《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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谷口雅春先生に帰りましょう・伝統板・第二
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『維摩経解釈』には、今の教団のオカシサが随所に出て来る! (5981)
日時:2017年04月26日 (水) 09時47分
名前:破邪顕正


たとえば、現教団の信徒を呪縛し続けている「何でもハイ」についても、こう説かれています。

《宗教は何でも「捨てる」こと、執着しないことを教える。

そして何でも素直に従うことを教える。

それを利用して自分の我欲に奉仕せしめようとするような宗教が出て来たり致します。

しかし、素直に従えといわれたとて、どんなことでも素直に従ったならばいいという訳のものではないのであります。

悪魔の誘惑に従ってはとんだことになります。

素直に従うのは、神のみこころに、自己内在の神性に従うのでなければならないのであります。



悪魔が求めているか。

神が求めているか−−ということをよく批判してから「本物の自分」にのみ、神の囁きに耳を藉さなければならないのです。》(221〜222頁)

つまり「何でもハイ」していればいいというのではないということです。

今の教団に従っていてホントウニいいのか。

それは、神の御意(みこころ)に適うことなのか。

それをしっかりと吟味する力を養わなければいけないということなのです。

まもなく、教団の幹部研鑽会・全国大会が開催されるようですね。

そこに参加して、ホントウニ心から、魂がよろこんでいるか?

宗教的使命感に沸き立つか?

心が清まるか?

等々。

参加される皆さまには、ぜひ、わが内なる神にそれを問うていただければと思う次第であります。

とりわけ、教団組織に残っていて、この度の「谷口雅春先生を学ぶ会」の全国大会に参加された方には、教団のそれにも出席されて、ぜひ、それを問うていただければと思います。

比べてみて、はじめて見えてくる世界もあると思うからです。

教団しか選べないというのでは検証のしようがありません。

「谷口雅春先生を学ぶ会」が存在することによって、はじめて対比できる道が開かれたと思うのです。

客観的にどちらが谷口雅春先生の教えを伝えようとしているか。

その判断材料を信徒の皆さまに提供させていただく。

同じ4月に開催しているのも、決して故なしとしない。

そんな思いでいっぱいです。


教団 x「谷口雅春先生を学ぶ会」の比較とは... (5987)
日時:2017年04月26日 (水) 13時16分
名前:Cruzeiro do Sul 【南十字星】


それは簡単に言えば、自分の魂に聞いてみて:

幸せであるか x 不幸であるか?

嬉しいか  x  悲しいか?

人生は楽しいか x 人生は苦しいか?

谷口雅春先生を信じるか x 教団総裁を信じるか?


私ははるかに精神的大勢の人を救っている尊師谷口雅春先生を信じています。ちっとも疑問無く、比べ物になりません。

ブラジルで、教団の現総裁の著書を読んで誰かが救われたと言うことは聞いたことありません。


日本ではどうか知りませんがね...

こちらの伝導本部でまだ奇跡がまだ起っているとしたら、多分まだ谷口雅春先生の教えを説いている先生方がいるからでしょう。これもおかしい話ですが、中心帰一を守れといって、谷口雅春先生の生命の実相の勉強会までやって...、日本だったらとっくに追放されていたと思います。



こちらでも教団では谷口先生はただ「1人の人間であった、谷口雅春先生に何時までもしがみついていてはいけません、ただのラッパであったから」と言うています。

もうとっくに他界されたとはいえ、谷口雅春先生の書かれた真理の著書はまだ奇跡を起こし続けている。

以上です。






“森のオフィス”を知ったら、維摩はさぞや厳しく難詰するでありましょう! (5990)
日時:2017年04月26日 (水) 15時58分
名前:破邪顕正


『維摩経解釈』の195頁に、こうあります。

《維摩の説く仏法は出家道ではなくして、在家道なのであります。…

往々、道に志すものは、世間に同じくはならぬように思っている人がありますが、小聖は山に隠れますが、大聖は市(まち)に隠れるのであります。

今迄の仏法が行きつまってしまったのは、出家道が在家の生活と遊離してしまって、ただ仏法の熟語を捻弄して、抽象に堕してしまったからであります。

「抽象」というのは「象(かたち)を抽(ぬ)く」…象を抽いて「親孝行」というのを空想している者が仮にあるとしたならば、それは何の役にも立たない。

親孝行は実際生活に象の上にあらわれて来たときに、即ち天国浄土が現実に成就するのであります。

抽象論をもてあそびながら、ついに抽象にのみとどまって浄土を地上に実現し得ない人が随分沢山あるのであります。》

背教総裁≠ヘ盛んに「神・自然・人間の大調和」を説き、「大調和の神示」に帰れと説教します。

果たして、その説教はどうなのでしょうか?

維摩に言わせれば、きっと、そんなものは、単なる抽象論≠ノ過ぎぬ、「抽象論をもてあそ」ぶな、と一喝するのではないでしょうか。

一人、森に籠もって、「神・人間・自然の大調和」と宣うても、足元の「親孝行」すら成し得ないのでは、何の説得力も持ちはしませぬ。

《今迄の仏法が行きつまってしまったのは、出家道が在家の生活と遊離してしまって、ただ仏法の熟語を捻弄して、抽象に堕してしまったからであります。》

この維摩の叱責は、そのまま今の背教総裁∞背教教団≠ノ、そっくりそのまま当て嵌まるような気がしてなりません。



ハンドルネームを“破邪顕正”にしていて良かった! (6018)
日時:2017年04月27日 (木) 18時26分
名前:破邪顕正


『維摩経解釈』の173〜174頁に、こういうご文章が出てきます。

《「伏心」というのは、邪なるを見て、それを調伏する心であります。

和顔でなければならないし、忍辱よくたえしのぶことも必要でありますが、いやしくも真理にそむく邪まな説を立てる者に対しては破邪顕正の剣を揮わねばならないのであります。

それが又、自分の魂をみがく道場となるのであります。》

なぜ、ハンドルネームを“破邪顕正”としたのかは、まさしくここにある通りであります。

どう考えても、現総裁の説く“今の教え”なるものは、「真理にそむく邪まな説」以外のなにものでもないと思うからこそであります。

例えば、「童子」さんの次の投稿などは、そう判ずるにたる十分な証拠と言えると思います。

《「私は朝日新聞に私の著書の広告を止めた」  谷 口 雅 春 先生 (5959)
日時:2017年04月25日 (火) 08時38分
名前:童子》

この投稿で私がとりわけ注目したのはこの箇所です。

《私は朝日新聞に私の著書の広告を止めた。

こういう左翼思想家に運動費を供給するようなものだからだ。》

ご存じのように、現総裁は、「産経新聞」の購読を止め、「朝日新聞」を読むように信徒に推奨しているわけです。

これが、如何に、谷口雅春先生の御心に背反しているか。

この投稿だけでも一目瞭然であります。

そして、敢えて「組織」に残り続けている方に申し上げたいのは、その行為は、上の谷口雅春先生のお言葉を借りるならば、「左翼思想家に運動費を供給する」ことと同義ではないのかということであります。

それぞれいろんな事情があってのこととは充分、理解しつつも、谷口雅春先生のこのご文章を拝するならば、いつまでも「組織」に残り続けるということは如何なものかなと言わざるを得ません。

ぜひ、ご一考していただきたくお願いいたします。



「ノーミート」に関して、『維摩経解釈』にはこんなご文章が出てきます。 (6039)
日時:2017年04月28日 (金) 17時35分
名前:破邪顕正


表題は、139頁に出てくるもので、徳島県の「宍喰(ししくい)」という地名にまつわる話であります。

《或る時、弘法大師が人々を救済しておられますと、その救われた内の一人が晩餐に弘法大師に猪(しし)の肉の入った料理を供養したのであります。…

それを見ていた、日頃弘法大師の教化力の強いのを嫉妬していた一人の男が弘法大師のところへ詰め寄って来て、

「お前は肉食妻帯を戒としている真言宗の僧侶であるのに、肉食をするとは怪しからぬ。

この生臭坊主の正体を見さっしゃい」

といって弘法大師を満座の中で辱かしめようとしたのである。

すると、弘法大師は被仰った。

「わしは決して肉食など殺生はしないよ。

わしは生かし合いの食物、慈悲の食物、仏の食物を拝んで食べただけだよ」…》

で、この結果はどうなったか。

《弘法大師の吐き出した食物の中には一片の猪の肉もなかったが、その男の吐き出した食物の中には、無数の猪の肉片が混じっていたの》でした。

これについて、『實相研鑚2』にはこうあります(79〜80頁)。

《すべてこれらの事は自分の心が「何をとりいれるか」ということに根本的問題があるのです。

「殺生」という事を自分の心にとりいれるか、「感謝報恩」ということを自分の心にとりいれるか、「人類救済のエネルギー」としてそれをとりいれるかです。

一休和尚が魚を食べて「お前は俺の中に入れば救われるんだ」と言われたのは、魚の救われた生命≠自己の内にとりいれられたわけでしょう。

…そういうわけで、殺生・不殺生の問題は「形」の問題ではなく、心の問題であり、根本的に、その人自身が仏になることが一番殺生がないわけであります。》

このような宗教的観点のない、環境問題からの「ノーミート」論には、何とも言い様の無い空しさを覚えるものであります。



教団信徒が「楽しくない」と愚痴る背景に何があるのか? (6054)
日時:2017年04月29日 (土) 14時16分
名前:破邪顕正


表題は、『維摩経解釈』218頁を読んでいてハッと気づかされたことです。

《勉強の時間には其の儘すなおに勉強することが大切であります。

まだ放課後の時間にならないのに、余所に行って遊びたい。

…そしてエスケープして芝居でも見ていると観ている間は一寸表面は楽しいかも知れぬけれども、後から先生に叱られはしないか、親に知れはしないか、問題は起りはしないかと思っているものですから本当に楽しくないのです。

それは時至らざるに求めているから、時の調和というものを失っているから楽しくないのであります。》

最後の“時の調和”という言葉に眼が止まりました。

今の現状からして、どうして「反安倍=占領憲法擁護」となるのか、殆どの信徒は合点がいかないのではないでしょうか。

本来の生長の家であれば、その好悪は別として、「日本のために安倍首相には頑張っていただきましょう。信徒の皆さん、安倍首相が首相としていい働きをなさるように、みんなで祈りましょう」そのように言うべきだと思うのです。

どうも、今の教団のやっていることは“時の調和”を得ていない、それを何となく感じ取っているからこそ、「楽しくない」というように感じ取っているのではないかと思った次第です。



すべての誌友を講師化して (10889)
日時:2019年04月24日 (水) 09時15分
名前:破邪顕正


標題の言葉は、『維摩経解釈』に出てまいります(533頁)。

その前後をご紹介します。

《法供養は、供養されたる衆生が真理を語ってそれを他に及ぼす菩薩たらしめなければならないのであります。…

これが「能く衆生をして道場に坐して法輪を転ぜしむ」であります。

法輪とは真理の説法であります。

生長の家でいうならばすべての誌友を講師化して法輪を転ぜしめるようにするのが法供養なのであります。》

何故、ここに注目したのかと言いますと、これからの「谷口雅春先生を学ぶ会」の発展の鍵は、真理の拠点、光りの拠点の拡大にあると思うからです。

そして、それを担うのは、やはり講師の存在であると思うのです。

折角、拠点が誕生しても、それをお世話する講師がいなければ、持続的、永続的な発展がなかなか望み得ないのではないのか。

幸い、私たちには、新編『生命の實相』があり、新装新版『真理』があり、月刊誌「谷口雅春先生を学ぶ」誌があるわけです。

このテキストを使っての真理の説法≠アそ、「谷口雅春先生を学ぶ会」発展の鍵であると思います。

また、こういう場が広がれば、教団に所属している講師の先生方も、尊師の教えを思う存分、お伝えできる「谷口雅春先生を学ぶ会」の方がやり甲斐があると思っていただけるようにも思うのです。

教団では、尊師の聖典を使うと、それに対して厳しい監視の目も注がれているやに伺っております。

ましてや『憲法を知ろう』などという左翼=護憲本≠誌友会のテキストに指定されたのでは、心ある講師方の鬱憤もたまろうというもの…。

ぜひ、真理の説法≠フ場を拡充して、「谷口雅春先生を学ぶ会」の講師をどんどん生み出していこうではありませんか。



「学ぶ会」に行った皆さんはまた戻ってくるから… (10900)
日時:2019年04月26日 (金) 13時54分
名前:破邪顕正


標題は、教団にいる方の言われた言葉です。

そのことを教えてくださった「谷口雅春先生を学ぶ会」のメンバー。

その教団の方にどう言い返したか。

あら、それは逆よ。

教団の皆さんが「谷口雅春先生を学ぶ会」に入ってくるのよ。

だって、戻ろうにも、そこに尊師・谷口雅春先生はいらっしゃらないじゃないの!

教団には、もはや尊師はおられないと分かったから、私たちは出たのよ。

戻ってほしかったら、まずは、教団が尊師を取り戻すことの方が先じゃないの?

どう、そういうことが可能なの?

そう言い返されて、教団の方は何も言えなくなったそうです。

それはそうでしょう。

今や、総裁の言っていることが「生長の家の教え」と見なされているのであり、現教団にあっては、尊師のご存在はもはや無きに等しい状態と言えるのですから。

神様を変えてしまい、尊師の『聖典』を絶版にし、尊師を消し去ろうとしているのが今の教団であってみれば、戻れるわけがないではありませんか。

この度の幹部研鑽会では、尊師の『聖典』が一冊もテキストに指定されていないということを耳にしましたが、これなどは、実に象徴的ではありませんか。

結局、標題の言葉というのは、退会を阻止するための論として、或いは、自らに言い聞かせるためのそれとして用いられているのではないのか…。

それにしても、これから、どんどん教団の仲間は減っていくでしょうし、また退会者が戻ってくるという可能性もゼロに等しいし…。

そもそも、反論できなかったということが、それを如実に示しているようにも思うのです。

可能性がないことに縋るしかないというのが、何とも、辛いものがありますね。

さて、『維摩経解釈』の中で、尊師は、『聖道へ』から引かれて、こういうことを仰っています(539頁)。

《彼の布施行は『教化のための奉仕』でもあれば、『一切衆生への奉仕』でもあり、『使命への奉仕』でもあるのである。》

この「3つの奉仕」に、私は深い感銘を覚えた次第です。

教団に戻るとすれば、この3つの奉仕が教団に用意されていなければならない…。

そして、その3つともが、尊師の説かれた教えなくしては有り得ないものばかりであります。

それが教団にないのであれば、新たにそれを用意すればいい。

それこそ、ない、ない、ないと批判ばかりしていても何も始まりはしません。

ないのだったら、新たにそれをつくればいい。

それが私は、尊師の教えだと思っています。

「谷口雅春先生を学ぶ会」が創立されたゆえんがそこにあると思うものであります。


『維摩経解釈』を読了して思うこと−尊師のお導きを信じて更なる前進を! (11013)
日時:2019年06月05日 (水) 15時57分
名前:破邪顕正


『維摩経解釈』545頁には、新学の菩薩≠ニいう言葉が出てまいります。

そして、その菩薩は「大した菩薩ではないぞ」と警鐘が鳴らされます。

それでは、新学の菩薩≠ニはどういう菩薩でありましょうか。

《「第一には、未だ聞いたことのない深い真理を聞いて吃驚仰天して疑いの心を起し、その真理を受けて素直に随うことができないで、それを攻撃したり謗ったりして信じないで、しかも、『あんな真理は何じゃ。僕はあんな真理は初めから聴きたくない。あんな教え一体どこから来たのじゃろ』などと空うそぶく種類の菩薩である」》

生長の家は天皇信仰≠ナあります。

しかし、今の教団では、それこそあんな真理は何じゃ。僕はあんな真理は初めから聴きたくない≠ニして、それに関する聖典を事実上の絶版に処してしまいました。

天皇信仰≠フ神髄とも言うべき「大日本神国観」が、今の教団では実修し得ないということが、それを如実に物語っています。

今の教団にいると新学の菩薩≠ホかりになってしまうのではないでしょうか。

更に続いて、こういう文章が出てきます。

《体験談を聞いていても、自分の尺度だけでその体験談の価値をはかって、あんな体験談はつまらん、聴きたくない…こういう人はいくらその人が誌友になってから古くても「新学の菩薩」だという訳であります》

現総裁がまさにこれに当たるのではないでしょうか。

総裁の講話に、果たして信徒の体験談が出てくるでしょうか?

次の文章を、ぜひ、総裁に読ませたいと思うものであります。

《本当に深い心境に達した菩薩は…どんな小さな体験談でもそこから深い真理を汲みとろうとして熱心に傾聴するのであります。》(546頁)

『維摩経解釈』の圧巻は、釈尊のこの言葉であります。

《わたしは、お前の其の喜びの伝道を蔭ながら助けるぞよ》

この箇所を拝読して、私は、尊師・谷口雅春先生のこのお言葉を思い出しました。

尊師80歳の御年のとき、青年に対する練成講話の中で、尊師はこう仰ったのです。

《もう私は、肉体的には、これから何歳生きるか知らないけれども、…肉体を超えて諸君を護る。

皆さんは、まだ若いのだからこれから何十年でも生命の実相の真理を広める事ができるんです。

ここに、皆さんの使命がある。》(『理想世界』誌・昭和52年2月号)

肉体を超えて諸君を護る≠ニはっきりと尊師は仰ったのです。

お釈迦さまがそうであったように、私もこの尊師のお言葉を信じます。

それを信ずるのが、尊師の願いに生きる「谷口雅春先生を学ぶ会」の根本精神と思うからです。

常に尊師とともに!

常に尊師の御教えとともに!

『維摩経解釈』を読了し、改めてその思いを強くさせていただいた次第です。




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