《質問》総裁先生の実相を祈って、正していくということはできませんか? (9761) |
- 日時:2018年07月13日 (金) 18時54分
名前:破邪顕正
表題のようなご質問を受けることがまま、あります。
こういうご質問を受けてまず感じるのは、この「正す」という意味合いなのですね。
心の奥底に、今の総裁はオカシイという思いがあるからこそ、何とか「正していく」ということを考えないといけないのではないかという思いが吹き上がるのだろうと思うのです。
総裁はオカシイ。
そういう思いを持ちつつ、実相を祈るというのは、果たして、どうなのでしょうね。
谷口雅春先生も『女の浄土』の中でこうお書きになっています。
《相手を良くしよう≠ニ思うのは逆観念であり、逆作用になる》(37頁)
問題は、それより、総裁の今の教え≠ェ素晴らしいと思う信徒がいることなのです。
そういう信徒によって教団が支えられている以上、私に言わせれば、それはもはやどうしようもない現実として受け取るべきであると思うのです。
総裁の考え方に従って教団が進んでいく以上は、それはもはや止めようがない、それはそれで致し方ないことと受け入れるべきであると思うのです。 だからこそ、私たちは、生長の家現教団を脱退したわけです。
総裁の教えは尊師の教えとは明らかに違う、根本的に違う、相容れない教えである。
そこまで違ってしまっているのに、そこにいることは信仰者として許されない。
そう判断したからこそ脱退したわけです。
そして、尊師の教えを歪めず、過たず、純粋に後世に伝え遺すという使命に燃えて「谷口雅春先生を学ぶ会」に集っているわけです。
尊師の教えを学ぶことがどれだけ魂の悦びとなるか。
その喜びの輪を如何にして広げていくか。
そこにしか、私たちの関心はもはやないのです。
なるほど、私たちは、その一方で、総裁の言動に対して、いろいろと批判を呈したりはしています。
しかしそれは、何よりも、総裁のそれが尊師の教えとは如何に違っているか。
それを明らめるためにこそやっていることなのです。
それでなければ、なぜ、私たちが教団を脱退したのか、それが説明しえませんからね。
敢えて、表題にある「正す」ということに拘るならば、私たちは、総裁の実相を祈って正していくというよりかは、私たちの信仰の喜びの輪を広げることをもって、総裁、並びに教団に対して異議申立をしていく。
「谷口雅春先生を学ぶ会」が更に更に大きくなっていけば、当然、それは総裁、並びに教団にとって大きな脅威となるでしょうし(現に、そうなっているからこそ、私どもの講演会に急遽、行事をぶっつけて、しかもそこに様々な役を申しつけて講演会に参加できないように、信徒を縛っているわけですが)、教団の中に、この路線でいいのかという反発、抗議の声を上げる、その後押しにもなるのではないかと思うのです。
私たちは、脱会して、外からの刺激を与える。
それに触発されて、内から、教団を正そうといううねりが生じるやもしれない。
まあ、それは今の段階では淡い期待にしか過ぎませんが、しかし、信徒がこれまで以上に激減し、教団経営が厳しいものとなれば、案外、そういううねりが起きないとも限らない。
そういうことで、私たちは、尊師の教えを広げること、そのための真理講演会、光明講演会をどんどん開催し、支部・拠点を陸続と生み出していくことに邁進してまいりたいと思っている次第です。
その方が、本来の「生長の家」を取り戻す上で、より効果的で実際的であると思うものであります。
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