祈ってくださる方が万を超えているようになりました。



 そして、そのような方々の声もまた現在の安倍総理に届いて、滑走路を引き剥がしてでもご遺骨を全部取り返すという、安倍内閣の決定に実は至りました。



 その背景にはこの一杯の水の運動が、運動ならざる運動、ぼくも含めて誰も大きな声で呼びかけないけれども、静かに広まったこの運動が実はあるのです。


 もうちょうど時問を過ぎてしまいましたので、これで第2回講演会は終わりますが、明日の第3回講演会は、では一杯の水を捧げることに加えて、これからわたしたちが何をすべきなのか、


 遺骨を取り返しただけでそれで終わるのかということを、「海から祖国は甦る」というタイトルを思い出していただいて、改めて少し範囲も拡げてお話をしたいと思います。


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 このお話の中で深く心を打たれ、又注目すべきは、

 【硫黄島の戦友の遺骨について、政府は何もしてくれないから、自分たちの手で遺骨を取り返すために硫黄島協会を立ち上げられ、そこに私財をなげうたれ、事務局長をなさっている】金井啓さんが、

 「あの唇の火傷した戦友の顔だけを思い出して、毎日毎日一杯の水をキリリと冷やしてね、真南に向かって捧げて祈ってきたんですよ。それだけの60年でございました」と謙虚に言われる金井さんの真心が、

 その後同じく毎朝キリリと冷えた祖国の水を、真南に向けて祈りを捧げられる人達が、万を超えるようになった、ということ。

 その人々の祈りが、

 「現在の安倍総理に届いて、滑走路を引き剥がしてでもご遺骨を全部取り返すという、安倍内閣の決定に実は至りました。

 その背景にはこの一杯の水の運動が、運動ならざる運動、ぼくも含めて誰も大きな声で呼びかけないけれども、静かに広まったこの運動が実はあるのです。」


 ということでした。私は何も知らずにいたのですが、人々の真心の祈りが、遂に国を動かすに至ったということに深く感動しました。有難うございます。再拝



東日本大震災の現場から (9973)
日時:2018年08月13日 (月) 23時48分
名前:コスモス

 今回は東日本大震災です。福島の原発の現場で、命懸けで働いている皆さんのこと、さらに宮城県南三陸町で、避難を呼びかけて亡くなられた方と、そこで働く自衛官の皆さんの深い想い。マスコミが報じない、知らない事ばかりの連続で、深く心揺さぶられました。 

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https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=1078462538970386&id=100004199499150

 上村義郎氏の紹介


 青山繁晴著『ぼくらの死生観 − 英霊の渇く島に問う』紹介の第3回目です。


 第8部「腕のなかで少女に戻る 硫黄島クルーズ連続講演 第3回」から、「祖国は必ず甦る」の項を、少々長くなりますが引用します。今回は、東日本大震災の場面です。


 西暦2011年4月22日、福島原子力災害が始まってまだ1か月余りのとき、ぼくは外部の者としては初めて福島第一原子力発電所に入り、作業員に会いました。


 亡き吉田昌郎所長が、ぼくに入構許可を出してくださって、放射線量が高かった福島第一原発に入りました。



 そのとき、本当はぼくが何に感激したのか。私心を捨てて戦っている、真のリーダーだった吉田所長に感激しただけではありません。


 もっと感激したのは、本当はぼくの会った19歳から67歳までの名もなき作業員の方々です。誰にも褒められずに、いまも働いてらっしゃいます。


 そして、67歳のある作業員が若い作業員を指差して、「青山さん、あいつを見てくれよ。あいつは暴力団の手配でやってきたチンピラみたいな奴なんだ。


 ここ(福島第一原発)で働いてるうちに、あいつ、顔つきが変わってすごく良くなったんだよ」と言われました。


 だからぼくは彼のところへ走って行って、「あなたは暴力団の手配で来たんですか」と言ったら、彼は「いや、本当はあのじじいが知らねえだけです。俺が暴力団員です。俺は本当は手配師です。組に言われて、あいつも、あの辺のじじいも、みんな俺が手配したんです。でも俺はここへ来て人生が変わったんだよ」と言ったんです。



 そして「高校中退してグレてグレて、いまじやヤクザもんですよ。ところが、監視をやりにここに来たら、自分のために働いてるやつがいねえんすよ。


 俺が割り当てた日当のことなんか誰も考えてない。福島とチェルノブイリは違う。『放射能で死ぬ人間だけは出さない』と言って、どいつもこいつも危ない目に遭いながら、クソ頑張っている。


 だから俺の人生、変わったんすよ」と言って、わっと泣いたんです。
 ぼくも彼と大泣さして、そしてぼくは東京へ帰る気がしなくなって、秘書に連絡をして北上したのです。



 大混乱の仙台を抜けて、2011年4月23日の朝に着いたのは、宮城県南三陸町の赤い鉄骨、防災庁舎跡の前です。そこの2階に遠藤未希さんというわずか24歳の、結婚式を半年後に控えた女性と、その上司だった三浦毅さん、52歳のただの役場のおっちゃんとふたりで頑張って、


 「もっと高いところ、もっと遠くへ逃げてください」と放送を続けて、たくさんの町民が救われました。遠藤未希さんも三浦毅さんも、そのために逃げ遅れて津波に殺された。



 その現場に行ったら、自い花が手向けてあって、ぼくはびっくりしたのです。当時はがれきだらけで、花なんかどこにもない。


 「いったいどうやって花を持ってきたのか」と思って、周囲を同っていたら、自衛官の諸君ががれきを、神戸の大震災のときと同じように丁寧に、はがしている。


 その手を見たら、ぼくが会っただけで3人がざっくり切っているのです。包帯も真っ赤です。機材は使わない。それどころか手袋もしない。素手ではがしているからです。



 ぼくは連隊長のとこへ走っていって、「連隊長、どうして機材を使わせないのか。手袋ぐらいさせてください」と言いました。なぜなら、当時のがれきはガラスの破片だけでなくて、包丁やナイフがそのままむき出しになっていたのです。



 連隊長がなんと答えたかと言うと、「青山さん、命令しても命令しても、みな素手になるんです」ということです。みなさん、どうしてかわかりますか?



 ぼくもその現場を訪ねてわかりました。あの当時のがれきは、服が絡まっていたのです、がれきというがれきに。いまぼくの着ているような服が。



 女性の花柄のワンピース、男性のスーツも絡まっていました。タンスが流されたからじゃないのです。人問が津波で流されていくうちに、裸にされるのです。


 自衛官の諸君はあそこに入ってもう1か月経っていました。がれきの下の人はみんな亡くなっています。誰も生きてないのに、裸にされているということがわかっていて、ちょっとでもきれいな体のまま、家族のところへ戻してあげたいから、自分の手がざっくり切れても素手になって、はがしているのです。



 仕事柄世界の軍人と会い、演習にも参加してきましたが、こんな軍人は日本にしかいません。その自衛官が硫黄島で英霊たちを踏みつけにしている。彼ら自身がそのことにどんなに苦しんでいるか……。



 その自衛官の諸君にぼくは感激しながら6回、周囲を回ってから防災庁舎に戻ったけれど、遂にお花をどうやって持ってきたかがわからないまま、日が落ちてきました。


 そろそろこの地を発たねばならない。当時のがれきは夕方になったらなぜかわからないけれど、地獄の炎のような赤い炎が上かってくる。その炎の見えるなかで呆然としていたら、初老の被災者の方が白い花と黄色い花を持ってこられたのです。



 ぼくは思わず、硫黄島の生き残りの金井啓さんのように、今度はぼくがその方の腕をつかんで、「被災者の方ですよね。この花、どこから持って来られましたか?」と訊いたら、


 その赤い炎の上がっているなかでぼくの顔を見て、「あなた、青山さんでしよ。青山さん、あそこを見てくださいよ」と近くの小高い山を指差された。そこの上だけ、奇跡のように花が残っているのです。そこに手分けして這うように登っている。だからその方は胸とズボンか黒くなってる。



 「遠藤未希さんと三浦毅さんのお陰で命が救われたからですね」とぼくが余計なことを言ったら、その初老の被災者の方が何とおっしゃったかと言うと、


 「青山さん、それもありますよ。ありますが、このがれき見てください。自分たちが苦労して築いてきたものが全部叩き壊された。


 これからどうやって生きたらいいのか。未希と毅が教えてくれているのは、それだよ。日本人はいざとなったら、自分のことよりも人のこと、みんなのために命までかけるんだよ。そのことを残った人生で忘れないようにと思って、みんなで話し合って花を手向けてるんだ」とおっしゃった。

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 「日本人はいざとなったら、自分のことよりも人のこと、みんなのために命までかけるんだよ。そのことを残った人生で忘れないようにと思って、みんなで話し合って花を手向けてるんだ」


 自衛官の皆さんも自分の手をガラスや刃物でざっくりと切りながらも、瓦礫の下に眠る人々を綺麗な体で遺族の許へ帰してあげたいために、生命を懸けておられる。


 言葉で言うことは簡単ですが、本当に生命を懸けることは出来る事ではありません。ただただ首(こうべ)を垂れるだけです。本当に有難うございます。合掌




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