《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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《吉報!》「谷口雅春先生を学ぶ会」として初めての試み、皇居勤労奉仕が決定いたしました! (9791)
日時:2018年07月20日 (金) 11時24分
名前:破邪顕正

本当に嬉しい、嬉しい、待ちに待った吉報が宮内庁より届きました!

去る6月、「谷口雅春先生を学ぶ会」本部から、全国に向けてこういう通達が出されました。

《来年4月30日に今上陛下がご譲位なさるに当り、天皇皇后両陛下への報恩感謝の思いを表すため、有志を募り、12月の皇居勤労奉仕への申込みを考えております。》

募集定員は60名。

「通達」を出して、1週間を待たずして、申込が相次ぎ、定員いっぱいとなりました。

如何に、会員の皆さまが、この皇居勤労奉仕を待ち望んでいたか。

それを如実に示すものとなりました。

しかし、その一方、今、いろんな団体の申込が殺到しているとの情報も入っておりました。

おそらく、抽選となるであろう。

皆さまの切なる願いを思えば、何としても実現したい。

早速、その実現に向けての祈りが始まりました。

その祈りが神様に通じ、この度、実現の運びとなったことは、筆舌に尽くしがたい喜びであります。

しかも、第1希望の12月10日(月)〜13日(木)で決定いたしました。

「谷口雅春先生を学ぶ会」は、尊師・谷口雅春先生のお志実現を旗印として結成されました。

それは神癒祝福祈願用紙の第一番に「天皇国日本実相顕現」を掲げさせていただいていることにも象徴的に表れています。

会員の中には、これまで、いろんな団体に入って、皇居勤労奉仕に参加された方がいます。

そういう方々を中心として、ぜひ、「谷口雅春先生を学ぶ会」として皇居勤労奉仕に参加したいという要望が募っておりました。

その願いが、今、ここに、こうして実ったわけであります。

12月に向けて、この胸の高鳴りを、「谷口雅春先生を学ぶ会」の会員拡大、並びに拠点増設へと、ぜひ、結びつけていきたいと思っています。

「谷口雅春先生を学ぶ会」と今の生長の家教団との違い。

それは、尊師・谷口雅春先生、そして「天皇国日本」への熱い思いがあるや否や。

これに尽きます。

御代替わりに向けて、今上陛下に心から感謝申し上げ、そして新帝陛下のご即位を心からお祝いする、その奉謝・奉祝の声を今後、更に更に大きくあげてまいりたいと思っております。

この喜びを力に、ともに前進してまいりましょう。




皇居勤労奉仕団練成会≠ェ始まります! (9819)
日時:2018年07月24日 (火) 15時29分
名前:破邪顕正


今回の皇居勤労奉仕、全国各地より60名の皆さまが東京に集まります。

折角の機会でありますので、日本橋練成道場にて皇居勤労奉仕団練成会≠ニ銘打って、練成会を開催することになりました。

早朝神想観に始まり(勿論、「大日本神国観」「宇宙浄化の祈り」「日本国実相顕現の祈り」を実修します)、日中は勤労奉仕、帰ってきてからは夜の愛国講話=B

そういうプログラムで開催できればと思っております。

今回の皇居勤労奉仕の実現は、「谷口雅春先生を学ぶ会」にとって何よりの吉報であり、神様の大いなる祝福を感じないではいられません。 

今回は日程等の都合がつかず断念された方も多数おられると聞き及んでおります。

そういう方々のためにも、「谷口雅春先生を学ぶ会」として引き続き、この皇居勤労奉仕団練成会≠企画していきたいと考えております。

もちろん、そのときの愛国講話≠ナは、皇居勤労奉仕がどのようにして始まったのか、ぜひ、それをお話したいものであります。

それについて、以下、高橋紘『天皇家の仕事−読む「皇室事典」』より要約してご紹介させていただきます(※…筆者註)。

《昭和20年11月22日のこと(※奇しくも谷口雅春先生のお誕生日の日です!)、皇居坂下門に、2人の青年が現れ、皇居外苑の草刈りを申し出る。

宮城県栗原郡の青年団有志と名乗る2人とは、鈴木徳一と長谷川峻。

鈴木は慶応大卒で故郷で自主活動中。

その後輩の長谷川は、当時緒方竹虎の秘書。

鈴木らは、戦時中に堆肥増産のための草刈大会で青年団日本一になった経験を生かして、お濠の草刈りをしたいと申し出たのだ。

坂下門の警手から電話を受けた宮内省総務課長筧素彦(※『今上陛下と母宮貞明皇后』の著者。日本教文社刊。昭和天皇様は、この本をお読みになっていたと言われる) は、鈴木等の熱気に押され承諾。

むしろ2人は、意外と簡単に許可が出て呆気にとられたという。

栗原青年団の上京は12月8日と決まる。

話は、侍従次長の木下道雄(※『宮中見聞録―昭和天皇にお仕えして』の著者)から昭和天皇さまの耳に入る。

奉仕団は鈴木以下62名。

オブザーバーとして早大教授木村毅(※谷口雅春先生とは早大で同級生。当時の谷口雅春先生が如何に素晴らしい成績であったかを証言)が加わる。

占領直後で皇居はMPの警戒下にある。

それ故、何かあれば死ぬこともあり得ると水盃を交わした者もいた。

団員は各戸盃一杯の餅米を出し合って餅をつき、献上した。

8日の午前8時過ぎに全員集合。

筧が、草刈りではなく宮殿の焼け跡を整理して欲しいと告げると、宮城内の作業など想像していなかった一団はざわめく。

更に驚いたのは、正午過ぎに天皇陛下が奉仕団の作業を見に来られたことだ。

よく晴れ上がった冬の日。

木下の案内で焼け跡に来られた天皇陛下から、汽車が混雑すると言うがどうか、米作の状況はどうか、栗原郡はどういうところか、などと、鈴木は御下問を受けて感激と緊張で震え上がる。

鈴木は、栗原郡は宮城県で一番大きな郡で、大半は農業に携わる。

朝早く起きて草を刈り、堆肥を作っている。

だから草刈りは得意で荒川土手の草刈り競争で全国一になった、などと答えた。

天皇陛下は、あの草刈り競争については知っている、と話されたので、鈴木の緊張は少し解けた。

約30分の会話のあと、ご苦労と言って天皇陛下はお戻りになられたが、直後に誰からとなく「君が代」の斉唱が沸き起こった。

青年たちは涙し、天皇陛下も歩みを止めて振り返られた。

その後、皇后陛下も、同じところで8名の女子団員に声をかけ、労をねぎらわれた。

栗原郡青年団(みくに奉仕団)の奉仕は、8日から10日までの3日間。

この青年団との会話が、天皇・皇后両陛下にとって庶民との交歓の最初であった。

翌年から始まる地方巡幸ではこうした会話が繰り返された。》

戦(たたかひ)にやぶれし後の今もなほ 民のよりきてここに草取る

昭和天皇さまの、この御製の中に、「君民一体・天皇国日本」の神髄を見るような思いがして、胸が熱くなります。

この精神を承け継いで、来る12月の皇居勤労奉仕に臨んでまいりましょう。



やはり、今回の「皇居勤労奉仕」の決定は神様からの祝福としか思えません! (9828)
日時:2018年07月26日 (木) 07時52分
名前:破邪顕正


ある方から、この度の「皇居勤労奉仕」の決定は凄いことですよ、という讃辞を頂戴いたしました。

何でも、その方によれば、他の団体では2回も申込みしたにも関わらず、選に漏れたそうなのです。

それを伺って、「谷口雅春先生を学ぶ会」は本当にツイている、そう思わないではいられませんでした。

奇しくも、「皇居勤労奉仕」の最終日は、12月13日。

尊師・谷口雅春先生に「今、起て!」との神啓が天降った日であります。

今回の「皇居勤労奉仕」を契機に、「天皇国・日本」の実相顕現に向け更なる飛躍を期していきたいと改めて決意させていただいた次第です。

現教団が環境問題に力を注ぐのであれば、「谷口雅春先生を学ぶ会」は日本国実相顕現運動に邁進する!

その違いを際立たせて、「谷口雅春先生を学ぶ会」の存在意味を信徒の皆さまに広くお伝えさせていただきたいと思っております。

神様の祝福にお応えすべく、精進あるのみです!

第1回 「生長の家」創始者 谷口雅春先生を学ぶ会 皇居勤労奉仕 決定  誠におめでとうございます! (9833)
日時:2018年07月28日 (土) 06時35分
名前:地湧の浄土

朝日新聞  昭和二十年十二月十四日(金曜日)


天皇陛下と奉仕団


    温かい慰労のお言葉


       お餅と鶏卵を御嘉納



爆撃によつて焼失した宮殿をはじめ宮城内の荒廃は畏れ多い極みであるが

これを漏れきいた宮城県栗原郡の農民たちは、天子様の宮居がそんなに荒れ果てたまゝでは赤子として誠に申訳ない、

さいはひ農閑期で数日ぐらい留守にしても増産には支障がないからと『農民みくに奉仕団』を組織、

青年男女六十三名の団員がはるばる上京、去る八、九、十の三日間

焼けたゞれて、雑草の繁る宮殿焼跡の清掃整理等、戦災跡片づけ諸作業の奉仕に汗流した、


第一日の八日、畏くも御所用で焼跡附近をお通り遊ばされた天皇陛下が、一心不乱に清掃作業に従事してゐる民草の一行を御覧になると、奉仕現場に玉歩を進められ、


「よくやつてくれる、御苦労である」


との意味の御言葉を賜はつた。

思ひがけなく尊い御姿を間近に拝したばかりか有難い御言葉をいたゞいた若き奉仕団の農民達は御慈悲深い御眼なざしのもと感涙にむせんだのであつた、


ところが天皇陛下が御立ち去りになつた後、

こんどは皇后陛下が御同様に奉仕現場にお成り遊ばされ、御慈愛にみちた御激励を賜はつたのである、


重なる御珠遇に感激した一行はたまたま持参してきたお餅と鶏卵をお手許に差上げたところ両陛下には、飾り氣のない純朴な赤心をお喜びになり御嘉納遊ばされた由である、

そして三日間の奉仕を滞りなく終へたとき両陛下から慰労の御言葉を頂戴した、

奉仕現場の光栄とこれを尊いお土産に十一日夜上野発の列車で故郷へ帰つて行つた




「皇居勤労奉仕」が決定したことを知って教団信徒がビックリ! (9947)
日時:2018年08月10日 (金) 11時46分
名前:破邪顕正


なぜ、ビックリしたのか。

何でも「皇居勤労奉仕」ともなると、どういう団体なのか。

しっかりと調べられるのだそうです。

つまり、「谷口雅春先生を学ぶ会」という団体名で皇居勤労奉仕が許されたということは、取りも直さず「谷口雅春先生を学ぶ会」が公に認知された、それを如実に物語る以外のなにものでもないということになるのです。

だから、教団信徒にしてみればショックなわけです。

いつの間にか、「谷口雅春先生を学ぶ会」がそこまでの社会的な認知を受けている。

どうも、そのことが衝撃をもって受け止められているようなのです。

恩知らずの、裏切り者の、不満分子の寄せ集め

「谷口雅春先生を学ぶ会」に対して、そういう罵声を浴びせていた信徒にしてみれば、なるほど、それは大変、ショックを受ける事態なのかもしれませんね。

ともあれ、尊師・谷口雅春先生のお説きになられた愛国の至情≠承け継ぐことをもって設立された「谷口雅春先生を学ぶ会」にとって、この度の「皇居勤労奉仕」の決定は、私たちの運動の大きな弾みとなることは間違いありません。

この喜びを力に、大いに前進してまいりたいと思っております。



「光栄の本が出来るまで」  中島省治先生 (9970)
日時:2018年08月13日 (月) 15時59分
名前:地湧の浄土




光栄の本―― 『今上陛下と母宮貞明皇后』 筧素彦先生著 ――誕生秘話



元宮内省総務課長 筧素彦先生と


  心から敬愛する私達の代表 中島省治代表


          そして我が恩師 相原良一先生


『弘道』 筧素彦理事追悼特集 平成4年9〜10月号

  筧素彦理事のありし日を偲んで



光 栄 の 本 が 出 来 る ま で

    中 島 省 治 先 生


 昭和天皇が病につかれた初期の頃、陛下が病床で手にされた本として(後にも先にも例のない事と思うが)報道された本が、筧素彦先生の『今上陛下と母宮貞明皇后』であった。

出版に関った者として大変な光栄であり、先生と倶にしみじみと悦びをかみしめたものだった。

 この本には、そんな異例の報道をされる程、陛下にも殊の外、関心を示された思い出深い事実が、誠実に、率直に描かれていた、と言えよう。

 先生に初めてお目にかかったのは、昭和四十五、六年頃、東京は四谷の共済会館で開かれた「明治の会」であった。

当時、東京水産大学の相原良一教授のお世話で、私も民族派、憂国の書の出版を手がけている編集者として末席にいた。

 その会のしめくくり、万歳三唱の発声に先生が立たれ、「弥栄いやさか――」と独特の格調ある節回しで唱導された。

初めて経験した発声だったが(その後二十余年、弥栄の発声に接していない)今に印象深く遺っている。

 その折、筧先生が、終戦前夜の陛下の録音盤をめぐる話や、九月二十七日のマッカーサー元帥ご訪問の話をされた。

歴史的事実としては承知していたが、直接、身を以て当られ、陛下のお供で眼近に見聞されたお話は格別な迫力で、職業柄じっとしていられるものではない。

初対面も何のその、早速、出版の話を申し入れたものである。

 その後、当社の編集の者が逗子のお宅を訪ねたとき託されたのが、前掲の書込みのある名刺である。(お会いした時はお持ちでなかったか、頂かなかった訳である)

日付を入れてないのが残念だが、郵便番号や電話が変更前のものである。

 それから賀状や何かのはしばしに「約束が果せずに恐縮……申訳ない……」と何回となく頂いた。

が、原稿の遅れは馴れていることであるし、文筆の専門家でもあられないので、特にムリに催促もせず、機の熟すのを持つという状況であった。

 その間、他の事情から弟様、泰彦先生の本『日本語と日本人の発想』が先に出ることになった。

逗子のお宅――お隣りというか、奥のお宅に伺う度に、素彦先生の表札を拝みながら複雑な想いで通って行った。

後日、御著書の「はじめに」や「おわりに」で拝見すると、お父上の影響というか、永年のお仕事柄、また適当では済まされない先生は、憂国の情もだし難く、祖国の正しい歴史、天皇さまや国への恩、教育など、若い世代に対し、いろいろ言いたい事をせっせと書いておられたわけである。

言いたい事が次々と湧いて来て際限がなく、原稿がなかなかまとまらなかったのであろう。
 
やがて原稿完成のメドがつき、「一度ご相談に――」とお電話を頂戴し、すぐに飛んでいった。発端から十五、六年経っていた。

 先生ご丹精の蘭の並んだ応接間で、厖大な原稿を前に相好を崩し、わざわざブランデーを持って来て紅茶に注いで下さる先生に、今度は商業出版社としての立場から、本造りの面で言い難い事も申上げねばならない。

不特定多数の人、出来れば若い人、天皇や祖国に関心の薄い人にも何とか読んでもらいたい。

活字離れと言われる現在、一人でも多くの人に――というのが編集者の頭の痛いところで、平たく言えば、売れる本¢「りである。

いくら良書・名著でも売れねば、読み手がつかねば労も報われない。

 本の格調・水準を保ちつつ、表現は平易に、とっつき易く、それでいて感動を与える文章、という注文になる。

書き出し、編成、見出し、書名……何回も要望を出し、書き直し、圧縮、削減、修正……とお願いしていった。

お歳もさることながら、俗世とはいささか隔りのあられる先生に、言葉を選びつつ、しかし思いきって申上げていった。

 「はじめに」の末尾に「……日本人の心を失いかけている若い世代に対して、いろいろと説きたいのであるが、出版側の御要望もあり、この際は、できるだけ私の直接関わった事実を具体的に記述するに止め――」と書かれたのには、そんな背景があった。

また最終頁の二行目「本書では理屈を書かぬ筈であったが、とうとう書いてしまったことをお許し願いたい」も意味のある一句なのである。

 果して吾々の本造りがお役に立ったのか。折角の先生の労作―警世の論、理屈を省いたのが良かったのか否か。

今となっては他に術はないのだが、結果論として五刷りとなり、光栄ある異例の報道を頂いた事に、自ら良しとしている次第である。

 先生は出版の後、一言もその事に悔いは申されなかったし、会う毎にニコニコされて、写真を撮って下さったりした。

新聞の訃報に「著書『今上陛下と―』」とあり、更めて出版人冥利を味った。

こんな事を書いてしまいましたが、先生お宥し下さい。

(鞄本教文社代表取締役社長)



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