皇居勤労奉仕団練成会≠ェ始まります! (9819) |
- 日時:2018年07月24日 (火) 15時29分
名前:破邪顕正
今回の皇居勤労奉仕、全国各地より60名の皆さまが東京に集まります。
折角の機会でありますので、日本橋練成道場にて皇居勤労奉仕団練成会≠ニ銘打って、練成会を開催することになりました。
早朝神想観に始まり(勿論、「大日本神国観」「宇宙浄化の祈り」「日本国実相顕現の祈り」を実修します)、日中は勤労奉仕、帰ってきてからは夜の愛国講話=B
そういうプログラムで開催できればと思っております。
今回の皇居勤労奉仕の実現は、「谷口雅春先生を学ぶ会」にとって何よりの吉報であり、神様の大いなる祝福を感じないではいられません。
今回は日程等の都合がつかず断念された方も多数おられると聞き及んでおります。
そういう方々のためにも、「谷口雅春先生を学ぶ会」として引き続き、この皇居勤労奉仕団練成会≠企画していきたいと考えております。
もちろん、そのときの愛国講話≠ナは、皇居勤労奉仕がどのようにして始まったのか、ぜひ、それをお話したいものであります。
それについて、以下、高橋紘『天皇家の仕事−読む「皇室事典」』より要約してご紹介させていただきます(※…筆者註)。
《昭和20年11月22日のこと(※奇しくも谷口雅春先生のお誕生日の日です!)、皇居坂下門に、2人の青年が現れ、皇居外苑の草刈りを申し出る。
宮城県栗原郡の青年団有志と名乗る2人とは、鈴木徳一と長谷川峻。
鈴木は慶応大卒で故郷で自主活動中。
その後輩の長谷川は、当時緒方竹虎の秘書。
鈴木らは、戦時中に堆肥増産のための草刈大会で青年団日本一になった経験を生かして、お濠の草刈りをしたいと申し出たのだ。
坂下門の警手から電話を受けた宮内省総務課長筧素彦(※『今上陛下と母宮貞明皇后』の著者。日本教文社刊。昭和天皇様は、この本をお読みになっていたと言われる) は、鈴木等の熱気に押され承諾。
むしろ2人は、意外と簡単に許可が出て呆気にとられたという。
栗原青年団の上京は12月8日と決まる。
話は、侍従次長の木下道雄(※『宮中見聞録―昭和天皇にお仕えして』の著者)から昭和天皇さまの耳に入る。
奉仕団は鈴木以下62名。
オブザーバーとして早大教授木村毅(※谷口雅春先生とは早大で同級生。当時の谷口雅春先生が如何に素晴らしい成績であったかを証言)が加わる。
占領直後で皇居はMPの警戒下にある。
それ故、何かあれば死ぬこともあり得ると水盃を交わした者もいた。
団員は各戸盃一杯の餅米を出し合って餅をつき、献上した。
8日の午前8時過ぎに全員集合。
筧が、草刈りではなく宮殿の焼け跡を整理して欲しいと告げると、宮城内の作業など想像していなかった一団はざわめく。
更に驚いたのは、正午過ぎに天皇陛下が奉仕団の作業を見に来られたことだ。
よく晴れ上がった冬の日。
木下の案内で焼け跡に来られた天皇陛下から、汽車が混雑すると言うがどうか、米作の状況はどうか、栗原郡はどういうところか、などと、鈴木は御下問を受けて感激と緊張で震え上がる。
鈴木は、栗原郡は宮城県で一番大きな郡で、大半は農業に携わる。
朝早く起きて草を刈り、堆肥を作っている。
だから草刈りは得意で荒川土手の草刈り競争で全国一になった、などと答えた。
天皇陛下は、あの草刈り競争については知っている、と話されたので、鈴木の緊張は少し解けた。
約30分の会話のあと、ご苦労と言って天皇陛下はお戻りになられたが、直後に誰からとなく「君が代」の斉唱が沸き起こった。
青年たちは涙し、天皇陛下も歩みを止めて振り返られた。
その後、皇后陛下も、同じところで8名の女子団員に声をかけ、労をねぎらわれた。
栗原郡青年団(みくに奉仕団)の奉仕は、8日から10日までの3日間。
この青年団との会話が、天皇・皇后両陛下にとって庶民との交歓の最初であった。
翌年から始まる地方巡幸ではこうした会話が繰り返された。》
戦(たたかひ)にやぶれし後の今もなほ 民のよりきてここに草取る
昭和天皇さまの、この御製の中に、「君民一体・天皇国日本」の神髄を見るような思いがして、胸が熱くなります。
この精神を承け継いで、来る12月の皇居勤労奉仕に臨んでまいりましょう。
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