《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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盂蘭盆を前にして、先祖供養・霊牌供養の大切さを思う (9932)
日時:2018年08月08日 (水) 16時54分
名前:破邪顕正


愛煙家の方には耳の痛い話になるかもしれませんが、受動喫煙ということが、最近、問題視されています。

自分は吸わなくても、周りが吸っていれば、吸っているのと同じような害がある…。

同様に、自分は、いくら「讃歌′o本は読まない」と言っても、その道場で読まれていれば、受動喫煙ならぬ受動拝読≠ノなるのではないのか。

その道場を覆っている雰囲気こそが大事なのではないのか、そう思うのです。

それというのも『生命の實相』第37巻、五月十二日の言葉にかくあるからです。

《病気の治るまでに、病気の雰囲気を去ることが必要である。

雰囲気が病気を造り、雰囲気が病気を癒す。

幸運の来るまでに幸運の雰囲気を作ることが必要である。

部屋を浄め、窓を開き、ガラスを拭き、門前を浄め、よきお客様が来るような気持でせっせと働いておれば、幸運はたずねて来るのである。

不運な人にかぎって、ルンペンしか泊まってくれないような見苦しい雰囲気をその身辺に作っている。

「床を取り上げて起きよ、しかして、汝の周囲を浄めよ。」》

やはり、救いは、清まったところに生まれるということでありましょう。

毎日毎日の早朝行事や毎月毎月の先祖供養祭。

こういうことをきちんとやることの大切さを今さらの如く痛感いたします。

その浄める働き、それこそ、まさしく「住吉大神」のお働きそのものに他なりません。

その浄めの働きが、また同時に日本という国をもお護りしていく。

 橿原の とほつみおやの 宮柱(みやばしら)
  たてそめしより 国はうごかず

明治天皇さまの御製であります。

日本人は、神様を一柱、二柱と数えてきました。

霊牌も「一柱、二柱」と数えます。

私たちの人生を支える柱となり、それがそのまま日本の国のいのち柱≠ニなるというのが、「谷口雅春先生を学ぶ会」の先祖供養、霊牌供養の素晴らしさなのだと私は思っております。

尊師から、このようなお言葉をいただいているからです。

《生長の家は何のためにあるかと言うと、生長の家は日本を支える柱であるということである。

日本を支えるいのち柱≠ナあるということは、世界の平和を支えるいのち柱≠ナあるという根本使命をもって出現した、ということである。

諸氏はこのことを自覚して頂かなければならないのであります。》

こういう鎮護国家の御教えに触れることができたのも、私たちのご祖先が愛国者であったればこそです。

そのことは『人生を支配する先祖供養』にはっきりと記されています。

《私達日本人の祖先は天皇中心の愛国者であったので、その様な祖先の霊魂の冥福と守護を祈願する時、皇霊を遙拝し時間の許す限り大日本神国観≠フ神想観を厳修されるがよい。》

霊牌の一柱、一柱が、わが家を支え、それと同時に、わが祖国日本をも支えるいのち柱≠ニなる…。

それを深く深く信じて、真心込めて霊牌供養をさせていただく…。

そこが、今の教団とは根本的に違うところであります。

「谷口雅春先生を学ぶ会」の先祖供養、霊牌供養の素晴らしさを、大いに伝えていきたいと思っております。


谷口輝子先生のご文章から、お盆の意味を学ぶ (9937)
日時:2018年08月09日 (木) 09時07分
名前:破邪顕正


間もなく、お盆です。

お盆の由来を書いておきます。

お釈迦様の十大弟子の一人に目連尊者という方がいらっしゃいました。

目連尊者は修行を重ねられる中で神通力を得られたというお方です。

ある夏の暑い日のことです。

木陰で休んでいる目連尊者の前を楽しそうに話しながら母子が通っていきました。

その姿に、何年も前に亡くなってしまった母親を思い出した目連尊者は、神通力の一つ天眼を利して会いに行くことにしました。

「あのやさしかったお母さん、今はいずこに」

ここから先は、谷口輝子先生のご文章でご紹介します。

《…目蓮さまが天眼力で幽界を御覧になったところ、亡くなったお母様が地獄で「倒懸(とうけん)」の苦と言って、さかさまに吊り下げられて苦しんで居られる姿が見えたのですって。

親思いの目蓮さまは驚き悲しがり、お釈迦さまに教えて頂いて、尊いお経をあげたり色々の食物をお供えしたりして御供養をなさって、お母様を苦しみから救ってお上げになったのが七月十五日だったのよ。

そのことに倣って、後の世の仏教信者たちが、自分の肉身たちの亡者を幽界からお招きして愛情をこめて盂蘭盆のお供養をして上げているのです。(略)

目蓮尊者は偉いお坊さんだと言われているが、その母君は高い悟りの境涯に達しないうちに亡くなられたと見えて、あの世で地獄に堕ちて、しかも最も苦しい責苦の一つである「倒懸」(ウランバナ)の苦を受けて居られたのであったが、息子の孝心によって真理の教をきき、「さかさま」だった心が「真直ぐ」の心に立ち直られたのであろう。

「さか吊り」は誰かがしたのではく、自分の心で自分が「さか吊り」をしていたのであった。

これは目蓮尊者の母君の昔話だけではない。

現代に生きる人たちの中にも、心が顛倒しているために、さかさまに物ごとを見たり、人の善意をさかさまに受取ったり、真実をゆがめて嘘をついたり、いろいろと神の御心に反する行いをして、自分自身を苦しめている人が沢山あるように思う。

盂蘭盆の十五日の近づいて来た今日此頃、私たちは一層反省を深めて、すべてのもの、すべてのことを正しい眼で見、正しく処して行きたいと思う。》(『白鳩』誌・昭和39年10月号より)

「さかさま」だった心が「真直ぐ」の心に立ち直≠驕Aそこにこそ盂蘭盆の意味があるというのは、何という有り難いお導きでありましょうか。

「さか吊り」というのは、決して地獄にあるのではない。

まさしく、今、この世にあるのではないのか。

とりわけ、「神の御心に反する行いをして」というお言葉に身に沁みます。

私に言わせれば、それは「尊師の御心に反する行い」という意味に感じられてなりません。

総本山のご祭神を勝手に変えたこと…。

これなどは、まさしく、それに当て嵌まるのではないでしょうか。

今年のお盆は、谷口輝子先生のお言葉を噛みしめて、「真直ぐ」の心∞神(尊師)の御心≠ニは何を指しているのか、それを見つめ直すよき機会としてまいりたいと思っております。


先祖供養、霊牌供養で大安心の人生を! (9944)
日時:2018年08月10日 (金) 08時54分
名前:破邪顕正


夏山シーズン到来。

毎年、遭難事故が後を絶ちませんが、この遭難事故、高い山よりも低い山で起きることの方が多いのをご存じでしたか?

「こんな低い山ならば簡単に登れる」という安易な考えが事故のもと。

案外、そう考えがちですが、もちろん、それもありますが、しかし、一番の理由は、低い山の方が道がたくさんあるから…。

だから、ついつい迷ってしまう…。

これは、そのまま人生にも当て嵌まります。

進むべき道がたくさんあるから、却って色々と迷ってしまう。

そのときに、正しい導きがあれば…。

『生命の實相』第33巻「随喜篇」にかくあります(25〜26頁)。

《…わたしにとっては十三日という日は実に不思議な日なのであります。

この日、谷口家のお祖母さんお祖父さんが亡くなった命日が十三日なのであります。

それからわたしの養父になる人のおっ母さんがやはり十三日に死んでいる。

それからわたしの家内の両親がやはり十三日に死んでいるのです。

みんな不思議に十三日という日に符合するのであります。

光明思想普及会の創立された日が十三日、わたしが泥棒に入られて絶体絶命の立場に立たされたのが十三日であります。

ここに祖先の霊魂の導きというものが感じられます。

祖先の霊魂がわたしを絶体絶命の境地に導き、その絶体絶命がわたしを悟らせてくださったのであります。

諸君も悟ろうと思い、またはこの世で成功しようと思うには祖先の礼拝を鄭重にしおのずから祖先の加護を受けるようにせねばなりません。》

「祖先の加護を受ける」には、先祖供養が大事であると『霊供養入門』には次のように示されています(265頁)。

《聖経の読誦を供養されることによって、その霊魂がいよいよ一層迷い≠フ束縛から解脱するに至ると、その霊魂は神通力を得て、今まで聖経読誦の供養を受けたことの報恩感謝に、守護神となって、その人を健康と繁栄とに導いてくれることにもなる。》

ここに、はっきりと、「その霊魂がいよいよ一層迷い≠フ束縛から解脱する」には、「聖経の読誦を供養される」ことが大事であると示されています。

あくまでも「聖経」であって、決して讃歌′o本ではありません。

「聖経」と「経本」とを一緒に読誦するようでは、ご先祖さまも、きっと納得されないのではないかと私は危惧します。

信仰は純粋でなければなりません。

「経本」のような不純物≠ニ混ぜ合わせてはいけないと私は思います。

ところで、苦労には3つあると言われます。

「取越苦労」「持越苦労」「持出苦労」。

「取越苦労」というのは、先のことを考えて、「ああなったら、どうしよう」「こうなったら、どうしよう」と心配ばかりしていること。

「持越苦労」というのは、「あのときこうだったから、今度も何かあるに違いない」「あのとき失敗したんだから、今度だってうまくいかないに決まっている」など、過去に起こったトラブルや失敗をいつまでもひきずって、今のことをクヨクヨ後ろ向きに考えてしまうこと。

今一つ、「持出苦労」とは、人のことまで持ち出して、あれこれ否定的に考えること。

まったく余計なお世話なのに、心配せずにはいられない人がいます。

このような心配性、苦労性の人は、すべからく先祖供養をされるといいのではないでしょうか。

先祖供養していれば、必ずご先祖様からの良き導きをいただくことができますから…。

何があっても大丈夫!

大安心の人生がここから開かれてまいります。

お盆を機会に、先祖供養、霊牌供養をなさるよう、お勧めする次第です。


「生きたように死んでいく」この言葉の重みを噛みしめて (9958)
日時:2018年08月11日 (土) 18時18分
名前:破邪顕正


表題は、大阪大学大学院人間科学研究科教授の柏木哲夫先生のことばです。

先生は、過去20年間ホスピスという場で、約2,500名くらいの癌の末期の患者さんに立ち会ってこられました。

その先生が、こう言われるのです。

《しっかり生きてきた人は、しっかり亡くなっていかれますし、ちょっと変な表現ですが、べたべた生きてきた人は、べたべたと亡くなります。

そして、周りの人に感謝をしながら生きてきた人は、私たち医者やナースに感謝をしながら亡くなっていかれますし、不平不満を言いながら生きてきた人は、我々に不平不満を言いながら亡くなっていかれます。

最後の一ヶ月というのは、それまでの人生の凝縮です。

ですからそういう意味で、人は、生きてきたように死んでいくのです。

それを言い換えますと、「良き死を死すためには、良き生を生きる必要がある」と思うんですね。》

これをご紹介したのは他でもありません。

『生命の實相』第28巻「久遠仏性篇下」(70〜71頁)にこうあるからです。

《われわれが霊界に行きましても、この世で生活が下手な人は霊界でも生活が下手である。

霊界で病気している霊魂もあれば、悩んでいる霊魂もある。

それはちょうど、下手な画家であれば板の上に描(か)いても布カンパスに描いても依然として下手であるというのと同じようなわけであります。…

われわれは「現世」とか「来世」とかいうカンバスに何で絵を描くかというと、念波で絵を描くのであります。

念波という絵具をもって絵を描くのでありますから、その念波を善くし、またよくしてあげることが必要であるのであります。

最もよい念波は何であるかと申しますと、悟りの念波、真理の念波なのであります。…

真理の念波を施すということが本当の最も根本的な供養になるのであります。》

ここに示されているように、次の世のためにも、この現世において「念波を善く」するよう努めることはとても大切なことなのです。

そして、ご先祖さまの供養をしていけは、間違いなく自らの「念波も善く」なる!

この信念をもって、ご先祖さまの供養、生長の家独特の霊牌供養に努めていきたいと思います。

もちろん、「聖経」のみの真理供養で!


「ご先祖さまと偕に」の心がけで先祖供養を (9965)
日時:2018年08月12日 (日) 08時38分
名前:破邪顕正


『なぜ、うまくいっている会社の経営者はご先祖を大切にするのか』(天明茂・著)というとても長いタイトルの本があります。

公認会計士である著者は、長年、その業務と平行して経営者に「家系分析」を勧めてきたそうです。

そのきっかけは、恩師の「先祖につながれ」という一言だった。

著者自身、いのちを遡ることによって、人間性が高まり、より幸せな生き方を手にすることができたといいます。

著者が言う「家系分析」はただ単に家系図を作るだけではありません。

少なくとも三代先までの先祖の一人ひとりについて、どのような生き方をしてきたかを調べていく。

そしてそれを真摯に受け入れ、見つめることによって、人間性が高まり、自らの使命に目覚め、仕事も人生も好転するようになっていくと言います。

ご先祖様がどういう人であったのか、そのいのちの縦糸を遡る、そこから自らの人生への取り組み方、生きる姿勢が変わっていく…。

改めて、先祖供養の大切さを痛感した次第です。

ところで、ある本に、コンビニの精神は「お客様のために」は禁句、「お客さまと偕に」でなければならないということが書いてありました。

それを知って、私が思ったのは、先祖供養というのもまた「ご先祖さまのために」ではなく「ご先祖さまと偕に」こそが大事なのではないのかということでした。

それでは、具体的に「ご先祖さまと偕に」とはどういう心がけを指すのでありましょうか。

3つあるように思います。

@寄り添う

ご先祖の御霊さまにただ真心で接する。

A御声を聞く

御霊さまの声なき声に耳を澄ます。

B御守りに感謝する

御霊さまは、真心こめて供養させていただく私ども子孫を決してお見捨てなることはない、必ずお守り、お導きくださる、それを信ずる。

「ご先祖さまと偕に」の心がけで、先祖供養を実修するとともに、その喜びの輪を更に大きく広げていきたいと思う次第です。                          



本当に「会いたい」と思えば霊界で会えるという話に思う (9968)
日時:2018年08月13日 (月) 14時33分
名前:破邪顕正


『白鳩』誌・昭和37年6月号にこういうことが記載されています。

「吉田」さんという信徒さんが、孫のように可愛がっていた犬が亡くなったが、その愛犬に「聖経」を誦げるのはいけないのか、それは執着の愛になるのか、という質問を谷口雅春先生にいたします。

それに対して、先生は、こうお答えになっています。

《時々、その犬の名前を唱えて、聖経を誦げてあげれば好いでしょう。

そういう人間界で愛しておった犬は、矢張り霊界で……あなたが霊界に行った時に出て来て、ペットとしてまた仕えるものですよ。》

また、こういう実話も耳にしました。

あるご夫人の話です。

そのご夫人は、大東亜戦争に出征されたご主人の帰還をずっと待ち望んで戦後を生き抜かれました。

しかし、とうとうご主人と会えぬまま、この世を去ってしまわれました。

その直後のことです。

何と、ご主人の遺骨が見つかったのです。

ご遺族は、亡きご夫人の思いを汲んで、ご主人の遺骨をご夫人と一緒の骨壺に入れることにしました。

すると、どうでしょう。

その骨壺が熱くなったというのです。

ご夫人の長い年月の思いが、霊界においてようやく叶った…。

その悦びが、この熱となって現れたのではないでしょうか。

この世では再会できずとも、あの世ではお会いできる…。

どうしても会いたいという思いが強ければ強いほど、必ずあの世で会える…。

この話を聞いて、私たちも、次の境涯で、尊師とお会いしたいと心から熱願すれば必ずお会いできる…。

いいえ、尊師ご自身、ご生前、「今別れても次の境涯で皆様と再会する時機が屹度来ると信じます」(「碧巌録」終講の辞)と仰っておられるのですから、間違いなくお会いできるのです。

そのときに、尊師の前で胸を張ってお会いできる自分でありたい。

そのための人生を今、生きているのだと思っています。



先祖供養は重要な報恩行である! (9974)
日時:2018年08月14日 (火) 09時39分
名前:破邪顕正


生長の家の信徒さんで、神官をなされている方のお話が、とても心に響きましたので、それをご紹介します。

あるとき、「自分の持っているアパートの一室で自死された方があったので、そのお祓いをお願いしたい」というお話をいただいた。

その依頼を受けたとき、この神官さんはこう思ったのだそうです。

〈なるほど、アパートの持ち主にとってはお祓いだけでいいのかもしれないが、自死された方の魂は一体、どうなるのだろう…。

そう思ったら、無性に、聖経『甘露の法雨』を誦げたくなった。〉

しかし、神官である以上は、そういうわけにもいきません。

そこで、その神官さんは、せめて「御霊よ安らかなれ」との思いで、心の中で「招神歌」をとなえ、最後には「みすまるの歌」を唱えて、そのお祓いを終えました、ということでした。

この神官さんのお話を伺って、「聖経」を読誦できることの有り難さ、幸せを、改めて思い知ったことでした。

さて、表題は『女の浄土』というご本から学ばせていただいたことです。

《「与えよ、さらば与えられん」の無限供給の黄金律は、親に深切≠与える、即ち親孝行をすることや、先祖に真理の言葉≠与える、即ち先祖にむかって聖経を読誦することも含まれているのである。

含まれるどころか、非常に重要な報恩行なのである。

吾々は現在この現象界に生を享けてうまれて来たのは、神の生命が、祖先を通し、父母を通して、地上に自己顕現したのであって、今日私たちが、こうして生きていられるのは祖先及び父母のお陰なのである。

それに対して報恩の行いをしないならば、私たちは天の倉≠ゥら借り越しになっている。

借り越しになっているものは、此の世にはバランスの法則≠ェあって返さなければならない。

返さなければ法則によって、いつかは強制執行せられることになっているのである…

聖経『甘露の法雨』を祖先霊の供養のために読誦するということは、祖先から受けた恩恵に対する報恩行事であるのである。

受けた恩恵を返さないことは天の倉≠ノ於ける借金であるから、その借金を聖経読誦によって、真理の言葉≠供養して返す事になるのである。…

聖経というものは仏教のお経でも生長の家の『甘露の法雨』でも真理≠ェ説かれているのであるから、祖先霊に対して聖経を読誦するとき、霊魂はそれを受けとって歓喜し向上するに従って神通力を増し、それも子孫が自分を憶い出して聖経を読誦してくれたお陰であると感謝して、今度は、祖先がその神通力によって、子孫を護ってくれることになるのである。》(115〜123頁)》

「与えよ、さらば与えられん」の法則は、この先祖供養にもそのまま生きているのですね。

私ども子孫が、真心込めてご先祖さまの供養、霊牌供養をさせていただく。

すると、ご先祖さまも、それをおよろこびになられて、その感謝のお返しに、私どもをお護りくださり、お導きくださる。

この関係をお知らせすることが、喜びの先祖供養を広げていくことになるものと信じております。


心で極楽も地獄も造る (9978)
日時:2018年08月15日 (水) 16時32分
名前:破邪顕正


よく見かける掛け軸に「気は長く 心は丸く 腹立てず 口慎めば 命長かれ」というのがあります。

長命の心得を、それぞれ、漢字を面白くして記してあります。

尊師も、『美と健康の創造』の中で、こうお諭しになっています(103〜104頁)。

《人間が肉体ではなく、「心」だということは、「心」がなくなったら「肉体」があっても、もうそれは「ぬけがら」じゃ。

もうものも言わねば、返事もせぬ、それはカラッポじゃから、焼場に持っていって焼いてしまうでしょう。

だから肉体が人間ではなく、「心」が人間なのですよ。

「心」があなたなんですよ。

だから「心」を大切にいたしましょう。

「心」に角をたてないことにいたしましょう。

腹を立てないことにいたしましょう。

不平を言わないことにいたしましょう。

そして自分の「いのち」の根や幹になっている神様の御恩、祖先の御恩、父母の御恩を知って、感謝することに致しましょう。

貧乏をしたり、病気をしたりするのは、根に養分が足らぬからです。

感謝が根に養分をやるようになるのであります。

毎日、祖先に『甘露の法雨』を誦げて感謝をいたしましょう。

そうしていますと、毎日いっそう人間は元気になり、運がよくなり、成績がよくなり、何でも都合よく行くようになります。

よろこべば、よろこびが来るのです。

かなしめば悲しみが来るのです。

心がよろこんで感謝している時が、極楽なのです。

人間は心なのですから心で極楽も地獄も造るのです。》

以前、少年院にお世話になるような子どもの家庭には仏壇がないという話を耳にしたことがあります。

親がご先祖様に手を合わせている姿を子どもに見せていれば、子どもの心が荒れるのを未然に防ぐことも出来たのではないのか。

子どもを虐待して死に至らしめるという悲惨な事件も後を絶ちません。

神様、仏様に手を合わす心があれば、どこかでブレーキがかかったのではないのか。

心で極楽も地獄も造る≠ニいう言葉を今一度、噛みしめたいものであります。

心が豊かになれば、それにつれて運命・境遇もどんどん良くなってまいります。

それには、まず、手を合わすことから。

そのことを大いに広めていきたいと思う次第です。



「死んだら終わり」では先祖供養は成り立ちません! (9988)
日時:2018年08月16日 (木) 14時32分
名前:破邪顕正


『維摩経解釈』の本を拝読しておりますと、娑婆世界に住む衆生を導く方便がいろいろと示されています(453頁)。

《世尊は、自分の念(おもい)や言葉や行いの報いが物質的環境に斯れ斯れの姿であらわれて来るということを説いて、念と言葉と行いの三業を調和統御して、想念、悪言、悪行の起らないように導くのであります。

すなわち、地獄はこんな所である。

畜生道に堕ちると斯うなるぞ。

餓鬼道に堕ちるとこんなに苦しまなければならない。

八難処(註…@地獄 A餓鬼 B畜生…この三つは苦しみが多くて仏法を聞くことができない C長寿天 D北倶盧洲ほっくるしゅう…この二つは楽しみが多くて求道心が起こらない E聾盲瘖瘂ろうもうおんあ F世智弁聡せちべんそう…世俗智にたけて正理に従わない G仏前仏後…仏が世にましまさぬとき)とはこんなところである。

真理を知らない迷信に陥った愚人は、今度肉体が死ぬとこんなところに生まれる。…》

このように説いて衆生を導いていくのでありますが、拝読していて思ったのは、これはすべて死んだ後を信じているが故に効力を発するものばかりではないのか。

もし「死んだら終わり」と考えていたら、果たして、この説法は衆生の心に響くであろうか。

そう思うと、この世の倫理・道徳が成り立つには、「死んだら終わり」ではない、死んでも次の境涯が待っている。

それが大前提にならなければならないのではないのか、そう思った次第です。

そこで、「死んでも死なぬ」ことを気づかせる話をご紹介したいと思います。

〈我が家の仏壇には、他より一回り小さな位牌があった。

両親に聞いた話では、生まれる前に流産してしまった俺の兄のものだという。

両親はその子に名前(和彦)を付け、ことあるごとに「和彦ちゃんの分もアンタは頑張らないと」などとその兄のことを持ち出してきて、それがウザかった。

そして高校生のころ、典型的なヤンキー(不良)になった俺は、あまり学校にも行かず遊び歩いていた。

ある日、母親の財布から金を盗んでいるところを見つかった。

母親は泣きながら「アンタ、こんなことして和彦ちゃんに顔向けできんの!!」と怒鳴ったが、俺も鬱憤がたまっていて「うるせー!だったらてめえ、和彦じゃなくて俺を流産すればよかっただろうが!」と怒鳴り返してしまった。

そして売り言葉に買い言葉だったのか、母親が「そうだね!和彦じゃなくてアンタが死んどったらよかった!」と叫んだときだった。

「そんなこと言ったら、めーー!!」という叫び声が頭の中に響いた。

舌っ足らずでカン高いその声は、ほんの幼児のものに聞こえた。

母親にも聞こえたようで、二人で「え?え?」と周囲を見渡すと、拝む時以外はいつも閉めている仏壇の扉がいつの間にか開いていた。

それを見た瞬間、母親号泣。

おかしくなったのかと思うくらい、腹から声上げて泣いてた。

喧嘩してたのも忘れて慌ててなだめると、「許してくれた…」「許してくれてたんだ」って何回もつぶやいてる。

そして母親はぽつりぽつりと話し始めた。

和彦は流産したんじゃなかった。

俺と一緒に生きて産まれてきた。

和彦と俺はいわゆる『結合双生児』だった。

でも和彦の方は俺に比べて未発達で、体もずっと小さかった。

俺の胸の部分に、手のひらくらいの大きさの和彦がくっついてるような状態だったらしい。

手術で切り離せば和彦は確実に死ぬ。

でも両親は俺のために分離手術に同意した。

未発達とはいえ和彦は顔立ちもはっきりしていて、手術前、「ごめんね」と謝る母親の顔をじっと見ていたそうだ。

それから、母親はずっと「和彦は自分を切り捨てた私たちを恨んでいるのでは」という思いがぬぐえなかったのだという。

だから俺にも必要以上に和彦のことを話して聞かせていたのだろう。

和彦の犠牲の上にある命なのだということを忘れないために。

あの時聞こえた声が和彦のものである確証は何もない。

俺と同い年なら、子供の声っていうのもおかしいし。

でも、あの声は俺たちを恨んだり憎んだりしてる声じゃなかった。

家族が喧嘩してるのが悲しくて、幼いながらも必死で止めようとしてる、そんな感じだった。

もしあの声が和彦なら、和彦はきっと家族を許してくれていて、ずっと見守ってくれているのだろう。

だから母親も俺も、あの声が和彦だと信じたかった。

俺は声が聞こえた日からまじめに学校に通い始めた。

兄貴に一喝(?)されて、もう馬鹿やってる場合じゃねーなって気持ちになったから。

そんで勉強もかなり頑張って、現役で大学に合格できた。

合格発表の日、朝からゲロ吐きそうなくらい緊張して、掲示板見た瞬間にあまりの嬉しさに「うがああああ」って変な声上げちゃったんだけど、その時、俺の奇声にかぶせて、あのカン高い声が「やったあー!」って聞こえてきたんだよね。

俺、本気で泣いた。

またいつか、声を聞かせてくれると信じてる。〉

人間、死んでも死なない。

永遠生き通しの命。

先逝きし人を忘れず、その声を聞くことができるかどうか。

それが先祖供養の勘所ではないでしょうか。

お仏壇に菊の花≠供えるのは、何でもご先祖さまの声を聞く≠スめなのだそうですよ。
              



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