《谷口雅春先生に帰りましょう・第二》

 

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『沈黙』のキリシタンは、結局なにを拝んでいたのか?  彼らが隠れて信仰を続けたワケ (4847)
日時:2017年02月07日 (火) 17時33分
名前:童子

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20170207-00050887-gendaibiz-bus_all
現代ビジネス 2/7(火) 15:01配信

               畑 中   章 宏



■ 「潜伏キリシタン」と「カクレキリシタン」


 映画 『沈黙-サイレンス-』 は、遠藤周作の長編小説 『沈黙』 (1966年) を原作に、『タクシードライバー』 『最後の誘惑』 などを監督したマーティン・スコセッシが長年の構想を実現したものである。

 台湾をロケ地に、日本人俳優として窪塚洋介をはじめ、浅野忠信やイッセー尾形が重要な役どころで出演しているこの映画は、殉教と棄教のダイナミックなドラマとして優れた出来栄えになっている。

 その一方で、神社にも寺院にも参拝し、ハロウィンやクリスマスを楽しむ21世紀の日本人の宗教観と照らし合わせて観ることも可能だ。 そのための予備知識としてキリシタン信仰の内実について紹介してみたい。



 江戸時代初期のキリシタン弾圧下で、ポルトガル人の司祭ロドリゴ (アンドリュー・ガーフィールド) が、日本での布教に尽力した恩師フェレイラ (リーアム・ニーソン) が棄教した噂に聞き、それが真実か否かを確かめるため日本に向かう。 そこで彼が見たキリシタンの殉教と、棄教への葛藤が描き出される。


 豊臣秀吉によるバテレン追放令、江戸幕府による禁教令、さらに1637年の 「島原の乱」 を境にキリシタンに対する取り締まりが徹底されていった。 日本国内にカトリックの司祭がいないという状況のもとで、キリシタンはキリスト教の信仰を捨てず、密かに伝えていったのである。 そうしたキリシタンを 「潜伏キリシタン」 と呼ぶ。


 潜伏キリシタンの子孫で、禁教令が解かれた1873年以降もカトリックに改宗せず、潜伏時代より伝承されてきた信仰形態を維持し続けた人々を 「カクレキリシタン」 という。


 潜伏キリシタンは邪教とされた自らの宗教を隠すための偽装もし、変形した信仰が伝えられたところから、"日本独自"のキリシタン信仰が生み出された。



 遠藤の原作でもスコセッシの映画でも、潜伏キリシタンの死を恐れぬ信仰と、一方で彼らがキリスト教を誤解せずに信仰していたのか、ということが大きなテーマになっている。



 宮崎賢太郎著 『カクレキリシタンの実像 ―― 日本人のキリスト教理解と受容』 などによると、潜伏キリシタンの信仰は、「御前様(ごぜんさま)」 と呼ばれる聖画像や宣教師の遺物などを納戸(なんど)の棚に祀って信仰する平戸・生月地方と、カトリックの教会暦(日繰帳)を信仰の中心とする外海地方・五島列島に分かれる。


 遠藤周作は小説執筆の際、2つの地方を取材し、スコセッシも両地域の信仰形態を映画に取り入れているようである。


 映画には登場しないが、潜伏キリシタンの信仰対象は 「マリア観音」 だろう。 もともとは明朝時代の中国から舶来した白磁や青磁の 「慈母観音像」 で、明らかに仏教の尊像だったものが、子供を抱く姿形から 「聖母マリア」 として崇拝された。


 マリア観音とは似て非なる信仰対象として、天草土人形の 「山姥(やまんば)」 も、マリア像として崇拝されることがあった。


 天草土人形は江戸時代中期の享保年間 (1716‒36) につくり始められた窯焼きの人形で、その山姥は長い髪に五彩の服を着て、豊満な胸を露わに子供を抱く (あるいは哺乳する) 女性の姿をしたものだった。

 ここでは全く宗教性を帯びない "郷土玩具" の土人形が宗教化されたのである。



 ■ カトリックとは相いれない信仰


 御前様はおもに、マリアや聖人を描いた掛け絵で、「オラショ」 (祈り) を唱え、御神酒や魚などを供える対象である。 映画でも、トモギ村の 「イチゾウ」 (笈田ヨシ) がロドリゴに大切に隠しているようすを見せるのは御前様だろう。


 こうした聖画に描かれている人物には、「受胎告知」 や 「聖母子と二聖人」 など、キリスト教の聖画の基本構成は踏まえたものである。 しかし、髷を結い和服を着たものや、仏教的色彩を帯びたものもあり、古びた絵を描き直す 「お洗濯」 によってさらに日本人化していった。


 紙で作った十字架を 「おまぶり」 と呼び、「サン・ジュワン」 の聖水をかけることで、穢れや邪悪を払う力を持つようになると信じられた。


 おまぶりは、社寺が授ける 「お守り」 に近いもので、村の中の危険な場所に置いて悪霊が近づかないようにしたり、死者に持たせたりしたという。


 サン・ジュワンはイエスに洗礼を施した 「聖ヨハネ」 のことであり、また伝説上の日本人伝道者バスチャンに教会暦を教え、禁教後も長崎各地を布教した人物も 「サン・ジュワン」 と呼ばれている。 各地に 「サン・ジュワンの奇蹟」 と関連づけられた聖なる水の湧く場所が伝承されている。


 「御札様」 は、マリアとキリストの生涯を描いた 「ロザリオの十五玄義」 図が伝承されるうちに、木の札に簡略化された記号が記された 「おみくじ」 のようなものに転用されていった。


 おまぶりや御札様は 「呪物崇拝 (フェティシズム)」 であり、サン・ジュワンは 「個人崇拝」 であり、カトリックとは相いれない信仰のありようである。 映画でも、司祭の到来に歓喜した潜伏キリシタンたちが、何かしらの 「モノ」 を得ようとロドリゴに群がるシーンがある。 ロザリオの数珠玉を分け与えたロドリゴは、彼らの 「モノ」 に対する執着を危惧するのだが ……。



 「踏絵」 を踏んだり、仏教、神道の行事に参加したことに対し、嘘をついた罪を消すために、潜伏キリシタンは 「呪術」 に近いこともおこなった。


 踏絵に行くときは新しい草鞋を履き、家に帰り草鞋を炊いてその汁を飲むと、踏絵の罪が消されると信じたものもいた。 葬式のとき、十字架を壷の水の中に浸しながらオラショを唱えると、仏教の経文が消えるとも伝えられる。


 ■ 「キリシタン神社」とは何か


 キリシタンを祭神として祀る 「キリシタン神社」 も、キリスト教と日本の固有信仰が習合した特異な施設だ。


 キリシタン神社は、長崎市下黒崎町の 「枯松(かれまつ)神社」、長崎市渕町の 「桑姫社」、伊豆大島の 「おたあね大明神」、五島列島若松の 「山神神社」 と有福の 「頭子(つもりこ)神社」 などが知られ、コンゴ共和国出身のカトリック司祭で、人類学者・宗教学者でもあるロジェ・ヴァンジラ・ムンシの調査によると8ヵ所を数えるという。


 下黒崎町の 「枯松神社」 は、この地方で宣教していたサン・ジュワンが死んだあと、枯松山の山頂に埋葬されてから、「ジュワンさん」 「枯れ松さん」 と呼ばれるようになったのが始まりだと伝えられる。


 信者の墓が枯松神社の周辺に建てられているのは、「私が死んだらジュワンさまの墓の近くに葬ってくれ」 と遺言する人が多かったという (ロジェ・ヴァンジラ・ムンシ 『村上茂の伝記 ―― カトリックへ復帰した外海・黒崎かくれキリシタンの指導者』 より)。



 キリシタン神社は、生前の偉業で慕われたキリシタンが、死後に崇敬され、その墓などが祀られて生み出されたものである。 つまりは個人崇拝や先祖崇拝であり、聖人の霊を祀る信仰とキリスト教が結びついたのである。



 スコセッシの映画ではあまり強調されていないが、棄教後のロドリゴが長崎の盆祭り、精霊供養に浸っていく姿は、『怪談』 や 『知られざる日本の面影』 の作者で日本に帰化したラフカディオ・ハーン、小泉八雲の姿を思い起こさせる。


 司祭はふと基督教の万霊節 (トゥサン) の夜のことを考える。 万霊節はいわば基督教の盆祭のようなものだったし、夜になるとリスボンの家々の窓に蝋燭の火をともすところも、この国の盆とよく似ていた。 (遠藤周作 『沈黙』)


 ポルトガル出身の優秀な司祭も、日本の精霊信仰や祖霊崇拝を "普遍的" なものだと合理化していったのだ。


 
 ■ 日本人の信仰の 「縮図」


 潜伏キリシタンは、なぜ隠れて信仰を続ける必要があったのか。

 その理由としては、先祖代々の伝統形態を継承を非常に重んじたこと、受け継いできた習慣を放棄すると罰を受けるという恐れがあると信じたことなどが考えられるという。


 そうして、交通の便が悪い海辺や離島という集落の立地条件、閉ざされた共同体で、先人が信仰を命がけで守ってきたことに対する崇敬心などが入り混じり、日本の固有信仰、民間信仰、新旧の外来信仰が並存し、変化しながらも、大切に伝承されてきたのである。


 これまで、潜伏キリシタンやカクレキリシタンの信仰については、カトリック本来の信仰を誤解し、歪めたものだといわれ、神道や仏教と混じることで変容した特異性ばかりが強調されてきた。 このため、カトリックの教義や典礼との相違に目を向け、独自性を認めつつも、特殊で異様なものとして扱われてきたのである。


 しかし、『沈黙 - サイレンス -』 の背景にある、呪物崇拝と偶像崇拝、呪術的祭祀や先祖信仰は、日本人の多様な信仰様態の縮図といえるものであり、その心のありようはキリシタン以外の人々にも共通するものなのだ。


 宗教の持つ意味が問い直されている今日、世界宗教と土着信仰の相剋を描いた作品としてはもちろん、21世紀を生きる私たちと相通じる 、キリシタンの複層的な信仰観念を念頭に置きながら、 『沈黙 - サイレンス-』 を観ることをお薦めしたい。


   ・・・・・・

 さて、吾々の信仰は ・・・ ?

沈黙 スコセッシ 映画 遠藤 (10452)
日時:2018年12月01日 (土) 12時55分
名前:あ

私達はそれぞれが自分なりの神の概念を持っていますが、ロドリゴ青年の一連の軌跡は神の概念について考えさせてくれます。もともとロドリゴ青年が抱いておりました神の概念は自然なものでしたか? ロドリゴ青年は神の声を期待しますが、神は沈黙し続けます。もし本物の自然な神が存在するならば、個人に干渉するでしょうか? 私達はみな神の子(或いは孫?)でありますから、神の子(孫)はみな愛おしいはずです。神が沈黙し続ける所以であります。しかしまあ、ロドリゴ青年が転ぶ時、本物の神の概念に近接したかも知れません。青年の誠意が極まった時、神は「踏んでも大丈夫だよ」と優しい――本当は「言葉」ではなくて――「印象」を彼の内面から応答したのかも知れません。感動的なシーンです!!!

寺院ですか? (10453)
日時:2018年12月02日 (日) 13時56分
名前:か

童子様にお聞きします。

童子様はどちらかの寺院の御方様ですか?

「さて、吾吾の信仰は、、、」と言っておられますが、吾吾とは御自身の寺院のお仲間を指して
言っておられと思いますが?念のため。




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