窓ガラスが夕焼け色に染まる時間。それが一日の中でその少年が一番好きな時間。 窓から見える景色がみんな彼の好きな橙色に染まるからと彼は言っていたけれど最近はそうではないらしい。 今日も彼は夕焼け色の窓ガラスに顔を近づける。 「あぁ……来た」 通りの向こう側から夕焼けの中で一際赤く紅く朱く燃える光の塊がこの時間に現れた。それは瞬く間にさまざまな獣の姿に変わった。 「狼、馬、猿、鶏、貂……うわぁ数えきれないや」 少年は目の前を燃えながら駆けていく獣達を見て微笑んだ。 「みんなどこへ行くのだろう……?」 少年がそうつぶやく間に獣達は赤く紅く朱く燃えながら通りの彼方へと消えていった。
少年が初めて燃える獣を見たのはいつだったのだろうか。いつものようにベッドから身を起して橙色に染まる街並みを見ていた時、ふいにその獣達は姿を現したのだ。 「うわぁ!! 見て見て! お母さん!!」 彼は頬を上気させて母親を呼びに行った。 「どうしたの?」 と、母親が訊ねた。 「お母さん! 窓の外、燃えている獣が走っていたよ!」 どれどれ、と母親が窓の外を見てもそこには何もなかった。彼女は息子に夢でも見たのね。と笑うと夕飯の準備に行ってしまった。 夢じゃないのに、と思った彼は、次の日母親と一緒に窓ガラスの前に立った。 (さぁ……来るぞ……あぁ!) 通りの向こうから赤く紅く朱く燃える獣達が駆けてきた。 「ほら! お母さん! 獣が来たよ!」 そう言う彼の隣で母親はやはり何も見えていなかった。 「何もいないじゃないの。夕飯ができるまでもう少し休んでいなさいね」 そう笑って頭をなでると彼女は台所に行ってしまった。
そうしたことが何回か続くうちに彼は確信したのである。あの獣達は自分にしか見えない獣だということに……。
今日も通りに赤く紅く朱く燃える獣の群れが現れた。それを見つめるのは少年だけだった。彼は燃えながら走る獣たちをうっとりと眺めていた。 「あの獣は……僕だ。病と言う焔に焼かれながら懸命に走り続けている僕に……」 そう、彼は重い病を患っていたのだ。生まれた時からずっと。 彼は生れてから一度も家の外に出たことがなく、窓から見える景色――赤く紅く朱く燃える獣達――だけが彼の楽しみだった。 「いつか僕も仲間に入れてほしいな……」 そうため息をつきながら窓の外に視線を落とすと獣の群れの最後尾に緋い髪の少女がいた。 「おや?」 少年の呟き声に反応したのだろうか。少女は足を止めて顔をあげると、
にこっ
と、微笑んだ。 その微笑みの愛らしさに彼は今までにない胸の高鳴りを覚えたのだった。 その翌日から少年の楽しみは二つになった赤く紅く朱く燃える獣達と緋い髪の美しい少女。 彼らを見るだけで彼はとても幸せだった。同時に憧れも強くなった。 窓の外にいる獣に少女に彼は言った。 「ねぇ、僕も連れて行って!」 その度に少女は微笑んだ。 その度に彼は嬉しくなった。
彼は気付いているだろうか。獣達の走る距離が短くなっていることに。次第に獣の群れの現れる地点が彼の住む家に近づいていることに……。
夕焼けが窓ガラスを橙色に染める時が今日もやってきた。しかし、窓ガラスの前に少年の影はなかった。彼はベッドの中にいた。 「熱いよぉ……苦しいよぉ……」 今までに熱をあげて寝込むことはたびたびあったけれども今回は違った。まるで体を芯から焼かれるような熱さと苦痛が彼を苛んでいた。その尋常ならぬ熱に母親は驚き、医者を呼びに飛んでいった。 「……助けて……!!」 彼は喘ぎの下から叫んだ。 「いやだ……まだ死にたくないよ……!! あの獣達やあの……」
女の子と一緒に走りたいのにッ……!
彼がそう叫んだ時、廊下で焔が爆ぜる音とけものや鳥の鳴き声、足音がした。 「……何……!?」 その音の群れは徐々に大きくなり、彼の部屋の前で割れんばかりの大音声となった。 「うわぁぁ……」 その音の中でドアがギィッと開くと同時に赤く紅く朱く燃える獣の群れと緋い髪の少女が入って来た。 「……来てくれたの……?」 えぇ、と言うように少女は微笑んだ。 「私達は君を迎えに来たのよ」 「……え……?」 「私もね……ずっと君と一緒に走りたいと思っていたのよ」 そう言うと少女は手を彼に差し伸べた。 「さぁ、一緒に行きましょう。あの子たちも」 少女は獣たちを見た。 「あなたを待っているわ」 少年はじぃっと少女と獣たちを眺めていたが、笑みを浮かべると少女の手に自分の手を重ねた。その瞬間、黄昏の残光が自分を強く照らして……。
今日も病院の窓ガラスが夕焼け色に染まる時間が来た。それがその少女の一番好きな時間だった。 彼女は重い病を患っていたのだ。生まれた時からずっと。 彼女は生れてから一度も病院の外に出たことがなく、窓から見える景色――以前は夕焼け色に染まる街並みだったけれども赤く紅く朱く燃える獣達――だけが彼の楽しみだった。 「私もあんな風に走りたいな…・・」 そうため息をつきながら窓の外に視線を落とすと獣の群れの最後尾に緋い髪の少年と少女がいた。 「おや?」 彼女の呟き声に反応したのだろうか。少年と少女は足を止めて顔をあげると、
にこっ
と、微笑んだ。
その瞬間、彼女の眼に黄昏の残光がいつになく赤く紅く朱く緋く染まって見えた。
第弐謡、終
|